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第六章

世間がゴールデンウイークだ長期休暇だと盛り上がっている時期でもアンドロイドは年中無休だ。人の減った通勤電車と、落ち着きない子供の乗り合わせる電車に揺られながら、怒涛の夜勤と雑務をこなす日々が続いた。忙殺されているとだんだん自分の中で感性が死んでいくのが分かる。そうなると、凜也は必ず無になる。自分をアンドロイドだと思い込み、ただ淡々と仕事をこなし、夜勤手当と残業代を機械的に受け取る。感情を出したらみじめだし、深く考えたら悪い事ばかりが目に付く。目が回りそうな忙しさで仕事が舞い込む度に生死を彷徨うものの、好きで入った業界で好きなことをしているのだと考え、常時の楽しさを思い出して踏ん張った。

 職場全体がそうであるから気にしていなかったけれど、家に帰って顔を突き合わしたレイはすっかり困惑していた。凜也の家に固定電話はなく、レイに電話を渡しているわけではないので、彼に急な残業や終電を逃したことを告げる手段がなかった。あまりに一人暮らしが長かったので考えたこともなかったが、毎晩作った夕食にラップをかけさせ、いつ帰ってくるかもわからない凜也のことを気にしていたら四六時中彼の身体も休まらないだろう。今朝、朝方に帰宅した凜也用の昨晩の夕食を朝食にしている現場に遭遇したときは、流石に気が咎めた。一言謝って眠ったのだが、起きてからも罪悪感は抜けなかった。

「お前さ、パソコン使って」

 凜也は自分のノートパソコンを、レイの前に置いた。

「メールアドレスを俺の会社のパソコンと連携してあるから、何時頃に帰れそうとか、逆に時間変更があったらなるべく連絡入れるようにする」

 パソコンの操作方法を説明すると、彼はすぐに覚え、慣れたような手つきで文字入力までこなした。彼の手は大きい。指も長くて、キーボードをたたくときに節が浮き立つのが妙に色気っぽく見えた。

「お前はすごいな」

 流石のコピー能力に感心する。このまま学習させたらアンドロイドがアンドロイドを設計する未来もそう遠くなのだろう。レイは愛想笑いをして、使わせていただきますと言った。

 徹夜明けの身体は何時間眠っても気怠さが残る。八時間も眠ったというのにすっきりしない睡魔が残っていた。

「ごはんどうされますか?」

 時計を一瞥したレイが尋ねてきた。今朝レイが作ってくれたフレンチトースト以降、何も食べていなかったせいで、胃が空っぽだった。

「なんか食べたいな」

 コーラを取り出そうと冷蔵庫を開け、凜也は目を細めた。

「冷蔵庫、何もねーじゃん」

 一人暮らしだった時はそれが常であったが、彼は常に料理をしているため、冷蔵庫は色どりに溢れていて、冷やしたチョコレートや酎ハイの缶などが自分で探せないこともあった。

「すみません」

「いや、謝ることじゃなくて」

 レイを一人で買い物には行かせていない。そもそも、外に出ることを禁じている。家に来てから数回買い物に同行させたが、それ以外彼は家にずっと閉じこもっている。もちろんレイを守るための当然の決定なのだが、彼自身はその理由など知る由もなく、不満そうではないが不思議そうにはされていた。外の楽しさを知らないからできることだろうと、凜也は思う。廃人の引きこもりと友人に言われる凜也ですら、一週間も家に閉じこもっていたらさすがに参るだろう。

「買い物行くか」

 時計を見て、今日が休日であることを確認して、凜也は呟いた。

 外に出ると夜の匂いが漂っていた。厳冬の影響で厳しい春になると言われていた通り気温の高低差の激しい時期を越え、五月は比較的穏やかな天気が続いている。薄手のシャツに重ねたロングカーディガンの裾が風にはためいた。

「今日って天気よかったの?」

 光を避けるように眠っていた。微かな太陽のにおいが、夜七時半にも残っている。

「えぇ。洗濯物がよく乾きましたよ」

 起きたときレイは洗濯物にアイロンをかけていた。

「なんかね、悪い事じゃないけど、夜勤明けの昼間にアイマスクして寝ちゃうと一日を無駄にした気分になるんだよ」

 会話をしなければいけないと思ったわけでもないけれど、何も言わないのも不自然に感じた。

「お仕事お疲れ様です」

 思いがけない言葉に、凜也はレイを見上げた。彼は他意のない笑顔だった。

後ろからヘッドライトの明かりが追いかけてきたのに気づき、彼の腕を歩道のない車道の端に引くと、彼は通り過ぎる車のスピードに少し驚きの表情を見せた。そういえば、彼は車をこの近さで見たのは初めてかもしれない。凜也の家に来るときに乗せられた社用車のベンツも、窓にカーテンを引かれていた。

「車は危ないから。気を付けて」

 レイの腕から手を離す。隣に並ぶと、レイは少し威圧感がある。触れた腕も固く、指先にダイレクトな感触があった。

 歩いて十分もしないショッピングモール内の薬局とスーパーで買い物をする。レイがカートを押しながら生鮮食品を選んでいる隣を追い越し、お菓子と飲み物を選ぶ。カップラーメンを一瞥して、辞めた。以前買ったものが戸棚の奥で居心地悪そうに、迫る賞味期限に恐々としている。

「凜也さん。食べたいものとかあります?」

 こんな質問をされたことないなと頭の隅で考えた。

「野菜以外で」

 正直な回答に、レイは困ったように眉を下げた。偉丈夫な癖に、控えめな表情が似合う。それも設計されたものなのかと思う一方で、彼の感情がそうさせたのだと思う自分もいた。

「レイ自身が食いたいもん作れよ」

 彼の押すカートに脚をかけると、久々にはいたスニーカーのゴムが音を鳴らした。魚売り場で吟味するレイは意外なことを言われた様に目を見開いている。

「オレとお前は同じもの食ってんだ。お前が作りたいと思ったものを俺は食うし、お前が作ったものを俺が食う」

 そうだろうと言うと、彼は魚に伸ばしていた手を止め、信じられないという顔つきになった。いつもの怜悧さが無くなると、表情が幼くて邪気の無さに胸が締め付けられる。

「焼き魚を残し、野菜を残し、ラーメン一杯もまともに食べず、挙句その後にお菓子を食べていた人が平然とそれをおっしゃいますか?」

 隣で同じように刺身を見ていた女性が噴き出した。

「あ、ごめんなさい」

 凜也とレイに遠慮しながら、四十代くらいの女性が口を押さえて笑いを堪えている。

「今の、大袈裟に言ってますからね」

 凜也は己の名誉のために訂正を入れる。しかし、レイは言葉こそなかったもののじっとりとした目線で凜也を眺めていた。

「うちの十歳の息子と全く同じで、思わず。ごめんなさいね」

 女性は早口でそう言い、近くにあった刺身のパックを手に取り、顔をあげる。そして、不思議そうにレイと凜也の顔を見比べた。そして、違和感を隠しきれない顔でカゴを持ち直し、愛想笑いで早歩きで去って行った。

 その時、気付かれなくてよかったと安堵した自分が悲しい。レイを優秀でよく気が利いて尽くしてくれて時々息がつまるけれどやっぱり友人と呼ぶにも悪くないと思い始めた心に、消しきれずにいた不安に意図せずスポットライトを当てられた気がした。でも、どんなに明るいスポットライトだって、明るい世界では役に立たない。暗い顔をしてレイの手を止めさせる自分の弱さが問題なのだ。

「あの人ね、俺とレイを見て、この人たちの関係性は何でしょうって邪推したんだぜ」

 セリフの部分を声音を変えた所、すれ違った子供が口を開けて凜也を見てきた。手には本体がおもちゃの、おまけつき菓子を握っている。

「と、言いますのは?」

「いいか、俺は御年二十八歳になる」

「そうですね」

「お前は、今何歳?」

「二十五、だそうです」

「え、若。お前老けてんな」

 レイは端正な顔立ちのせいで年齢不詳なところはあったが、二十五という年齢には感じない。むしろ、何処か経験豊富で若気の至りの終わった男の余裕のようなものを感じさせる雰囲気があった。

「話を戻してください」

 反論も抵抗もしなかったが、乗っては来なかった。彼は生育型ではないので、年を取ることはない。その現実の端っこが刃こぼれの様に心に残ったが、凜也は気付かないふりをした。

「そこそこの年をした男二人が、どうやら一緒に生活をしているらしい。それって、変じゃん」

 レイは何も言わず、卵をかごに入れた。

「顔が似てて兄弟に見えるとか、若くて金がなさそうだったらルームシェアとかもあるけど、俺たちはそう見えないだろうからな」

 彼女の瞳に、偏見だと言うつもりはない。むしろ、薄いけれどよそ行きの化粧と質のいいスーツを着たあの人が、十歳の息子に毎日ご飯を作っていることの方が重要だった。息子の食の好みを理解して何かに重ねて笑ってしまう程子供に向き合っているのなら、自分をどう思っていようが十分だった。

「お前はアンドロイドには見えないし、いい年した大男が魚選んでいる姿、なかなか目を引くぜ」

 そう言って背中をたたくと、掌に振動が伝わった。

「あなたが傷つかないのなら、それでいいです」

 レイは真剣な表情だった。茶化せない真っ直ぐさに気圧される様に、凜也はありがとうと言った。お前は傷つかないのかと聞きたかったけれど、凜也には人を守るだけの力はなった。

 結局レイが遠慮なく重たい食材を買い込むので、大きなビニール袋が五個にまでなってしまった。

「味噌を二種類も買う必要あった?」

 赤味噌はあまり好きじゃないから白だけでいいと言ったのに、レイは味噌煮込みに使いたいからと言って譲らなかった。

「凜也さんこそ、コーラを買い過ぎです。骨が溶けますよ」

「俺、骨と皮しかないってよく言われてたんだけど、骨溶けたらやばくね?」

「骨と皮だけの状態が既に問題あります」

 冷静に返されると、それもそうだった。レイが両手に二袋ずつのビニール袋を提げているのに対し、凜也は一つを交互に持ち替え、片手を休ませている。

「最近は、太ったって言われるよ。お前が飯食わせてくれっから」

「もう少し好き嫌いが無くなってくださると、良いんですけど」

 言うようになったなと、レイの方を振り返る。彼は呆れたような口調とは裏腹に、優しい顔で凜也を見ていた。

「好き嫌いをさせないのが、世話係の役目じゃん?」

 レイは少し不服そうに口だけで笑い、空を見上げた。星が見えますねと呟く。口を開く度に震える喉元が、男っぽいのに妖美だった。

「こんなの、全然見えてない。都会は、光害があるから、星が見えない」

 そう言いながらも、凜也も歩調を僅かに緩め、空を見上げた。新月の夜空にいくつか点在する星。星座を織りなすはずの一等星のうちの、ほんのいくつか。それでも、星がないよりはましだった。



 朝起きるとテレビのキャスターの声がして、開けたカーテンから光が射しこんで、朝ごはんの匂いがする。どれも経験のしたことのない感覚だから、凜也は不思議とその時間を引き延ばしたくなる。

 両親が離婚したのが、凜也がまだ幼稚園に通っていた頃だ。母に引き取られたはいいが、彼女は子供に露ほどの興味もなかったようだ。虐待をされたわけでもなければ特別ネグレクトだったとも思わないが、愛情不足は否めなかった。いうなら、冷めきった夫婦間にある最低限度の関わり合いが幼い自分に当てはめられた。仕事で家にいない時間が長く、家にいたとしても凜也の身の回りの話や成長に興味を持つそぶりは一切なかった。それでも、彼女は気まぐれで凜也を可愛がったり誉めたりし、凜也が落ち込んでいればその場凌ぎの慰めはくれていたから、嫌うこともできずにいた。

 その昔、凜也は遠足の日に寝坊をした。小学三年生の時の話だ。朝起きたら十時を過ぎていて、凜也は自分で学校に電話をかけ、他学年の先生に連れられて遅れてクラスに合流をした。母は前日が遅番で帰りも遅く、凜也が半泣き状態で学校に電話している隣で眠っていたのだ。お弁当なんてものを当然用意してもらえず、コンビニに寄らせてもらった凜也を教師は絶句して見つめていた。遠足から帰ってきた凜也から事の顛末を聞いた母は呆れたように、「自分で起きれないなら遠足なんか行かなくていいのに。それに、お弁当なんて聞いてないよ」と凜也を正座させた。案内の手紙は一か月前に母に渡した記憶が凜也にはあったけれど、子供ながらに言っても無駄だと理解していた。

 嫌なことを思い出した。記憶の中でも突出して絶望した事件だ。凜也は布団の中で足を伸ばし、光を避けようと枕に顔を寄せた所、枕が奪われた。

「凜也さん、おはようございます」

 少しずつ凜也のだらしなさに気付き始めたレイは、それに比例するように生意気になった。容赦なく布団をはがされたこともある。既に五月も下旬という時期になれば布団から出るのが寒いと言わけではないが、柔らかな布団を奪われると急激な不安に襲われる。起きてから絶対にやめてくれと言ったところ、腕を引かれて身を起こされたり、逆に体重をかけて圧迫するようになってきた。以前百円ショップで買っていたクラッカーで起こされたときなどは心臓が止まるかと思うほど驚いたし、犬用かと目を疑った押すとピーピーなるおもちゃを耳元で鳴らされたこともある。

彼は生活介助用で、大抵は介護や外に出られなくなった人たちの世話係として重宝されているのだが、稀に子供のハウスキーパー用にも遣われており、もしやレイの中でAIが凜也を子供と把握しているのではないかと疑っている。

「お前は元気な」

 顔を洗って着替えをしながら、朝ごはんを準備する彼の横顔に声をかける。寝起きで顔の腫れた凜也と違い、彼はいつ起きたのかという程すっきりした顔で、凜也を見た。

「あなたにも、分けてあげられると良いんですが」

 余計なお世話だと悪態着いていると、ホットサンドとコーンスープがテーブルに置かれた。

「少しでいいので、召し上がってください」

 見ただけで胃が重たくなったが、それでも北欧デザインの明るい皿に、こんがりとした焼き色のついたホットサンドと湯気の立つスープは凜也の興味を誘った。

「中身は?」

「ハムとチーズだけですよ」

 分かっていると言いたげな口調で、同じものを食べ始めたレイの正面に座って朝のニュースを見る。木のスプーンですくったコーンスープは甘く、クルトンがとろけていた。

「今夜は雨だそうです」

 凜也もテレビの上段に流れる気象予報を見ると、十時過ぎから雨と書いてあった。

「今日はそんなに遅くならないと思う」

 昨日、何故か帰り際にエンジンがかかってデータ打ち込みを全て終わらせてきた。

「わかりました」

「でも、一応、メール入れる」

 あれ以来、凜也は帰り際に一報入れるようにしている。レイはすっかりパソコンに慣れ意思疎通は格段に楽になったのだが、あまりの学習能力でネット通販を彼が始めたのは厄介だった。この食器も、レイがあつらえた。品のいいものを、質のいいものを、この家に取り入れ始めた彼の嬉しげな表情を見ると何も言えないが、薄汚れた僻地で鬱々と生活することで保たれた自分の自分らしい影の部分が、居場所を無くし始めた。何かを諦めたり、理不尽に誰かを嫌ってみたり、自分の過去を恨んだり、そういう薄暗い思いを自覚する時間があるからこそ、上っ面を作ってぎりぎりこの世界に繋ぎ止められていた自我が、バランスを崩し始めた。

 職場に着くと、夜勤明けの上司が凜也の顔を見るなり死にそうな顔に僅かな笑みを浮かべたので、その時点で覚悟した。

「データにミス…」

 昨日打ち込んだデータだが、送られてきたフォーマットにミスがあったから一番最初から打ち込みなおしてくれるかと、下手に出てこられたら文句の一つも言えやしない。 

 凜也は買ってきたコーヒーを抱いて、しばし机に沈み込んだ。隣の先輩が背中を軽くたたいてきたが反応する気力がなかった。偶にやる気を出して仕事をすれば、このざまだ。空回る。

「手伝うか?」

 体を起こし、大丈夫ですと告げて、その時自分が作った笑顔で諦めをつけてパソコンを起動した。

 昼休みをつぶして分析まで終わらせてから、遅い昼休みを取るのに一人食堂に向かった。人のほとんどいない食堂は静かで、がらんと広がる安っぽい机と引いたパイプ椅子が響く。クリームパスタをフォークで巻き取っていると、近くで甲高い子供の叫び声がした。すぐに食器が床に打ち付けられるのが分かった。十歳にも満たない男の子が、食事の入ったお盆をひっくり返し、泣き叫んでいた。

「もうやだ、帰りたい」

 またかと、凜也は目を逸らした。こういう時は、何も見てないし何も知らないという無関心の顔をすると決めている。人のいい先輩や野沢なら宥めるのを手伝ったり片付けるのを引き受けたりと手を貸しているが、凜也はその手のことは得意としていないし、それを受け入れてもらえる自信がない。

「こんなの美味しくない、お家に帰ってママのご飯食べたい」

 男の子は車いすに乗っていた。おそらく、リハビリの施設にいるのだろう。

「もうすぐだから、今は我慢しよう」

 そう言ってとりなす母親の声には悲壮感があった。

「昨日もそう言ってた。もう嫌だよ」

 子供の甲高い声はよく響く。人の声が減った食堂では尚更、壁という壁に反響しているようだった。母親にだってストレスはあるだろうに、彼女は涙声でごめんねと呟くように言って息子の頭を撫で居るのが横目に入った。

 今日は散々だ。凜也はパスタを半分近く残したまま、トレーを返して食堂を出た。一服しようと喫煙所に向かう途中、談話室を覗く。HE型のなかでも特に会話力に特化したアンドロイドを、談話室に常駐させている。凜也はその会話力に興味があった。

 アンドロイドは七十代くらいの老人と机を囲っていた。傍に行って子供が散らかしただろう絵本やおもちゃを片付けながら、聞き耳を立てる。お昼過ぎの騒がしい時間帯のせいで会話は途切れ途切れにしか聞こえなかったが、どうやら相撲の話で盛り上がっているらしかった。春場所とか、横綱が途中で休場するのは卑怯だとか、僅かな単語を聞き取っても、予備知識が無くて撃沈した。早々に切り上げて談話室を出たところで、前から歩いて来る夫婦とおそらく高校生だろう制服姿の少女の会話が聞こえてきた。

「元気そうでよかったわ」

「先週は疲れてて、全然しゃべらなかったけどね」

「体調がよくなったってことだよ」

 三者三様に安堵の表情を浮かべながら横を通り過ぎた家族を、凜也は一瞬振り返る。その幸せそうな背中が脳裏に残り、やっぱり今日は最悪な日だと思った。

 喫煙所で乱暴に三本のタバコを吸ってからトイレで手を洗い、席に戻ってからレイに帰りが遅くなることと食事を断ろうとメールを開いたところ、レイの方から着ていた。夕食を味噌煮込みうどんか、鶏肉の照り焼きのどちらがいいかという連絡だった。レイの硬くて節のある長い指が、大学時代に買ってからほとんど使っていなかった古いパソコンのキーボードをたたいているのかと思うと、少し笑えた。うどん、と三文字だけ打ち込んで送信ボタンを押して、直ぐにファイルを落とした。


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