第三章
シフト勤務をしているせいで、中途半端な時間に業務を終えることもある。夕方前に仕事がひと段落した日、このまま残業して仕事を減らすことも考えたが銀行に寄る用があったのでそのまま引き上げることにした。先輩や上司に挨拶をしているとき、一人の先輩から雨が降っていると教えてもらい、机から折り畳みの傘を取り出した。
ロッカーで靴を履き替えていると、確かに窓の外が暗くなっていて、遠くから雷の音も響いている。そういえば家を出る前にアンドロイドが、夕方から雨だから傘を持って行く方がいいと進言してきた。折り畳み傘があると言って出てきてしまったが、この雨なら長傘があったほうが確かに便利だった。
小さな折り畳み傘の中で身を縮めながら駅までの道を歩く。普段はバスを利用するが、この時間だと近くの高校の下校時間とバッティングして使い勝手が悪い。ただでさえ人の出入りの多い介護施設を、こんなアクセスの悪い港沿いに建設したこと自体、何処かで人はアンドロイドを信用していなかったということだろう。
アンドロイドが所有者を手に掛けた。そんなセンセーショナルな事件が世間の話題をかっさらったのは、半年前のこと。その日、凜也は珍しく定時に職場を上がろうとしていた。そこに緊急連絡が入り、そのまま本社に招集がかかった。ニュースにはなるが外部には何も漏らすなという署名を書かされ、事態が事態だったことから、なかなか帰宅の許可が下りなかった。その間、凜也の頭にあったのは野沢と、野沢が一緒に暮らしていたアンドロイドの梨香のことだった。既に社会が受け入れ始めたアンドロイドの存在が、一転脅威に変わる。誰もが戸惑い、世間を震撼させた。国をまたいだ騒ぎは、かのアンドロイドに使われていた、今となっては製造中止になっている記憶型メモリーカードに起因させることで終幕となった。誤作動を起こすとしたTG型のアンドロイドのメモリーカードはNB型のものに全て入れ替えられ、安全性を強調。ここで問題が発生する。殺人まで起こしたアンドロイドとはいえ、そもそもが誤作動であり、メモリーカードを入れ替えたのならば刑法を免れるのではないか。実際、どんな力が働いたのかはわからないが、彼は無罪判決を勝ち取った。安全性を謳った以上、存在を消すことも、秘密裏に処理することも難しい。しかし、あくまで介護用として発明されたアンドロイドなので誰かが引き取る必要があった。そこで手をあげたのが凜也だった。
普段は見晴らしがよく、施設としてもリハビリや療養に向く景観と売りにするほどに、海が荘厳に広がって見える。特に、施設の屋上から見渡す港や行きかうクルーズ船は塞がった気分を晴らしてくれる。その代償かは知らないが、雨の日の景色は霧が立ち込め視界が淀んで世界から取り残された気分になる。雨脚がどんどん強まり、真っ直ぐ降り続ける雨が足元を濡らす感覚が広がっていく。肌寒くて、傘を持つ指先が体温を失ってのを、手を重ねて凌ぐ。すれ違う人と傘を傾け合いながら道を譲り合うと、正しく取られている距離の遠さを身をもって感じた。
ちょっとした孤独感なら感傷的だけれど、本当にこのまま取り残される気がする患者がパニックを起こすこともある、と昔野沢から聞いた。静かな病室から曇天を映す海を眺めていたら、確かに心細くもなるだろう。いつかの自分だって、ぼろいアパートの一室で塞がっていく世界を眺め、二度と母親は帰ってこないと観念したこともあった。いつからだろう、誰にも心を預けないままに過ごす日々こそが自分にとって正常だと思うようになったのは。諦めたと言えば説得力があるし、そうと決め込んだと言っても嘘ではない。でも、どちらも齟齬がある。いずれにせよ、凜也にとって家族というものは地平線の様に眺めるものになった。穏やかにムーンリバーをおこすこともあれば、波が波を荒立てる日もある。観光客気分だから、良いも悪いもよく見える。どっちを見ても、心は動かない。
電車はまだ空いていた。納期に間に合わないと急いでいたせいで昼ご飯を抜いたので、空腹感で胃が痛んできた。夕食は何だろうと、彼を疎ましがりながら与えられるものを甘受しようとするさもしさを自覚し、凜也は窓の外を眺めた。雨が当たる度に水滴を残し、流れ落ちた水滴が別の水滴と交じり合って同じように雨粒になって流されていく。雨の軌道を眺めることなどできないのに、息を止めて見つめる雨空には孤独の空間がある気がした。雨と雨の隙間に入り込めば、世界がふっと閉じていくのだろう。
駅前の郵便局で入金をすませ、凜也は先ほどより強まった雨の中歩いて家に帰った。さっきまで真っ直ぐ降っていた雨が横殴りになると傘など大した役にも立たず、足元と言わずかばんもコートも重たくなるほどに濡れた。大きな雨粒が傘の柄を持つ手を濡らし、風が吹いた時にはまつ毛すら雨粒を受けた。ずぶ濡れで家に帰ると、出迎えたアンドロイドは驚いた様子も見せずに洗面台からタオルを持ってきて、凜也が髪やコートを拭いている間にかばんや濡れた床を片し、靴に新聞紙を詰めて水分を飛ばしていた。
「お風呂、もうすぐ湧きますよ」
スーツをハンガーにかけていると、彼が温かいミルクティーを差し出してきた。濡れてセットの崩れた髪が額に張り付くのを指先で整えてから受け取って一口飲むと、絶妙に飲みやすい温度で舌先にミルクの優しさと共に砂糖とは違った甘さがあった。
「これ、何入れたの?」
もう一口飲むと、やはり馴染む甘さがあった。
「金平糖です。通常の砂糖より、滑らかで優しい甘さがありませんか?」
「よくわかんないけど、旨い」
飲み干すと、確かに溶け切れなかったらしい小さな金平糖の欠片が残っていた。
「お前さ、名前、どうする?」
引き取ったあの日から、凜也はずっと悩んでいた。彼の名前が決まっていない。家族として迎え入れた以上、名前がないのは何かと不便ではあった。
「凜也さんが決めてください」
フライパンを洗いながら、なんてことの無い様に返される。わかってはいたが、この返答が一番困ってしまう。無責任なだけならばいいけれど、自分にすら無関心は見ていて辛いものがあった。
「本当に、昔の記憶無いの?」
背中に近づき、尋ねる。冷えていた足が少し痺れて、感覚が遠くにあった。
「呼んで欲しい名前とかないの?」
凜也は、別に自分の名前に対して思いなどない。思いがなさ過ぎて、名前を変えることへの抵抗もない。自分の名が刻まれた存在もいなければ、それに付随する幸せもまた、自分にはない。でも、彼にはあったはずだった。
「凜也さんが呼んでくださるのであれば、何でも嬉しいです」
この従順が感じがそうするしかなかった昔の自分と重なって、堪らない。人に気に入られようと、理不尽でも身勝手でも隣に居ようとする必死さを、凜也はもう、するのも見るのも嫌だった。
悪い記憶を振り払うように頭を振り、レイにすると宣言した。
「礼儀正しいから、レイ。いいな?」
もちろんですと返す背中にため息をこぼす。彼を求め家に連れ帰ったというのに、現実は余りに殺伐としている。尽くされているのに物足りなさばかりが募って、力を抜くと絶望感が襲ってくる。
「風呂入るわ」
どうぞと言った彼の手にマグカップを渡して、凜也は風呂の扉を開けた。ラベンダーの香りの入浴剤が風呂場を満たし、人工的だけれど疲れが抜けていく。少しぬるめの温度が居心地よく、凜也はそこでうっかりニ十分ほど居眠りをし、遠慮がちなアンドロイドに起こされた。
そのせいかどうかはわからないが、その日の夜、凜也は夜中に突然目が覚めた。お手洗いに行きたいとか喉が渇いたとか悪夢にうなされたとかもなく、ただただ目が覚めた。そして、寝付けなくなった。
初めの頃はそれでもどうにか寝ようと寝返りを打ったり目を閉じてじっと息を止めてみたり、馬鹿馬鹿しいが数を数えてみたりしたが、一向に眠気が来ない。最終的に諦めて、ベッドから身を乗り出し、その下で静かに眠るアンドロイドの顔を見下ろす。暗くてよく見えないけれど、穏やかな寝息が聞こえる。地下室に囚人かのごとく閉じ込められていた姿から考えれば、こんな日々ですらきっと幸せであってほしいと願う。メモリーカードを抜きだされた彼はあのときの記憶など一切ないけれど、凜也はだからこそ忘れない。今の穏やかさからは想像できない、張り詰めた表情。何を聞かれても一切答えず、ただ一点、まっすぐ前だけを見据えていた。きっと彼は、留置所でも地下室でも、あの表情を貫いて一切の邪念を撥ねつけていたのだろう。己のしたことの意味も己の立場も理解したうえで、何の感情も読み取らせない表情をしていた。なまじ顔が整っている分だけ迫力があったけれど、一寸の隙間だけ溢れた哀愁が、より一層彼の容姿の良さを引き立てた。
凜也はそっとベッドを抜け出し、絶対に触るなと忠告した戸棚に通帳を仕舞った。隣には病院系のカード、税金関係の書類。その隙間に隠した手紙。電気を落とした部屋でそれを握りしめ、苦しみが立てた荒波に耐える。時々引き起こる荒々しい波風に、だけど耐えれば過ぎていく。決して救われようと手を伸ばしてはダメだ。
彼から預かった真実を、凜也は自分一人で抱えて生きていくと決めた。たとえ本人であっても、知らせるわけにはいかない。今隣で眠っているアンドロイドは凜也と暮らすアンドロイドであって、あの鋭く美しい目をした彼は、凜也の記憶の中で生きていればいい。窓の向こうではまだ、雨は降り止まない。カーテン越しに窓に耳をそばだて、雨が屋根に当たる音、ベランダの手すりを穿つ音を聞きながら、凜也は眠気が訪れるのを静かに待った。窓はカーテン越しに冷たさを運んできて、裸足の足元や無防備な首筋を冷やし、凜也に残っていた微かな感覚を奪い去っていった。