第一章
港区の一等地。首が痛く息苦しくなる程に高いビルを見上げる。ここには当分こないで済むと思っていたのに、数日で逆戻りだ。出向という形でグループ会社の駐在員として、二年近く介護施設に出勤している。出向という響きの悪さに始め、同じように転勤を命じられた同期や先輩らと共に戦慄を覚えたものだが、アンドロイドを主軸にした施設の実験に信頼ある者が必要だ、左遷ではないと説得され結局大企業の手足に過ぎない現実を受け入れて全国各地に散らばった。その中で言えば、凜也は運がいい方だった。本社まで電車で小一時間かければ十分通える範囲の移動で、最も家族がある者は移転が厳しくなるのだから、身軽な独り身である自分こそ北の端やら本州の最南端にでも行くべきだったように感じる。実際、とある事件があってから数か月間本社に出戻りしていたが、その間久々に顔を合わせた先輩らから、田舎暮らしの苦労話はいくつも聞いた。主に、子供の習い事が身近で無くなったことや学校までの道のりが二倍にも三倍にもなったのに人通りなく不安だという切実な話、奥さんが突然田舎に連れて行かれて空気感に馴染めず夫婦喧嘩が増えた話など、それまで都内に住んでいた人間には厳しい現状は大抵家庭内に表出するらしい。居酒屋で繰り広げられた半ば強引な同期会の席で、酒がほとんど飲めない凜也は最初の一杯を舐めながら、止まらないどころか同調でヒートアップする愚痴を聞いていた。それでも、怒涛の数か月が過ぎると、世間も自分たちもすっかり元通り、一時の邂逅の後またそれぞれの新天地へと戻っていった、はずだった。凜也だけが例外だったようだ。
太陽を隠すように高いビルに春の温かな日差しは遮られ、薄手のコートの下が薄っすら寒い。凜也はコートの上から腕をさすってみるが、さらっとした綿生地は寒さへの対応力が薄く、風通しが良すぎる気がした。ビル風に背中を押される様に自動ドアを潜り抜けると、途端に棘のある風が無くなって空気感が淀む。一直線にエレベーターに向かっている人の合間を縫って歩いていると、自分という人間が如何に他人に意識されていないかを感じた。皆の半分ほどのスピード感で受付に向かっていると、受付で暇そうに目を伏せていた田中はすぐに見つけられた。凜也はほっとして彼女を見つめていると、視線に気づいた田中が顔をあげて驚いたように大きな目を見開いて口角だけで笑った。澄ました顔立ちの美人のせいか、そうすると厭世的な雰囲気を帯びる。
「田中さん。もうちょっと愛想のいい顔しなさい。美人台無しだよ」
受付のカウンターに寄り掛かって声をかける。カウンターの大理石が冷たく、コートやジャケット越しにも鋭く肌の熱を奪う。
「私、女は愛嬌なんだからって言葉嫌いなんですけど」
細い顎に手を当て、彼女は下からのぞき込むように、挑戦的な目線を寄越す。
「誰もそんなこと言ってないでしょ。美人なんだから、澄ましてると取っつき難いって言ってんの」
「池谷さんも、真顔超怖いですよ。目つき悪すぎません?」
「容赦ないね」
アイラインで詐欺としか思えないほど目を大きく見せる彼女のメイクをみながら、凜也は笑う。凜也は母親譲りでかなり切れ長の目をしている上に学生時代は人間不信と敵愾心で人を寄せ付けず笑顔もほとんどなかったので、目つきが悪いという陰口は言われ慣れていた。
「せめて、女性から連絡先を聞かれたり飲みに誘われたときくらい、優しい笑顔の一つくらい向けたらどうですか?」
彼女はそう言いながらも、全くそうする必要性を感じさせない年上の様な目つきでこちらを見上げる。実際は入社三年目の彼女は、凜也よりはるかに年下だ。
「田中さんは聞いてくれないの?」
凜也は田中を人として好んでいたし、彼女が受付で大いに助かっている。開発部の男はそれだけで女性社員から圧倒的な人気を得ており、開発部を捕まえると勝ち組になれるという嘘だか本当だが知らない噂があることを知らないほど、情報に疎いわけではない。
「池谷さんは深く関わるには、ちょっと闇が深そうで怖いですよね。なんていうか、いつも目が笑ってないし、そのくせいい人オーラ出すから、うさん臭くて」
「前から思ってたけど、人を見る目あるよね」
手ひどく貶されたが、あまりに的を射ているので感心してしまう。
「ちょっと生育環境が特殊だったもので、人の裏の裏を見ようとする癖が付いちゃったんですよね」
田中は眉にしわを寄せ、如何にもその癖から距離を取る様に顔を歪めた。
「だから、愛想もなければ可愛げもないんだね」
「警備会社呼びますよ?」
整った片眉を持ち上げて凄まれたので、凜也は肩をすくめて見せる。生育関係がもたらす影響をどうのこうの語る人間がいれば、それを無暗に一刀両断する輩もいる。どちらも正しいかもしれないし、どちらも独りよがりかもしれない。ただ、それを指標に生きている人間がいるということだけは事実だ。
「それで、今日はどういったご用件で?」
口調を親しき者に向けるものから受付嬢のものにかえた彼女は、意識された高い声で言った。
「あぁ。午前中にさ、重役会議あるでしょ?それに呼び出されているから、会議室の番号を教えて欲しくて」
凜也が言うと、彼女はすっと目を細め、何かを言いたげに凜也を見つめたが、直ぐにわかりましたと顔を伏せてパソコンに向き合った。おそらくこの、空気の読み方と良識の抑え方が凜也に馴染むのだろう。
結局、教えてもらった部屋は通常の会議ではとても使われない、上層階の会議室だった。入室用のコード表を貰い、ロビーで時間をつぶすことにした。かじかむ指先を自動販売機で買ったコーヒーの紙カップで温めていると、手の乾燥が気になった。寒さにも暑さにも、なんとなくの苦手意識がある。それを言うと、職場の友人である野沢はわがままな奴と笑うけれど、あいつは知らない。十畳一間のボロアパートの寒さも、暑さも。彼も彼なりの苦労をしていたけれど、金に困ったことはないし、なんだかんだと愛情には飢えていなかった。根本が違うんだよなと、胸ポケットに入れっぱなしだったシガレットケースをいじる。グループ会社の友人であり、凜也のところのOBの息子。彼が恵まれたものを、凜也は時に俯瞰してしまうのはそれこそ生育環境の影響だろう。同じような奴だと勝手な類似性を捜していたのはいつの日か、今や彼は家族を得て、すっかり親の顔をしている。父親を亡くしてから憔悴しきっていた彼に笑顔が増えたことを考えれば友人としては喜ばしい反面、結局、置いて行かれた。勝手に出し抜かれた気分になる自分を持て余し、最近そんなことばかり考えている。幸福というチケットをそもそも持っている人間と、持っていない人間。そのチケットは金で買えるだろうかと考えてみるけれど、叶うのならば自分の幸せは何だろうといつもそこで空想が途切れてしまう。
豪奢なロビーの椅子に深く座り込んでいた背中に声がかかった。
「池谷」
振り返ると同時に、髪を手が伸びてきた。
「染め直したのか?」
先輩である岡田の言葉に、はいと返す。素っ気ない声が出た。岡田は新人の頃大変世話になった。自覚するほど生意気な凜也を何かと気にかけてくれた人のいい先輩で、それ以降も何かと手を貸してくれている。出向していた時期は当然疎遠になっていたが、この半年程本社に出向いていた間も、目をかけてくれていた。
岡田は凜也の隣に腰を掛け、
「お前は顔がいいから、どんな髪色も似合って得だよな」
この半年、本社に通うことを考えて黒髪にしていたのを、週末にほとんど黒に近い茶色に染めた。地毛だと言い張ればおそらくそう見えなくもない程度の、暗いが日に透けると透明感の生まれる色だった。学生時代は金色だの赤メッシュだのとやんちゃなことも散々し、理系でそこまで派手な奴はいないと初老の教授を唖然とさせたこともある。特別思い入れがあって奇抜な髪色にしておきたいわけではないが、凜也は自分の地毛の黒さが嫌いだった。黒いから嫌いというわけではなく、生まれ持ってしまった、他人とよく似た髪色に問題があった。
目にかかった前髪を僅かに払うと、明るい蛍光灯の光が目に沁みた。
「予定程明るくはできなかったんですけど。出向してからわざわざ近くのアパートに越したのに、こんなに本社通いが続くとは思ってなかったですよ」
わざと気を引くような口調で訴えると、岡田は呆れたように笑った。
「そもそも、それがすごいんだって。お前は運よく通える距離への出向だったのに、なんで本体が本社から遠ざかってんだ。お前、本社に戻りたくねーの?」
「出世したうえでの本社戻りならいいですけど、そうじゃないなら、出向先の方が気楽ですね」
満員電車も此処の比じゃないし、休み時間も自由ですよ、あと人がいいんですよね、ぎらぎらしてなくて。変な女も寄ってこないし。
べらべらと喋っているのを聞いていた岡田が、最後の言葉に表情を動かした。
「お前は相変わらず、女嫌いだな」
婚約指輪を光らせながら笑う横顔に、きっと伝わらないと決めつけながら言葉の端に込めた思いを捨てる。わかってくれだなんて、今更思わないと決めていた。女嫌いという言葉はひどく使い勝手がいい。凜也は何もこの世にいる全ての女性を毛嫌いしているわけではなく、相手を信頼していなくとも友人でいることもいい後輩でいることも簡単だけれど、女性とある一定の距離を超えた瞬間に発生する将来的な責任に対して否定的なだけだった。
「大企業の女なんて、目つきが悪くて怖くないすか?俺の予定聞き出そうとしたり、無意味な飲み会に誘ってきたりするのを止めて欲しい。狩猟本能が強すぎる」
「総務部なんか行けば、上品な子もそこそこいるけどな」
岡田は総務部の女性と社内婚をした。そうと知っていて相手の女性に当てはまる性質を貶す凜也も失礼だし、凜也の内側に潜めた頑なな部分を知りながら己の幸せをちらつかせる岡田も岡田だ。
「大抵コネ入社で、つかえないから総務なんかに回されたお嬢ちゃんに、俺は興味ないです」
自分でも意地が悪いなと思っていたら、傍に座っていた同年代の真面目そう社員にもぎょっとした顔をされる。名前も知らない相手に、おそらくあいつもコネだなと勝手に思い込むことで受け流す。
「言いたいことはわからないでもないけど、家族ってのは悪くない」
入社当時から、岡田はずっと言っている。凜也はこれは不思議な話だが、彼のその言葉を紙一枚分も信じていないけれど、それとは別の次元で彼の言葉に嘘はないと思っていた。
「でも、お前もついに、家族を手に入れたようなもんじゃないか」
凜也は返す言葉もなく、小さく頷いた。繰り返す度に、それが嘘を隠す行為だと自分が知っていく。なぜ彼は、凜也を取り巻く現実を自分の身に置き換え、それを幸せと遠回しに告げるのだろう。
「どうだ?あのイケメンは?」
「どうもこうも、説明書通りですよ」
目が合うと、先輩が労うような笑顔を見せてきた。その裏の感情は、全く読めなかった。