幕16 だいじなものは
いや、楽しんでいたのも本当だが、リオネルはその実、必死だったとも言える。
「死体とはいえ、愛する家族の肉体を自らの手で斬った気分は」
少しでいい。ほんの少しでよかった。
この男を動揺させ、隙ができれば、―――――逃亡できる。
人間相手に逃げ出すなど、高位魔族にとっては死ぬほどの屈辱だが、オズヴァルト相手にそんな意地など何の役にも立たない。
この男を、目の前にすれば分かる。
…敵うわけがない。
生き延びるために必死だったリオネルは、周囲の反応を見る余裕などなかったと言っていい。
だが、彼がもし少しでも平静を保っていれば、迂闊なことは言わなかったはずだ。
ここはコロッセオ。闘技場。それも、多くの観客が集っている。
リオネルの言葉は、彼等全員の耳に届いた。
帝国のコロッセオは、そのような造りになっている。
魔族の言葉を聞いた観客たちは、戸惑いの目を見かわす。
世間の噂は、オズヴァルト・ゼルキアンをこのように評する。
―――――魔族に取りつかれ、妻子を殺した冷血漢。
他に方法はなかったのか、殺さずとも、憑依された対象から、魔族を追い出す方法があったのではないか。
災厄を前に、彼の咄嗟の行動があったからこそ、最悪の事態は免れたのだとしても、オズヴァルトに対する評価は厳しかった。
能力の高さゆえに、彼には過剰な期待がかけられていたと言ってもいい。
…しかし。
今、リオネルが言った通りのことが、事実なのだとすれば。
憑依された時点で、助ける方法がなかったのならば。
災厄という絶望を目の前にしながら、その上で―――――彼は魔族に目の前で家族を殺された被害者ということになる。
観客席が、次第に、重い沈黙に包まれた。その時。
「…そうだな」
オズヴァルトの冷たい声が、ほんの少し、かすれを帯びて、闘技場内に響く。
「おそらく、言葉で言っても通じないだろうから」
ゆっくりと顔を上げたオズヴァルトは、その青紫の瞳で、リオネルの姿を射抜いた。
「―――――体験させてやろう」
確かに、リオネルの囁きは、絶妙に、深くオズヴァルトの心を揺らした。
だがそれは、彼の感情の均衡を―――――悲痛や苦悩の方向へ、突き飛ばしたわけではない。
むしろ、まったくリオネルが意図しない方向へオズヴァルトの心の秤は傾いた。
―――――怒りの方へ。
なにしろ、今の言葉は、ともすると。
オズが、聞いたかもしれないのだ。
心に深い傷を負った友に、その傷を抉るような言葉を、リオネルは吐いた。
(よくも私の目の前で、友人を傷付ける発言をしたものだ)
腹の底が怒りで熱くなり、頭の芯が、凍り付いたように冷える。
かつてならばともかく、今のオズヴァルトは報復を躊躇わない。
彼の青紫の瞳と、視線が合うなり、
(しま…っ)
リオネルはなんらかの術中にはまったことを自覚する。
咄嗟に五感を閉ざそうとした、直前。
「君の大事なものは、なんだね?」
オズヴァルトの声が、無視できない響きでもって、精神を侵食した。とたん。
「―――――…ガッ!」
リオネルは、心臓を直に掴まれた心地に、思わず前のめりになる。息が詰まった。
(まさかっ、あの一瞬で、術式もなく…!)
魔族の真正面から、オズヴァルトは―――――精神支配の魔術をしかけた。
言うまでもなく、精神に干渉する魔術は、禁術だ。それを。
公衆の面前で、この男は平気でやってのけた。
―――――君の、だいじなものはなんだ?
オズヴァルトの先刻の問いかけに、リオネルの心が、無意識に答えを思い浮かべていた。
オズヴァルトがそれを耳にし、理解したわけではないが。
この手の術は、術をかけられた側の心を起点に、発動する。
つまり、―――――思い浮かべた時点で、敗北しているのだ。
「ほお」
それでも、リオネルは堪える。
よろめきながらも、地に落ちず、耐えきった彼を褒めるように、暗い表情でオズヴァルトは言った。
「大事なものは、自分の命かね。…魔族らしい」
それでいて、神秘的な色合いの瞳は、冷静に何かを見定めているようで。
リオネルは、魔王に感じような恐怖を、オズヴァルトに感じた。
縮みあがったことを自覚するなり、――――――腹の底から憤怒が湧く。
(ふざけるな、コレは、人間だぞ…っ!)
「いったい、いつまで遊んでいる!」
思わず、リオネルは魔神に叫んだ。
「とっとと、始末しろ!」
とはいえ。
リオネルも、この状態では、手を打ちにくい。
あの男の背後には、幼い魔女がいるのだ。
できれば手に入れたい。
まだ諦めきれていない欲望のせいで、決定的な攻撃に踏み切れないのだ。
しかし、こうまで侮辱を受けた以上、―――――そろそろ潮時だ。
その間にも、魔神の攻撃は続いている。だが。
オズの記憶が言っていた。この程度なら、問題ない。
…とはいえ。
途中、耳に届いてしまった。聴いてしまった。
ひっ、と恐怖にひきつった、息を呑む気配を。背後に。
すぐさま、気付いた。
王女が、目覚めている。いつからだ。
目覚めているにしては、彼女の気配は弱かった。
生命力自体が、儚く薄れた、そんな気配だ。
ならばこのような状態の中、いつまでもルビエラを置いておくわけにはいかなかった。
どんな衝撃で、その身に負担がかかるか知れたものではない。というのに。
―――――一瞬、周囲を静寂が覆った。攻撃が止む。
しかし。
(…くる)
オズヴァルトは、冷静に察した。
ここから放たれるのは、大技だ。
オズヴァルトならば止められた。だが、今この場を離れることはできない。
読んでくださった方、ありがとうございました。




