押し寄せる不安と幸福
帝都の街並みは変わらずラベンダー色に染まっていた。しかしガラスのウィンドウに反射していた眩い商品は、めっきり見えなくなっていた。
酒場の店主と常連客は近くの宝石店を見上げる。
「近頃ドレスや履き物に宝石をあしらったものを見なくなったな」
「ガルパット鉱山が採掘職人らに占拠されてるからじゃないかしら?彼ら融資金を横領しただけでなく、宝石の採掘をしないそうよ」
「通りで貴族たちが質素なわけだ」
宝石店は入荷が少ないため値上げをせざるを得ない。しかし値段は高騰しても、その質は貴族たちの目から見れば低下しているようだった。
大粒ダイヤの指輪が、ひと滴ほどのダイヤがはめ込まれた地味な指輪に。
こんなものでは付けている意味がないと、懇意にしていた顧客が離れつつあった。
被害を受けていたのは宝石店だけではない。
「つまらないドレスね。もっと輝かしいものはないの?」
「も、申し訳ございません!当店では宝石をあしらったものはこちらがラスト一点でして」
「前のお店も同じようなこと言ってたわ。本当は隠し持ってるんじゃないの!?」
「めっそうもこざいません!」
「まあいいわ。扇子を見せて頂戴」
従業員に案内され、扇子をざっと見やる。
「どれも宝石の一粒も付いてないじゃない」
「今は入荷がない状況でして…」
「言い訳は結構よ!」
令嬢は立腹したまま踵を返す。ドアを乱暴に閉められ、従業員はやらせない気持ちが込み上げて嘆息した。
宝石をあしらえないドレスや履き物に価値はないと、貴族たちが離れていき大打撃だ。
ガルパット鉱山の占拠が新聞で報道されると、宝石がなくなることを恐れた各方面から入荷連絡が殺到した。その当時は一時的に売り上げが上がったものの、それからは急降下する一方だった。
それまで宝石をあしらっていたドレスや履き物、帽子に扇子まで、宝石をあしらったものは店頭では滅多に見ることがなくなっているから、予測できないことではなかった。しかしメインとなる宝石が採掘できないとなれば、予防策など打ち出せるはずもなかった。
「陛下が即位されてすぐこれか…。先が思いやられる」
「皇帝陛下は関係ないだろう」
「しかし無関係とも言えまい。陛下が横領事件の助言をなさり、その提案を拒んだ職人らが今回のろう城事件を起こしたのだ。陛下が余計なことをしなければ…」
それぞれの執務が一区切りした日暮れ、シャルロットの自室のローテーブルを囲い、アロイスたちはソファに腰掛けていた。考え込んでいるうちに、ソフィーが煎れてくれたミルクティーはすっかり冷めてしまっている。
「これはただの横領・ろう城事件ではないだろう」
「はい。もっと深い何かが絡んでいる気がします」
シャルロットは腹の奥に大きな石でもつっかえているかのように気が重かった。
「奴らの目的は金ではなかった。
それに肉体労働をしていた何十人の男たちが48日も食糧に困らずにいるためには、相当溜め込む必要があったはずだ」
「しかしどう頑張ってもひと月も持つとは思えません…」
いくら何日もこもって作業をする鉱山といっても、食糧を溜めておけるスペースは限られているし、衛生環境も悪い。
「つまり、外部の者が援助している可能性が高い」
「鉱山に繋がる唯一の坑道は役人の方たちも監視しているのではないでしょうか?」
「いや、昼間はともかく夜間はないだろう。採掘職人らは立てこもっているだけだからな」
「よりによって帝国の経済を動かしているも同然の宝石だなんて…」
アロイスは顔には出さないが、シャルロットは事の重大さに耐えきれずそう溢してしまった。
貴族たちは輝くものに目がなく、帽子にもドレスにも宝石をあしらう始末だ。近頃はシャルロットをイメージした紫の宝石、アメジストやタンザナイトが爆発的に流行していた。
その勢いは帝国内には留まらない。大陸の中でも最も輝かしく希少な宝石が採れるのはここ、ラングストン帝国。
輸出の名物品であり、他国との取引や友好の証として帝国の宝石が贈られることはしばしばあった。
「…そうか……」
納得したように呟いたアロイスは目を大きく見開いてシャルロットを見やる。
「経済を止めることが目的なのかもしれない」
「…そんなまさか…」
シャルロットは愕然とした。
宝石の動きが滞れば貴族たちの消費が減り、帝国内の経済も滞る。雇用が減り、失業者が増え、生活に困窮する民が増加し…国に対する不満が積み重なるきっかけとなる。
帝国外にも輸出ができなくなり、ガルパット鉱山の占拠が報じられ、帝国の治安維持もままならないと見下され、帝国外の信頼も損失する…。
「…このまま放置をしても、前世のように全員解雇にしても、帝国民の反乱に向かう未来は避けられない」
ああ、お腹が痛いわ…。
シャルロットは腹の辺りをぎゅうを握り締める。そのことに気が付いたアロイスは、回り込んでシャルロットの隣に腰を下ろした。
ぴったりとくっついた半身が温かい…。
そんなことを思っていると、シャルロットの握り締めていた手にアロイスの骨張った手が重なった。
「今詳細を調べているところだ。分かり次第解決に向かって動き出そう」
「……はい…」
未だ不安げに瞳を揺らすシャルロットを、アロイスは優しく包み込んだ。ラベンダー色の髪から風呂上がりの薔薇の石鹸の香りが漂う。まるで引き寄せられるように、アロイスは髪のかかった耳に口付けた。
「そなたの不安を、全て取り除いてやれればな…」
「っ…」
色っぽい声で、誘惑するように耳元で囁かれる。シャルロットを慮る優しさと惑わす色に翻弄されて、心臓の鼓動がいつになく早い。
アロイスはシャルロットから目を伏せ、自嘲げに微笑む。
「……ここへ来たこと…、後悔しているか?」
シャルロットは酷く驚き、アロイスを見上げようとする。しかしアロイスは表情を隠すようにシャルロットを胸に抱き締めて閉じ込めた。
シャルロットにとって帝国には悪夢のような思い出がたくさん詰まっている。貴族派にその座と命を狙われ、ビアンカとモーリッツに再会し、弱っているところに、ここにきて宝石の供給が止まるという帝国存続の危機の種も撒かれた。
帝国に足を踏み入れなければ、シャルロットが苦しむことはなかったはず。
それなのに私は、彼女を諦めきれなかった。
受け入れてくれる彼女の優しさにつけ込み、再びこの皇宮の地を踏ませた。
そう分かってはいても、彼女を離してあげようと一瞬考えが浮かんでも、それを口にすることはできなかった。
「アロイス様」
シャルロットの声で我に返る。頬には柔らかな手があり、心配そうに可愛らしい顔が覗き込んでいた。
もし彼女が私の意見を受け入れればと思うと、恐ろしい。シャルロットのいない人生をこの先送らなければならないなど、想像しただけで…。
「泣かないでくださいませ」
「泣いてなど…」
ほろり、シャルロットの手に滴が流れる。アロイスは目を瞬かせた。
「…アロイス様」
抱きしめられていた腕から抜け出し、今度はシャルロットがアロイスを抱きしめた。
未熟な自分が不甲斐ない。なんと女々しいのだ、私は。今でさえシャルロットに見捨てられなくて良かったと安堵してしまっている。
温かな腕にさらなる気持ちが溢れ、アロイスはみっともなく肩に顔を埋めて寝巻きを濡らした。
「……わたくしはアロイス様を愛しております。
愛するお方のおそばにいたいと思うことは、当然のことではありませんか?」
アロイス様はいつも、わたくしを安心させようと気遣われる。
わたくしの不安を取り除こうとはしても、ご自身の不安は放置されたまま。ずっとそうしていたら、いつかきっとこのお方は壊れてしまう。
「わたくしは決していなくなったりしませんわ。
神殿で仰ってくださったじゃありませんか、『これからはずっと一緒だ』と」
即位したばかりで、暗い闇の中から眩い光の中に放り出され、前世の記憶と重なって混乱されているのかもしれない。
不安になられるのは今だけで、いつかはわたくしの言葉など必要なくなるかもしれない。
例えそれでも、力になって差し上げたい。どうかアロイス様には、幸せでいてほしい。
アロイスは力いっぱいシャルロットを抱きしめる。
苦しい……。そう思いつつも、嬉しさが込み上げて口にはしなかった。
「…ありがとう、シャルロット」
アロイスは幸せで胸がいっぱいだった。