演者
それはまるで、スローモーションのようだった。
元々足元がおぼつかない様子だったシャルロットだったが、ソフィーとマルティンに支えられ部屋まであと少しだった。
しかし電池が切れたかのようにその体が横に傾き始め、ソフィーのいる方へと崩れかかる。
「……!?」
ソフィーはシャルロットの体重を支え切れず、共にぐらりと傾いた。
その先は、下り階段だった。
「皇后陛下!?」
「皇后陛下!!」
咄嗟にマルティンはシャルロットの肩をぐっと引き寄せる。背後からずっと同じ使用人がついてくることに意識を取られていたエリックは、遅れて状況を悟り、ソフィーに手を伸ばした。
間一髪、階段から落ちることは避けられたが、ソフィーは階段を見つめながら力が抜けたようにその場に座り込んだ。
「怪我はありませんか、夫人」
「は、はい…。それより、皇后陛下…!」
マルティンに肩を支えられ寄りかかっているシャルロットは、目を閉ざしていた。
「皇后陛下!」
マルティンが呼びかけても反応せず、眉間にシワを作り苦しげな呻き声を上げていた。
「何があったんだ?」
「皇后陛下が倒れられたぞ」
「大丈夫なのか…?」
騒ぎを聞きつけた使用人たちが集まり始める。このままでは皇后陛下の名誉に関わる事態だわ…!
いち早く気付いたソフィーはテキパキと指示を出した。
「早く皇后陛下をお部屋へ!氷水で頭を冷やして医師を呼んでください」
「はい!」
マルティンがそっとシャルロットを抱き上げる。立ち去ろうとしたソフィーたちを止めるように、背後から力強いが聞こえた。
「私見ました…!」
服装からして一介の使用人のようだった。チョコレート色の髪を耳の下で二つに縛ったまだ少女ほどの年の彼女は、両手をぎゅっと握りしめて悲しげな表情を浮かべていた。
水仕事をしているようにあかぎれだらけの手をそっと上げ、人差し指でソフィーを指す。
「今…皇后陛下を階段に落とそうとしましたよね?」
「っ!?」
「何をっ…!?」
その発言に、野次馬のように集まっていた使用人たちの目の色が変わる。
「まさか…」
「でも、そう見えたかも…」
「皇后陛下が羨ましかったんじゃない…?」
ゴシップに飢えた王城の使用人たちは、ひそひそと声を潜めて話しながらソフィーに疑惑の視線を送った。
しかし長年先代の皇后にいびられていたソフィーの心は柔なわけがなく、寧ろ迎え打つ覚悟だった。
「私はそんなことしておりません」
疑われても毅然とした態度でいるソフィーに、マルティンとエリックは改めてその偉大さを実感していた。
さすがは最古参の侍女。先々代皇后陛下の侍女を勤められていたお方だ。
それにしても、あの使用人。
ずっと着けて来ていたよな………。
エリックは窺うようにじっと使用人を見つめる。訝しむ眼差しの鋭さに圧倒され、少女は一歩後ずさったが、負けまいと両手を合わせた拳を固く握った。
「よろめく皇后陛下を階段へ引っ張ったのを見ました」
「私も皇后陛下を支えていたが、引っ張られた感覚はなかったが?」
ソフィーが引っ張っていたら、反対側にいたマルティンも引っ張られることになる。しかしマルティンは全く感じなかった。
「あなたもその侍女と共犯なんじゃないですか?」
「なんだとっ…!」
「落ち着けナディア」
マルティンは少女に食ってかかろうとするところを、頭の芯まで冷え込んでいたエリックが前に腕を差し出して制した。
少女の出現により使用人たちの注目を浴びただけでなく、妙な疑惑が浮かんでしまった。
ちらりとエリックはシャルロットの顔を見やる。
先ほどより呼吸が荒く、早まっていた。
「ナディア、皇后陛下だけでもお先に───」
エリックがそう言いかけた、その時だった。
「なんの騒ぎだ」
空気を割くように通る低い声。
その声に皆弾かれたように振り返り、目を見開いた。
「皇帝陛下…!」
使用人たちは壁際にサアーッと引いていくと、頭を下げる。
そうして見えた光景に、今度はアロイスが目を見開く番だった。
「…シャルロット…?」
マルティンに抱かれたシャルロットが、顔を青ざめて息も絶え絶えになっている。
離れた位置からも震えているのが分かった。
「………」
何も発していないのに、アロイスを取り巻く空気が一瞬にして変化したと皆が気付いた。得体の知れない恐ろしさが全身に襲い掛かり、身震いした使用人たちが更に深々と頭を下げる。
アロイスの頭の中は熱く、ふつふつと怒りが煮えたぎり、沸騰した血で染まっていくようだった。
「あーあ、陛下を怒らせちまったな」
「シッ」
ヘクターは隣にいるトルドーにしか聞こえない声で茶化していた。
「お前たちにはシャルロットの状態が見えていないのか」
地を這うような低音は氷の如く冷ややかで、皆の心胆を寒からしめる声色だった。
使用人たちは足が浮くほどビクッと飛び上がる。背中の冷や汗が止まらない。
マルティンとエリック、ソフィーも表情を引き締め、自然と背筋が伸びていた。
「帝国の皇后があのような状態にも関わらず、このような回廊に集って見せ者にし、放置する。
それが王城に仕える者たちのやる事か」
真っ当な意見に誰もが口を閉ざし、少女もまた圧倒されて声を発せられず、怖気付いて足が後退していた。
アロイスはそれまで使用人たちに向けていた視線をソフィーたちに向けた。血走った目は些細なミスも許さないと言っているようだった。
「話は後で聞く。早く部屋へ連れて行け」
「かしこまりました」
ソフィーが代表してドレスを持ち挨拶をすると、マルティンはソフィーと共に部屋へ足早に向かい、エリックは反対方向へ足を向けた。
「医師を呼んでくる」
「頼んだぞハーゼ」
残された使用人たちは、自分たちがどんな処分を下されるのかと怯えながらただ祈るしかなかった。コツ、とアロイスが絨毯を踏み締めるだけで、恐怖のあまり呼吸が早まる。
「……貴様ら全員、私の手で葬っても良いが…」
アロイスはトルドーの腰から剣を抜く。キン、と廊下に響き渡った音に、使用人たちは「ひいいいい!」と情けない声を上げながら後退りした。
「あのように無駄に集っていた理由を言えば許そう」
その一言で、使用人たちは我先にと少女を犯人に仕立て、責め上げた。自分たちは悪くない、彼女が悪いのだと。
「…アロイス様が、それほどお怒りに…?」
スープを飲み干したシャルロットは身なりを整え、アロイス、ラクロワ、ヘクター、エリック、マルティンから状況を聞かされていた。
「それはもう、怖かったっすよ〜」
「皇后陛下に関することですから。陛下も神経質になられているんでしょう」
ラクロワとヘクターがこっそり伝えると、アロイスは「そなたのことだからな」と惜しげもなく愛に溢れた眼差しを向けた。シャルロットもつられて微笑む。
幸せな瞬間。
けれどそこに、いつもいてくれたソフィーはいない。
「それで、ソフィーは……」
シャルロットが促すと、皆険しい顔付きでそれぞれ視線を逸らした。
「……コフマン伯爵夫人は……」
アロイスは続きを話し始めた。