幕19 狂った負け犬
―――――さすがですな、レミントン公爵。
オズヴァルトはにこりともせず、言葉を続けた。
―――――あなたの今の一言で、公における私の立場は決まったようだ。
…そう、正直言えば。
オズヴァルトの今の立ち位置は、非常に難しいものだった。
霊獣の子孫にして、亡国の公爵。
しかも、魔族に憑依されながら、大陸全体に影響力を持つ商団主となった。
挙句、先だっては、災厄の一部を滅し、天から権能を授けられた天人である。その上、あまたの魔人を率いる立場だ。
これだけで言えば、正直、…ただの化け物と言えるだろう。
ばかりか、あろうことか、妻子をその手で殺したと噂される男だ。
正直、手に負えない。だが、オリヴァーはたった今。
彼を『大公』と呼ぶことで、その地位に彼を封じ、立場を明確化させた。
そしてそれは正しく、いにしえのゼルキアン家に対する呼称であり、すぐ世間に定着するだろう。
でなければオリヴァーたちがその尽力をするはずだ。
これは、別に、オズヴァルトに対する助力ではない。
彼の立場が定まらなければ、―――――困るのは世間だからだ。なにせ。
霊獣の子孫やら天人やらとなれば、正直、人間の手に余る存在だ。
ならば商団主であればどうかと言えば、それでは、オズヴァルトという存在には足りない。
だが、大公、という地位ならば。
―――――…人間の物差しで測れる。
これは、絶対に、必要な処置だ。
人間の理解に余るわけのわからない巨大な存在を、そのまま放置などできなかった。
極端な話をすれば。
闇の中に潜む生き物、という言い方では、その生き物が人間か魔物か、獣であるかすらわからない。
となれば残るのは、得体のしれない不気味さだ。
しかし、闇の中に潜む虎、もしくは猫、などと言えば、また印象は、全く違うものになるが、なんとか対処を選べるというものだ。
オリヴァーがしたことは、まさにそれである。
たとえその行いが、オズヴァルト・ゼルキアンの本質を変えるものでなかったとしても方便としては役立つ。なにより、
―――――私は今日ここへ、シューヤの商団主として訪れた。ゆえに、入国の先触れなどしなかったわけだが。
…これだ。
その通り、ただ商団主であるなら、わざわざ国家機関へ連絡などせずともすむ。
だが、大公の入国となれば、話は違った。
オズヴァルトはその低い声で、からかう物言いをした。
―――――今からでも、公の報告が必要かね?
オズヴァルト・ゼルキアンは事前に、公の機関へ入国の申し出が必要になってくるだろう。
ただし、今回のように、商団主として来たのだ、と言われては、それも難しい。
よって抜け道があるにはある。果たして、オリヴァーは答えた。
―――――次回からお願い致します。
質問攻めにあうのが嫌で、カミラは体調が悪いと夫に訴え、早々に宴の場を後にした。
今、彼女は休憩室にいて、馬車を呼んでくるという夫を待っている。
しかし、どうにも落ち着けない。
(久しぶりに、あの男に会ったからかしらね)
あの、特有の、冬の気配。熱のない、冷酷な言動。
ほとんどの者が、彼を前にすれば委縮する。
カミラとて、気を抜けば一呑みにされそうだ。
…疲労は本物で、それでもなんとなく、広いはずの休憩室を手狭に感じ、息苦しさを覚えたカミラは部屋の外へ出た。
廊下には誰もおらず、開いた窓から風が吹き込んでいる。
温かい、春の風だ。
オズヴァルトの目的は、はっきりしている―――――シハルヴァの王女だ。それはカミラの事ではなく、カミラにとって姪にあたる存在。
ルビエラ・シハルヴァ。
この国に来て、くだらない宴に顔を出したのは、彼女を救うためだろう。
彼女が生きていることを、カミラは知っている。ただそれは死んではいない、というだけの話だ。
ルビエラがどのような状態か、彼女は知らない。
知ろうともしなかった。
自分の身を守るために。
それ以上に重要なことには。
…カミラには、子供がいるのだ。
自分の身すら守れなければ、あの子たちを守ることなど夢のまた夢だ。
五年前、思春期真っただ中だった彼らは、今や立派に成人したが、今も守るべき幼子であることに変わりはない。
そのために、―――――捨てた。故国の、すべて。…なのに。
吹っ切るように目を閉じ、…次に目を開けた時には、その翠玉めいた双眸に、怜悧な輝きが宿っている。
(いつだって、こうして邪魔が入るのよね)
「何か、御用かしら」
柔和な中にも鋭い刃の切っ先をのぞかせる、特有の物言いで、カミラは近づいてくる人影に声をかけた。
四十を超えても、社交界に隠然たる影響力を持つ大輪の花たる彼女は、その力量に相応しい余裕をもって、振り向く。
たちまち、一人でいればか弱いはずの彼女の視線に、圧を受けたかのように、相手の足が刹那に止まった。
相手を見て、カミラの目が細められる。
表情を隠すように、彼女は扇を広げ、顔の下半分を覆った。
広い廊下で立ち尽くすのは、マルセル・トリベール。
かつてのシハルヴァ王国の伯爵であり、五年前、王国が滅びる直前まで財務大臣を務めていた男だ。
シハルヴァ王国は騎士の国であったため、貴族の男は全員、剣術を学ぶ必要があった。
よって、マルセルも体格はいいが、最近は鍛錬などしていないのだろう、体型が丸みを帯びている。
いずれにせよ、王国の財務大臣だった、そんな、男が。
…生き延びて、隣国の帝国に拾われることで、要職に就き、生きながらえている。
むろん要職と言っても、他国の政治に食い込むような立場ではないが、金には困らない程度の地位にいるわけだ。
マルセルは、気もそぞろな態度で、丁重に腰を折った。
「お久しぶりです、王女殿下。相変わらず、お美しい」
カミラは表情一つ変えず、何のひねりも感情もない上っ面だけのその言葉を耳にした。
マルセルは、必ず、カミラとの対話のたびに、王女殿下、という言葉を入れる。
今、カミラは帝国の公爵夫人であり、シハルヴァ王国において最後の地位は王妹であったにもかかわらず。
―――――わざとイラつかせようとしている、と考えるには、あまりにこの男は底が浅かった。つまり単なる考えなしの発言で、悪気はない。
「何度も申し上げました通り、」
もうほとんどこの男に対する挨拶めいたものになった台詞を、またカミラは繰り返した。
「わたくしは公爵夫人ですわ。発言にはお気を付けください」
怒りも罵りも何一つこもらないカミラの言葉も薄っぺらかったが、相手がそれに気付いた様子はない。
察したならば、相手をする価値もないということか、馬鹿にするなと怒り出すような男である。
ただ軽く叱責された、と感じたようで、マルセルは幾分か恐縮した。
「は、申し訳ありません。それより」
カミラの言葉を聞いているようで、聞いていない。他に気を取られている。
…理由なら、察していた。
「あの狂った負け犬は、なぜこの国へ?」
―――――負け犬。
オズヴァルト・ゼルキアンのことだ。
カミラは内心、失笑した。確かに彼女もオズヴァルトに対して、負け犬と言った。
しかしそこに、役立たず、などと言った、罵倒や嘲笑を込めてはいない。
戦う手を尽くして、尽くして、敵わず、それでも諦めず立ち向かい、最終的に意地でも勝利をもぎ取った、あの男の勇敢さは、ただ一度の敗北によって踏みにじられていいものではなかった。なにより、彼は。
逃げなかった。他の誰とも違って。
…そして、『狂った』と言ったのは。
オズヴァルトが妻子をその手で殺したという噂のためだ。
カミラとて、それは知っている。知っては、いるが。
本人には…聞けなかった。




