愛するが故
『これそれより、シャルロットの定期検診は毎朝だ。
公務は必要最低限で良い。体に何かあっては心配だ、散歩も一切控えるように』
それからアロイスの指示により、シャルロットは毎朝クラメールの検診を受けることになった。
「先日ようやく何人かが医療にまつわる書物を出版できたのですが、予想以上に好調で学び舎の建設の件も話が進んでいるんです。ひとえに皇后陛下の助言のお陰です。改めて御礼申し上げます」
「まあ、そうなのですね!」
意気揚々と切り出すクラメールに、シャルロットもつい高揚してしまった。
「しばらくは成すべきことも多く苦労が絶えないかもしれませんが、後にはきっと先生が後任に任せられるような人材が育つことを願ってますわ」
「お言葉有り難く存じます」
そんなやりとりをしているうちに、アロイスもやって来て小さな祝いのティータイムを取った。
公務も再開されたが、その殆どはアロイスが代わることになり、シャルロットが少しでも具合が悪くなると中断された。
そして…。
「近頃皇后陛下をお見かけしないわね」
「陛下が皇后陛下と仲直りされてから寵愛ぶりが加速して、ずっと一緒にいらっしゃるそうよ」
「以前皇后陛下がお部屋から出てこられた時に、皇帝陛下がすぐに止められたそうよ。外は寒いからって」
「皇后陛下はお体が弱いそうですものね」
皇宮内では新たな噂が広まっていた。
アロイスがシャルロットを愛するあまり、とうとう部屋からも出したがらないと。
そしてその噂はほとんど事実であった。
「…アロイス様」
シャルロットはベッドに横になったまま、隣にいるアロイスを見上げた。
片手に本を持ったアロイスの細い指にはスッと筋が伸びていた。シャルロットがそれを見ていると顔が現れ、「どうかしたか」と優しげに目を細めて問いかけてくる。
侍女が誰もいなくて良かったと思う。その甘いマスクに何人が見惚れてしまうことか…。
「公務に戻られないのですか?」
「そなたは私がいなくなる事を望んでいるのか?」
「そういうわけではありませんが…、わたくしも昼間からベッドにいるのは窮屈ですわ」
溜息を吐きながら寝返りを打つと、アロイスが慌てたように前に手を差し伸べた。
「無闇に動くな。何かあったらどうする!」
「寝返り程度で赤ちゃんにダメージはありません。ましてやまだ見た目にも変わりないくらいですよ?アロイス様は大袈裟すぎます」
「腹が以前より膨らんでいると思うがな」
そう言ってアロイスはシャルロットを抱きしめるようにお腹に手を添える。まるですっかり父親の顔で愛おしげに撫でていた。
「……だとしてもこれはあんまりです!
散歩どころかアロイス様のお部屋から出られもしないなんて!」
そう。シャルロットは日々をアロイスの部屋で過ごすようになった。
シャルロットが公務の時は共にアロイスの執務室に移動し、休む時はまた共にアロイスの部屋に戻る。ティータイムはあっても外をのんびり歩くことも許されない。
「そなたはすぐ風邪を引くし、外より私の部屋の方が危険物は少ない」
「全く歩かないのもわたくしの、ひいては赤ちゃんの体に悪影響ですわ」
「風邪を引く方が悪影響だ」
「…そうですが…」
今回はアロイスを言いまかすこともできそうもなく、シャルロットはがっくりと項垂れた。
そういえば、今度ステラ主催のお茶会が開かれる。鉱山の一件があってお茶会を主催したり出席する余裕がなく後回しにしていたから、もう夫人たちともしばらくお話しできていないのよね…。
「…お茶会もダメですか?温かい温室などで…」
シャルロットは上目遣いでアロイスを見上げながら服の袖を指先できゅっと掴んだ。
以前ステラに仕込まれて覚えた技で、シャルロット自身実践するのは初めてのことだった。…これを使えば相手は虜になって何でも言う事を聞いてくれる…らしいけれど、わたくしがやってアロイス様に効果があるのかしら…?
「っ…」
シャルロットの心配を他所に、アロイスには効果抜群だった。突如背後に回った逞しい腕に、強引に抱きしめられる。
「きゃっ…、アロイス様!?」
「……他の男に、」
「…はい?」
耳元に吐息が掛かってくすぐったい。身を離そうとするとアロイスの腕に止められ、代わりに誰もが見惚れる秀麗な顔が目の前に迫った。
「…今のように甘えたことがあるのか?」
「……?いえ…」
ほっと息を吐いたアロイスはシャルロットの頭に手を乗せた。
「“そういう”のは他の男にしないでくれ。
いつか嫉妬で可笑しくなりそうだ」
シャルロットはぶわっと赤面した。コロコロ表情の変わるシャルロットが面白くて可愛らしくて、アロイスは無意識に髪を撫でていた。
「嫉妬、してくださるのですね…」
「あまり拗らせると永遠に閉じ込めてしまうぞ」
「それは…困りますが…」
くつくつと喉で笑ったアロイスは、目を細めてじいっとシャルロットを見つめた。熱く包むような眼差しに、シャルロットの頬がまた上気する。
「愛するが故だ。許してくれるか?」
そう言われてしまえば、拒むことはできない。
「意地悪ですわ」
「知っているだろう」
スローモーションのように顔が近付いてくる。まるで、拒むかどうか試しているようだった。
シャルロットが瞼を下ろすと間もなく、互いの唇が重なった。
「はあっ、はあっ、はあっ…っ」
背後を気にしながらも足を止めない。いつもであれば息を荒げずに走れるのだが、肩に負った負傷のせいで体力が奪われていた。
血が足跡にならないよう傷口は布で縛り、誰かに会ったときに身分がバレないよう騎士団のコートも脱ぎ捨ててきた。足跡を誤魔化す姑息な手も使ったが、ディートリヒの団長代理も鋭いところがある。いつかはここもバレるのだろう。
「…っあの、」
「っ!?」
胸に果物を抱えた女がベアをぎょっとして見つめていた。
「だ、大丈夫ですか…?」
月明かりが彼女を照らし出す。ダークチェリーのように濃い紫色の髪、陶器のように白い肌、驚いて大きくなった目、瑞々しいぽってりとした唇。
「…………レイラ……?」
ベアはだんだんと目を開いていく。袖で目を擦ってもう一度見ると、それはただの木だった。
幻想…。随分前に僅かに嗅いだ王女のお香のせいか、長く睡眠を取っていないからか、頭がやられたようだ。
夢でもあんな希望を見てしまうと、走る元気もなくなるくらいには落ち込むな…。
ベアはため息を吐きながら休憩と自分に言いかけせて木に寄りかかった。
『ベア』
目を閉じると、今でも彼女の声が聞こえてくる。
そういえば、どことなく皇后陛下に似ていた。
誰かに屈することのない意思の強そうな目も、夜風に波打つ髪も、皇帝陛下や侍女にふと見せる綻んだ笑顔も。
だからこんなにも惹かれるのかもしれない。
バサッ、バサッと翼を打つ音が聞こえ顔を上げると、一羽のフクロウが首に布を巻きつけてやってきた。伸ばした腕にフクロウが着地し、愛らしく首を傾げながらこちらを見つめる。
「…ルイスとヴォルか…」
騎士団内に共に間者として潜入していた仲間は、俺の逃走を手助けしてくれた。今頃上手く誤魔化して戻ったのだろうが…。
手紙には、皇室がエンリオス公爵を利用して更に株を上げたこと、皇后陛下の誘拐の件が伏せられたこと、ベア・モーリッツという男の存在が秘密裏に捜索されていることなどが記されていた。
「一度王国に戻るしかないな…」
帝国が俺を指名手配する可能性もある。王国を背負って出てきた騎士に対してそこまでの措置を取るということは考えづらいが、王国が帝国に何かを仕掛けてくれば帝国も黙ってはいないだろう。
今は一度引くべきだ。
見上げた空にぽっかり月が浮かぶ。深々と息を吐いてから、ベアは再び歩みを始めた。