10幕 還る時間
それにしても、とオズヴァルトは女帝を見つめる。
今目の前にいる彼女から、一平に見せた弱さは欠片とて見つけることはできない。
無言で邪魔者を押し潰し、問答無用で強引に相手を従わせる、そんな日頃の冷酷な支配者然とした顔からは、その中に無力さが潜むなど想像させる余地もない。
「…そうですね?」
自身でも一平に対する態度は解せないのか、不思議そうに首を傾げる女帝。まるで他人事。
「ある程度、予想はしていましたが、想像以上でした」
彼女の言葉に、遠い昔、言われた言葉を思い出す。
―――――違う。
オズヴァルトは、女帝にとって、違った。では、
「イッペーが、『そう』だったのかね」
なんとなく思いついた言葉を投げれば、女帝は真っ直ぐ、オズヴァルトを見据える。
いつものごとく、表情はない。ただ意味深に目を細め、けれど結局何も答えなかった。代わりに、
「あなた、あの人に嘘をつきましたね」
あの時の態度は演技だったのかと、夢でも見たような心地にさせるほど堂々と胸を張った彼女は冷静に言った。
「何を言っている?」
前後の脈絡のない問いに、オズヴァルトはわざとわからないふりをしたものの。
彼女の言いたいことなら、理解できた。
そうだ、オズヴァルトは嘘をついた。一平に。
彼はもう消えてなくなりたい。だから残った身体を、残る人生を一平に譲る、と。
代わりに願いをかなえてほしい、と。
無論、これは完全な嘘ではない。だが、本当でもなかった。
オズヴァルトはもう完全に、自身の肉体へは戻れなくなったのだ。
理由は一つ。
あの肉体に入った一平が、災厄の一部を破壊してのけたからだ。
一平は、そんなものは、運が良かったからだ、偶然だ、と言った。
目の前で同じ条件がそろえば、誰だってできたことだろうと。
しかし、それは違う。
―――――勝つための条件が揃う。
それがこの瞬間だ、ということが起きる時間は、ほんのわずかなのだ。
針の先で突いた時にできる穴のように見えにくく、小さい。
それを見ることができるのは、機運を掴むことができるのは。
その小さな機会に、ずっと諦めず、目を凝らして、凝らして、凝らし続けた人間だけだ。
一平は諦めなかった。
だから彼だけに、それが可能だった。
皆の願いから背を向けず、真っ向から向き合って、どうすればそれが可能か、考え続けた彼だからこそ、できたのだ。
他の誰にも不可能だった。オズヴァルトにすら。
ゆえに天は彼を認めた。
必然だ。
―――――天人となり、天の権能を授かったのは、一平の魂が入ったオズヴァルトの肉体だ。
オズヴァルト自身の魂がその肉体に還ったところで、短命となったのは変わりなく、むしろ、還ることは不可能だ。
天人となったからには、魔族の魔力に感染した命を分け与え、魔人を誕生させた、そうして寿命が縮んだことなどものともせず、一平は不老長寿となる。
だがもしそれを知ったなら、一平は―――――罪悪感に苛まれるだろう。
もしあの時、災厄を彼が破壊しなければ、オズヴァルトは肉体に還れたはずなのに、と。
だがこうなったのは、オズヴァルトの自業自得だ。
オズヴァルトの肉体に宿った一平が、そのつながりを強固にしていくたび、オズヴァルトの魂は薄れていく。
そろそろ、完全に消えるだろう。いや。消え去るのではない。
還る時間なのだ。
霊獣ヴィスリアの中へ。
「無駄な嘘たったのに」
感情の熱がひとつも灯っていない目で、女帝は断言。
「あの人はどうせすぐ、事実を知ることになります。あなたはまた、…逃げた」
最後まで情けない子ですね。
そういう女帝も、最後まで情け容赦なかった。
しかしそれすらもう、今のオズヴァルトには刺さらない。
淡々と、その通りだと思う。
一平には悪いが、オズヴァルトはやりたいようにやった。
もしかすると、彼自身の意思に従って行動したのは、これで二度目かもしれない。
一度目は、妻との結婚だ。
実は彼女は最初、別の貴族との婚約が決まりかけていたのだ。
そこを、オズヴァルトがどうしてもと望み、彼女は振り向いてくれた。
…いつだってオズヴァルトは、ゼルキアン公爵として、それにふさわしく行動してきた。
己の望むままに動いたことは、本当に数えるほどしかない。
その通り、一平は知るだろう。
会話の最中にも、彼は疑念を抱いていた。
オズヴァルトが還らず、地位も責任も人生も、何もかも一切を一平に譲渡する理由として、オズヴァルトの心が折れたというだけでは足りないと感じていたようだから。
還る道を閉ざしたのが一平だとしても、オズヴァルトは彼を恨んでいない。
むしろ、感謝している。
災厄の一部を、彼は破壊してくれたのだから。
それが天すら認める奇跡だったというのに、彼だけが自覚していない。
オズヴァルトは晴れ晴れと微笑んだ。
「私はヴィスリアの目となり、意思となり、…別の形でゼルキアンを見守ろう」
何にしたって、残る手段はもうそれだけだった。
目を伏せた彼の姿が霊的に変容していく。
ただ、痛みが伴うような変容ではない。太陽の光が差し込むような、美しい変容だった。
人間の姿から、巨大な鹿とも思える姿に変わっていく。
一平がその姿を見れば、アラスカの写真集で見た、ヘラジカ―――――ムースと呼ばれる生き物によく似ていると思ったことだろう。
逞しい骨格に、体毛は、幻のように優美な純白である。
影は薄い青で、雪の結晶に似た輝きが身体の周囲で、ちかり、ちかりと瞬いていた。
その双眸は―――――神秘的な青紫。ゼルキアンの証。
これが、冬の霊獣ヴィスリア。
それを間近で見上げ、女帝は一時、眩し気に目を細める。その目を伏せ、
「…もうほとんど人間の時の意識は残っていないでしょうけど…」
淡々と言葉を紡いだ。
「あなたはわたしの幼い頃を知っている、数少ない一人だったのですよ」
千年を生きた魔女が口にするには、不可思議な言葉だった。
霊獣は一度、人間のように小首を傾げ、―――――すぐさま興味が失せた様子で、すぅと虚空へ姿を溶け込ませる。
しばし、誰もいなくなった空間を見つめ、女帝も踵を返した。
「さようなら」




