5幕 突然の、
と言っても、いつもぶ厚い眼鏡をしているため、誰も顔は知らない。
ただ、すっと通った鼻梁や厚みのある魅惑的な唇から、絶対に美人だろうなと他人事のように思うのは、一平だけではないようだ。
その上、どんな服を着ていてもわかるセンスとスタイルの良さ。
黒髪であっても、…どう見ても日本人ではない。
ご近所の方々の推測では。
どこかお金持ちの愛人さんじゃないの。
もしくは。
富豪のお嬢様よ。
好きに噂されているが、結局、正体不明である。
とにもかくにも、謎の美女だ。
癖のある長い黒髪が揺れた。
それを肩へはね上げながら、彼女が、顔を上げる。目が合った。
「あ、こんにちは」
一平がゆったり頭を下げれば、丁寧な一礼を返してくれる。
彼女が顔を上げるのを待って、すぐ一平は玄関の門をくぐった。
だから、気づかなかった。
一平を見た彼女が、何に気付いたか、驚いたように息を呑んだことに。
一平にさっとついてきたオズは、低い位置で小さく唸る。
『…イッペーのこんな近くに住んでいたのか』
「どうしたんだい?」
好意的とは程遠い思念の声に、一平は驚いてオズを見下ろした。
『さっきの女だ』
「黒江さんのことかな?」
彼女の名を口にすれば、オズは一瞬、呆気に取られたようだ。しばし沈黙。
諦めたように首を左右に振って呟く。
『まんまではないか』
「なんの話だい」
尋ねたが、オズは答えなかった。
代わりに、妙なる色彩の両眼が一平を見上げ、鼻先が一平の足をつつく。
『いつからあそこに住んでいる』
「そうだな…」
少し記憶をたどり、一平は思い出した。
「オズくんと出会う少し前だ。まだ私が病院にいた頃、引っ越してきたそうだよ」
あまり自分のことは語らないが、自治会の役員もしてくれている。
若い子は嫌がるものだろうに、えらいものだ。
「知り合いかい?」
玄関の鍵を開けながら、言った一平は言葉途中で気付く。
「オズくんの知り合いなら、…まさかあちらの世界の?」
多少驚いて見下ろせば、オズは鼻を鳴らした。
『腹の底が見えない女だ。あまり、関わるな』
関わるも何も、どちらかと言えば高嶺の花の存在だ。
きっと話も合わないに決まっている。しかも年齢差があった。
小さく笑い、一平はドアを開けた。刹那。
「関わるも何、もな…っ、―――――ぐ」
会社から帰るときに感じた痛みが、胸に走る。
それは一瞬で、左胸の内部を締め上げた。
息が詰まる。その締め付けが、痛みか熱さか判別できないでいる内に―――――。
ぐらり、一平の頭が揺れる。
異常に気付き、オズが顔を上げた。
震える手を持ち上げ、一平が口元を押さえる。その、指の間から。
―――――ぽたり。
血が、伝い落ちた。
『イッペー!!』
一平の目の前が、いっきに暗くなる。
膝が崩れるように落ちた。誰かが走ってくる音とともに、
「オズヴァルト・ゼルキアン!」
女の声が、オズの名を呼んだ。
「どうして、あなたに憑依した魔族が、そのひとの中にいるのですか!?」
『なんだと…っ』
身体に力が入らず、どうしようもなく、無力に倒れていくのを感じながら、一平は濁った高笑いを聞いた。
―――――ギャハハハハハ! 一人勝ちなんてさせるかよ、どうせ死ぬならてめえも道連れだ、死ね、死ね、死ね、死ね、みんな、死んじまえよ!!!
焼けつくような胸の痛みが走る。
次いで、柔らかい体毛の感触。
『しっかりしろ、イッペー! くそ、まさか、魂についてくるとは…っ』
「対策もなく、あんなことをしたのっ?」
周囲を取り囲む、狼狽えた声が遠ざかる。
そんな中、他人事のように思い出した。今日の昼休み。オズと交わした会話だ。
魔人たちが蹂躙され、危険な『災厄』たるものが、魔族に盗まれるかもしれない状況だと聞いた一平は、自分がそこへ向かおうと提案した。
それを、オズは間髪入れず拒絶した。
―――――いややはり、だめだ。今向かえば、いつも以上に危険を伴う。
オズの言いたいところなら、一平とてわかっていた。
―――――オズくんの身体を支配している魔物の意識があるときに移動したことは今までにないから…、
一平は、時計から足元のオズに目を移した。
―――――気付かれるだろうね、オズくんじゃない私という魂がいると、魔族に。
―――――そうだ。結果として、魔族がどう出るかわからん。
獣の顔が、苦渋に満ちる。
―――――あれは精神を攻撃する魔物だ。へたをすれば、イッペーまで。
―――――けれどね、オズくん。
一平は、オズの頭に手を伸ばした。
もともとは人間の男だ、撫でられることを彼は好んでいないが、落ち着かなげにピコピコ動いている耳を見ていると、ちょっと撫でたい衝動を抑えられなかった。
―――――私の身体はこちらにあるし、ちょっとの間、君の身体を間借りするだけだ。大丈夫、本当にダメだと思えば逃げるよ。
こちらへの戻り方なら、マスターしている。
ただ、この時の一平が、魔族というものに対して、危機感が足りなかったことは、否めない。オズはそれを察したが、
―――――…必ずだぞ。
こちらへ戻ったならば、友人を守り切れる自信があった。
オズは大きく息を吐く。彼の頭から、一平は手を放した。
その掌に、オズは鼻先を押し付ける。
―――――では、頼んだ。…武運を祈る。
今、思えば。
双方とも、甘かったのだ。
それらの記憶は、砂が零れるように消えていき、幼い頃からの記憶が走馬灯のように一平の脳裏を駆け巡る。
小学生の時に、同僚を庇い、代わりに木材の下敷きになって死んだ大工の父親。
女手一つで一平を育て、高校の時、過労死した母親。
母親の両親は裕福だったが、駆け落ち同然の形で結婚、一平を出産したため、経済的援助は望めなかった。
だが、ずっと気にはしていてくれたのだろう。
母親が亡くなった際、一平が大学を出るまで祖父母は金銭的援助をしてくれた。
実のところ、その距離感に、一平は安堵していた。
身近な人を亡くし続けた一平は、また、大事な家族を亡くす痛みを想像しただけで、息が詰まったから。
臆病者の彼には、無視はしないものの、過剰に気に掛けることもない彼等からもらったのは寂しさではなく、安心だった。
卒業後、一平はすぐに就職し、以降は時節の挨拶だけを交わす仲になった。
25で結婚し、子供も生まれ、…しかし、35で妻子をなくした。そして、五年が経った。
(なくす、ばかりだったなあ)
一人、生き残ったところで、と。
…思わなかった、などとは言えないが。
こんな風に死ぬのかと思うと、不思議な気がする。
暗くなっていく意識の中で最後に感じたのは。
―――――やさしい、香り。




