2
ルロジェ帝国が誇る花の宮殿。その北翼はこの国の政治の中枢部となっている。
ジョエルは朝から行われた会議を終えて、数人の貴族と遅めの昼食を摂っていた。
「デビュタントボールもいよいよ明後日となりましたな」
メインの鴨肉のローストが半分ほどなくなった頃、バルテレミー・ペルチエ公爵が何気なく言った。
このペルチエ公爵というのはジョエルの父の代から仕えている人物で、老齢となった今でも強い発言力を持つ。現在は財務総監の職に就く重鎮だ。
ジョエルはというと興味がなさそうにそうだな、と言って切り分けた鴨肉を口に運んだ。好きな味だったのか、よく進んでいる。もしくは会議が長引いたせいで空腹だったのかもしれない。
「昨年は中止となった分、令嬢たちは元より若い令息たちも良い縁を求めてさぞ楽しみにしているでしょうな」
「だろうな」
「陛下もそろそろ——皇婿殿下をお迎えしてもよろしいのでは?」
カトラリーを動かす音が止まった。
ただ一人ジョエルだけは黙々と鴨肉を口に運び、食事を続ける。
「喪も明けたことですし、国民も英雄たる陛下の慶事を待ち望んでおることでしょう」
鴨肉のローストを平らげ、赤ワインを一口飲んだジョエルはふぅんと声を漏らした。
「そういうものか」
「そうですとも!もしお気に召す子息や諸侯がおりましたら——いえ!」
マティアス・ロランス伯爵が身を乗り出す。
「顔立ちや性格、経歴その他条件をお教え頂けましたらこのロランス、必ずや見つけ出し——」
「伯爵」
「はい陛下!」
ロランス伯爵が期待のこもった眼差しでジョエルを見つめた。四十絡みの中年だが、垂れた眦や丸みのある頬のせいか、妙に若く、どこか愛玩犬じみて見える。
「お前は公爵の後でなければ口を利けないのか?」
「えっ。い、いえ、あの」
しどろもどろになったロランスは、最後は顔を赤くして萎れたように椅子に戻った。
優れた政治家であった父と代替わりして間もないことから、ロランスが何かとペルチエを頼ってばかりだと嘆いていたのは夫人であるエヴリーヌだ。
今回のことも、ジョエルと付き合いの長い公爵の口から出た方が波風が立たないとでも思ったのだろう。
余計なことを、という目でチラッと見遣れば、ペルチエは苦笑を浮かべた。
「伯爵は陛下のことを案じておったのですよ」
「何を」
「ご婚約を解消して以来恋人の一人も居らぬご様子に、よもやあの者のせいで男性不信なのでは、と」
「くだらない」
眉間に皺が刻まれる。
「あの種馬のことなど、今の今まで忘れていた」
ジョエルはもう一度、くだらないと吐き捨てた。
ロランスは更に体を小さくさせて謝罪した。
——種馬とは、ジョエルの元婚約者、トリュフォー公爵の長男アルフレッドのことである。
幼き頃より決められた仲であったが、あろうことかジョエルが前線に赴いている最中に不貞を働いていたことが明らかとなり、ジョエルの兄であり当時の皇帝リシャールの怒りに触れて破婚となった。
ジョエルは呆れただけだったが、戦争の英雄への不道徳な行いに対して国民そして共に戦った軍人たちの声は厳しく、トリュフォー公爵はアルフレッドを廃嫡の上、留学と称して国外へ追い出さざるを得なくなった。
それ以来、何人か候補者は出たものの、ジョエルの婚約者の席は空席のままだ。
「しかし陛下」
それまで黙していたシルヴァン・ジスカール侯爵が口を開いた。
「先帝陛下がお世継ぎなくして崩御され、国民に広がった不安を払拭するには、陛下のご成婚、ひいてはお世継ぎのご誕生が国の安寧へと繋がるのは事実。そのことについて陛下はどのようにお考えで?」
「皇配など誰でも良い」
ロランスが、はい?と間抜けな声を上げた。
「我がフェヴァン家より貴い血などなく、たとえ平民の血が混じったところで品位が下がるような弱き血筋でもないのだ」
「まあ……現状、国の内外共に大きな問題はありませんので、婚姻を政略に使う必要はないかとは思いますが」
誰でも良いと言えば良いですな、とペルチエがジスカールの後を引き取った。
そうだろうと言ってジョエルは半分ほど残っていたワインを飲み干した。
すかさず、控えていたセルジュがワインを注ぐ。
「種を仕込める者なら誰でも良い」
ほんの一滴、ワインがテーブルクロスに跳ねて小さな赤い染みを作った。
「私を孕ませた者を皇配としよう」
執務室にコーヒーの香りが広がる。
食器やカトラリーが僅かに立てる音を聞きながら、ジョエルは詰襟のホックを外した。
皇配についての衝撃的な発言にロランスは顔を真っ赤にして言葉を失くし、ペルチエとジスカールからも滔々と諌められ、うんざりしたジョエルは途中で昼食の席を後にしたのだ。
「お待たせいたしました」
セルジュが食後のコーヒーとデザートをテーブルに並べた。
白い皿の上にフランボワーズソースのかかったチーズムースとエクレア、フロランタンが少しずつ乗っている。
ジョエルはまずエクレアを摘むと口に放り込んだ。噛んだ途端に薄い皮の中からカスタードクリームが溢れる。コーヒー風味のフォンダンと合わさり、濃厚な甘さが口いっぱいに広がった。次いでコーヒーを口に含む。どっしりとしたコーヒーの苦味がよく合った。
スプーンを手に取り、チーズムースに差し込みながら、そういえばと呟いた。
「おまえでも動揺することがあるのだな」
「えっ?」
ワゴンの上を片付けていたセルジュが振り返る。
ジョエルは、ふわりとスプーンに乗ったムースを口に含み、機嫌良さそうに笑っていた。
短い言葉だが、何を指しているのか理解し、セルジュはばつが悪そうに眉を下げる。
「あのようなお言葉を聞けば、誰でも動揺してしまいます」
「そうか?」
「差し出がましいことですが……陛下はもう少々、御身を大事にしてください。皇婿殿下となれば生涯を共にする唯一無二の方となるのです。誰でも良いなどと仰らないでください」
「では、おまえは誰ならば良いと考えるのだ。セルジュ」
「私は……」
セルジュは一度唇を噛み、目を伏せた。
「……申し訳ありません。私には、分かりかねます」
ジョエルは小さく鼻を鳴らすと、そうかとだけ言ってあっという間にムースも平らげた。
執務室のドアがノックされたのは丁度蜂蜜とバター香るフロランタンを口に入れた時だった。
セルジュが窺うと、ジョエルはドアを顎で指した。
「失礼します」
セルジュが開けたドアから入って来たのは秘書官のリュシアン・ジスカールだった。ジスカール侯爵の息子であり、文官でありながら戦時中はジョエルに同行して前線にまで出た側近中の側近だ。
「まだ食べていたんですか」
「……誰のせいだと思っている」
「ご自分の発言を省みられては?」
「リュリュ。お前、ますます父親に似てきたな」
ジョエルが嫌な顔をしてもリュシアンは顔色ひとつ変えず、恐れ入りますと小さく頭を下げた。
「それで、実際のところどうなのですか」
斜向かいに置かれたソファーに座ったリュシアンが尋ねる。
指先と口元を拭ったナプキンをテーブルに置き、ジョエルはどうとは?と聞き返した。
セルジュは静かに、そして素早く食器類を片付けてワゴンに乗せるとドアに向かって押した。
「婚姻についてです」
「聞いたのだろう?その通りだ」
「種を仕込める者?」
「私を孕ませた者」
リュシアンは呆れた顔をした。
ジョエルはそれを見て口の端を吊り上げる。
セルジュが静かに退室する。
ドアが閉まるなり、大きなため息が吐かれた。
「陛下……あなた、馬鹿なんですか」
「失礼な奴だな」
リュシアンの暴言にもジョエルは笑みを浮かべたままリラックスした様子で足を組んだ。
対してリュシアンは眉間を押さえ、再びため息を吐いた。
「絶対に勘違いしていると思いますよ」
「何を」
「白を切るつもりなら意地が悪いですし、素でおっしゃっているのであればどうしようもないですね」
「おい」
「失礼。率直に申し上げすぎました」
鋭く睨まれ、わざとらしく咳ばらいをする。
「とにかく、今後軽々に婚姻について口にせぬようお願いします。付け入る隙をわざわざ与える必要はないでしょう」
「わかっている」
「では——本題に入ります」
そう言うと懐から取り出した一通の封書をジョエルに差し出した。