その存在は正に
真っ暗な塔には一切の光が差さない。外の様子など到底知ることも出来ず、酔った看守に一方的に罵られることで言葉というものを知った。
『皇后陛下がお前を忌み嫌っている。当然だ、先代皇后陛下の子だからな。だが父親の皇帝陛下でさえ、皇后陛下に逆えずお前を見捨てた。お前は誰からも必要とされないどころか、ただの邪魔者だ』
『いいか?俺たちに逆らうなよ?皇后陛下も近頃はお前の様子を尋ねなくなったらしいし、お前の存在を覚えているものは、ついに俺たち看守だけだ。その俺たちがお前を殺したところで、誰も気付きやしない!その気になれば俺たちはいつだってお前を殺せる』
何日かに一度、緑色に変色したパンと虫の浮かんだスープを出される。死んでいると思っていた虫が勢い良く皿から飛び出しアロイスの手に乗った時は、ビクッと手だけが反応した。
『ハッハ!ビビったか!』
『でも大した反応じゃねえな』
『ったく。お前のような腐ったゴミの面倒を見なければならない俺たちの身にもなれ。生きているだけで迷惑を掛けている厄介者が』
『ひと月も食事を抜いてもまだ生きているとは、生命力だけは地下のドブネズミ並みだな。さっさとくたばれば良いものを』
どこからかやってきたネズミがスープの前で立ち止まり、窺うようにアロイスを見上げた。私はこれと同じ…。これは仲間なのか…。アロイスはパンを半分にちぎってネズミの前に差し出した。
『うわっ、こいつ何やってんだよ』
『こんな汚えネズミや虫だらけの塔に文句言わずにこっちは来てやってんだぞ。そんなネズミ殺しちまえ』
それからようやく、ただ床に蹲っていた私は考えるということを学んだ。何故自分は生きているのか。厄介者であるのに死なないのか。
皇位継承権を持つ者が死に、塔を出て初めて光を見た。目も眩むような奇抜な世界だった。塔の中ではドブネズミだったが、皇宮では頂点に立つライオンのように崇められた。そして思った。
ああ、そうか…。俺は世界の中心に立つ者として、神に生かされていたのだ。
『っ陛下!!』
その考えが誤ちだと分かったのは、斬りかかられているシャルロットを庇った時だった。
『どうしてわたくしなどを…っ』
例え自分が死んでも、彼女を失いたくなかった。
自分の命より大事な存在がいたなど到底思わなかった。
『どうか陛下の御命だけはお助け下さい…!』
彼女を守りたいのに、体は言うことを聞かなかった。崖から真っ逆さまに落ちながら、頭の中は包み込んでくれる彼女のことでいっぱいだった。
最後の気力で手を動かした。衝撃に備え、頭を手で押さえる。
『シャルロット』
愛しい人の名を呼んだ。
そしてはたと気が付いた。
───自分がどれほど彼女を愛していたのか。
その存在はまさに、光だった。
眩しさで眉間に皺を作りながらアロイスは目蓋を開いた。むくりと起き上がり、隙間から日の差し込む窓に目を細める。
「…スー、スー…」
手を動かそうとすると柔らかな毛が肌を掠めた。ラベンダーの淡い髪をした女性がこちらを向いて心地良さそうに寝息を立てていた。
「……シャルロット…」
その名を呼ぶだけで愛おしさが溢れ出す。長い髪を指先で弄んでいると、肩や背中にところどころ赤い印が残っているのが目に映った。
こんなものはしょせん醜い独占欲に過ぎないと分かっている。しかし指先で跡をなぞりながら、頬が緩み、心が満たされていた。
彼女の柔い体は私だけのもの。
他の男になど到底渡さない。
一向に目覚める気配のないシャルロットにそうっとキスをする。前世も昨夜も、何度も味わったというのに、まだ足りない。毎日でも、何時も求めてしまう。
「ジョルダーニ、いるか」
「はい。こちらに待機しております」
筆頭侍従のブルーノ・ジョルダーニは外から溌剌と返事をした。
シャルロットにシーツを被せ直す。床に足を付いたアロイスは寝巻きを羽織りながら扉に寄った。シャルロットの隣から離れただけで凍えてしまいそうな寒さだった。扉を開けると侍女のソフィーと護衛の四人の姿があった。
「シャルロットを起こすな。それからコフマン伯爵夫人、暖房で部屋を温めておくように」
「かしこまりました」
別室で支度をしながらすっかり日が昇った空に目を細めた。シャルロットと寝屋を共にしてから眠りが深くなったが、それでも早朝には目が覚めていた。これほど遅くまで寝ていたのは初めてだ…。溜め込んでいたものをようやく吐き出せたからか体も軽い。
「昨日の婚姻披露宴、お疲れ様でございます。
陛下の正式な伴侶の誕生と皇后陛下の御即位により、貴族らだけでなく平民たちも帝国は安泰だと喜んでいるようです」
「街ではかなりの騒ぎがあったようだな。
それにしても、昨日ばかりは貴族派たちも大人しかった」
「嵐の前の静けさ、とならないと良いのですが…」
アロイスの筆頭補佐官イレオン・レヴィナスは不審に思っていた。シャルロット様の皇后陛下御即位を喜ばしく思っていない貴族派が、昨日だけは大声で罵倒することもなく、悔しげに歯を食いしばる程度だった。
何もないと良いのだが…。そう思いながら、報告すべきことはまだごまんとあるので口はすらすらと動いていた。
「アリバラ王国の件ですが、セヴェリーノ騎士団が鎮圧を完了させました」
「時間が掛かったな」
「婚姻の儀式までには済ませられると思われていましたが、兵士だけでなく一般市民にも武器を取らせ人員を増やしていたため、手間取ったようです」
皇帝の執務室に向かう廊下は人気がない。そのためレヴィナスは遠慮なく通常のトーンで話をしていた。
「統一されてから数十年が経ったというのに、先代皇帝の崩御で帝国が混乱した隙を見て独立運動を起こすほどには、国王は諦めの悪い男のようだな」
「世代交代させますか?第一王子は親帝国派です」
「検討しよう」
しばらく席を空けていた執務室だったが、埃ひとつなく書類が溜まっているということもなかった。
「さすがレヴィナスだな」と褒め称えると「陛下が直前まで減らしていたからですよ」と逆に持ち上げられた。自分より若年の、名のある講師たちから教育を受けているわけでもない私に、これほど腰を低くさせている。この貴族社会で年を重ねるほど、それは簡単なことではない。和やかな空気になっていたところに、目の前に資料を差し出される。
「ディートリヒ皇室騎士団に新入団員が入り、配置替えがあったようです。皇宮で目にする顔ぶれも変わりますので、ご一読ください」
そこにはディートリヒ皇室騎士団の名簿と各々の配置が記されていた。身近な者は変わらないが、庭園の警備に当たっていた者が門番になっていたり、騎士団の内勤だった者が図書館の警備番になったりしていた。
「…!!」
その中に一人、忘れもしない忌々しい名前があった。
その頃、帝都ソルダの中心街、ディートリヒ皇室騎士団本拠地に、続々と馬車が到着していた。
「ママ、騎士団に馬車がいっぱい集まってるよ?」
「あら…。あれはきっと新しく騎士になった人たちね」
「もうそんな時期かい。皇帝陛下のご成婚で頭がいっぱいだったよ」
「今年の新入団員は多いなあ」
「皆新たな皇帝陛下のご即位で気合が入っているようだな」
「わあ!皆俺たちに注目してるよ!」
「ルイス、浮かれてるとヘマをするぞ」
「俺がするわけないじゃ〜ん。ヴォルこそ計算外のことが起こるとすぐ動揺するんだから」
「団長の前ではその口調も直せ。ベアを見習え。こんなに静かなんだ」
二人はベアと呼ばれた人物を見やる。パーマがかったブラウンの髪がふわふわと揺れていた。
馬車の小窓からラベンダー色に染まった帝都を横目に見つめるが、その目は空虚で、ラベンダーが映っていないよう。
「…ベア?」
「………」
「目開けたまま寝てるんじゃない?」
やがて馬車が止まる。他の馬車からは新米騎士たちがそそくさと降りていった。皆希望を胸に抱き、本拠地に足を踏み入れていく。
「俺たちも急がないと」
「そうだな。時間はまだたっぷりあるとはいえ、出遅れては印象が悪い。ベアも出ろ」
「……帝都さ」
それまで黙っていたベアが薄い唇を開いたことで、二人の視線が集中した。
「なんか…変わったな」
ベアは霞んだ青色の瞳で皇宮を見上げた。
「ディートリヒ皇室騎士団にようこそ。代理で団長を務めているモーガン・ディートリヒだ。
君たちには未来のラングストン帝国を担う星として大いに期待している」
由緒正しい燃え盛るような赤髪の男は、唯一皇族を護衛できる騎士団の指揮権を手中にしておきながら、傲慢にならず新米の騎士らにも穏健な態度でいた。しかしその目は獰猛な獅子の如く熱烈な何かを秘めている。
「あれがモーガン・ディートリヒ…!」
「一度お手合わせ願いたい…!!」
「団長代理なんだから無理に決まってんだろ」
ヒソヒソと声が行き交う中主要団員の紹介、宿舎の部屋割りや指導員の発表がなされ、その場は早々にお開きとなった。
「ベア・モーリッツ卿は残るように」
モーガンの一声で団員たちはモーリッツを振り返った。
「お、すげえじゃん!」
「団長直々の呼び出しか、光栄だなベア」
「…ああ。ちょっと行ってくる」
急な呼び出しにも不満げな顔一つせず、澄ました顔で団員たちを抜かしていく。嫉妬と羨望、好奇の視線を浴びながら、モーリッツはモーガンの正面で立ち止まって騎士団の敬礼をした。
「ベア・モーリッツ卿。留学生として帝国にやってきてからの君の成績は私の耳にも届いている。帝都騎士養成所では文武常にトップの成績だったそうだね」
「お褒めに預かり光栄です」
「…確か希望勤務先は…皇宮だったかな」
「ディートリヒ皇室騎士団に入団させていただいたからには、名誉ある皇宮での勤務を希望するのはどの騎士も同じですよ」
モーリッツはあくまで穏やかにやり過ごそうとした。だがモーガンには、笑っていない目の奥の冷たい闇がちらついているように見えた。
「モーリッツ卿の言う通りだ。競走倍率は高いから、心して研修勤務に臨むように」
「はい」
モーリッツが去っていく背中を見つめていると、モーガンは補佐官に業務に戻るよう急かされてしまい、その場を後にした。
モーリッツは一度立ち止まり、気配の消えた背後を振り返る。
…モーガン・ディートリヒ………。何か気付いたのか…?
にやりとほくそ笑んだモーリッツは、再び前を向いて歩を進める。
面白くなってきそうだな…。