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回想-ベア・モーリッツ(1)






「はあっ、…っ…」

 息をする度に喉が焼けるような痛みが走る。寒さも相まって息は白く染まり、肺は潰れたように役割を果たさない。


 足の傷はそう大したものではない。靭帯を損傷か断裂した程度で、皮膚が抉れて骨が見えているだけ。

 来た道を振り返ると多量の血痕が足跡を作っていた。

 

 その視界がやがてグワングワンと大きく揺れる。先ほどから意識も朦朧としていた。


 再び前を向いて進もうとすると、足元の血溜まりに足を滑らせる。

「っ!」


 ズルッと足元から滑り落ち、頭から地面に打ち付けた。地面に触れた箇所がひんやりとして気持ち良い。起きあがろうと地面を手で押すと、こんなに冷たいのかとビックリするほどだった。




「…っあの、」

 そこで不意に声を掛けられ、体は臨戦体制を取っていた。剣に手を掛けると、彼女は肩を震わせて一歩後ずさる。


「っ!?」

 女…?


 胸に果物を抱えた女が、ベアをぎょっとして見つめていた。

「だ、大丈夫ですか…?」


 その声は体と同様震えていた。足元血塗れの男に声を掛ける女の方が不思議だが、彼女はベアを見捨てようとはしなかった。


「…怪我を…?」


 月明かりが彼女を照らし出す。ダークチェリーのように濃い紫色の髪、陶器のように白い肌、驚いて大きくなった目、瑞々しいぽってりとした唇。それらを隠すように厚手の外套に覆われていた。




「…貴様…誰……だ……」


 そこでベアの意識は途絶えた。

 





 再び目が覚めた時、そこは温かな室内だった。暖炉に火をくべり、ご丁寧に毛布まで掛けられている。そばに置かれた小皿からは薬草の香りが漂っていた。


「…ここは…」

「私の家です」


 その声の主を振り返る。最後の瞬間に見た彼女だった。

「っ…」

 起きあがろうと足に力を入れると激痛が走り、全身には気怠さを感じた。


「まだ起き上がらない方がいいですよ。貴方、酷い怪我でしたから。全身に毒が回って、解毒しなかったら今頃…」

 彼女はそこで口を噤んだ。


「……温かいスープです。飲んでください」

 ベッドサイドの椅子に腰掛けた彼女は、スプーンで一口掬ったスープにふうふうと息を吹きかける。

 仲間の騎士たちから聞いた、親切な介抱の仕草だった。


「あーん」

 差し出されたスプーンを、ベアはじっと見つめた。

 こんな風に誰かに看病を受ける日が来るとは。それもまさか、初対面の素性も知れない女なんて。



「…知らない人間が作ったものを易々と飲めると思うか?」

「…食べないと元気になれないですよ。毒なんて入っていません」


 そもそも、俺は今任務の途中だ。別に業務内だから寄り道をしてはいけないなどと言うような生真面目な人間ではないが、任務で殺すべき皇族を殺せず、逆に護衛に返り討ちに遭い逃げていたのだから、悠長に休んでいては見つかってしまうかもしれない。

 そんなことになれば、今度は我が身が危うい。



 そう分かっていながら、体はなかなか動こうとしなかった。

 久々の温かい室内と、ふかふかとはいえないが包み込むような毛布の感覚、湯気が昇るスープ。



 捨て子だったベアには家族はおろか身寄りもおらず、園長が援助金を横領している孤児院で邪険に扱われながら育った。

 騎士になってからまともな移住食に辿り着くことができ、とある伯爵が後の更なる成長を見込んで養子にしてくれたが、それでも本当の家族のように歓迎されることはなかった。戸籍を与えられ後ろ盾を得ただけで、こんな待遇を受けたことはなかった。



 寒さには慣れているはずなのに、このぬるま湯に浸っていたいと思ってしまう。


「毒で体が弱っている上に出血が多すぎました」

「詳しいんだな」

「父“も”騎士なので…」

 父も、ということは、俺が騎士である事にも気付いていたのか。…剣を帯所しているからか。



 ふと思い立ち懐の剣を確認する。当然寝ているため剣はなく、しかしベッドサイドに立て掛けられていた。服も父親のものらしき質素だが小綺麗な服に変わっている。

 

「私はレイラです。貴方は?」

「…ベアだ」

 しかしこれほど素直に名乗り、安易に家に男を上げるとは、騎士である父親は娘の教育をまともに施してないのか。


 レイラはベアににこりと微笑みかける。

 「ベア、あーん」

 無防備すぎる…。

 

「いや…」

「いいから」

 半ば強引にスプーンが迫り、ベアは躊躇いながら口を開く。


「お口に合いますか?」

「…ああ」

 口の中に味気あるスープの香りが広がり、その温かさは心まで溶かしてしまいそうだった。


「もう一口どうぞ」


 されるがままだ。

 しかしベアは逆らう気も起こらず、素直に口を開ける。


「ふふっ、鳥の雛みたい」

「一緒にするな」

 そう言いながらも、スープを差し出されると素直に口を開いてしまう。



 人の温もりとは、これほど温かいものだったのか。

 一度知ってしまうと、縋ってでも求めてしまいそうだった。





「嬉しい!全部飲んでくれるなんて」

 結局、ベアはスープを完食した。


「…上手かった」

「ありがとうございます!父もこのスープだけは褒めてくれるんです」

「父親はどこにいる?任務に出払っているのか?」


 突然レイラの動きが止まる。

 お皿をトレーに乗せている最中で、俯き加減のその顔は胸までの髪に隠され、ベアにはよく見えなかった。



「…2年前に任務に出たまま、行方知れずなんです」



 その一言で、ベアは悟った。




 父親は、もう死んでいる。




 騎士として数年勤務し、かつて同期として配属を受けた者たちも一人、また一人と消えていった。

 長年騎士として勤めたベテランでさえ、些細な不注意であっさりと命を落とす世界だ。


 

「…だから私は、この家でずっと父を、

───…待っているんです」



 まだ、生きていると信じていたいんだろう。

 母親の話が一切なく、レイラが食事を作っているとなれば、彼女の家族と呼べる人物は父親だけ。



 

「……そうだったか」


 彼女は俺に父の姿を重ねたんだ。


 剣を携えた大の大人を担いでここまで連れてくるのは容易ではなかったはず。手当をしたのか血は止まっているようだし、服を着替えさせ、食事まで与えている。

 

 それらは全て、血だらけで寒い中朽ち果てそうな、父と同じ“騎士”を見捨てられなかったからだ。





「…お風呂はまだ入れないですよね。

濡れたタオル持ってくるので、ちょっと待っててください」


 そう言ってレイラが立ち上がろうとすると、ぐらりと揺れてバランスが崩れる。

 ガシャン!と音を立てて食器が散らばった。



「いっ…」

 どこかにぶつけたわけでもないのに、レイラは突然膝を押さえて丸くなった。

「おいっ…」

 慌ててベアがベッドから起き上がろうとすると「大丈夫だから」とレイラは無理に微笑んで見せる。



「痛めたのか?」

「いえ、ちょっとぶつけただけで…」

「………ぶつけてなかっただろ」


 レイラの服を膝まで捲ると、両膝を大きなガーゼが隠され、そこからはみ出た擦り傷が痛々しかった。



「…これ……」

 新しい傷跡だった。

「どうしたんだ」

「……道で、転んで…」

 レイラは誤魔化すように笑う。


「山に住み山道を歩き慣れている者がこんな大怪我をするか?」

「ベアに比べれば大したことありませんよ。それに、もう手当は済みましたから」


 怪我をしたくらいで、何かを隠す必要はない。それなのにこれほど誤魔化そうとするのは、俺に後ろめたい気持ちがあるからだ。



「……まさか、俺を運んでる時に転んだのか?」

「い、いえっ……」


 レイラの視線が明らかに左右する。分かりやすい戸惑いだな…。


「私がやりたくてやったことですから…!」

 まるで反対に俺に怪我を負わせたかのような反応だった。


 膝とはいえ、女の体に残るかもしれない傷を負わせてしまった。

 それも、武力争いも知らなそうな、か弱い彼女を…。



「…すまない。苦労を掛けた」

「いえ…」

 

 それからレイラは照れ隠しのように早々とお皿をトレーに片付け、足早に行ってしまった。

 




 バケツとタオルを手に戻ってきたレイラは、慣れた手付きでベアの体を拭いていく。

「手慣れてるんだな」

「父がすぐ怪我をして帰ってきてたので」

 土や血で汚れた肌を見てもレイラは顔色一つ変えず、丁寧に拭き取っていた。



「…ベアは若い騎士だから体付きも良いですね」

「……そういう事は無闇に言わない方が良い」

 介抱目的とはいえ、男の服を脱がしその躯体を褒めるなんて、まるで誘い文句だ。当の本人はかなり鈍いのか、キョトンとした顔で小首を傾げている。


 隙だらけ。俺でない男だったら、今頃彼女の身の方が危うかった。



「第一、知らない男をほいほい家に上げるな。いつか痛い目見るぞ」

「…それは、そうかも知れないですが…」


 しかし忠言を聞く気はあるらしい。

 それまで何の気もなくベアの体に触れていたレイラは、顔を真っ赤にさせて飛び退いた。



「ごっ、ごめんなさい!父の介抱に慣れていてつい…。普通は男の人にこんなことしませんよね…」

「……」

 もっと男を警戒するよう気を付けさせたかったのに、いざレイラが離れると物足りない気もする。



「……俺には良いが、他の男にはするなということだ。特に女の一人暮らしなんだから、酷い目に遭うかもしれないだろ」

「……心配してくれるんですね」

 …“心配”?俺が、人の心配?

 


「…そうじゃ──」

 否定しようとした言葉は衝撃に打ち消される。

 レイラの頬の上を滑るように、一筋の涙がこぼれ落ちる。


 ベアは目を見開いた。

「…な……っ」

「あ、いや、違うの。これはっ……」


 慌てふためくと余計に涙は溢れ、レイラの頬を濡らしていく。


「ごめんなさい……っ。

誰かに心配されたのなんて久しぶりで……。父がいた時のことを思い出して……」


 父がいた時。

 それはもう2年も前の話で、この2年待ち続けた彼女にとってはとても長く感じられたに違いない。



「…ごめんなさい…」 

 絞るように呟いたレイラが背を向ける。 


「っ…」


 ベアは思わず、その手首を掴んでいた。



 何故か、一人で泣いてほしくなかった。


 いつもなら毒づいていただろう。

 しかし彼女には何故か、そんな言葉も出てこなかった。


「………」

 だからといって、慰めの言葉も浮かばない。


「…ごめんなさい…私……」

「……もう謝るな」



 緩んだベアの手からレイラの華奢な手首がするりと抜けていく。やがて手のひらのところで止まると、小さな手はベアの固く厚い手を握った。

 こんな時なのに、ドキッとしてしまう自分が憎い。


 それでも平常心を装って、レイラの震える背中を撫でてやった。




「…ごめんなさい。いきなりこんな…困らせるようなこと…」

 しばらくして泣き止んだレイラは、愛らしい目元がパンパンに腫れていた。


「…酷い顔だな」

「…ごめんなさい」  

 ベアの呆れた視線に、レイラは申し訳なさそうに苦笑していた。




「…ベア」

 それでも、彼女は最後にはどんな宝石よりも眩しく、どんな花よりも綺麗に笑う。



「私のところに来てくれて、ありがとう」


 大きな目を眇めて微笑む彼女に、ベアは目を見開いた。

 


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