露呈
忘れられるはずがない。
ビアンカ皇妃の元へ足繁く通う陛下の姿を。
巻き付くか細く白い腕が陛下の首に蛇のように巻き付き、白桃のように仄かに色付いた唇が首に跡を残す姿を。
彼女はわたくしに気が付くと、にんまりと満足げに笑った。
「御風邪を召されてしまいますよ」
その声で我に返ったシャルロットは、顔を上げて初めて目の前に人がいることに気が付いた。白金色の髪が凍てつくような風に揺れ、薔薇の香りがシャルロットの花をくすぐった。
「皇后陛下にご挨拶申し上げます」
「バジリオ子爵…。お久しぶりです」
イアンは優しげな目元をさらに垂らして微笑んだ。
「あれからご挨拶に伺うことができず、申し訳ありません。体調が優れないと聞いており、控えていました」
あれ、とはきっと、わたくしの誘拐事件及びエンリオス公爵を追い詰めたという人身売買事件のことね…。
「いいえ。子爵が一役買ってくださったと伺っております。本当にありがとうございます」
「皇后陛下にお礼を言われるようなことはしておりません」
バジリオ子爵がいなければ、ステラ一人でエンリオス公爵と王国の王子を相手にしなければならなかった。護衛のディートリヒ卿がいらっしゃるとはいえ、容易なことではなかったはず。
「ところで…何か考え事ですか?」
「はい?」
「随分と…悲しげなお顔をされていたので……」
イアンが言葉を選んでから迷ったように詰まらせ、困り顔になっていった。
『王国に潜入させていた間者からの情報です。第二王子がこちらで裁きを受けることに王家は反対だったようで、その後武器と力のある男たちを集めているようでした』
『戦争の前触れ、だろうな』
先日の話を聞いてから、近頃はぼんやりしていた。今日もネオンマリンを見ていたはずなのに、ここは植木ばかりあるわ…。
ビアンカ王女のこととなると、冷静ではいられなくなる。わたくしはもう、皇后になったというのに…。
「……大したことではありませんわ。
ところで、わたくしに何か御用でしたか?」
「はい。先ほど用があって皇女宮に寄ったのですが、その時に皇女殿下よりお預かり致しました」
懐から手紙を取り出したイアンは、それを手渡した。
「これは…」
「お茶会のお誘いだそうです」
手紙を送ってまで誘ってきたということは、公式的なお茶会で他の方々も招待する正式なものね。
「どうしてこれを子爵が?」
「皇女殿下直々に皇后陛下にお渡ししようとしていたところ、護衛のディートリヒ卿に反対されてしまい、その頃私が皇女宮に到着いたしました。皇后陛下にもご挨拶に伺うお話をした際に、ディートリヒ卿が私についでに持参していただくようにと…」
ディートリヒ卿の過保護ぶりはアロイス様と変わらないわね。シャルロットがくすっと笑っていると、イアンは「どうかなさいました?」と首を傾げた。
「いえ。届けてくださりありがとうございます。
お礼にお茶でもいかがですか?」
「お話はありがたいのですが、皇帝陛下に叱られてしまいますので」
イアンがまた困ったように笑いながらちらと視線をシャルロットの背後に向けた。その先を振り返ると、確実に機嫌が良くないアロイスがこちらに向かってきていた。
「あ…」
「では私はこれで」
「はい。招待状を届けてくださりありがとうございます」
イアンは一礼をして去っていったが、アロイスとすれ違う前にアロイスにも挨拶をしていた。
ぎろりと目を向けたアロイスは、イアンの耳元でそっと囁く。
…何を話してるのかしら。
アロイスが澄まし顔で背を向けると、イアンは青い顔をして去っていった。
「シャルロット」
「アロイス様、何をお話しされていたのですか?」
きょとんとしたシャルロットに、アロイスは盛大な溜息を吐いた。
「…アロイス様?」
「……若い男と密会か?」
背の高いアロイスに見つめられると自然と見下される形になるが、今日はその視線が冷たいせいで睨まれているようにも感じた。
「そんなっ…。ありえません!」
ごつごつとした手が伸びて、その指先が頬に触れる。ぴと、とくっついて、つつ…と頬を滑った。
「身を隠すように皇后宮の奥の庭園で、適年期の男と二人でいたら疑われると思わないのか」
抑揚のある怒りを堪えた声色に、シャルロットは素直に「…申し訳ありません」としか言えなかった。ごもっともよね…。
アロイスの両手がシャルロットの頬を包む。そのままぐいと引かれて、二人は鼻の先が付くほどの距離しかなかった。
「それにこんなに冷えてる。あまり長く外を散歩するな。この前もくしゃみをしていたではないか」
近頃は曇り空ばかりで太陽の光がない。アロイスの瞳は暗色となり、そのエメラルドの闇に惹き込まれてしまいそうだった。
「…はい」
アロイス様はわたくしがふしだらだと怒っていらっしゃるのに、嫉妬されていると思うと嬉しくてドキドキしてしまうわ…。
赤面したシャルロットはさっと目を逸らす。その理由が分かったアロイスは、シャルロットの首筋にチュッと音を立てて口付けた。生々しい音にシャルロットの口から熱い吐息が漏れる。
「言うことを聞かないと部屋に閉じ込めてしまうぞ」
シャルロットを抱きしめたアロイスはラベンダーの髪を撫でながら口付ける。
「先日も冗談と聞きましたわ」
「本気だ」
くすくすと笑って流していたシャルロットはその日の夜から後悔することとなった。
風邪を引いて寝込んでしまったのだ。
「…ソフィー…、赤ちゃんは…?」
高熱のあまりうなされていたシャルロットは、ふと気がついて息を荒くさせながら尋ねる。ぼんやりと開いた目は開いているようで歪んで良く見えない。しかしそばにいるのがソフィーだということは、何となく分かった。
「クラメール先生に診ていただきましたが、無事との事です。今はご自身の回復のことだけをお考えください」
「良かった……」
アロイス様やバジリオ子爵の言う通りだったわ。少し外を出歩いただけなのに…、妊娠して免疫力が下がっているのかしら。
そう思う間にも睡魔がシャルロットを襲った。
シャルロットが風邪で寝込んでいる間のこと。アロイスは肘掛けに肘を置き、拳に頬を寄りかからせた。
「どうしてお前たちが呼ばれたのか、分かるか」
侍女のソフィーと侍医クラメール、護衛騎士のマルティンとエリックはアロイスによって一室に呼び出されていた。
「シャルロット様のこと、でしょうか…」
マルティンが恐る恐る尋ねる。クラメールが動揺したように視線を上げると、用心深く観察していたアロイスと目が合ってふいと逸らした。
「近頃シャルロットが体調を崩すことが多い。体が弱いにしても、目眩で立っていられなかったり起き上がれないほどの腹痛があったり、朝食や公務にさえ支障が出ている。
それ自体は構わないが…、シャルロットの身に何が起こっているのか、私はそれが知りたい」
シャルロットが誘拐されてから、アロイスは極秘に見えないところから護衛する騎士たちを派遣した。皇后宮の警備も手厚にし、シャルロットの顔を頻繁に見に行くようにした。
シャルロットを心配するあまりの行動だが、行き過ぎていることは分かっていた。
しかし、シャルロットの体調が良い日は稀で、ほとんどが具合が悪そうにしている。
そんな姿を目の当たりにしていたら、誰だって不安に思わずにはいられない。
それに…近頃シャルロットは情事を断るようになった。
もしかすると、シャルロットは重い病気に罹ってしまったのでは?
私に言うなと口止めをして一人抱え込んで、体力が耐えられないから情事も断っているのでは?
そんな憶測ばかり先走っていた矢先、シャルロットが風邪で寝込んだ。
「モーリッツ卿を見かけたこともありませんし、皇后陛下がストレスを抱えていらっしゃるご様子はございませんでした。
先の誘拐事件のことがトラウマとなってしまったのではないでしょうか?」
「エリック卿の思い当たる原因はそれか?」
「はい」
ハーゼの真っ直ぐで嘘偽りのない瞳を見て、アロイスはそれが嘘ではないと判断した。シャルロットの話かと真っ先に切り出してきたマルティン卿もおそらく白。
「…クラメールはどう思う」
アロイスは先程様子のおかしかったクラメールにはっぱをかけた。
「……私ですか」
「お前は侍医だろう。シャルロットの体の状態については誰よりも詳しいはずだ」
「………」
アロイスの予想は的中し、クラメールは目をぎゅっと閉じて手を振るわせていた。
「……答えられないのか」
アロイスの声がぐっと低くなる。それは、騎士の二人でさえ恐怖で足が竦むほどだった。
まるで蛇に睨まれた蛙状態で、クラメールはその場の空気が氷点下にまで下がったように感じた。
「…もうおやめください陛下。
私もクラメール先生も、陛下の重圧には耐えがたい老体です」
「長い人生を経験して随分と悪知恵が付いたものだ。皇帝を欺こうとはな」
皇后陛下のこととなると、陛下は鬼にも悪魔にもなれる。陛下がどれほど皇后陛下を溺愛されているか、考慮してから決断すべきだったわ…。
ソフィーは一息吐いてから長く伏せていた視線を上げた。
「ようやく目を合わせたな」
それでもアロイスは慈悲を見せない。寧ろ視線は一層厳しいものに変わった。
「お話ししましょう」
「コフマン伯爵夫人、ここは私が…」
庇ってもらった借りもあり、クラメールは咳払いをしてから一歩前に出た。
「実は……皇后陛下が懐妊なさいました」
アロイスはこれでもかというほど目を見開いた。それは、護衛騎士である二人も同様だった。
「シャルロットが…懐妊。…私との子を…」
「…陛下。恐れながら、喜ばしいことばかりではありません」
クラメールはシャルロットにも説明した懸念されるべきことを話し、そのためにシャルロットに懐妊の話を伏せるよう提案したことを暴露した。
「コフマン伯爵夫人は巻き込まれてしまっただけなのです。だからどうか、罰は私一人にお与えくださいませ…」
全てを聞き終えたアロイスだったが、あまりの気分の良さに「そんなことはどうでも良い」と言ってしまった。
「それより、シャルロットの定期検診は毎朝だ。
公務は必要最低限で良い。体に何かあっては心配だ、散歩も一切控えるように」
四人は唖然としていたが、「かしこまりました」と頭を下げる他選択肢などなかった。
「この話を知るのはここにいる者たちだけか?」
「はい」
「では、この五人以外への他言は無用だ」
話は終わったと言わんばかりにアロイスは立ち上がり、一人去ってしまう。王がいなくなったことで、四人は疲れがどっと押し寄せ、腰が抜けて座り込んでしまった。
「全く、陛下の心配性に拍車が掛かってますね」
「そんな悪態を吐けるのはコフマン伯爵夫人くらいですよ」
冷や汗を拭いながらエリックが言うと、マルティンとクラメールも軽やかに笑いがこぼれた。