第二章
帰りの電車はすでにピークを過ぎており、立っていることが不自然な程だった。いつもなら本や携帯電話を手に取るところだが、今日はそんな気にもならない。身体中の筋肉が張っているんじゃないかと思う程の疲れで怠かった。誘われるように目を閉じれば、終点まで寝てしまいそうだ。最寄り駅で何とか立ち上がってホームに出ると、柵越しに見える桜が満開とはいかないまでも綺麗に咲いていた。今年の桜は散々だろう。咲いたと思えば忘れ咲きの様に降らされた季節外れの雪に、細い枝は枝垂れていた。水分の多いぼた雪が嘲笑うように咲き誇った花びらを滑り落ちるのを見て、十年ぶりの同居人は、可哀想ですねと言った。随分と感情のない声だと思いながら、そうだなと返した自分もまた、感情が湧かない声をしていた。可哀そうだと思うと同時に、何処かでその美しさを眺めていた。
今日の会議は散々だった。先月から自社の製品であるアンドロイドの使用が再開となった。通常のオフィスをはじめ、医療現場、工場、学校関係、エンタメ、介護現場。様々な業界でアンドロイドは欠かせない存在になった現在、規制の緩和は誰もが待ちわびたことだっただろう。生育用のアンドロイドも各家庭に帰ることが許され、大々的に取り上げたニュースでは見る人の涙を誘う編集がなされていた。
今日の会議はその成果についてと、今後の対策についてだった。なんてことない平社員の凜也が場違いにもそこに呼ばれたのは、裁判で言う重要参考人のポジションとしてだ。凜也は端っこの方で欠伸をかみ殺しながら会議を聞いた。話になぞ当然入っていけるわけでもなく、どっちみち彼らは凜也の意見など求めてはいない。彼らは、凜也にプレッシャーをかけているのだ。絶対に彼を、事件に巻き込むな、と。この場合事件を起こさせるな、かもしれない。いずれにせよ、重役が集まるこの会議で、凜也は権力の正しい使い方を見た気がした。権力があることが正義で、無いからには従えとでも言いたげな瞳に、何もわかっていないと思った。もしも凜也が裏切りを起こしたなら、相打ちだ。失うものの多さをよく考えてから圧力をかけて欲しい。凜也には失って怖いものなどない。
蛍光灯がぽつぽつ照らす薄暗い帰路。閑散とした街は学生が多いせいか、温かさとは別の騒がしさに包まれることも多く、それがなんとなく治安の悪さを感じさせる。実際は人畜無害の学生ばかりなのだからと思っても、一軒家や豪奢なマンションの並ぶ住宅地に比べると、安っぽいアパートの点在している郊外が行き届いていないように感じても、無理はないだろう。二階建てのアパート上階の部屋に上がるとき、スチール階段に革靴がカンカンと安っぽい音を立てる。この音、家にいても響くんだよなと考えながら鍵を捜していると、部屋の扉が開いた。
「お帰りなさい」
凜也の目を見て真っ直ぐ言った相手に、うんとだけ返す。今彼と目を合わすのはつらい。今に限らず、凜也は優しいこの瞳にずっと戸惑っている。
「寒い、入れて」
狭い玄関に二人は入れない。相手の偉丈夫を押し込むように身体を入れると、まず出汁の匂いがした。
「ご飯あるの?」
「はい」
靴を脱いで、彼の隣をすり抜ける様にリビングに移動する。横目で見た廊下横のキッチン。コンロに並んだ鍋とかフライパンに、生活感を感じる。あまり見たことのない光景だから、横目で見るだけで背筋がすっと伸びた。
スーツを脱いでハンガーにかける横で、彼が食事の準備を始める。当たり前の様に二人分の食事が、この狭い十畳一間に準備されるとに未だになれない。彼が家に来てから、既に二週間が過ぎた。
シャツはそのままに、スーツをジャージに履き替えてローテーブルに座っていると、食事を準備していたアンドロイドに、飲み物は何がいいかと聞かれた。見てるだけで健康に成れそうな彩り豊かな夕食を見て、ウーロン茶と答える。グラスに注がれたウーロン茶はまだ冷えていて、口を付けると身体がひんやりとした。
テレビをつけ、食事を始めた。肉じゃが、味噌汁、ご飯。野菜のグリル焼きと漬物。完璧な食事の並びに、どれから箸をつけるべきか悩む。凜也は独り暮らしが長く、食事と言えば一皿に何かしらを盛れば終わりというメニューばかりだったし、何ならそれすらマシな部類だった。お菓子で食事を済ますことへの罪悪感など、一度たりとも持ったことはない。
「どうですか?お嫌いなものは?」
アンドロイドは妙に淡々とした口調で尋ねてきた。例えば、もう少し緊張感のある表情だったりこちらを窺うような表情だったら。そこまで思ってから、彼から激情を奪ったのは自分たち自身じゃないかと気が付く。
「大丈夫。うまいよ」
嘘じゃない、だけど、こんな、業務的な会話をしようと思って彼を家に呼んだわけじゃない。先走る感情と当然そう簡単には埋まらない溝に、凜也は内心焦りと不安で日々苦痛だった。
「そうですか。何かあったら、仰ってください」
丁寧な口調でそう言うと、アンドロイドは自分の食事に戻る。正座して、箸の持ち方もきれいで、背筋もしっかり伸ばして、彼は教科書の様に綺麗に食事をする。食事に限らず全てが美しいけれど、何とも近寄りがたい。初期設定とはこういう事か。凜也はテレビの音量を上げ、面白くもないバラエティに起こるわざとらしい笑いに、沈黙の全てを預けた。
アンドロイドを譲り受けた。この場合、譲るという言葉は現実を美化している。いくら誰かが引き取らなければいけない状況だったからといって、訳あり商品のように扱われた彼に凜也は心を痛めていた。いくら無罪を勝ち取ったところで、一度はお縄に掛かったアンドロイドを道に放り出すわけにもいかず、だからと言って経過観察を引き受ける人もいなかった。完全に持て余し、このままだと社内に住まわす、なんて無茶苦茶な案すら出てきたくらいだ。引き取り先を探しているという社報を見たとき、凜也は初め様子見をしていた。本来なら何百万もするアンドロイド。生活介助用に造られた家事を完璧にこなす偉丈夫のアンドロイドなら引き取り先は多くあるかと考えていたが、どうも凜也の楽観視だったようだ。
「そりゃ、家庭がある人から考えれば、あんな若くてイケメンなアンドロイド、引き取り手はないよ」
そう冷静に切り返してきた友人を、凜也は見下ろす。昼休みが終わる直前、喫煙所で一服していたところに、友人が突撃してきた。正直なところやっと一人になれたと安堵していたところだったので幸せの絶頂にある友人の会話に付き合う気にはならなかったものの、気分の浮き沈みに正直な友人がこちらに気を遣いながら近寄ってきた姿に、失いかけていた日常を思い出した。
「独身の人だって、いざ結婚ってなったらやっぱり悩みの種になるでしょ」
凜也はタバコの端を噛んで、考える。確かに、結婚とか家族などを頭の隅で考えるとき、彼はなんとも居場所がない。凜也にとっては大変優秀な家政婦だが、人生設計において凜也のそれがあまりに異端であることは計算にいれていなかった。生き方の選択肢なんて結婚以外にも広がりつつあると言えど、人は何処かに家族というつながりを求めていることを痛感した。
「要するに、可愛いお嬢ちゃんだったら結婚の邪魔にはなんない、むしろキューピッドでしたって解釈でいい?」
凜也の言葉に、野沢は目を細めてため息をついた。
「なに、嫌味?」
「まさか」
嫌味なわけがない。この、お節介な友人が持ち前のお人好しで少女のアンドロイドを引き取り、なんやかんやありながら同僚と結婚したなんてめでたい話、嫌味も嫉妬もする気にもならない。
「もしもさ、梨香を引き取っていなくて、あのアンドロイドを引き取るかどうかの選択肢を持っていたら、お前ならどうしてた?」
意味のない質問、という熟語が頭を通り過ぎていく。
「仮定の話でいいんだよな?」
凜也は頷いた。仮定の話だから意味がない訳じゃない。
「俺も引き取っただろうね」
答えを知っているからだった。
「梨香のことを初めは行政に渡そうとしたこと、今でも思い出して苦い気分になる。なんで、問題があるわけでもないのに迎え入れようとしなかったんだろって」
「問題ならたくさんあっただろ。煩雑な手続き、生活サイクルは狂う、金はかかる、他人だった人と家族にならないといけない。そんな簡単なことじゃないだろ」
野沢は顔を天に向けて唸った。答えを探しているような悩まし気な横顔に、言葉を挟まずに待った。
「なんて言うんだろ。それらのことってさ全部保守的じゃん。別に保守だって悪い事じゃないよ。今ある幸せを守りたいって気持ちはね。でも、現状に満足してないくせに保守的になるのって、都合がよすぎるんだよ」
想像よりもはるかに鋭い言葉が突き刺さり、凜也は頷いた。反論も、調子合せの同意もしかねた。
「梨香が来てから、そう思うことが増えた。多分、何かを得るのに何かを犠牲にするのって当たり前で、守りに入っていても幸せは増えないんだよ。今時、銀行に金預けていても利子なんてほとんどつかないじゃん。だったらその金で経験を積んだり、自分自身に投資した方が身になる。俺は梨香がいてくれてよかったし、梨香にとってもこれが一番の選択肢であってほしいって願ってるし、そのために出来ることをしていこうって思う。そうやって払う犠牲には、文句はないよ」
負けたなと、凜也は歯をかみ合わせた。唇に当たったタバコがどんどん湿るのが分かる。
野沢は親の顔になった。そして、その、健全な感性が凜也の痛い部分を刺す。
空気の悪い中で息を吸い込む時、子供の時に隠れていたずらした時の様な、背徳感と優越感が入り混じった気分になる。タバコは敢えて手放さない趣味だが、深い意味はなかった。大学時代の悪友に勧められて始めたのだが、自分がこの世界から切り離される感覚が癖になった。自分に媚びてきた女が喫煙者とわかった途端見え透いた愛想笑いを向けてこなくなったり、喫煙所にいる自分を冷めた目で見る大人の目線に、凜也は自分という人間が明確に拒否される現実が見えて丁度いいと思った。人に嫌われたいと思うわけではないが、人の懐に入り込むのは苦手だった。
野沢は喫煙室の壁に寄り掛かり、じっと凜也を見てきた。その意味を目で問うと、彼は無邪気な雰囲気で笑った。以前より血色よくて、落ち着いた笑顔をするようになった。
「池谷が元気そうでよかった。いきなりあのアンドロイドを引き取るって言ったときは、何を考えてるんだろうって正直思ったし、梨香のことが引っかかってるんだったら申し訳ないなって思ってたんだけど」
「思い上がりだったな。俺はそこまでお人好しはしない、お前と違ってな」
「池谷さ、お人好しって良い言葉じゃないからな」
野沢はため息交じりにそう言って、首を回した。
「俺は一回でいいから、池谷の必死な姿って見てみたいんだよね」
「なにそれ」
「お前って、透かしてる気障やろうって感じがどうしてもするんだよな」
「言うに事欠いてそれ?貶しすぎじゃない」
「真剣な姿は見てきた。真面目な姿も見てきた。お前は悪い奴じゃない。でも、お前から必死さを感じたことがないんだよな」
そう言われると、なんとなく言い返せなかった。必死になるには、凜也には守るものがない。それは当然気楽で自由だが、無性にわびしくなることがある。俺は何のために生きている?
「で、実際、どうなの?」
「なにが?」
「あのアンドロイド」
「どうって。家事は完璧。家に帰ったら飯があって、洗濯も掃除も終わってて、昨日なんて布団が干されてシーツが変えてあった」
その布団を敷いたベッドで眠った自分と、床に敷いた布団で眠るアンドロイド。夜中に目が覚めたとき、静かに眠りこんだアンドロイドをみて凜也は混乱した。人が傍にいる喜びと人が傍にいる不安が、同時に首を絞めつけてくるようだった。
「ハウスキーパーとしては完璧なんだけどね」
「何か問題でも?」
野沢は眠たげに目の下をこする。
「いや、別に」
一緒にいて息がつまる。そう言うのを、凜也は憚られた。同じような境遇を経験した野沢だが、彼は七歳の少女を情で引き取ったのだ。成人した男の、それも自分より上背のある男のアンドロイドをハウスキーパー代わりに家に連れ帰った自分とは、あまりに立場が違うように思えた。
凜也はため息を煙と共に飲み込み、吸いかけのタバコを灰皿に落とした。
「ところで、水原さんはどうなの?」
互いに持ち場に戻ろうと喫煙室の扉を引くと、爽やかな春風が強く吹いた。春一番とかいうやつか。とっさに目を閉じるが、風自体は温かくシャツの襟をばたつかせた。
「それなりに苦労はあるみたい。やっぱ、やり直すって大変なことだよね」
しみじみと、それでいて柔らかい口調だった。心配を見せないことで信頼を強調しようとする彼なりの気遣いが見え、それでも彼の唇の端に残された笑みが、本当の信頼感なのだろう。
野沢が結婚した相手である水原は彼の元同僚で、凜也もよく知る人物だ。元々は小学校の教員をしており、一度退職したのちに野沢と同じアンドロイドの管理として働いていたが、この春から教員に復帰したという。
「でも、なんだかんだ笑顔が増えたし、頑張ってると思う。無理さえしなきゃいいよ」
その笑顔を作ったのは、彼と、彼の少女だろう。
「今度、遊びにこいよ」
別れ際、そんなことを言われた。嫌とは言えず、頷いた。憂鬱な気分が両肩にもたれている感覚が抜けないままに作業場に戻り、なんでこうなっているのだろうと頭を抱えたい気分だった。勢い付けてスイッチを入れたパソコンは既に起動しており、シャットダウンしてしまっていたことに気付いたのは大分後になってからだった。