幕15 幕間・1
× × ×
「ねえ」
しゃがみこんだエメリナは、その牢獄の中に向かって話しかけた。
「いい加減、出てきたら?」
頬杖をつき、万策尽きたと言いたげに疲れた声を出した視線の先には。
―――――闇があった。
場所は間違いなく牢獄。
だが中の様子が全く見えない。
そこが地下で暗いのは当たり前だが、魔術の照明が床を白く照らし出していた。
ゆえに他の牢の中は様子がはっきり見える。
幼い子供や女が、最低限の清潔さを保った牢内で、膝を抱え、蹲っていた。
皆、足に枷をはめられ、鎖につながれている。
ここは、売買にかけられる商品たちが収められた場所―――――すなわち奴隷たちの保管場所だった。
他の牢獄の中は次々入れ替わっているのに、奥にあるこの牢内だけは、見ての通りの状況だ。
闇に満たされ、そこへ一歩でも踏み込もうものなら、瞬く間に闇に捕らわれ、眠りに落ちる。
目覚めず、死んでしまった者は、一人や二人ではなかった。
その、闇の正体が。
(―――――精霊、)
で、あることは、魔女たるエメリアにはよく理解できた。
この場に詰まっている闇は、精霊だ。
だが意志を持つ精霊たちが、何の理由もなく一か所にとどまっているわけがない。
ここに集った精霊たちは守ろうとしているのだ。
―――――牢の奥にいる、たった一人の存在を。
「ほぉ、これが例の」
突如、若い男の声とともに、エメリアの肩口に何かが舞い降りた。
いったい、どこから現れたのか。
それは、巨大なくちばしをもった、まっくろいカラスだった。
「遅いわよ、リオネル」
「細かいことを言うな」
苦い顔になるエメリアに、リオネルと呼ばれたカラスは呵々と笑う。
エメリアはうんざりと息を吐き出した。
「細かいのはここの奴隷商よ。時間にすらケチくさいの」
「奴隷商か。だが、ただの奴隷商じゃないだろう」
ぎょろりと目を動かし、カラスは天井を向く。
「この上はコロッセオだ。しかも、アルドラ帝国国営のな。持ち主は国営のコロッセオ経営を任されたオーナー…そこらのチンピラとはわけが違う」
「だからへたに揉め事を起こしたくないのよ。あたしの得意先のひとつだし」
「ふん、魔女が世俗のものに力を切り売りするのはよくあることだが…」
ちらとリオネルはエメリアを横目にした。
「通常魔女は、その豊富な知識や薬学において、人間の生活に寄り添うものだが、お前の場合は相手が生々しいな? 俺に力を貸そうというところもそうだが」
リオネルは黒い目を眇める。
「異端にでもなるつもりか」
「どうかしらね。はっきりしてるのは」
エメリアは鬱陶しそうに赤茶の前髪をかき上げた。
「先がどうなろうと、今回のことをうまくこなしてくれたら、あたしはあんたに助力する。それさえ確実ならあたしの考えなんて、どうだっていいでしょう」
「ふん」
鼻を鳴らし、リオネルはくちばしの先を牢内へ向ける。
「なんにしたって、これは魔族にも危険だな。これほど濃密な闇の精霊の集合体は初めて見る」
きょときょと首を動かし、カラスが牢の中を覗き込んだ。
「役に立たないわね。あなた、王族なんでしょ」
鼻で笑ったエメリアに、リオネルも嘲笑を返した。
「これに五年、てこずっている割には偉そうじゃないか?」
「…うるさいわね」
眉間にしわを寄せた魔女に、怖い怖い、と魔族は肩を竦め、話を逸らした。
「ちなみに、魔族に王族なんざ、腐るほどいるぞ。そもそも俺は、魔王の百番目の子だ」
「…うわあ…」
うんざりした声を上げ、エメリアは額をおさえた。
「魔王ってどんだけなの」
「知りたければ、会ってみろ。ただ、命と貞操、どちらも奪われる覚悟を決めてからな」
牢から目を戻したリオネルは、どうでもよさげにエメリアを見遣った。
「魔神なら、この奥に蹲るガキを取り出せるだろう」
「…できるの?」
「精霊に勝てるってわけではない。だから、突っ込んだ片腕はなくなる。だが」
リオネルは不敵に続ける。
「再生はできる」
強く告げ、ただ、とリオネルは顎を引いた。
「取り出したところで、同じ事態に陥る可能性が高いぞ。出したガキをどこへ送る? 考えはあるのか」
「入れるわ」
「入れる?」
「力を封じる網を張り巡らせたトランクを持ってくるから」
「…ふむ」
カラスが首を傾げた。
「魔族の俺が言うのもなんだが、子供をトランクに入れて運ぶというのは、良識ある大人の行動で合っているのか?」
エメリアは立ち上がり、どうでもよさげに鼻を鳴らす。
「そもそも、この牢の中にいるのが、普通の子供だと思うの?」
「違うな。こんなものを欲するお前もお前だ。何を企んでいる」
「―――――…質問が多いわね」
呟くエメリアの琥珀の瞳が語っている―――――詮索は、ルール違反。
踵を返したエメリアの肩の上で、リオネルはやれやれと首を横に振った。
「まあ俺は、取引をきちんと行使してくれたなら文句はないさ」
言うなり、リオネルはエメリアの肩から離れる。
ばさり、音を立てて翼で大気をうち、明るく言い捨てた。
「次に会うのは、コロッセオの決勝戦の日だな」
「ええ」
「ではな」
言うなり。
翼の音とともに、リオネルの姿は地下牢の通路から消える。
それらの光景を、牢の中の奴隷たちが怯えた様子で見ていたが、彼等の存在などないかのようにエメリアは踵を返した。
それでも、彼女の横顔は緊張を孕んでいる。
「女帝に知られる前に事をすまさないとね」
女帝。
魔女たちの女王。
齢千年を超える全知全能の、神にも近い存在。
遠目に見たその姿の、神々しさもさることながら、…最も警戒すべきは、女帝の叡智。
―――――その目を、どこまで欺けるか?
考えただけで、胃の腑が冷える。
「…ん? なんだ?」
ふと、耳に届いた声に、エメリアは目を瞠った。
冷たい表情で、顔を上げる。
思わず、考えに没入していた。
他人の気配に気づかないとは。
目を向けた先にいたのは。
「客がいるのかと思ったら…あんたか、エメリア」
細い金の首輪をつけた男が、粗末な食事を乗せたワゴンを押して立っていた。




