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抗う






 ラングストン帝国最西の街、ビバレー。

 西には高く聳え立つ壁があり、壁を隔てた向こうはジャスナロク王国の領地である。


「公爵様、関所で検問をしているようですが…」

「っふ…。はっはっはっは!」

 戸惑う御者の言葉でエンリオスは哄笑した。



 皇后を誘拐できた時点でこちらの勝ちだ。



 子どもの受け渡しがここで行われていると推測した皇帝側が、同様に西部に連れ去られた皇后がこの関所から王国に向かうと予測するだろうと思っていた。


 だから今日の取引はここでは行わない。




「…公爵様?」

 何か粗相をしただろうか…、と御者が不安になっていると、馬でここまで着いてきていたエンリオスの護衛が馬車の扉を開けた。


「君はこのまま関所に向かいなさい」

「えっ……」

 エンリオスは当示し合わせたように馬車を降りて、護衛の一人に先導されながら足場の悪い森の草道を行く。


「えっ、こ、公爵様!?」

「命が惜しければ命令に従え」

 エンリオスは振り返らずに言う。

 戸惑う御者の首に、手のひらほどの小さな剣が突きつけられる。しかし御者にとってそれは見慣れないもので、思わず「ひっ!」と怯んでいた。


「公爵様に逆らうつもりか」

 それは護衛として着いてきていたはずの騎士だった。御者は顔を青くさせてぶんぶんと首を振った。


「と、とんでもございません…っ!」

 そう言わなければ殺される。そう悟ったのが正解だったようで、護衛は剣をしまってエンリオスの後を追った。





「皇帝…。貴様の負けだ」

 

 凍えるような寒さで真っ白な息が昇っていく。エンリオスはそう呟くと、口元をにたにたと緩ませ堪えきれずに冷笑した。

 








 一時間前。




「…気絶してんじゃねえか」


 身を投げ出され、乱暴な運転により頭を強打したシャルロットが倒れている。

 はだけて陶器のように白く滑らかな足が大胆に覗く。余程痛かったのか眉根を寄せた苦悩の表情を浮かべていて、それもまた男たちの加虐性をくすぐった。瑞々しい林檎のような唇が開き、長いまつ毛が目元に陰影を作る。

 待機していた男たちも含めごくり…と生唾を呑み込む。

 

 


「じっくり見てもいい女だな」

「ああ。皇后陛下が傷物になる瞬間が楽しみだ」

「俺らも試しに少し…」

 

 男のうちの一人、肉付きの良い手がシャルロットの腕を掴んだ。ゴロンと転がり正面を向いたシャルロットの胸の谷間が、黒いレース越しに露わになった。

 その気になった男たちは体が熱く昂るのが分かった。

「味見させてもらおうか」


 舌なめずりをしてその胸に手を伸ばしたその時、一人の男が「ぐえっ」という蛙のような鳴き声を上げて倒れ落ちた。



「誰だ!?」

 叫んだそばからばたりばたりと仲間が倒れていく。血飛沫が上がり、しなやかな身のこなしの男に降りかかる。鈍く光る銀色から紅が滴り、ぶわっと鳥肌が立つほどの身震いがした。


 フード付きのマントに身を隠してはいるが、返り血で赤黒く染まっている。柔らかそうな波打つブラウンの髪から、日が暮れたばかりの夜空のように仄かに暗い青色の瞳が冷たく見下ろしていた。

 


「ひいいい────」

 グシャッ、と肉を切り裂く音が響く。次の瞬間、シャルロットに触れていた男の腕が床に落ちた。視覚で認識すると、後からじわりじわりと痛みが襲ってくる。

「っ……!!うわああああああ!!!」

 男は森中にこだまするほど、断末魔の叫びを上げていた。


 

「耳障りだ」

 その叫びの最中で、剣が正面から振われる。きつく瞼を下ろした男の意識は、そこで失われた。

 心臓をひと突きだった。



 肉を抉るように剣を抜くと、シャルロットに血の雫が飛ぶ。頬を伝って、髪に落ちた。


 質素なドレスを身にまとっていても、差し込む月光がシャルロットを輝かせる。血の映える雪のように清らかな白肌に、波打って広がるラベンダー色の髪、長いまつ毛に縁取られた目、眠っているはずなのに苦しげな表情もまた、艶やかだった。


 男は視界を狭める邪魔なフードを外した。

 薄桃色の唇に惹かれて手を伸ばし、親指でそっと触れる。寒さのせいかやけに冷たいが、想像通りの柔い感触だった。

 



 磨くほど光る原石のように見えた。華美に着飾らずとも一際輝くその容姿は、時を止めてしまいたいほどだった。


『あまりの美しさについ引き寄せられてしまいました』

 その言葉に嘘はない。

 

 俺に向ける意志の強い瞳も、皇帝には和らいで豊かな愛情が見て取れる。




『ベア』


 その時、男の脳裏を過ったのは大きな目を眇めて微笑む美しき人の面影だった。






「っん…」

 目の前でシャルロットが呻いたことで男は意識を取り戻した。



「誰だ!?」

 その時、背後から幼い声が怒った。振り向くよりも早く、男とシャルロットの間に立ったのは、まだ年端もいかない中世的な顔立ちの少年だった。

 


「答えろ!」

 鞘から剣を抜くと、男の首に向けた。



 声の通り、感情が素直に顔に出ている。感情任せに動くのは感心しないが、その目には躊躇いがなかった。

 剣の構えも姿勢も良い。それに、服から出ている腕は幼いながら鍛えているのが分かる。


「…皇后陛下の護衛だ」

「嘘だ」

 背後で固まっていた気配が近付いた。モーリッツの首に今度はフォークが突きつけられる。



「前に皇后陛下を陥れようとした。それで失敗したから、こうやって手を下しに来たんだろ」


 モーリッツが静かに首を動かすとフォークがグググッと刺さっていく。だがモーリッツは首から血が流れても気にも止めなかった。

 ギロリ、とこちらも容赦ない目をしている。


「ああ…、あの時の孤児か」

 トーマの浅黒い肌に金糸のような髪を見て、モーリッツはすぐに思い浮かんだ。

「よくも二度も邪魔してくれたな」

 そしてニヤリと含み笑いをした。

 

 


 隣には誘拐した子どもを乗せた荷馬車があった。二人の手首に紐で巻き付けられた内出血の痕があるのを見ても、そこから逃げ出してきたに違いない。

 そして正面に立つガキも、彼女と何らかの関係があって間に割り込んできたのだろう。

 だが…所詮は非力なガキ。


「今ここには、俺たちしかいないことを忘れたのか?」


 フォークを掴む腕を握られ、トーマはしまったと思う。しかしそう思う頃にはこの身が宙に浮き、目が合ったナッシュに叩きつけられていた。


「っく…!」

「いっだ!」

 頭同士がぶつかり合い、ナッシュはトーマの下敷きになっていた。

 頭がかち割れそうだ…。睨み付けても、モーリッツの輪郭もぼやけている。這いずるようにナッシュの上を退いたトーマの顔を何かが伝い、頬に指先で触れる。

「っ…!」

 汗のように思っていたそれは、熱く滑る血だった。



「っくそ…、大丈夫か」

 顔面蒼白になったトーマは、そう尋ねられてナッシュを見やる。その視界さえも、上から赤く染まっていった。


 じんじんと痛む頭を押さえ、堪えるように目をきつく閉じていたナッシュは、それでも返事のない隣を見やる。

「おい、大丈夫かって聞いて…」

 

 そして、頭から血だらけのトーマを見て、呼吸が止まった。

「っ………!!!」

 


 今にも死んでしまうんじゃないかと錯覚する。トーマは頭を押さえたまま、立ち上がることさえできないようだった。

「ふっ…。邪魔をするからだ」

 ギリッと歯を食いしばって見下す双眸を凄む。ナッシュの頭の中が、怒りに染まっていく。

 ふと、忘れやしない生々しい記憶が蘇った。





♢♢♢



 猫の鳴き声のようにゴロゴロと、しかし耳を塞ぎたくなるほどの音を上げて雷は怒り狂う。強風も相まって雨粒が窓を叩き、外れかけの窓ガラスを揺らした。


「今日は天気が悪いわねえ」

 ベッドの脇に腰掛けた女は、その空を見上げて不安を感じ取っていた。

「ママ、怖いの?」

 どこか元気のない母親を慰めようと、ナッシュはベッドから体を起こし、揶揄うように笑う。

「ふふ、そんなわけないでしょう。ナッシュが怖がって眠れないと思って」

「僕はそんな弱虫じゃない!僕がママを守るんだ!」


 逆に挑発に乗ってしまったナッシュの言葉は、母親の胸を打つ。真剣な顔が面白くて、けれど嬉しくて。母親は吐息をこぼしてふふっと笑った。

「期待してるわ」

「うん!」



 そう、誓ったのに。




 ゴロゴロゴロ、と固いものがぶつかりながら崩れ落ちる音ともに、地響きがした。

 何の音だろう、と疑問に思ったナッシュは窓の棧に手を掛け覗き込む。すると親しくしていた隣家に何かが流れるように落ちてきて、民家はいとも簡単に押し潰されていた。

「っ危ない!!!」

 呆然とするナッシュは、気が付けば母親に守られるように包まれていた。爆音とともに壁が破られ、土砂に流されるまま体が何回転かしながら砂利道の地面に打ち付けられる。腹を蹴られたように打ち、頬が切れ、それでも、温かかった。

 何十人という人に押さえ込まれているような苦しさで、息もまともにできなかった。


「ッケホッ、ゲホッ…。ママ…?」


 ようやく衝撃が収まり、吸い込んでしまった砂や埃で反射的に咳が出る。

 後頭部でピクリ、と何かが動いた。



「…ママ?」

 首元から、顔を上げていく。眉間に皺を作り、息も絶え絶えになっている母親が、薄く目を開いた。

「……ナッシュ…」

「…………………ママ……」


 ナッシュは声が掠れていた。最後の姿を看取るためのように、目をこれでもかというほど見開いていた。


「……良かった…っ。あなたが無事で………」

 その目は星のようにきらきらとして、一筋の涙が地面に打ち付けた。



 ────嘘だ。

 信じたくなかった。

 信じられなかった。



 けたたましい雷が光を放つたび、明かりの消えた世界に見たくない光景が見えてしまう。


 頭から血を流した母親は、その身でナッシュを庇い、自身の首から下は土砂と家の棚に押し潰されていた。自分は、母親の下に隠されていたから、助かっているんだ。


「今のうちに逃げなさい、ナッシュ」

 自分を見つめる世界一優しい眼差し。いつもなら嬉しいはずの眼差しが、今だけは胸を締め付ける。

「ママっ!ママっ…!!」

 母親は最後の力を振り絞り、腕の中からナッシュだけは逃そうとした。感覚のない下半身が使い物にならないことが分かっていたからだった。


「…お願い、もう限界なの。早くっ…」

「っ…」

 顔を歪めた母親に、逆らうことはできなかった。ナッシュが母親の元から抜け出すと、母親は力尽きたように地面に頬を打つ。

 途端に土砂が再び流れ出し、母親の上にあった棚や重い土砂がさらに下降の地へと落ちていく。豪風が駆け抜け、砂埃が舞った。


 一度は腕で顔を隠したナッシュは、土砂崩れが収まるやいなや駆け寄った。

「っママ!!!」


 泥だらけになった母親は、地面に顔を伏せたまま倒れ込んで目も開かない。土に広がる長髪もところどころ短く切れている。露わになった足は変な方向に曲がり、血溜まりができていた。

 雨が容赦なく二人を濡らしていく。


「ママっ!」

 まだ母親の上に残っていた土砂を、かき分けるように必死に捨てた。

「ママっ…。ママっ!!」

 状況を理解してきた頭が、最悪の事態を想定する。それが現実となってしまいそうで、込み上げた涙が溢れて止まらない。



「お願い、ママっ!!死なないで!!」

 

 そう叫んでいると、どこからか「こっちにも人がいるぞ!」と応援を呼ぶ声が聞こえた。


「……ナッシュ…」


 雨音にかき消されてしまいそうなか弱い声。けれどナッシュには確かに聞こえた。

 母親は睫毛を震わせ、そっと目を開ける。もう視界は真っ暗で何も見えなかった。


「……ごめんね、一人にして」

 それは、最も気掛かりなことだった。

 父親を亡くしたナッシュがそのことで周囲に有る事無い事陰口を叩かれたり、父親の代わりを務めるように振る舞う姿を見るたび、母親は泣き叫びたいほどの痛みを感じた。



 母親のこめかみを雨粒が通る。それが雨ではないことは、震える声と何かを堪えるように力のこもった目から分かっていた。

「やだっ…。いなくならないで…!!」


 困ったように笑った母親は、ナッシュの頬に手を伸ばす。しかし届かないうちにその手は止まり、ゆっくりと地面に落ちた。

 それからもう、目を開くことはなかった。





「置いていかないでっ!!!」




♢♢♢



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