念願
シャルロットが目覚めたのは昼間のようで、開いたカーテンがそよそよと泳ぎ、窓を透かしてキラキラした日差しが差し込んでいた。
…アロイス様、大丈夫かしら……。
初めてのことだった。アロイス様がわたくしの前で涙したのは。
前世では嫌なことからは目を背け、けれど臣下に何を言われようとも気に留められることもなく、どんと構えて揺るがなかった。
今世でも急な即位に反発する勢力を見事な手腕で牽制し、鉱山の一件で批判を受けても毅然とされていたお方だ。
そんなお方が、わたくしを愛おしそうに見つめられて、愛しているという言葉ひとつで泣き顔を見せられた。
帝国を治める君主としては弱いのかもしれない。
けれど…決して強くはない皇帝陛下を、わたくしがいたせいで涙されたアロイス様を、わたくしだけか支えられる。これほど嬉しいと思ってしまったことはない。
これからも愛していることに変わりはない。
…自分にしか見せない弱い部分というのも、どこか可愛く見えてしまう。
「皇后陛下、失礼致します」
「どうぞ」
入室するなりソフィーはドレスの重みも感じさせない速さでシャルロットの元までやって来る。その圧に若干引いていたシャルロットだが、ソフィーの目元が赤くなっていることに気付いて腕を広げた。
「……皇后陛下……」
「…わたくしは無事よ。心配掛けたわね」
感極まったソフィーはシャルロットに腕を回した。力が弱く、短くて背中までは届かなかったが、それでもソフィーがどれほど心配してくれていたのかシャルロットは痛感した。
「本当にっ……。わたくしより先に旅立たれるのは絶対に…絶対に、あってはなりませんよ…っ…」
それほどの状況でもなかったはずなのだけれど…。5日間も目覚めなかったから無理もないのかもしれない。アロイス様も不安を抱えていらっしゃった。
それに、ソフィーは先々代皇后陛下の時から侍女を務める最古参の侍女。不器用ながらお優しいご主人と死に別れ、慕われている様子の先々代皇后陛下も若くして亡くなられた。
「…わたくしは、まだまだ生きるつもりですよ」
例え剣を向けられようとも、誰かに裏切られようとも。
アロイス様と共に生きていられるのなら、わたくしは戦える。
ソフィーが落ち着いたところで、クラメールが天蓋の前までやってきた。
「ご迷惑をお掛けしました」
「とんでもございません。ご無事なようで安心致しました」
柔らかな物腰のクラメールは皺の深く刻まれた顔でくしゃくしゃになるほど微笑んだ。それからクラメールの問診が始まった。
「異常ありませんね」
「ありがとうございます、クラメール先生」
「…………」
クラメールは無言のままベッドを見つめる。
「先生?」
その間に何かあると察したシャルロットは、シーツをきゅっと握って来たる何かに備えようとした。
「……実は、皇帝陛下にはお伝えしていないことがございます」
「え……?」
シャルロットは目をぱちくりとさせる。それまでただ控えて様子を見守っていたソフィーもただならぬ空気を感じ取り、顔が強張る。
「……まさか、重い病気とか…では、ないですよね…?」
シャルロットの言葉は途切れ途切れだった。
ようやく陛下と道を歩み始めたのに。
これから先、陛下と多くの幸せを分かち合いたいのに。
『ずっと…この先も、この気持ちは変わりませんわ』
あのようなことを言ってしまったばかりなのに…。
手に汗を握り締めていると、クラメールの顔が和らいだ。
「いえ、驚かせてしまい申し訳ありません。朗報になります」
ホッと胸を撫で下ろしたシャルロットは、次の瞬間には驚きでひっくり返りそうになった。
「ご懐妊、おめでとうございます」
「………え………!」
「まあ!おめでとうございます皇后陛下!」
ソフィーは喜びのあまり両手をパンと合わせて、顔を綻ばせる。実感の湧かないシャルロットはお腹に手を滑らせた。
懐妊、ということは…。わたくしはついに、アロイス様との子を……。
そう考えて、口元が緩んでいた。
アロイス様との子ども…。
前世では産んであげることさえできなかった命を、ついに…。
「まずは皇后陛下にお伝えすべきだと思い、皇帝陛下には伏せておりました。陛下にお伝えするかどうかは皇后陛下の判断にお任せ致します。
しかし僭越ながら、私はまだ伏せていた方が良いと存じております。安定期に入るまでは死産することも少なくありません。
皇室の子となると希望が湧き上がる分、失望も大きいです。また、お世継ぎの問題で皇后陛下がお命を狙われることもあるでしょう」
長く皇宮に勤めてきた侍医のクラメールは、懐妊が喜ばしいだけではないことを知っていた。幸せが不幸を呼び、皇帝の寵愛を失ったり、皇妃までもが命を落とすこともあった。
「そうですわね……」
シャルロットの記憶の中で、軽く背中を押された事が蘇る。それだけで簡単に階段を転げ落ち、わたくしは子を産めない体にまでなってしまった。
「…陛下には当分の間伏せておきます。
この話は三人だけの秘密にしておいてください」
シャルロットは気丈に振る舞ったが、内心ではまた前世のような事が起こりうるのではないかと思っていた。
もしまたあのような結果になってしまったら、今度こそ立ち直れそうにない。
それにそうなってしまった時、アロイス様が皇妃を迎えないことを宣言した以上、ステラが結婚して子を産まない限り直系の子が不在となる。
即位式の日、アロイス様はそれでも良いと言ってくださったけれど…、傍系の子で帝国民や令嬢を持つ貴族たち、支配下にある諸外国でさえ納得するかどうか…。
何より大臣たちが私と同じ懸念を抱かないはずがない。アロイス様をどうにか説得して皇妃を迎え入れようとするはず。
「分かりました。念のため、定期的に検診に参ります。つわりで倦怠感や気持ち悪さを感じることもありますので、公務だからといって我慢しすぎずしっかりと休養を取られてください」
「ありがとうございます。クラメール先生」
クラメールがシャルロットの部屋を立ち去ってから、代わるように護衛として扉の前に控えていたエリックとマルティンがやって来た。
「皇后陛下…」
「皇后陛下…!!」
一瞬目を見開いた二人だったが、すぐに苦い表情に変わる。エリックはその場に膝を付き、マルティンは唇を噛み締めて「申し訳ございません…!」と声を振り絞ってから跪いた。
「皇后陛下をお守りできませんでした……!!
ほん、とうに…申し訳ございませんっ…!」
嗚咽を噛み殺して叫んだマルティンに、シャルロットはどのような言葉を掛けるべきか逡巡した。
「申し訳ございません。如何様な処罰も受け入れる覚悟です」
エリックは表面上でこそ冷静を見せつつも、拳は隠しきれない後悔の念を握り締めていた。
「……二人のことだから、罪悪感でいっぱいになってるんじゃないかとは思っていたわ」
二人を見つめながら、シャルロットは言葉を選んで紡いだ。
「御者がすり替わっていたなんてわたくしも気付かなかった。早く皇宮へ戻り、子どもたちの誘拐を止めなければならないと、そればかり考えていたわ」
あの時、わたくしは焦っていた。帽子を目深に被った御者が別人ということにも気付けなかった。
「けれど二人とも、どうかこれからのことを考えてください」
エリックとマルティンはハッと顔を上げる。
「皇后の判断としては、よろしくないのかもしれませんが…、わたくしは、専属護衛を他の者にするなんてとても考えられません」
あの時、二人が馬車を止めようと張り上げた声が聞こえた。馬車を叩いて壊そうとした音がした。
二人があの馬車を止めようと動いてくれていたことは信じられる。
「そこまでにしてくださいませ。エリック卿、マルティン卿。
皇后陛下は長らくお目覚めにならなかったのですから休息が必要です」
何かに気が付いたソフィーはそう声掛けをした。侍女たちが運び込んできたのはシンプルな食事だった。仔牛や羊の肉、新鮮な果物で食べきれないほど溢れていた食卓は、味も薄そうなスープのみに変わっていた。
しかし食欲も全くないシャルロットにはちょうど良いくらいだった。
「…皇后陛下…」
マルティンは目を潤ませていた。エリックと共にサッと腰を上げると、胸に手を置いて深々と頭を下げる。
「もう二度と、このようなことがないようお守り致します」
「ええ、頼んだわ」
シャルロットはふわりと笑った。