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汚れた存在




 皇帝陛下の即位、皇帝の婚姻と皇后陛下の即位…、大規模な行事は一通り為し終え、突き抜ける風が身を凍えさせる季節になった。街を歩く民は厚着になり、路地裏の孤児が寒さで凍死する件も増えてきた。


「モーリッツ卿には退屈だろう、街の見回りだなんて」

「いえ。これも大事な騎士団の業務、ですよね?」



 上官は望む言葉と微笑みだけで「モーリッツ卿は素晴らしいな…!」とベアを褒め称え感心している。品行方正で騎士養成所の教師たちからの信頼も厚く、学生時代から教師の推薦で田舎の騎士団の任務に就き、村を襲おうとした賊から村人を救い、守った実績もある。


「きっと希望通り皇宮の護衛に就けるだろう。午前の模擬練習で熟練の先輩相手に打ち勝った実力は皆が目にしていた。団長代理の補佐官の方々もな」

「私の夢は騎士として人々を守ることです。仮に皇宮勤務になれなくとも、帝国の民を守るために力になれるのなら、誇りに思います」

 上官は腕を目元にやり、「お前のような内外優れた逸材を育てることになるとはなあ」と声を震わす。




 騎士団の上官といい、この街の連中といい、なんて単純で警戒心がない奴らばかりなんだ。制服を纏い数日見回りをしただけで俺の名を呼び手を振ってくる。振り返すのが面倒なほどだ。


「しかし良いのか?お前のような実力なら、祖国に戻ったら英雄にでもなれるだろう。|ディートリヒ皇室騎士団うち|は戦争への参戦義務があり、それで命を落とす者もいる」

「もちろん故郷が恋しくなることもありますが、私は学生時代を帝国で過ごしました。第二の故郷といったようなものですので、帰るのも躊躇われます」


 ふとベアの歩みが止まった。路地裏から薄汚れた子どもがマントの裾を引っ張っていた。布一枚に包まって歯がガチガチと音を鳴らしている。

「…ドブネズミが」

 鋭い眼光に子どもはびくりと跳ねたが、弱い力でマントを握ったままだった。



「モーリッツ卿?」

 振り返った上官はベアが動かないことに気付き、後戻りしてくる。

「どいつもこいつも、クソばかり」

 ゲシッと子どもを足で踏みつけると、あっさりと横たわって倒れた。


「何かあったのか」

「いえ、マントが木箱に引っ掛かってしまったようです」

「この辺は食事処が多いからなあ。今の冷える時期は食材を外の木箱に保存するんだ。ほつれたなら戻って直してもらうと良い」

「そうすることにします」

 横目で背後を確認したが、追ってくる様子もない。

 




「おお、あれは…!」

「皇室の紋章だわ!」

「すごーい!キラキラしてる!」

 街の注目の的になっている、黄金の紋章に黒塗りの馬車。車輪も金具も金で作られ、その他の馬車がみすぼらしく見えるほど眩かった。


「あれが皇室の馬車だ。皇族のみ使用が許されている。陛下か、ステラ皇女殿下、そして嫁いでこられた皇后陛下だな。

あれは恐らく、皇后陛下だろう」

「分かるのですか?」

 上官は得意げに「皇室をお守りするからな、情報は入ってくる」と顎髭を触っていた。



「近頃皇后陛下が孤児院を視察して回っているらしい。先代皇后陛下は一切気に掛けていなかったのだが…。

平民区域で土砂災害があった時も真っ先に陛下と駆け付けられ、救出作業と避難誘導にあたっていたそうだ。貴族だけでなく下民共も気に掛けられる慈悲深いお方なのだろう」


 平民を助けた…?なるほど、それで街の者たちの反応も良いわけか。

 馬車が通り掛かっただけで目を輝かせて手を振ったり、活き活きとした顔になり仕事に精を出す。即位したばかりで既に国民の信頼を得ているようだ。

 しかしそれなら…。


「裏切られたときのショックも大きいだろうな」

 にんまりと笑ったベアの呟きは誰も聞き取れなかった。



 その日、路地裏で冷えた孤児の遺体が発見された。顔には何かに強くぶつかった跡があり、その損傷が致命傷となったのか、はたまた近頃増加している凍死なのかは不明のまま処理された。










 ある昼下がりの皇宮、アロイスは皇后宮の回廊を歩いていた。

「キャア!ネズミよ!」

 掃除をしていた下女たちが喚いている廊下の隅に、灰色のネズミが追いやられていた。

「早く誰か殺して!」

「汚らしい!触りたくもないわ!」

 下女は互いに役割を押し付け合い、その存在を疎んでいた。



『生命力だけは地下のドブネズミ並みだな。さっさとくたばれば良いものを』



 その言葉がたった今目の前で吐き捨てられたような感覚だった。


「まあ、皇后陛下の御前で何を騒いでいるのですか!」

 目くじらを立てたソフィーがじろりと下女たちを睨み付ける。容赦のないソフィーに目を付けられ、下女たちは震え上がってそそくさと頭を下げた。シャルロットは下女たちの背後を覗き込む。


「皇后陛下!侍女長!大変申し訳ございません!」

「実はネズミが入り込んだようでして…」

「さっさと処分してしまえば良いでしょう」

「わ、私どもが触ることは……」

「何を言っているの!それで皇后陛下のお部屋にでも出たら貴女たちはどう責任を取るつもりでしたか!!」

 ソフィーはえらい剣幕でまくし立てる。下女たちは涙目で縮み上がり、それを見たシャルロットは「わたくしは大丈夫よソフィー」と和かに声を掛けた。



「しかし…!」

「それとこの子は処分しないであげて」

 シャルロットの動きをただ見つめていたソフィーと下女たちは、あまりの事態に絶句した。シャルロットが両手でネズミを抱え上げたからだった。

「皇宮の敷地の外に逃してあげましょう」



 アロイスは目を見開いていた。

「…陛下、行かれないのですか?」

「………」

 それは、そばに立つ護衛のトルドーの言葉も耳に入らないほどだった。




「皇后陛下!そのようなものに触れられては汚れてしまいます!」

「どうして?洗えば良いわ」

「洗っても穢れは落ちません!」

「…ソフィー、お願い」


 じいとソフィーを見つめるシャルロットは、口元こそ親しみやすさを覚えさせたものの、その目からは強固な意思を感じさせた。ソフィーは口を噤んだ。廊下から続く庭園への道を進むシャルロットの背中に反論できる者はいなかった。肩越しに振り向いたシャルロットが天使のような笑みを見せる。

「この子に罪はないわ」


 まだ何か言いたげだったソフィーも、主人の言葉にそれ以上は口を開かなかった。鷲の紋章が入ったマントが翻る。シャルロットとソフィーの後にエリックとマルティンが続いた。

「飼ってはあげられないけれど、あなたを自由にはしてあげられるわ」

 ネズミは大人しく庭園の景色を眺めていた。


「…ほら、あなたたちも仕事に戻りなさい!」

「はっ、はい!」

「すみません!」

 バタバタと下女たちは立ち去り、ソフィーもシャルロットに続く。アロイスは声を掛けられないまま見送った。






 日が暮れ、ポツリ、ポツリと雨が廊下の窓を打つ。護衛が扉を開き部屋に足を踏み入れると、警護をしていたエリックとマルティンは頭を下げて部屋を出て行った。

 薄暗い室内に寝息が響く。


「シャルロット」

 その名を呼んでも返事がない。温もりのあるベッドに潜り込み、間近で顔を覗く。

 青色の瞳は瞼に隠され、色っぽく開いた唇から小さく呻き声がした。

「先に寝てしまったか…」

 寝顔を見れて幸せなような、触れ合えなくてがっかりしたような、複雑な思いだった。



『この子に罪はないわ』


 まるで欲していた言葉のように、すとんと胸に落ちた。心が温かくなった。そして同時に、無防備なところがある彼女が心配にもなった。


 何度も命を狙われていたことが嘘のように気の抜けた顔で、頬を指で押しても、下唇に親指を掛けても目覚める気配がない。しばらくふにふにと押して感触を堪能していたが、支配欲が先行して僅かにこじ開けてから舌をねじ込んだ。



「…ん、……ふっ…ん」

 生温かい舌は途中から動き出し、弱い力で肩を押される。

「っ…まっ……アロイス様!?ですよね…?」

 シャルロットは目を見開いた。

「ああ」

 暗闇に目が慣れてアロイスの顔が見えてくる。そこでようやく安堵して体から力が抜け落ちた。


「良かった……。吃驚いたしましたよ…」

 ツェルンの森で悍しい思いをしてからまだ日が浅い。感情のまま先走ってしまったことをアロイスは後悔した。

「…すまない」

「…もうしないでくださいね?」

「ああ」



 途端に落ち込んで眠りに付く体勢になったアロイスに、素直だわ…とシャルロットはクスクス笑っていた。

「どうかしたのか?」

「ふふ…。何でもありませんわ」

 何だか可哀想に思えてきて、ぴったりと寄り添った。流し目で見られて妙に色っぽい。エメラルドの宝石がじいっとシャルロットを見つめた。



「…ふっ」

 本当にどこまでも可愛いらしい…。愛おしそうにまん丸の目をふにゃりとさせている。せっかくシャルロットを解放して寝てやろうと思ったのに。誘うように上目遣いで見つめられては、眠気も飛んでしまう。

「…アロイス様」

「…なんだ」

 シャルロットの小さな手がアロイスの頭に乗る。目を見つめられながら何度も手が頭を往復した。普段されないようなことだからか、こちらが視線を逸らしてしまうほどの破壊力があった。



「……誰かに入れ知恵されたのか」

 口元を手で覆いながら、赤い顔を見られたくなくてふいとアロイスは顔を逸らす。シャルロットは撫でる手を止めなかった。

「ソフィーが、男性は頭を撫でられることに弱いと教えてくれました」


 どうやらソフィーが教えてくれたことは正解だったようね。

 アロイスの見慣れない顔を見つめながら、シャルロットは満足げだった。

 普段は奥手で振り回されているシャルロットに、今日ばかりはアロイスが振り回されている。男としてのプライドは消え去り、アロイスはシャルロットをぎゅうと固く抱きしめていた。

 色香漂う余裕の微笑みもなく、首元に顔を埋めている。


「…シャルロット」

「はい」

 もぞもぞと動く度にシーツの擦れる音がする。互いの温もりも、心臓の鼓動も、すぐそばに感じられる。


 一瞬、世界で二人きりなんじゃないかと考えた。もしそうなら、このまま時が止まればいい。シャルロットと二人きりの世界に閉じ込められたとしたらどれほど良いだろうか。奪われ、傷付けられ、失う恐怖なんてものはない。二人で無事に歳を重ねていけるのなら、それだけでいい。

 

「……アロイス様?」

「…………」




 皇帝でも、時は止められない。


 永遠なんてものはない。

 失いたくなければ、もがくしかない。守るために、戦わなければならない。



「…ベア・モーリッツが帰ってきた」

 外で落雷があった。恐怖に染まったシャルロットの顔が雷で一瞬浮かび上がる。

 しとしとと降っていた雨はやがて葉をきつく打ち、激しいものに変わっていた。




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