第七章
駅についてプラットホームに駆けあがり、電車に滑り込んだ。薄っすら首筋を湿らせた汗に髪が張り付いて気持ちが悪かったが、とりあえず電車に乗れたことに安堵してポケットを触った際、嫌な予感はあった。いつもそこに入れているはずの携帯電話がなく、ピークは過ぎた電車の中で凜也は声を堪え、かばんの中や反対側のポケットを確認するも、手に馴染んだ小型の機械は一向に指先に触れることはなかった。凜也は窓際に立ったまま首に手を当て、昨晩からの記憶をたどる。昨晩は仕事に追われて、残業何時間目だろうかと思う程の激務を終えたとき、終電に間に合うかどうかの瀬戸際だった。諦めて椅子の背もたれを下げて足をのせる部分を伸ばして眠りにつくこともできたし、今までの自分ならおそらくその選択をしたが、凜也は一切の迷いなく荷物をまとめて駅まで走った。もう一人、一緒に仕事を終わらせた先輩も家に帰ると言うので、二人で夜道を激走した。深夜は歩道も道路も恐ろしく静かで、自分たちの革靴の立てる滞空時間の長い足音と荒くて規則性のない呼吸が空気を震わせた。二分も持たずに肺が苦しくなり、空いた口に乾燥した空気を吸い込む度に舌が水分を求めているようだった。それでも多少の減速と加速を繰り返しながらなんとか電車に乗ると、平日真っただ中の水曜日の終電は人があまりおらず、ほとんど空いていた席に座るというよりも倒れ込んだ。少し遠くに座っていた女子大生に怪訝な顔をされたが、遠巻きに見る以上のことはしなかった。
「先輩、意外と体力ありますね」
走っている際に会話などとてもできなかったものの、お互いのペースはほとんど同じだった。凜也より五歳上の年齢ということを考慮すると、凜也は自分自身が五年前より確実に体力が落ちていると自覚気味なため、少し不安になった。
しかし、隣に腰かけてネクタイの位置を直していた先輩は眉をひそめ、バカかと言った。
「俺はこれでも大学スポーツ推薦だから」
「え?何のスポーツですか」
「野球」
「意外過ぎて何も言えないんですけど、そうだったんですね」
言われると、沁みついた上下関係に熱い感じは言葉の端々にあった気がしてくるのは、おそらく偏見だろう。社風が向上心を持つことや理念が時代を作るなどのアクティブな活躍を求めているせいか、運動部出身者を多く採用する傾向はあった。根っからの引きこもりで歪んだ自己意識を容姿の良さで誤魔化していなかったら、おそらく凜也は就活で引っかかりはしなかっただろう。
「俺から言わせれば、お前が意外にも体力があって驚いた」
電車の窓に反射した自分の姿を見ながら風に崩された髪を整える。毛先があちこちを向いていて、威嚇したふぐのようだった。
「よく言われます。どうせ、がりがりのペラペラですよ」
「そこまでいってないだろ」
「言われ慣れてるんで」
自分自身で運動神経がそこまで悪いとは思っておらず、むしろ卒なくこなせるという点においては勘は悪くなかった自負がある。ただ筋肉が全くつかない体質で、華奢だった母親によく似たなと高校生の時に薄着で洗濯物を干していた後ろ姿に思ったことを思い出す。良くも悪くもほっそりした身体は年を取ってもだらしなくは見えなかったけれど、幸福そうという言葉には程遠い印象を与えた。
「そう言えば、お前少し、肉付きがよくなったよな」
凜也は頷いた。それもよく言われ、体重計が事実と認めた。
「飯があるもんで」
誰が、とは言わない。それでも、疑いようもなく察した先輩はそうかと嬉しそうに頷いた。
「お前、チョコレートさえあれば一週間は生きられるって言ってたよな。そんな生活じゃいづれ限界が来るし、それはそれでよかったな」
最近気づいたことがある。凜也の崩壊気味だった生活が常に周りに筒抜けであったことと、それを矯正したという点においてレイの株が上がっていることだ。元より凜也の周りの人間は誰もレイに異質の目を向けたりはしないが、それでも一時会社を傾けた根源であることは否定できず、悪意はなくともなんとなく遠い存在にしていたのだろう。それが凜也の存在を通すことで肯定的な存在になるようだ。否定はできない感覚だけれど、納得はしたくなかった。
「今日無理に帰ったのも、それか?」
先輩が片方の唇を持ち上げて尋ねてきたので、まさかと返す。目を見開いて、ばかばかしいほど芝居がかっていただろう。
「身体中が凝ってて何が何でも布団で寝たくて。あんなとこで寝たら、背中どころか腰まで壊れそうっすよ」
凜也は肩を回し、首も軽く回した。骨と骨が重なり、音が鳴る。
「それに、明日は朝が少しゆっくりなんで、何もあんなところで寝なくてもいいんです」
そう言って深く笑って見せると、彼はそれ以上の追及はしてこなかった。
家に着くと、電気が消えていた。慎重に、可能な限り音を殺してそっと家に入ると、布団に入っていた冷静沈着を具現化したような男が夜討ちにでもあったような勢いで飛び起き、不安げに自分の名を呼んだ。
「凜也さん?」
「ごめん、起こしたな」
レイの夜は早い。きっとそういう設定なのだろう。すれ違いやすい生活リズムを小さな一部屋で過ごすのは、なかなかに問題が多い。
「いえ。まさかお帰りになるとは思いませんでした」
「寝に帰ってきただけだから。お前も寝てろよ」
そう言ったのに、言い終わる前に部屋の明かりがつき、心配そうな顔をしたレイが凜也の顔を覗き込んで大丈夫かと尋ねてきた。彼の方が眩し気に目を細め、凜也が安眠を妨害したことは明らかだった。
「大丈夫に決まってんだろ。いいから、寝ろよ。俺も風呂入ったら寝るから」
素っ気なくなる自分の口調に、凜也は内心後悔する。自分を突き動かす衝動的な感情が退廃的で乱暴であるほど簡単に口をついていくというのに、繊細に細長い金のネックレスのような感情はいつまで経っても自分の中を巡回し、そのくせ全く濾過はされずに純度は低いままだった。
そうと予想した通り、レイは素直に従うことはなかった。普段は気味が悪いほど恭順するくせに、ほっといてくれとか自由にしろと突き放す言葉には頑なになった。その幼気さというか曲がりのない純情さが、凜也のパンドラの箱をつつく。案の定風呂上りに適温の麦茶を一杯差出してきて、眠りにつきやすくなると言った。
「普通、ホットミルクとかじゃないのか?」
体温よりわずかに低い麦茶は、先程ダッシュして水分の抜けていた身体に沁みた。
「あなた牛乳飲めないじゃないですか」
凜也はグラスを持ったまま、驚いてレイを見た。彼のために買った大きめサイズの黒一色のスエットが彼の浅黒い肌によく似合う。レイは髪が黒くて、瞳も真っ黒い。
「気付いてたんだ」
「一度としてご自分で牛乳を飲んでいらっしゃる気配がなかったので」
「よく気づくんだな」
すっかり感心する。比べるものではないと分かっていながら、十八年共に暮らした実の母親よりも凜也を理解している気がした。理解してくれているとわかると、むしろもっと派手な我儘で困らせたくなる身勝手はまた、別の問題だろうけれど。
「じゃ、俺が今考えていることはわかる?」
布団に腰を下ろしていたレイは凜也を見上げ、
「眠たいのでしょう」
と呆れた口調で言い当てた。
「正解。明日、十一時だから。ぎりぎりに起こして」
わかりましたとほほ笑んだレイから目を逸らし、凜也は歯磨きもそこそこに布団にもぐった。
そしたら、これだ。家を出るのに準備時間が存在するというのに、レイは本当に十一時ぎりぎりに起こしたものだから、全く時間にゆとりがなかった。言葉は難しいと正確な時間を告げなかったことを後悔しながら駅まで走り、まさか十二時間後にまたも駅まで激走するとは思っていなかっただろう昨夜の自分のことを頭の隅に、やはり落ちた体力に気分は更に暗くなった。
昨晩携帯電話を充電器につないだままだとすると、電話をすれば十中八九レイは気付くだろう。出るかどうかは賭けだったが、凜也は職場に着いてタイムカードを通した後、適当な理由を付けて公衆電話に向かった。昔から変わらない蛍光緑の大型電話は、少し痛んだ色合いが一層存在感を増している。十円玉を取り出して受話器を持ち上げると、大きな受話器が全く手に馴染まなくて不思議な気持ちになった。
ツーコールで、彼は出た。
「お前、携帯の前ではってたの?」
「はってたというか、どうすればいいのか悩んでました」
その姿がありありと浮かんできて、少しだけ可笑しかった。
「悪いんだけど、持ってきてもらってもいいか?職場、わかるだろ?」
「はい。でも、外に出てよろしいのですか?」
凜也は言葉に詰まった。そして、
「タクシーで来い」
「あまりに高くつきますよ」
「しょうがないだろ、今日は夜勤で、携帯無いと連絡が不便なんだから」
「大丈夫です。電車で行きます」
こうなると、お互い譲らないことはこの数週間でよくわかっている。凜也は腕時計を見て、諦めた。
「クローゼットに入れてある棚の一番上の右側の引き出しに、サングラスが入ってる。それ掛けてこい」
サングラスには程遠い時期だったが、上背があって風貌が威圧的なレイだったら、一層人は彼を遠巻きにするだろう。本来ならばあまり喜ばしくないことも、時に役立つ。
一時間ほどしてトイレと偽り施設の入り口に行くと、言いつけ通りサングラスをかけて建物の端っこで小さくなったレイがいた。その、可能な限り背景に溶け込もうとする彼の姿勢が、凜也に強い衝撃を与えた。竣工まもない真っ白い壁に、彼のモノトーンの服装はよく映えて、精巧に造られたスタイルや容姿の良さがはっと目を引く。サングラスをしていてもわかる礼儀正しそうな雰囲気さえ、凜也を苦しめた。
じっと見つめていると、それに気付いたレイがこちらを向いて、紅い唇を動かした。凜也さん、と空に浮かんだ自分の名前が、彼の知るただ一つの名前だということを、凜也は時々忘れている。
近寄ってきた彼をもう一度人目に付きにくい植木の近くまで押しやり、携帯電話を受け取る。彼が握り続けていたらしく、生暖かった。
「悪かった」
素直に謝ると、彼は僅かにサングラスを下にずらし、上目遣いで凜也を見つめた。
「お気になさらずに。俺はあくまで生活介助用のアンドロイドです。気を遣う存在でもありませんし、あなたに利用されなければ意味がありません」
血が一気に脳裏に集まった気がした。手の先が冷え、感覚を無くしたように震えた。
「そんなこと言うな」
凜也はレイを睨みつけた。
「利用するとか、されるとか、おかしいだろ。そういう事じゃない」
レイはよく意味を理解していない顔で、わかりましたと言った。言われたことに素直に従おうとするだけの、儀礼的な反応だった。
人の往来が多い場所故に、端の方で酔ったところで男二人がこそこそと逢瀬を交わしている姿は目を引いてしまい、行きかう人々はそうとはなく凜也たちを見ていく。それに気付いた様子で、レイは身体の向きを変えた。
「それでは、帰りますね」
サングラスをかけなおしたレイの腕を、凜也は引いた。
「なぁ、ここに来るまでになんかされてないよな?」
レイはサングラス越しでもわかるくらい怪訝な顔をして、そんなことはありませんよと落ち着いた様子で言った。
「サングラスのおかげで、俺を認識できる人などいませんでしたよ」
不機嫌も笑顔もわかりやすい彼の口角が柔らかく上げられ、彼の手が凜也に伸びたのを拒みはしなかった。背中に当てられた掌が大きい。骨ばって浮いた肩甲骨のあたりを優しく撫でられると、自然に身体の力が抜けて彼の方に身を寄せた。
「どうしたら、お前のこと守れるんだろう」
家に閉じ込めていれば、それは契約書上で交わした幽閉に過ぎない。凜也はレイを見上げた。彼は困ったようにサングラスを外した。片手で凜也の背を支え、利き手じゃないはずの左手がゆっくりとサングラスを外し、乱れた髪を頭を振って払う。伏せた目元が濃いまつげに縁どられ、怜悧さと憂慮を感じさせる。人間離れというか欠点の無さが、ふとした時に凜也の心の柔らかなところに冷やした鉄の様な冷たさを押し当てる。無責任に見とれていたいし、綺麗な男だとかイケメンアンドロイドなんて言って手籠めにしてしまいたい。こんなに傍にいても、レイは自分のものにはならない。
「あなたが俺を守るんじゃなくて、俺があなたをお守りするんですよ」
無防備とも無邪気とも取れる穏やかさ。レイに備えられた気質だというのなら、人間の傲慢さとエゴがふんだんに散りばめられている。
「お前がそう言い続ける以上、俺はお前の庇護下でいないとだな」
レイに生きる意味を与えようだなんて傲岸な考えなのはわかっている。凜也がいなくとも、彼は彼なりに生きるだろう。凜也の手助けなどなくても、この人の好さはきっと誰にでも受け入れられる。先入観さえなければ、レイに欠点なんてない。彼が唯一持っている傷跡だって、彼のせいじゃない。
レイのかさついた唇に目がいく。かさついているのに、濃い赤が輪郭を縁取る。彼を作りだそうとしたリスキーシフトは濁世の負の産物だけれど、レイの肌が褐色気味で唇に濃い赤を採用した気持ちだけは、少しわかる。彼から感じる生気は、アンドロイドという域をはるかに超越している。傍にいて、耳元で感じる息遣いと存在感が、凜也の孤高を気取った希死念慮に一滴の現実と理想を教えてくれるようだった。