幕14 皇族の宣誓
具体的に、どのような形でか、と言えば。
生き物が住めない猛毒の大地になるか、もしくは。
地中深く沈み、湖となったかもしれない。あるいは、溶岩溢れる地獄の釜に。それは。
かつて、魔術師協会の予測装置もなかった頃の国々が、災厄を前になすすべなく辿った運命である。
その大地は、元に戻るために、五百年以上の月日を費やした。
しかし。
―――――シハルヴァは、そうならなかった。
もしシハルヴァが地図から消えたなら、ことはそれだけでおさまらなかった可能性は十分ある。
災厄は他国にも及んだだろう。
オズヴァルト・ゼルキアンの悪名は、名高い。
しかし同時に、人々は知っていた。
シハルヴァの領土は現在、主なく、魔獣が闊歩する、環境も劣悪な魔境になったかもしれないが、人間が住めないほどではない。
あと数年もすれば、元に戻るだろう。
それが可能なのは。
ひたすら。
オズヴァルト・ゼルキアンの功績である。
彼が、自らの領地に災厄を封印したためだ。
ゆえにシハルヴァの国民は生存者が多く、他国に流れたものの、彼等は変わらず、オズヴァルトをかつてのように守護者と呼ぶ。
結果。
彼の配下である魔人が始めたシューヤ商団は瞬く間に大陸に広まったのだ。
人々の潜在的な意識が、オズヴァルト・ゼルキアンを救世主とみなしている。
ただし、中におさまる魂が、魔族であるなら、話は別だ。
「騎士の中に、…魔術を使える者は、おりません」
オズヴァルトを映した皇子の碧眼が、一瞬、きらきらと憧れで輝いた。
すぐ、それは皇族の威厳の下に隠れたが。
オズヴァルトは内心、面食らう。
(敬語…??)
聞き間違いか、と一瞬思った。
(既に公爵でも何でもない一介の商人に、皇族がそれでいいのかね?)
なるほど、意外だが、どうやらマティアスは、以前会ったオズヴァルトを覚えていたようだ。
だからこそ、今、彼は判断したのかもしれない。
今ここにいるのは、魔族ではない。
オズヴァルト本人だと。
そう思った後で、ああ、と考え直す。
(そう、オズヴァルト、私はオズヴァルトだったな…他人として見れば、こんな男、簡単には忘れられないじゃないか…)
その印象も、独特だ。二つとない代物。
ゆえに、以前のオズヴァルトを知っている者は、会えば確信を持つのだろう。
オズヴァルト・ゼルキアンは戻ったのだ、と。
オズヴァルトが黙っている間にも、刺客は虫の息になっていた。
それを横目にしたマティアスが、一瞬焦りを浮かべ、オズヴァルトを見遣る。
「閣下…いえ、ゼルキアン卿は、確か、魔術にも精通していらっしゃると聞いております」
彼が何を言いたいかを察し、オズヴァルトの頭がいっきに冷めた。
この皇子さま、情報はほしいらしい。
だが治癒を頼める相手がいない、…そういうことだろう。
先ほど、騎士は魔術による治癒ができないと言ったが、ならば宮廷魔術師がいるはずだ。
ただし彼の今の態度からして、おそらく。
宮廷魔術師は、第二皇子の言葉には従わないのだ。
もしくは、皇子であっても、他の誰かを通して依頼する必要がある。
あるいはそれらの相手が。
今回、彼ら兄妹を害そうとした黒幕である可能性もある。
だが、今ここにいる、オズヴァルト・ゼルキアンは。
それらの手先ではない、そう、マティアスは判断したのだろう。
いっとき口を開きかけたマティアスは、逡巡し―――――その袖を、皇女が掴んだ。
はっと彼女を見下ろした兄の代わりとばかりに、皇女シェリーはぐっと顔を上げ、オズヴァルトを見遣った。
「治癒が可能ならば、ゼルキアン卿、ご助力を、お願いできませんでしょうか」
シェリーは思い切りよく、頭を下げる。
皇女らしからぬ行いだ。
気持ちとしては、幼い頃を知る子供に助力したいのはやまやまだが、
「では」
オズヴァルトには、背負うものがある。
何でもかんでも拾い上げ、縁を結び、背負っては、何も守り切れない。
オズヴァルトは、ほとんど零度に近い声で言った。
「…その対価は、なんだね」
表向き、皇女は今回の生誕の宴の主人公であり、シューヤ商団を宴に招いた人物だ。
だが魔人たちが調べた限りでは、皇女はシューヤ商団を招待などしていない。
つまり、彼らを招いたのは、皇女の名を隠れ蓑にした者、ということだ。
そこまで調べはついているが、いずれにせよ。
今ここで彼らを助力するのは容易いが、当然のことながら、この二人に味方することで、敵に回す相手も出てくるというわけだ。
ゆえに。
これは必要な求めだった。
対価があったなら、その場限りの取引となる。
周囲にそれを示せる。
あとをひかない。
彼らの間に、つながりも情もない。
互いにとって、それが一番良かった。
「そ…っ、れは、」
頭を上げたシェリーの碧眼に、一瞬、傷ついた色が浮かぶ。
伸ばした手を、信じていた大人に振り払われた、幼子の目だ。
…気の毒には思うが、彼等が対価を示さなければ、手助けはできない。
だが、おそらく。
この二人には、何もない。
後ろ盾となる母親を幼くして亡くし、二人きり寄り添うように生きていた。
自由になる金も、権力も、人材も。
持てば警戒されるゆえに、遠ざけてきた。
しかし、能力が高く、だからこそ、周囲に警戒され、疎まれている。
狼狽え、うつむいた皇女を支えるように隣にいた皇子が、不意に、強い目をオズヴァルトへ向けた。
「対価は」
挑むように、告げる。
「俺たちの、信頼です」
(…は、)
オズヴァルトはわずかに目を瞠った。
正直、ばかげた話だ。そんな口約束など。
子供同士の約束のように、すぐ忘れ去られる類のもの。
―――――対価は実利でなければ成り立たない。
誰もがそう感じたと同時に。
「シェリー」
マティアスが厳しく妹の名を呼んだ。
「宣誓を!」
目が覚めたように、シェリーは顔を上げた。
驚いた表情で、兄を見上げる。
一度オズヴァルトを見遣り、―――――何をどう判断したか、思いつめた顔で、頷く。
「はいっ」
二人は真剣な顔で姿勢を正した。何かと思えば。
「我はシェリー・アルドラ」
皇女が、厳かな声で、その言葉を紡ぐ。
「我は今この場において、オズヴァルト・ゼルキアン卿の魔術使用を許可する」
―――――は?
オズヴァルトは呆気にとられた。
皇女の言葉と同時に、微かな波動が周囲に広がったのを感じたからだ。
いや、周囲に満ちていた違和感を覚える微細な振動が、周囲から突如消失したような感覚があった。次いで。
「我はマティアス・アルドラ」
皇子が冷静にその言葉を紡いだ。
「我は今この場において、オズヴァルト・ゼルキアン卿の魔術使用を許可する」
それが、とどめだった。
―――――周囲が静まり返る。
いや、その静寂は、『音』として感じられるものではない。
答えは、オズヴァルトの感覚が、拾い上げていた。
宮廷魔術師が施していた魔術封じの結界の中、オズヴァルトが対象として、たった今外れたことを。
「ほう」
オズヴァルトは胸の前へ手を持ち上げ、何もない空中から、水を掬いあげるように動かす。
「皇宮内で、私が魔術を使えるようになさるとは」




