手掛かりに
気まずい空気のまま晩餐会はお開きとなった。
そのままアロイスに手を引かれ、シャルロットたちは庭園に辿り着いた。
「勝手に歩き回って良いものなのでしょうか」
「奴らは俺たちを監視している。ほら、そこの柱の」
景色を楽しむふりをしてシャルロットはその方に目を向ける。月明かりで建物の柱の影が長く伸び、そこから少しだけ人の半身のような影が見えていた。
『……生誕祭には、赴くのが恒例なのですか?』
『いえ、多くは10や20年の節目なので、我々も不審に思っております。近頃は王国の動きが怪しいこともありますから、油断は禁物でしょう』
武器や兵力を集めていて、節目でもないのに生誕祭に招待し、わざわざ逃げ道を塞ぐように国民に公表した。
人身売買を行っていたオスカル第二王子は未だ協議に掛けられ帝国の牢に閉じ込められている。
「普通に考えれば罠ということですね…」
「ああ…。しかし懐に忍び込めたのは、案外吉と出るかもしれん」
アロイスは屈んで花や木々の香りを嗅いでいた。
「珍しいですわね」
「ああ、これは……」
何かを言いかけていたアロイスは表情を引き締め口を閉ざす。シャルロットが何事かと思っていると、前から人影がやって来ていた。
護衛のマルティンとラクロワが剣に手を掛けさっと前に出る。
「わたくしです。第一王女、ビアンカですわ」
シャルロットの肌がぶわっと粟立つ。
一輪の花のように可憐な声だった。その姿が見えてくると、護衛たちのすぐ前までやってきてにこっと笑う。
変わっていない。
その微笑みで何人の人が虜になってしまったことか。
しゃんと背筋を伸ばして堂々と、それでいて柔らかな仕草で静かにドレスを持って歩く。綺麗に帝国式の挨拶をする姿も、絵になるほどのたおやかな乙女の姿だった。
「…夫婦揃った憩いのひと時を過ごしていたのだが」
「せっかく王国に来たのですから、交流の輪を広げることも大切ですわ。
特にわたくしたちはお年も近いわけですし、わたくしはぜひ両陛下とお近付きになりたいです」
アロイスのすげない態度にもビアンカは王女らしく微笑むばかりだった。アロイスの視線は氷柱のように鋭く冷たくなっていく。
シャルロットは反論する声も出ず、アロイスにぴたりとくっついていた。口が動かない。息さえ意識しなければ忘れてしまいそうだった。
「…皇后陛下はどう思われますか」
ビアンカが歩くたびにふわっと花のような香ばしい香りが漂う。
惑わす香りは懐かしさではなく、嫌悪を沸き立たせる。アロイスはぐっと眉根を寄せた。
「……………」
シャルロットの前までやってきたビアンカは、人を魅了する微笑を見せる。
彼女を前にすると、わたくしは臆病になってしまう。
愛らしい容姿と高貴な振る舞いで人々の視線を一身に受けながら、皇妃としての公務を滞りなくこなし、帝国の皆に歓迎され、陛下の寵愛も受けていた。
一方わたくしは、慈善活動の施策は貴族たちに騙されて責任を負わされ、その後すれ違う人々に陰口を言われるようになってから人に心を開けなくなり、子が流れてからは笑うことすらできなくなった。
逆行前とは状況が変わったとはいえ、彼女を前にして気後れせずにはいられない。
シャルロットは硬く手のひらを握り締める。
いつの間にか軋むほど歯を噛み締めていたことに気付き、スウッと息を吸いながら口を開いた。
「……申し訳ございませんが、今は陛下と大切な話をしておりましたので。これで失礼させていただきます」
けれどわたくしはもう、以前のわたくしではない。
アロイス様がもう、以前のアロイス様ではないように。
シャルロットは一礼をしてその場を去る。アロイスも横目でビアンカの表情を確認しながらすれ違い、護衛騎士たちも二人に続いた。
「…………この、女狐が…」
残されたビアンカは憎しみを込めて呟く。
ギリリと歯を噛み締め、すっかり離れてしまった二人を睨みつけた。
この私に無礼な態度を取ったわね。
出自が公国のくせになんて偉そうに…!
「…今の香りを覚えたか」
アロイスはそばに控えていた従者に耳打ちをする。
「はい…」
「あの香りが何から作られたものなのか、調べてくれ」
「かしこまりました」
従者は二人から離れて急足でどこかへと去っていく。その顔に見覚えがないシャルロットは、目で追っていた。
「…あの方は…?」
「植物学者だ。あの女のきつい香りは過去に部屋に置いていたお香によるものだった。
お香は自然の香木や香料などを元にしているから、例の香りに、何かヒントがないかと思って連れてきていた」
人を惑わすほどの香りの秘密。
たしかに、ビアンカ王女が育ったこの地なら、何か手がかりが掴めるかもしれない…。
そして生誕祭当日がやって来た。王城から見えた街は明け方からお祭り騒ぎで、夜になってもきらきらと明かりが眩しいままだった。
王城では日暮れと共に盛大なパーティが催された。
帝国の皇帝と皇后が登場すると、既に会場にいた者たちの視線が一斉に注がれる。皆その姿を一目見ようと、野次馬のように集まってきていた。
「緊張しますわね」
「そなたはいつも優雅で気品が溢れている。そのようには見えないから安心すると良い」
帝国民の前に出ることさえまだ慣れていないというのに、噂を聞いて品定めでもするかのように一挙一動を見落とさない貴族たちの目を避けたくなるのは当然のことでもあった。
しかしシャルロットが考えているような批判的な意見などはなく、寧ろ貴族たちはシャルロットの優美な佇まいに見惚れ、感嘆の溜息が溢れていた。
先に来ていたモーガンはシャルロットたちを見つけると騎士として来ていた貴族令息たちとの会話を中断してやって来る。
「両陛下にご挨拶申し上げます」
「ああ。…どうだった」
アロイスは周囲に気付かれないよう表情こそそのままだったが、声をぐっと潜めた。
「第二王子については元々王国の平民たちからの評判が悪く、人身売買の件があってからは尚更に貴族からも見放されているようです」
「王国から不満の声が上がっていれば検討すべきことも増えたが…杞憂だったな」
「それからベア・モーリッツについてですが、国民から寄せられた目撃情報はないそうです」
ベア・モーリッツ。
彼がいなくなってから、シャルロットの皇后宮生活は気楽なものになった。考え事をしながら庭園を歩き、皇宮に辿り着いても、偶然遭遇することもない。
「帝国も彼の失踪を知らせていませんが、王国がいつまでも気付かないはずありません。公にされれば、帝国が追い出したと戦争の口実を与えかねません」
「そうだな…」
政治の話をしている二人の邪魔をしないよう、シャルロットは会場に目を向ける。きゃっきゃと湧き立つ令嬢や、ぼんやりとした顔で頬を染める子息たちの中心で、うら若い男女が踊っていた。
「バジリオ子爵が一緒に踊っていらっしゃる方は…?」
シャルロットはそばに控えていたソフィーに尋ねたが、ソフィーも首を捻っていた。
「お見かけしたことがありません。新しく社交会にデビューされたご令嬢でしょうか…?」
過去にも皇后付きの侍女として王国を訪れていて、今回のために貴族名簿を丸暗記したソフィーでも知らない人物。
円をかくようにくるくると回り踊る。赤を交えた焦げたブラウンの髪が、髪飾りのリボンと共に揺れていた。
潤んだ大きな目を眇めてイアンと踊る令嬢は、まるで恋する乙女のようだった。
しかしその愛らしい美貌に、その場の者たちは釘付けになっていた。
バジリオ子爵も優しげな印象がそのまま顔に出たような整った顔立ちをしているけれど、あの令嬢もお綺麗ね…。
「シャルロット、国王に挨拶を」
「はい」
アロイスの差し出された腕に手を絡め、並んで階上の国王に挨拶をする。
形式的な挨拶をしている間、ビアンカは何を言ってくるでもなく、笑みを絶やさなかった。
挨拶を終えたシャルロットたちが階段を降りると、ホールではダンスが始まっていた。
「シャルロット」
アロイスはシャルロットの前に跪き、にこりと微笑んで手を差し出す。
それまでなかなか笑顔を見せなかったアロイスの微笑みに、女性陣はクラクラとして頭を抱えた。
「私と踊ってくれるか」
改めて見つめられて、シャルロットの頬が上気する。
どうにか立っていた令嬢や夫人たちから黄色い悲鳴が上がった。
エメラルド色に輝く瞳がただシャルロットだけを見つめる。
嬉しさと、恥ずかしさと、少しの嫉妬が入り混じる。
アロイス様はご自身の外見の良さを分かってやっているのかしら…。
「……はい」
少し口を閉ざしたシャルロットだったが、やはりアロイスには勝てずに手を重ねた。
ホールの中央で身に付ける宝石よりも輝く二人。
引き締まった肉体を目立たせるように細身の衣装で、日々鍛え抜かれたシルエットが際立つ。
白い肌には漆黒が映え、その珍しさと彫刻のように整った顔立ちが現実離れしていて、まるで物語の中の王だった。
また薄紫色の髪も生糸のように滑らかで、波打つ度に白くすらっと伸びた首筋が覗く。長いまつ毛で伏せた目元が影を帯び、ターンの度に豊かな胸元が揺れて女性でさえ妖艶な雰囲気に飲み込まれてしまいそうだった。
しかし純白のホワイトを基調としたドレスは純真なシャルロットの心を連想させ、空色の透けた刺繍レースがアクセントとなり、儚い魅力もまた漂っていた。
「まあ…ご覧になって。両陛下の衣装、同じ配色だわ」
「本当だな」
「流石は皇帝陛下と皇后陛下。所作に品位があって、身のこなしも優雅ですわ」
「非の打ち所がないですな」
「何より…絵になります」
人々の視線が二人に向けられる。ビアンカは拳を握りしめ、俯き気味に立ち上がった。
「どうした、ビアンカ」
「見ていたらわたくしも踊りたくなってしまいましたわ」
人がいる手前、ビアンカはにこっと愛想良く振る舞う。
「それは良い。お前の美しさを今以上に世に知らしめてやれ」
…美しさを知らしめる、ね。
父上にとって、私の価値なんてその程度。
シャルロットとアロイスがダンスを終えて互いに挨拶を交わすと、盛大な拍手に包まれた。
それを打ち消すように、黄金色のヒールが踵を鳴らして階下へとやって来る。
「皇帝陛下」
甘く柔らかな声は、彼女の性格まで柔和なように感じさせた。
「わたくしとも…踊っていただけますか」
ビアンカは華奢な指をした手を差し出した。