闇に塗れた塔
跪いたリチャードに「良い」と皇帝が一言述べる。
すると、リチャードは躊躇う様子も見せず姿勢を戻した。
「どうだ、話をしてみて」
深緑の瞳がリチャードを探るように見つめる。
しかしそれはリチャード自身ではなく、シャルロットのことだと分かっていたため、不快感はなかった。
「私のことを存じておりました。皇族ならともかく、一介の貴族を知っていたのですから、事前に学ばれてきたのでしょう」
「周到だな」
帝国のパーティーに出席するというだけで帝国貴族のことまで調べているとは思ってもみなかった。
会話をしてみても聡明さが伝わってきていたし、年の割に落ち着きもある。
同じ年の帝国令嬢なら、私の公爵という地位と騎士団長という肩書に双方の意味で怯え、挨拶がやっと。
もう少し成長すれば、男を知った令嬢が逆に私を利用しようと付け上がるのだが、彼女には怯えも邪な算段もないようだった。
「わたくしは賛成ですわ。まだ12歳なのに、気品があってとても利口だと伺いました」
隣で皇后陛下は口を挟む。
実の子である皇女に関しては口煩いが、皇妃たちの子である皇子は別だ。
援助のために差し出される公女には強固な後ろ盾はない。
控えめで素直だと聞くから、裏で私が手を引けば、良い駒になるはず……。
真っ赤な唇が弧を描いた。
「そうだな…。会ってみる価値はありそうだ」
「陛下、フォーゲル公爵がお呼びです」
「通せ」
リチャードは「また後で呼ぶ」と告げられ、陛下のいる階上から階段を降りた。
ベーベルは帝国の貴族と交流があるらしく、リチャードがいなくなった後も二人の貴族と会話を広げていた。
「わたくし、飲み物を取って参りますわね」
シャルロットには時間が限られていた。
ここで人脈を広げるよりも、陛下を探す方がわたくしには大事なこと。
「私が取ってくるよ、何が良い?」
「お兄様は会話に参加しなければなりませんわ。ワインでよろしいですか?」
テノール家で唯一の嫡男であるクリストフがベーベルの跡を継ぐことは、生まれた時からの定めであり、シャルロットは直接聞かされてはいないものの、火を見るより明らかであった。
シャルロットを一人で行かせるのはな…。
眉を垂らしたクリストフは簡単には頷かなかったが、ベーベルに呼ばれて最後に振り返る。
「私は良いから、シャルロットはアルコール以外、好きなものを飲みなさい」
大きな手はシャルロットの髪を崩さない程度に器用に撫でて、クリストフはベーベルの元へ戻った。
今が抜け出せるチャンス…!
社交に勤しむ貴族たちに紛れてベーベルとクリストフの見えないところまで来たシャルロットは、少しだけ緊張が解けてふうと息を吐き出した。
アロイスの髪は漆黒だった。
帝国は茶から金の髪色が多く、シャルロットは皇宮に出入りする者の内、漆黒の髪色はアロイスしか見かけたことがなかった。
だからその姿があれば、すぐに見つけられるはずなのに…。
会場内を忙しなく探し回っても、あの漆黒は見当たらない。
どういうことなのかしら…。
帝国の人間ではないの…?
人混みに酔い疲れて回廊に出ていたシャルロットは、夜闇に紛れて重い溜息を吐いた。
もしこのまま見つけられなかったら…、わたくしは今後一生、陛下にお会いできないのかしら…。
だとしたら、過去になんて戻りたくなかった。
もうお会いできないのなら、あのまま一生を終えた方が良かった。
気持ちばかりが急いて、胸の奥が苦しい。
もう一度お会いできると、心のどこかで期待していた。
でも所詮は淡い期待で、皇族の名簿に陛下の名が記されていない時点で、薄々勘付いていた。
わたくしが戻ったこの世に、陛下は存在しないということを。
「陛下、わたくしは…」
横柄で、身勝手で、けれど心優しい一面をお持ちの貴方様に、
──心惹かれておりました。
こみ上げるものを喉に力を入れてグッと堪える。
まだパーティーの最中だというのに、泣いてはいけない。
泣いている暇などない。
上を見上げると満天の星空があり、月が光を放ってシャルロットを照らした。
♢♢♢
「綺麗ですわね」
「…いつもと同じだ」
バルコニーでお茶をしながら、陛下と共に夜空を眺めたことがあった。
星を見ながらお茶をしたいと言ったシャルロットの提案に、アロイスは窓から覗けば良いと顔を顰めたが、シャルロットは全身に夜風を浴び、星空に包まれたかった。
…陛下と共に。
「無理を聞いていただいてありがとうございます」
アロイスはシャルロットを横目で見やり、寝巻きの上に着ていた羽織をシャルロットに掛けた。
シャルロットは隣のアロイスに目を向けると、エメラルドのような瞳がシャルロットを見つめていた。
「ありがとうございます」
「…そなたは風邪を引きやすいからな」
♢♢♢
もうお会いできないのではないかと、気を緩めれば足元から崩れ落ちそうになる。
「あ…」
ふと、筒状の古びた塔がシャルロットの目に入る。
昼間に見ても不気味だというのに、夜は幽霊でも出るのではないかと思うほど廃れている。
「あの塔…」
シャルロットの足は塔に向かっていた。
天辺の見えない塔を見上げる。
明かり一つもれることなく、本当に死者か幽霊でも住みついているのではないかと、シャルロットは足が竦んだ。
けれど…。
♢♢♢
シャルロットが帝国に嫁いだばかりの頃のこと。
「皇宮の中にあのような塔があったのですね」
アロイスが皇宮内を案内してくれると言うので、シャルロットは従って、二人は護衛騎士を連れて歩いて回った。
皇宮はチリ一つ落ちておらず、飾られている絵画から花一輪まで内装と釣り合いが取れていて、シャルロットは歩くたびに感心させられた。
しかし、皇宮の眩さにあまりにも不釣り合いな、古びた塔が回廊から見え、アロイスを見上げた。
「…次行くぞ」
だがアロイスは忌々しいと目を細めると、低い声でそう告げて先を歩いた。
♢♢♢
陛下が毛嫌いされていたこの塔。
前世では一度も訪れたことがなかった。
幽霊に恐れるような方ではなかったというのに、ここには何があったのか…。
きつく拳を握り締め、棒のような足を一歩、また一歩と動かす。
暗闇の中に佇む禍々しい塔は、吹き抜けで上階と下階に続いている。
上階にはなにもなさそうに見えるわね…。
シャルロットは階段を下っていった。
ランプがないから良く見えないわ…。
石階段をかさばるドレスとヒールで歩くには無理があった。
壁に手を置いて慎重に階段を下っていたシャルロットだったが、ズルッと足が滑り、三段ほどお尻から落ちて行った。
「いっ、た…」
「誰だ!?」
人の声がした。
男の子の声だった。
階段は全て下りきったようで、一本道は真っ直ぐ続いている。
この声……、似てる…。
今しがた耳にした声は、まだ少年のあどけない声だった。
聞き慣れていた声は耳の奥まで響くような低音だというのに…。
シャルロットは鼓動が早まって苦しい胸元を握り締めた。
陛下にお会いしたいあまり、聞こえてしまった幻聴?
似ているだけの他人の空耳?
「…………」
そんなわけないわ。
聞き間違えるわけがない。
だってわたくしは、ずっと求めていたのだから。
陛下のお声を。
その、存在を。
引き寄せられるように立ち上がり、足が奥へ奥へと誘われる。
足首も、突いたお尻も痛むというのに、その時ばかりは忘れていた。
目が次第に暗闇に慣れてくる。
どこの牢も開けられているのに、一つだけ、閉ざされた牢があった。
見てしまうのが、怖い…。
そんなシャルロットの意思とは関係なく、足は動いていた。
その牢には、薄汚れたベッドがあり、そばにシーツが落ちていた。
奥の個室はお手洗いだろうか。
それ以外は何もない、馬小屋よりも小さな空間だった。
「………陛下……?」
漆黒の髪を持つ、エメラルド色の瞳の少年が、そこにいた。
けれどかつての輝かしい姿は、そこになかった。
風采が上がらないどころではない。
艶のない髪はぼうぼうに伸び、肌は土汚れが付いている。
手足は木の枝のように細い。
身につけている服も使い古された布切れのようだった。
シャルロットは己の目を疑った。
しかしそれは、目を吊り上げていた相手も同様だった。
「…シャルロット…?」
シャルロットはさらに目を見張った。