第四章
解放感も度を越えればただの怠惰へと変貌するもので、仕事は面倒くさいし用事は何かと言い訳付けて後回しにしてしまうけれど、勢いで進んでいけばどうにだって出来るというものらしい。何かを変えようとした。変わる必要など一切感じていなかった日々は時間に追い越され、周りの足取りの正しさと速さに慌てた。人と比べ傷つくことは遠い昔に捨てたつもりでいたが、自分を幸せだと思い込むには世界が眩しすぎる。
日曜日の朝、凜也は珍しく目覚まし時計と格闘せずに起きた。普段の、スヌーズを止めては鳴るを繰り返す怠惰を散々目の当たりにしていたレイは驚いた顔で起き上がり洗面所に消えていく凜也を見つめていた。それを気配で察知しながらも、説明は億劫だったので気付かないふりをした。
普段よりも丁寧に顔を洗う。それが今日という日にどんな変化を与えるのか、おそらく気休め程度の何かだろうけれど、そうするだけの意味が自分にはあった。髪もアイロンで毛先を遊ばせずに大人しく、そしてフォーマルに整える。鏡で後ろまでチェックし、クロゼットの中から一番まともな私服を選んだ。
別にそんな固い格好をしていくこともないと野沢には言われたけれど、野沢にとっては知り合いのおじさんでも凜也にとっては会社の名誉OBだ。いつもの緩さを纏っていくのは流石に気が引ける。野沢に、佐川さんを紹介してもらった。会社のOBでリタイアした今も若手には簡単には越せない知識量と確かな能力をもって現場に顔を出してくれたり、セミナーを行ってもらうこともあったりと何かと関わりがあるので一応顔見知り程度ではある。更に言えば、彼は例の事件で梨香のことを気にかけ幾度となく本社に通っていたので一時期は毎日のように目にしていたが、個人的に連絡を取り合うような相手ではもちろんない。
「出かけてくる」
レイにそうとだけ告げ、コップ一杯の麦茶を飲んで家を出た。行ってらっしゃいと言うレイの相変わらず礼儀正しい姿勢に、ちょっとした後ろめたさを感じた。
外に出ると、春らしい明るい陽気と爽やかな風が四季の巡りを感じさせる陽気だった。こんな日に、レイを外に出したらどうなるのだろうと考える。健康的に造られた彼に不健全な影をつくり、光に照らすこともできないなんて、本当は人権にすら関わる愚策なのに、彼にはそれを指摘する術も応酬する気力もないのだろう。一緒に生きていこうとまで大袈裟に思ったわけじゃない。
佐川の家はレンガ造りの洒落た家だったが、周りの家から特別浮かない程度に辺り一遍豪華な造りの家ばかりだった。長閑な住宅地が続く道なりに歩いている中で、庭にバスケットゴールのある家や高級そうな自転車の並んだ家を見ているだけで胸焼けしそうだった。野沢家の圧巻な造りに比べるとこじんまりとした、女の子向けのおもちゃにありそうな可愛らしい家を見上げる。緊張感は拭えないままインターフォンを押すと、直ぐに佐川が家のドアを開けた。
「待ってたよ」
正門からなだらかな階段を上る。その間にも植木鉢がいくつも並んでいて、色も形も全く違う花が小さく咲いていた。豪華な花とか、気取った花壇があるわけではない、そのささやかな気遣いみたいな丁寧な花の並びがきれいだった。
家の中も無駄のない整い方をしていて、気取りのなさと清潔感が彼ら老夫婦の上流な生き方を感じさせる。間違っても、リビングにマニキュアやビューラーが放置されたりはしないよなと、昔の実家をフィルムみたいに翳し、思わずため息をこぼしそうになった。卑屈になればなるほど惨めだと分かっていても、対抗するには足りないものばかりだった。そうこうしているうちに二階から奥さんが降りてきて、目が合うとにっこりと笑ってくれた。愛情深い人なんだろうなということはそれだけで直ぐにわかった。年を召した人ほど、性格は顔や格好に出る。派手ではないけれどきちんとしたワンピースを着た彼女は薄く化粧をして、歩くときに足音を立てない。手際よくやかんに火をかける背筋はしゃきりと伸びていた。
「突然すみません」
手土産に買った和菓子の詰め合わせを差し出すと、目の前に座った佐川はわざわざいいんだよと言いながらも嬉しそうに受け取った。
「見ての通り、老人二人で気ままに暮らしているだけだから。客人はいつでも大歓迎だよ」
今の凜也は有難くも申し訳ない気分になった。客人の持ってくるものが肝心だろうに。
察してかどうかはわからないが、佐川は奥さんに手土産を手渡すと、直ぐに話を切り出した。
「あのアンドロイドのことだろう」
「はい」
「何か、気がかりがあったのかい?」
頭がよくて、優しい人なんだろうなと考える。凜也はそういう人を本能的に見わけられ、一度として間違ったことはない。それは賢いふりと優しいふりは見抜きやすいからだった。
「うちアンドロイドの出生が、気になったんです。あ、あいつにレイって名付けたんですけど」
理由は聞かれたくないなと思っていたら、佐川は良い名前だねと相槌を打った。それだけだった。
「TG型って、生産数が相当限られているうえに、市場に出回っていないという話だったじゃないですか。梨香は、野沢の父親が作ったということで理解できるんですけど、レイは、何のために、どうして造られたんですか?」
人間の命は生まれると日本人は言うけれど、英語では受動態だ、という衝撃を受けたのは中学三年生の時。あれ以来、己の命の不当性を正当化された気分はまだ、抜けていない。
佐川は奥さんが運んでくれた紅茶のカップを手に、頭を悩ませていた。言葉を真剣に選んでいる表情に、言葉を畳みかけるのはやめて自分もカップを手に取る。唇を近づけると、顔の表面に水分が吸い付くように熱さが近寄ってきた。
「報道にもあったけれど、彼が平岸さんに購入されたのは事実で、その額三千万。おそらく、受注生産という形を取ったのだろう」
平岸さんというのはレイの元の持ち主の名前だった。彼は一代で始めたチェーンの銭湯を全国展開まで持って行った。
「平岸さんとうちの一代前の社長が懇意にしていたようだし、市場に出回る前の商品だったが特別待遇だったことは濁されていたけれど本当だろうね。おそらく察しているだろうけど、彼の生産者も野沢、佑人君のお父さん」
確かにそんな予感はしていたが、断言されると途端に世界が塞がれる気がした。
「それに、平岸さんが彼を購入した時期と梨香が完成した時期がかなり近いことを考えると、当時はTG型を本気で生産するつもりもあったのだろうね」
少し開けてある窓から入り込んだ風がむき出しの脚首を撫ぜる。柔らかい春風だった。細身のパンツとジャケットというフォーマルな格好にしたが、紺の色合いと光沢と、裾や袖の形やボタンにそれとない遊びが入っている。落ち着きはありながら魅力を留めないこのセットが自分によく似合っている自信はあった。
「あの、野沢のお父さんは、梨香とレイ、どっちを先に完成させているんですか?」
凜也の質問に佐川は鋭く目を細め、直ぐに笑顔を取り繕った。
「レイ君だね。レイ君を制作していた時、私も野沢も現役だった。なにか彼をリーダーとしたプロジェクトが動いているとは思ったけれど、今となってあれがTG型を生産するための一大プロジェクトだったことが分かったよ。私は別のプロジェクトに参加していて、レイ君のことは一切知らなかった」
「野沢さんから聞いたりはしなかったんですか?」
「当時、アンドロイドの生産において世界シェアトップは確固たるものではあったけれど、他者の追随も物凄いものがあったからね。パイオニアとして、違った方面からのアプローチを狙っていたのは確かだ。ただ、TG型は批判が来ることは理解していたから、社内でも他言無用。レイ君はある種実験台だったのだろうね」
落ち着き払ったふりをしてカップを手に取るものの、繊細なカップに添える指先が震えた。未だに安易に傷つく自分に嫌悪感すらあった。凜也が傷ついたって仕方がないと分かっていながら、彼の傍にいて同じ痛みを共有していれば勝手に心が通じている気がした。
「レイ君は完成度は満足のいくものだったのだろう。だから、その後間もなく引退した野沢はすぐに梨香の制作に取り掛かった。思えば、幾らOBいえども、あんな簡単に資材が手に入ったのは、そういう機密に近い情報をかなり持っていたせいかもしれない」
佐川は目を伏せ、穏やかな口調で言った。落ち着きがあるというよりも、興奮しないよう自分の一挙手一投足に気を遣っている気がした。この人もそうとは意識しないままに劣等感に苛まれたのだろうかと考える。凜也は佐川の人当たりのいい人柄や親しみやすさから出る人望、確かで正確な技術、危ないことはしない慎重で真面目な雰囲気、どれも職場でよく目にしてきて、何を切り取っても逆立ちしても真似できない人となりを知っている。でも、社内で、野沢昌弘と言えばだれもが知っているレジェンドとなっているけれど、佐川は設計の分野では名を馳せてもそこに留まってしまう。きっと、紙一重の差で、佐川は野沢に後れを取った。人生は運の連続というけれど、きっとそれだけなんだろうなと思わされることはたくさんある。スポーツチームの監督が名将になれるか愚将になり下がるかの差は、チームの力が大きい。
「他にも、流通しているTG型のアンドロイドはあるんですか?」
「おそらくだけど、無いと思うよ。値段が値段だし、なにより、野沢無しに作れるとは思えない」
凜也は納得し、頷いた。設計の難しさは身をもって知っている。それと同時に、それでも友人を認め忘れ形見の野沢を可愛がる彼の寛大さにすっかり感服した。
「話はそれだけかい?」
話を変えるように明るい声で尋ねてきた。凜也は一瞬口ごもったが、この人にしか言えないことは自分が一番知っている。
「接し方が分からないんです」
「彼と?」
「はい。何か問題があるとか、引き取らなければよかったとかそういう事ではもちろんなくて、俺はレイのことを自分なりに感じるものがあったから傍にいる。だけど、友達には近すぎるし家族にしては遠すぎるこの距離感に、どういう対応があっているのかが全く分からないんです」
俯いて、先程佐川の奥さんが出してくれた机に置かれたカステラを眺める。滑らかとは言えない断面の、それでも艶っぽい表面が素朴な武骨さを連想させた。
「TG型がなぜ現実的でないか、わかるかい?」
突然投げかけられた問いの真意がわからず次に意識を傾けたが、どうも自分の言葉が待たれていた。
「扱う側の人間の知能を超えるから、ですよね」
人がアンドロイドを扱うのに、アンドロイドの知能が人間を凌駕してしまったら、手に負えなくなるし何となく居心地が悪い。親を越えた子供を誇るか距離を感じるかは親次第だろうが、アンドロイドにそこまでの情は通常持ちえないだろう。
大きく頷いた彼の、細めた目が意味ありげに映った。人当たりの良さに一筋の冷徹さを示された途端、本性云々の前に妙な説得力の様なものが生まれる。自然と姿勢を正したが、元々今日の自分は恐ろしいほど猫を被っていて、その癖自分自身に対して恐ろしいほど正直だった。
「それが最大の要因だろう。アンドロイドを使うには、使う側がアンドロイドより賢くなければならない。リーダーの指揮次第で人は良くも悪くも簡単に流される。そうとは知らずにね。ただ、やはり傲慢だ。主従関係を生み出すからには関係性の正当性と方向性はある程度共通でなければ、居心地の悪さを実感するのは何も指揮する側だけじゃない。アンドロイド側にだって、苦痛が生じるんだよ。感情があるのだからね」
ぐっと凜也は息をのんだ。少しばかり痛い言葉だった。生まれてこの方、何度感情など持たずに生きていけたらと望んだだろう。死にたいと思った回数に匹敵するだろうし、それは要するに同じくらい生に執着していたということだろうか。
「ここからは私の勝手な持論だから、聞き流してくれればいい」
そう前置きをして、佐川は話しだした。
「私はどうしてもアンドロイドを設計していた人間だから、アンドロイドに肩入れをしてしまう。だからこそ、池谷君にはキツイ言い方になると思うけれど、彼らを安易にアンドロイドだと軽視しないで欲しい」
食品以外の物の注意書きにある、飲食物ではないので口にしないでくださいという文字の羅列並みにくだらない言葉に思えた。いつもの凜也ならば大なり小なりの反論を口にしただろう。しかし、佐川の真剣な表情にあったのは、傲岸な注意ではなく祈りに似た懇願だった。同じ立場だからというにはレベルが違う。それでも、根底にある気持ちにそこまでの齟齬はない自信はあった。
「私個人としても、TG型を無くしたのは良い選択だと思ったよ。彼らは謀反をおこしたりはしないけれど、生まれながらにそういう生き方しかできないのなら、賢しさはむしろ諸刃の剣となる。独裁国家の優秀な国民の末路なんて、苦しい物ばかりだろう」
窓の向こうの烏の鳴き声がよく通った。優しい口調に、真綿で首を締められている気分だった。苦しいと一人悶々とシュミレーションしていることを、遠回しに詰られた気すらした。
「私はアンドロイドにとっても生きやすい環境が整って、それぞれに幸せがあればいい。そう思っているよ」
何も解決にはならなかった。糸口も掴めはしなかった。けれど、レイをアンドロイドという一括りに置いて自分を人間として差異を見出そうとした己の軽薄さと思慮の無さを痛感した。
その後、佐川の妻から昼ご飯を食べていかないかと誘われ、凜也は笑顔で頂きますと答えた。野沢から、彼らの好意は全部笑顔で受け取ってほしいと事前に頼まれていたのだ。そのときは借りを作るようで嫌だと言いかけた凜也だったが、何かをしてもらうことに慣れている人間はそれに勝る心的な繋がりにまで意識が行くらしい。
「元々社交的な人たちだから、人をもてなしたりすることが好きなんだよ。礼儀正しい引き様見せるより、ありがとうございますって笑顔を向けられるのが好きな人だからさ」
以前野沢が、まだ一人で梨香を育てていた時期に嫌な顔一つせずに手を貸していたことを知っている分、理解はしやすかった。佐川には料理をする間に散歩でもどうかと誘われ、これもまた凜也は笑顔で引き受けた。友人の頼みとあらばと意図的にそうしようと家を出たのに、彼らの誘いはどれも凜也を特別にもてなそうと柔らかな優しさがあって、凜也は柄にもなく喜びから好意的に受け取っている。
隣を小柄な老人が歩いていると思うと、自然と足取りがゆったりとしたものになる。散歩というのは常にそういうものだろうが、意識して散歩をしたことがないのでなんとなく収まりの悪さを感じる。凜也にとって休日は引きこもってゲームをする日であり、外に出るにしても目的を持った外出しかしない。要領よくやると言えば聞こえはいいものの、本質として凜也は自分以外に気を配ることにひどくストレスを感じる性質だと思う。相手の望んでいるものに対してとにかく愚鈍であり、それを周りが上手にこなす姿を見る度に劣等感に悩むのはうんざりだった。
休日の住宅地には車通りが少なくて明るい声がよく響く。小学校のグラウンドの傍を通ると、花びらを全て散らした桜の木が数本並んでいて、それでも妙に柔らかな緑に彩られ寂しさを感じさせない。去り際とか散り際に比べれば、次の季節に向けた息吹は感傷の入り込む隙間がないほど、外に向けて真っ直ぐに伸びている。
佐川が興味深そうに尋ねてきたので、凜也は職場の話をした。海沿いで晴れた日の景色は絶景ですよと伝えると、彼は真剣な表情で、いつか自分も世話になる日が来るかもしれないと言葉とは裏腹に朗らかな笑い声を立てた。一瞬そんなことと否定しかけてから、そんなこと誰にも言えないはずだと思うと変なことも言いづらい。リハビリ施設の面もあるわけで、今だって学生や若い世代の人たちだって施設の世話になっているわけだし、凜也自身だって身寄りのなさを考えれば誰かの世話になる未来は十分にある。遠い未来を憂える余裕があるものかと呆れる一方で、少し遠くに押しやっていなければ気詰まりで空想だけで死んでしまいそうになる。此処に無い幸せなんて絶対に信じないし期待もしないけれど、想定できる悪夢は案外すぐ傍にある。想定できるくらい身近にあるのだから。
「引退してからね、自分はこれからどう生きていくのだろうと考えることは増えたよ」
彼は本当に丁寧な話し方をする。言葉を品詞ごとに違う色のコーティングをしているみたいに理路整然としているのに、柔らかな話し方をするので直情的な雰囲気がまるでない。話し方だけで決めつけるのは強引だが、彼の人望にも大きく関わっているだろう。
「池谷君は、佑人君と同い年だっけ?」
「はい。二十八です」
若いねと朗らかに笑う笑顔に、何度若いと言われたら、若いと言われなくなるのだろうと考える。
砂利道に出来た自分の短い影を踏むように歩く。風が首筋を撫ぜると、伸びてきた毛先が泳ぐ感覚があった。
小一時間外を歩き回ると、温かな日差しの中で身体は温まり軽く汗が出るくらいだった。
「おそらく、ものすごく気合を入れて食事を作っていると思うから、もし口に合わなくても笑顔で流してもらえるとありがたい」
家が望めるほど近くの公園の自動販売機でコーヒーを飲んでいるとき、彼はそう言った。
「あと、もしタバコを吸いたかったら今どうぞ。奥さんがあまり得意じゃないから、家の中で吸ってもらえないんだ、申し訳ない」
「いえ、とんでもないです」
そう言いながら、ポケットに手が伸びる自分になんだかなと思う。どうしてもそうしたいわけでもないけれどとりあえずそうしておけば大丈夫な気がする、そんな気持ちを的確に表す言葉はなんだろう。安堵感をくれるわけでも、満足感があるわけでもない。時間が来るから食事をして時間が来るから仕事に行くのと同じくらい、強いて言うのなら習慣のようなものだ。けれど、習慣よりも強い執着心を持っているのも確かで、凜也は自分のことなのにさっぱり理解ができない。当然、他人に説明などできるわけもなかった。凜也は丁寧に断り、ヘビースモーカーではないと告げた。彼は目を細め、
「佑人君からかなり吸うからと言われていたんだけど、大丈夫かい?」
あぁと、凜也は腑に落ちる。そして、彼のきめ細やかな気遣いと生来的な優しさに感心する。彼の様な心遣いができるのはごく一部の優しい人なのだ。凜也にはとても、思いつきそうにない。
「大袈裟なんですよ。確かに、食後によく吸うんですけど、職場だからであって家ではそんなに吸ってないですよ」
缶コーヒーに唇を付けると、さっきまで冷やされていたスチールの冷たさが粘膜に触れる。砂場で親子がスコップ片手にひたすら砂を盛った何かを作っている。子供の手に握られた小さなスコップが目にも鮮やかな赤をしていて、隣に放置されたバケツは濃い青をしていた。
家に帰ると、何とはわからない料理の匂いがした。
「大したものじゃないんだけど」
佐川の妻は照れたようにそう言ったが、テーブルを埋め尽くす手の込んだ和食に凜也は思わず声が漏れた。リビングの、二人にしては大きめだろうテーブルに、一人当たり十に近い細々した食器が並んでいた。どれも形が花を模っていたり用途によって深さや広がりの違う、艶やかで色鮮やかな食器。それだけで、この人たちの生活への意識の高さを感じる。
「若い男性に出すには少し地味かしら」
遠慮がちに言われ、凜也は首を振る。とんでもないです、すごくおいしそうですね。そうはいったけれど、確かに食べ慣れないものが多く並んでいた。盛られた天麩羅や筑前煮など、それだけで十分なおかずがあるのに、他にも小さな小鉢や漬物などが丁寧に並んでいて驚いた。
箸を手にアサリの吸い物を飲むと、品のある出汁の味が疲れた身体に優しく響く。そら豆の炊き込みご飯や桜エビのかき揚げなど、自分ではめったに食べない和食はどれも上品なのに食べやすかった。
「池谷君、お酒はいける口かい?」
日本酒の一升瓶を片手に聞かれ、弱いとは言えずに、好きですと、口元に手を当てて応えた。白身魚の甘煮がおいしかったが、食に疎すぎて何の魚かわからなかった。お猪口に日本酒を盛られ一気に流し込むと胃に痺れる様な熱さがきたが、食欲も刺激される。
「たくさん食べてくれると作りがいがあるわ」
そう目を細められると、凜也はもう少し胃に収まればいいのにと思った。小食気味で困ったことなどあまりないが、嬉し気にあれこれ勧められるとエンゲル係数が常識の範囲内であれば「よく食べる」というセールスポイントが生じる理由が分かった。
結局、可能な限りを飲んで可能な限り食事を続けた結果、帰り際になっても胃も身体も重たかったが、勿論そんな素振りは見せずに笑顔で感謝の意を述べた。お土産にと渡されたのは、どこぞの高級な海苔だった。沢山頂いたんだけどそんなに食べるものじゃないでしょう、そう言って手渡された紙袋は海苔とは思えない重さで驚く。覗きこんで確認すれば、他にも海苔の佃煮だとか混ぜご飯の素だとか、如何にも老舗のデザインの代物がいくつも入っていた。
笑顔で見送られて外に出ると、辺りは夕焼けが鮮やかに世界を染め上げていた。知らない街だというのに夕焼けに包まれた途端に懐かしく感じるセンチメンタルは一体どこから湧いてくるのだろうか。酔いの回った足取りは妙に軽かった。厚手の紙袋を右手左手交互に持ち替えながら家まで帰った。もしかしたら自分は幸せかもしれないという感傷すらあった。
玄関の扉を開けると、レイが笑顔で自分を迎え入れた。少しスパイスの効いた野菜の香りを感じ取り、そうかもう夕食の時間かと目が回りそうだった。すぐに凜也が酔っていることを悟った彼は冷たい水を差しだしてきた。代わりにと渡した紙袋に首を傾げたり驚いたりはしていたけれど、何処に行ってきたのかを気にする素振りは見せなかった。ただ、夕食はカレーですと笑顔で言われると、凜也の胃が戸惑った。それでも、旨そうだなと返せる自分を、凜也は不誠実だとは思わなかった。