4幕 主の帰還
それを知ろうとした魔族は少なくないが、城の中まで足を踏み入れた酔狂な魔族は、彼一人だった。
そして、知った。
―――――未だ災厄はこの地に残り、誰の餌食にもなっていないことを。
ゆえに、欲が生まれた。
(ならば自分がもらい受けよう)
ただそれまで、…ほんの少し、遊ぶくらいは許されるだろう?
「ふざけるな、五年も耐えたんだ、コレはオレのだ!」
叫びながら、肉袋が伸ばした手が、扉に触れる、寸前。
「ぐげ」
潰れた蛙のような声を上げて、肉袋が後ろへ引っ張られた―――――離れた場所にいた魔族の男が無理やり引き寄せたのだ。刹那。
ぶちぶちぶちっ。
繊維を引き裂くような音とともに、肉袋が裂けた。
…―――――ように、見えた。
その、光景に。
「…は?」
唖然としたのは、魔族の男だ。
さし伸ばしていた手に引き寄せられたのは―――――肉塊。
ぶよぶよと気持ちの悪い手触りに、指先へ触れるなり、汚物に触れた嫌悪感に思わず床へ叩き付けた、それが。
―――――ギャンッ!
獣のような声を上げたのに、魔族の男はハッとなった。
これは、憑依していた魔族の『本体』だ。
本来は、精神体のはずなのに、
(まさか、受肉しただと…っ?)
それだけ、肉体がもたらす愉悦に溺れてしまったのだろうが、おぞましいことこの上ない。
ただし、悪魔らしく、しまりのない話だ。
オァァ、オァァ、と赤ん坊めいたうめき声をあげ、ソレは床の上でもたもたのたうっている。
肉の愉悦を覚えた以上、いまさら、精神体へは戻れないのだろう。
(…待て、『コレ』が出てきた、ということは)
―――――『何』が残ったのか。
魔族の男が顔を上げる、寸前。
「…楽しかったかね」
間近で、声。
低音の、微細に鼓膜を震わせるその声は、どこまでも冷酷に魔族の頭の中へ届いた。
恐ろしく体温が低く、感情が乾ききったような、声だ。
憑依していた魔族が放っていた声と、同じなのに、まったく印象が違う。
同時に。
「弱者を甚振るのは」
頭蓋に、衝撃。
いや、これは。
(…角…!)
視界の端に映った、何かの白い破片は、もしや。
いったい、何が起こったのか。
理解する前に、魔族の肉体は、階段をきりきり舞いして転がり落ちていた。
―――――ダンッ!
無様に肩から床に着地し、痛みをこらえながら、慌てて跳ね起きれば。
先ほどまで、彼が立っていた、階段上。
一人の男が立っていた。
長身。
たるみ一つ見られない、鍛え上げられた肉体。
顔立ちは整っているが、どこか悪党めいていると思わせるのは、酷薄そうな雰囲気があるからだろう。
まとうのは、冬の空気。
印象的なのは、その瞳だ。紫とも青とも取れる、霊妙な色彩。
幾分年を取っているが、背後の壁にかかった肖像画にそっくりな威風堂々としたその男は。
…間違いない。
――――――オズヴァルト・ゼルキアン。
魔族の男は、いっきに警戒と緊張を身にまとい、咄嗟に距離を取った。
その、自身の動きに歯噛みする。
距離を取った、即ち。
警戒し、安全を優先し、逃げる策を取った、ということだ。
魔族の貴族にあるまじき、惨めな行動。同時に殴られた部分に、手をやって。
―――――心底、ぞっとした。
「…―――――きさま…」
右側の角が、半ばから、なくなっている。
殴られたか。
蹴られたか。
それすら、わからない。少なくとも、オズヴァルトは無手だった。
「精神体の魔族に憑依されながら、どうやって、生きて…! いや、それより…よくも…っ、きさま、きさま、きさまあ!」
そこに落ちていたのだろう、身を屈めたオズヴァルトが、折れた角を足元から取り上げた。
その、青紫の瞳が、階段下を見下ろすなり。
魔族の男は組み伏せられていた。
彼を床へうつぶせに抑え込んだのは、魔族の手によって最後に床へ投げ捨てられた男女二人。
かつて、男は執事であり、女は侍女長だった。
左右両方から組み伏せられ、網にかかった野良犬のように、もがきながら魔族の男は顔を上げる。
普通の人間から見れば、巨人もかくやと思わせるほどの膂力を持つ魔族を、やすやすと取り押さえた魔人二人の動きは、魔族には予想外のものだった。その上、マナを操り、魔族の魔術すら封じている。
「どう、なっている…っ。貴様らは、あの魔族の眷属だろうっ、命令に逆らえば盟約違反の苦痛があるはず!」
だが、涼しい顔をしている二人に、盟約違反の苦痛は欠片も浮かんでいない。どころか。
彼ら二人を除く魔人たちが、続々とその場で膝を折る。
階段上のオズヴァルトへ、流麗な所作で跪いていた。
「…この魔族は怠惰な上に吝嗇家でな」
答えたのは、階段上のオズヴァルトだ。
「分け与える命は、私のものを使ったのだ」
聞いた魔族の男はぎょっとなる。
精神体の魔族に憑依された者は…普通、死ぬ。だが、オズヴァルトの肉体は、生きていた。
先ほど、魔人は何と言った?
―――――オズヴァルト・ゼルキアンの心臓は、まだ鼓動している。
それは、嘘ではなかったということか。
信じられないが、オズヴァルト・ゼルキアンは生きていたのだ。
…分け与えられた命が主人のものだと、知っていたからこそ。
魔人もまた、オズヴァルト・ゼルキアンの存命を確信していたのだ。
(だがなぜ…どうして、どうやって…っ)
理由は、わからない。前例などない事態だ。とにかく、今わかるのは。
人間の命を分けたところで相手が眷属となることはない。
だが、命を分け与えた者の身に魔族が憑依している以上、その魔力も命も魔族のマナに感染している。
眷属となった魔人は、憑依した魔族の眷属であるも同然だろう。
魔族の男は歯噛みする。
今、状況はいっきにひっくり返った。
ここに集う魔人たちがオズヴァルト・ゼルキアンのものならば、全員、魔族の敵となったわけだ。
彼等の主人は、魔人となる前から変わらず、オズヴァルト本人なのだから。
魔族の男は、いらだたしい思いで、オズヴァルトに踏みつけにされた肉塊を睨んだ。
(どこまで愚かなのだ…!)
一方で、オズヴァルトの言葉を聞いた魔人たちが、顔を上げた。
「我が君…っ」
幾人かが、無念の声を上げる。
応じるように、オズヴァルトは小さく頷いた。
とたん、何をされても無感動だった魔人たちの顔に、悲痛が浮かぶ。
彼等を眷属化するために、オズヴァルトの命が使われたということは即ち、彼の命が削られたということ。
ヴィスリアの魔人たちはそれを察してはいたが、こうして改めて言葉にされると、胸に迫るものがあった。
では、彼の残りの寿命はいかほどか。