錆びた指輪
「これは皇后陛下。わざわざこんな王都の外れにまで足を運んでくださり、一体なんとお礼を申したら良いか……」
平民区域よりさらに奥まった、南の森のそばにある孤児院。子どもたちが走り回っているのか揺れる度に剥げた塗装のくずが落ちてくる。
出迎えてくれた院長は腰が曲がり杖がないと足が震えて立っていられない様子だった。
「まだ訪問しただけですわ」
「帝国の頂点に立つ皇帝陛下と唯一並べる皇后陛下が、このような場所を訪れてくださったという事実は異例のことです。本当に、心より感謝申し上げます…!」
深々と頭を下げたせいで今にも倒れそうになっていた。
わたくしが孤児院を訪問することで、皇后陛下が気に掛けている孤児や修道女に貴族たちは手を出しづらくなる。予防策としてはかなり効果的とコルネイユも後押ししていた。
ひとたび中に足を踏み入れると、壁が黄ばみ、どこからともなくカビ臭さがしていた。どこの施設でも似たようなものだけれど、建て直し予算も組み込みたいわね…。
庭で遊んでいた子どもたちはよれよれで汚れの染み付いた服を着ていた。
「お姉さん貴族?すっごくきれー!」
「いい匂いがする!」
「あっ、俺知ってるよ!ラベンダーの髪色は皇后陛下だって!」
「お姉さん皇后陛下なの!?」
「すごーい!」
好奇心で集まってきた子どもたちはシャルロットを取り囲み、ドレスの宝石に当てられたのか「眩しい…!」と目を細めていた。
「院内を案内してくれる?」
「もちろん!!」
「いいよ!」
貴族に酷い目に遭わされて怯えているのはほんの一部の子たちだけ。院の外は貴族に何をされるか分からないだけでなく、誘拐の危険もあるため、外出を許されること自体が稀で、ほとんどの子どもは成人を迎えるか引き取られるまで院の中で過ごす。
廊下にある棚の上にリングスタンドが置かれ、錆びた指輪が飾られている。…これは何かしら…?
「あ、トーマ!」
それまで小部屋や大広間を案内してくれていたうちの一人の少女が、とたとたとどこかへ行ってしまう。
子どもからは一瞬も目が離せないというけれど、正にその通りね…。木陰で読書を嗜んでいた少年は、少女に声を掛けられ顔を上げた。丸くなった目がシャルロットに向けられる。
「…あの時の…!!」
「……あ…!」
街へ降りた日の夕方、アイスをわたくしのドレスに付けて転んだ少年…!
トーマは本を畳んで脇に抱え駆け出した。
「あの…!この前は、ありがとう…。…ございます」
「ふふ。無理に堅苦しい言葉を使わなくても良いのよ」
あの時はまだ外を歩いていると日差しが強くて汗ばむ季節だった。今は日が暮れると冷え込んで凍死することもあるというのに、トーマはあの時と全く同じ服装をしていた。
「あの金で夜は見たこともないご馳走を食ったんだ。腹いっぱいになるまで!」
少年は浅黒い肌の中で星のような金の瞳を輝かせていた。
「そう、それは良かったわ」
そっと手を伸ばすと不思議そうに視線が手を追う。頭に乗せて撫でてあげると、ほんのり耳が赤くなっていた。
「こーごーへーか、私の部屋も見て!」
「こっ…!」
その単語にトーマは目の玉が飛び出そうなほどだった。くすりと笑ったシャルロットは、少女に手を引かれるまま進んでいく。
庭の広々とした畑だった。その向こうでボール遊びをしていた子どもらが貴族の装いをしたシャルロットに興味を示し、近寄ってくる。
「見て!ここでいつもお芋を採って食べてるの!」
「いつも芋ばかりで飽きるけどな」
「もう!そんなこと言わないの!」
年長の子が年下の少年の頭を小突く。
「じゃあここに埋めようかしら」
「何を?」
「レタスの種とトマトの苗を持ってきたの」
控えていた侍従らが動き出す。
「成長が早いから、冬が過ぎれば収穫できるはずだわ。それまで育ててくれる?」
「もちろん!」
「害虫処理は任せて!」
「俺水撒き!」
侍従たちの畑作業を率先して手伝い、土を掘って苗と種を埋める。公国ではトマトはこの時期ではなかったけれど、ラングストン帝国のトマトは冬の終わりに花を咲かす。
「春が待ち遠しいわね…」
隣にいたトーマが何かを言いかけた時、とてとてと頼りなく歩いてきた女の子がドレスを引っ張った。
「ねえ、お絵かきしよう!」
「いいわね。みんな手を洗ってお部屋に戻りましょうか」
シャルロットの言う通り手を洗って部屋に戻っていく子どもらを見ながら、修道女は感激していた。いつも何度言っても言うことを聞かない子どもたちなのに…!皇后陛下にずっといていただきたいくらいだわ…。
各々が思い思いの絵を描いた。畑のトマトの想像図や、いつぞやの豪勢な夕食、修道女と院長、仲間たちの絵。そのうちに昼食の時間になり、皇宮の料理長らに頼んでおいたサンドイッチが届いたため、お昼を済ませた。
「すっごく美味しかったね!」
「サンドイッチ初めて食べた!」
「ふわふわでシャキシャキ!」
「また食べたいなあ」
子どもたちがそんな話をしていると、何やら表の方が騒がしくなっていた。
「…何かしら」
「見てきます」
エリックが大広間を出ようとしたところ、先に別の人物が姿を現した。若々しい風貌ながらディートリヒ騎士団の制服を着こなしたその姿を一目見て、シャルロットは驚愕の色を浮かべた。
「先客がいたようですね」
「控えよ。皇后陛下の御前だ」
エリックの言葉に臆することはなく「それは失礼致しました」と口ばかりが達者で、頭を下げる前にちらりとこちらに視線を寄越す。
その顔は、腹の底に何かを抱えた悪魔のようだった。そう、前世のようにわたくしを陥れる悪い企みがあるかのように…。
『…ベア・モーリッツが帰ってきた』
「今年度からディートリヒ皇室騎士団に入団しました、ベア・モーリッツと申します」
モーリッツ卿…。
くるくると巻かれたようなブラウンの髪に隠された青い瞳が、顔を上げながらじろりとシャルロットを見つめた。
『こちらにいらしたのですね、皇妃殿下』
背筋がぞくりとした。一瞬にして鳥肌が立つ。
哀れむような目で見下ろし、躊躇いもなく剣を向ける。
『シャルロット皇妃殿下。ビアンカ様の下命により、ここで死んでもらう!!』
そして仕えていたビアンカ皇妃殿下の命令通り、剣を振り下ろした。
「っはあ、はあ、はあ…っ」
事前にアロイス様から聞いていたのに、いざ目の当たりにすると…怖い。
「…皇后陛下?ご気分が優れませんか?」
マルティンが顔を覗き込む。シャルロットはどうにか首を振って俯いた。こんな隙のある弱った姿を見せるわけにはいかない。
わたくしをよく思っていなかったり、ちょっとした嫌がらせを仕掛けてきた皇宮の者たちはほとんど入れ替わり、かつての知り合いに会うことがなかったから動揺してしまった。
ジャスナロク王国との友好の証としてそれぞれの国から交換で留学生を送る。そのうちの一人として、彼はやってきた。留学生は本人の意思と学長の推薦、国王の許可でやって来れるため、帝国といえど細やかなところにまで口は挟めない。優秀な人材を送れとは言えても、わたくしたちが知る由もない、一個人のベア・モーリッツを送るなとは言えない。
悪事を働いていたならともかく、彼は養成所内では常に優秀な成績を収めていたし、優れた人格の持ち主とされていた。その上アロイス様が皇帝陛下になる何年も前から、留学生として帝国で暮らしていた。
留学を終えて祖国に帰ったモーリッツ卿がディートリヒ騎士団の一員として帝国に帰ってきたことは聞いたけれど、まさかこれほど唐突に現れるなんて…。
「具合が悪いようでしたら、薬を持っておりますのでお渡ししましょうか?」
薬…?一体何を企んでいるの…。毒入りなのかしら…。
でも、彼女は今一国の王女のままで、この男は今はビアンカ皇妃の護衛ではない。
「…結構よ。それよりここには何の用かしら。
騎士が孤児院を訪問するなんて聞いたことないけれど」
「帝都の巡回をしていたのですが、孤児院なのに余りにも静かだったので不安になり、入らせていただきました」
モーリッツ卿の背後で修道女が眉を垂らして俯いている。半ば強引に入ってきたのかしら。けれどどうして…?本当に正義感から…?
「そうだったの。見ての通り子どもたちはわたくしと昼食を取り、これからお昼寝の時間なの。ご心配は無用よ」
「かしこまりました。では私はこれで…」
忠義を尽くす騎士の仮面を崩さない。背を向けたことに胸を撫で下ろしたシャルロットだったが、モーリッツは「はて」と足を止めた。
「ここには確か…指輪が飾られていたと思うのですが…」
廊下の棚の上にはリングスタンドだけが残され、錆びた指輪が消えていた。
「あ…もしかしたら、子どもたちが盗んだのかもしれません。過去に一度あったので…」
「大事な指輪なのですか?」
「はい。何でも初代皇后陛下が、この施設がお金に困ったときのためにと置いていかれた指輪だそうです。しかしどんなに生活が火の車でも売ることなどできず、いつしか錆びてしまって、今ではほとんど価値もないのですが…」
修道女は残念そうに「子どもたちが返してくれるのを待ちます」と目を伏せた。
「…とても思いの深い指輪なのですね」
「はい」
シャルロットの言葉に、修道女は笑顔を見せる。その指輪一つが、孤児を導く彼女たちの心の支えだったのかもしれない。
「……今日は人の出入りも多かったようですし、どこかに落ちたのかもしれませんよ。よろしければ探すのを手伝います」
「いえ、騎士様にそんなこと…!」
「僕も探すー!」
「私も!まだお昼寝したくない!」
お昼寝を避けるために指輪探しに協力すると名乗り出た子どもたちに圧倒され、修道女も「じゃあみんなで探そうか…」とモーリッツ卿の提案に乗っていた。
まるでわざと誘導しているように見えるのは、わたくしだけなのかしら……。
棚の中や後ろを探す子どもに倣って、シャルロットも廊下の端をジッと見つめたり物陰を探していた。
「しかしまさか皇后陛下の御目通りが叶うとは思ってもおりませんでした」
いつの間にいたのだろう。すぐ真横にモーリッツ卿がいて、シャルロットは驚きのあまり飛び退いてしまった。ヒールで躓き、倒れかかったところをモーリッツ卿が腰に手を添えて支える。
その瞬間、得体の知れない恐怖が湧き上がり、さっと距離を置いた。
「ご無事ですか皇后陛下」
捜索をお願いしていたマルティンとエリックが駆け付けてくる。
「ええ…」
ちらりとモーリッツを見上げると、シャルロットに不適に微笑み掛け、別の方を探し始めた。
「…大丈夫よ。捜索を続けて」
「はい…」
「……」
顔はいわゆる美形の部類なのだと思う。何も知らなければ、柔らかな貴公子の雰囲気に酔いしれていたのかもしれない。けれど前世のことがあるからか、偏見を持って見てしまう。
今も助けてくれたというのに、警戒心ばかり露わにして…。お礼くらい言わなければならないわよね。
「モーリッ───」
カンッと床を何かが打つ。
皆が振り返り、シャルロットも下を向いた。足元から転がっていったそれは、モーリッツ卿の前で横に転がって止まる。
え…………?
「…今、この指輪……」
モーリッツ卿は目を瞬かせてシャルロットを見つめた。指輪を拾い上げた1人の子どもが、シャルロットを疑うように見つめた。
「こーごーへーかから落ちてきた!」