貴方の味方です
「っ……!!」
シャルロットは息を呑んだ。アロイスも予想外の出来事に瞳孔が開いている。
公に法とはなっていないが、王国の非公式なルール上、女性からダンスの誘いがあれば男性は断ってはいけないことになっている。
本来男性から誘うべきものを女性から誘っているため、女性に恥をかかせないためであったが、今では断れば男性が恥を晒すことになる。
皇帝とはいえ帝国を背負っているアロイスが断れば、帝国の恥となるのだ。
……彼女らしいといえば、彼女らしい。
きっと前世でもこうして頭を使い、計略にかけていたんだわ…。
「……喜んで」
王国ではお決まりの言葉を述べたアロイスが、ビアンカの手を取った。
「っ……」
たったそれだけのこと。
ただ二人が手を握っただけで、シャルロットは胸に石でも引っかかったように苦しくなった。
ああ、嫌だわ。
わたくしはまだこんな醜い感情を持っていただなんて…。
忙しない何かに支配され、心がざわざわと騒ぐ。
アロイスは嫌々ながら仏頂面を上げた。ビアンカは気にも留めず周囲に振りまく笑顔で魅了する。
二人が見つめ合った瞬間、シャルロットの喉を熱いものが込み上げた。
「王女殿下も一段とお美しいわ」
「今日のドレスも一段とお似合いで…。瞳の色と同じ、愛らしい桃色ですね」
「まさに王国の花ですな」
大丈夫。
アロイス様はわたくしを愛してると言ってくださった。
何も心配する必要なんてない。
「綺麗なターンだな。王女殿下のダンスも昔から洗練されたものだった」
「そうですわね。けれどいつも王女殿下ばかり輝いて、相手役が見劣りしていましたが…、今宵は違いますね」
「あれほどの美貌の王女殿下ですから、陛下ほどの男性でなければ隣に立てないでしょう」
それなのに、どうして…。
そこにいる美男美女を、誰もがお似合いだと絶賛する。
二人を眺めているうち、もやもやとした何かがシャルロットの涙腺を緩めた。つーっと頬を伝った涙が、顎からドレスにこぼれ落ちる。
まるで奪われたような気持ちだった。
さっきまで自分がその位置にいたのに、それが夢だったかのよう。
見ているだけで息がつまり、視線を下げた。
わたくしからアロイス様を奪わないで。
アロイス様のいない人生なんてもう、考えられない…。
「…皇后陛下?」
嗚咽をこぼしてしまいそうな口元をきゅっと引き締めて、人差し指で涙を払う。
ソフィーは不思議に思ってシャルロットを見つめていた。
「しばらく一人にしてちょうだい」
「っ………皇后陛下…?」
踵を返したシャルロットは顔を隠すように伏せたまま会場を後にする。その間も人々はビアンカとアロイスの踊りに夢中になり、シャルロットを気に掛けることはなかった。
昨夜は表面上だけでも強気に出られたのに…。
逆行前の記憶のせいか、ビアンカ王女に劣等感がある気がする。
たかがダンスを踊っただけ。
そう分かっているのに…。
一切目を合わさないアロイス様と幸せそうに笑うビアンカ王女。それでも、二人が似合って見えたのは、逆行前に嫌というほど二人が共にいる姿を見てきたからかもしれない。
「……また…奪われるのかしら…」
口をついて出ていた。
それに合わせたように、我慢していた涙が再びほろりと落ちる。
気が付けば人気のない庭園に出ていて、遠くからパーティの喧騒が聞こえていた。
明かりもないまるで森のようなそこで、がくんと膝から崩れ落ちる。
「ふうえっ…」
情けない声が出てきては、涙が滝のように流れた。我慢できない感情を洗い流すように、止めどなく続いた。
わたくしだけを見つめていてほしい。
わたくしの元から、去っていかないでほしい。
誰からも疎まれ、蔑まれ、また籠の外から別の女性と幸せそうなアロイス様を見ていたくない……。
「貴方のような人でもそのようにはしたなく泣くのですね」
「…?」
その瞬間、風が宙を切り裂いた。背後に何かが落ちてくると、シャルロットに温かな何かが絡み付く。
「っきゃっ…!」
それが人だと分かった頃には、口元が塞がれ、お腹にも手が回っていた。
誰…!?
「…まあ…心の弱い方だとは思っていましたが」
心臓がどくん、どくんと強く脈打つ。
木から人が降ってきた。
まさか、ビアンカ王女の騎士?
わたくしを殺すために……?
下手に声を上げれば殺されるかもしれない。
そう考えたシャルロットはじっと息を潜めていた。
それが功を奏したようで、その誰かはシャルロットを抱きしめる力を緩めていく。
シャルロットは窺うように徐々に振り返った。
「モーリッツ卿……!!」
それまで頭が混乱していたシャルロットだったが、その顔を前にしてようやく聞き覚えのある声だったと認識した。
柔らかな髪は乱れ、整った顔は少し土汚れが付いていたが、紛うことなくベア・モーリッツだった。
「シー」
ベアは自身の口元に人差し指を立てる。シャルロットは再び殺されやしないかと恐怖を感じ、青い顔でこくりこくりと頷いた。
「……皇后陛下はいつも私を怖がられる」
目を細めた薄水色の瞳に見つめられる。
前の人生で、貴方に殺されて生涯を終えたのだもの……。
そう言いたくても言えず、シャルロットはさっと目を逸らす。
「私の顔はそれほど恐ろしい形相をしているのでしょうか」
「…いえ…」
さらに顔を伏せると、片頬を骨張った手が包み込んだ。
アロイス様とは違う、剣の持ちすぎでタコが潰れた硬い手…。
「美しい顔が台無しですよ」
あれほどシャルロットを侮辱していた人と同一人物とは思えない。
その優しい声に、ハッとして顔を上げる。
視線が交わると再び微笑みかけられ、シャルロットは目を見開いた。
「どこまで行ったんだ…ったく」
「確かこの辺だったはずだが」
すぐそばで男の声が聞こえて来る。何かを探しているような口ぶりに、ベアはシャルロットを解放して立ち上がった。
「泣くのなら無事に帝国に帰ってからです。
ここには王女の目があちこちにあると思った方が良い」
「え……」
どうしてそれを…。
シャルロットは何から尋ねれば良いか分からず、呆然とベアを見つめていた。
最後に姿を焼き付けるようにシャルロットを見つめていたベアが、ふっと表情を緩ませて笑う。
「…“俺”は貴方の味方です」
「…!!」
「ああ、それと…、今日のことは皇帝陛下には内密にお願いします」
最後にくつりと笑って言い残し、ベアはどこかへと走り去っていく。草を踏む音はすぐに聞こえなくなり、代わりに風音が過ぎ去った。
…今の、どういう意味なのかしら。
以前は敵としてわたくしたちを殺したベア・モーリッツが…味方…?
それに、俺って…。
今まで一人称は私だったのに………。
がさがさと茂みをかき分ける音が聞こえ、シャルロットはそそくさと立ち上がる。ドレスの汚れを払い、背を向けて顔の涙を拭っていると、「いたぞ!」と耳にして遅れて振り返った。
「こちらにいらっしゃったのですか皇后陛下!」
騎士たちはほっとしたように息を吐いた。
『どこまで行ったんだ…ったく』
『確かこの辺だったはずだが』
まるで、小汚い鼠か何かを探すような、忌々しさが伝わる声だった。
「帝国の皇后陛下が行方不明となられては困ります。案内しますので、お戻りください」
彼らも、ビアンカ王女の手駒。
掃除をしながらわたくしをじっと窺う使用人も、部屋の外を徘徊する騎士も、アロイス様の皇妃としてビアンカを押す貴族も。
みんな、ビアンカ王女の目と耳になっている。
『泣くのなら無事に帝国に帰ってからです。
ここには王女の目があちこちにあると思った方が良い』
少なくとも今は、気を引き締めなくては…。