仕組まれた謀略
「…話はできたか」
「はい。ありがとうございました」
「礼には及ばぬ」
前を向いたまま、素っ気ない一言だった。心なしかアロイス様のご機嫌が悪いような…。
「…何かありましたか?」
「……そなたがいないのを良いことにあの老ぼれ国王がすり寄ってきたのだ」
その時のことを思い出しアロイスはうんざりとした顔だった。
「ジャスナロク王国は…再び戦争で攻め入ってくるのでしょうか」
「今すぐにとはいかないだろう。王国の今の軍事力では帝国相手に一日持たせるのがやっとだ。先日間諜をジャスナロクの王城に忍び込ませたから、異変があればこちらに伝わる」
「…アロイス様は用意周到ですわね。バジリオ侯爵からもわたくしを助けてくださりましたし…。それに比べわたくしは…」
「確かにあの場に証人を用意させたのは私だが、狩猟祭のことでそなたが狙われていると知れたのはそなたがバジリオ子爵から情報を引き出したからだ」
「引き出すなど…。子爵は自らステラに取引を申し込みに皇宮へ赴いたのですから、わたくしの力ではありません」
対等な身分でない皇帝陛下に取引を持ちかけるなど言語道断。しかしわたくしとは面識がほとんどない。となると、一時でも婚約者候補として交流のあったステラの元へ足が向かうのは今考えれば当然のこと。
ドン、と背中を打ち付ける。痛みはないけれど、突然のことに頭が追い付かなかった。
「アロイス様…?」
シャルロットの背後の木に手を付き、シャルロットをそこに追いやった本人であるアロイスの顔が迫る。反射で目を閉じたシャルロットの唇のすぐ横にキスが落とされた。それを皮切りに、熱い唇は耳朶をかじり、舌で弄ぶ。
「ん…アロイス様…っ」
花のようなシャルロットの香りが漂う首筋に口付ける。チュッと音がするだけでシャルロットは肩を震わせていた。アロイスは伏せていた目を上げる。
エメラルドの瞳が燃え滾っていた淡いピンクの瞳をとらえる。
「っ…………!」
見つかった…!いや、気付いていたの…!?
アロイスを探しにガーデンパーティーを抜け出していたビアンカは、交わった視線を逸らすことができなかった。
「アロイス様っ…!」
白い首を妖しく舌が舐めとる。そこに鋭い牙が立てられ、シャルロットは声にならない悲鳴を上げた。
「っ…!!」
あの女を愛しながら、挑発するように私から目を離さない。血の気が引くほど手を握り締めたビアンカは苛立ちから顔の中心にシワが集まるほど鬼の形相をしていた。
公女の方が陛下に夢中で取り入ったのだと思っていた。あの様子を見る限り、夢中になっているのは…陛下の方。
わたくしに恥をかかせたあの女が、帝国ひいては大陸を支配する男に愛されているなんて…!
明後日の方向を向いたビアンカは早足にその場を立ち去る。
見てなさい、今にあの男を奪ってその地位を手に入れてやる。
わたくしに墜とせない男などいないのだから…!!
「はあ、はあ、はあっ…。アロイス様…?」
遠くを見つめていたアロイスは、遠ざかる女を確認してから息絶え絶えのシャルロットの腰を引き寄せる。柔らかな体が密着し、うるうるとした目が見上げてきた。
「突然どうなさったのですか…」
顎に手を掛けられ、シャルロットはクイと上を向かされる。
「…早くそなたが欲しい、シャルロット」
「何を仰るのですか。わたくしは本日をもって正式にアロイス様のものとなりました」
物欲しげな目で見つめられ、シャルロットは子どもみたいだと微笑んでいた。
「……心も体も、全てだ」
ポッと頬が赤らんだ。体…。そうよね、アロイス様は我慢してくださっていたみたいだし…。
「…心はずっとアロイス様のものですが……。…か、体も…すぐにそうなりますわ」
アロイスはシャルロットに腕を回しきつく抱きしめた。
私は、何を焦っているのか。永遠にそばにいて欲しいと、光に手を伸ばしてしまう。心が強欲なほどに求めて止まない。だが…、彼女を縛り付けるだけでは、また前世のように私たちは孤立して追い詰められてしまうのだろう。
「ああ…。そうだな…」
力の抜けたアロイスの元からシャルロットが抜け出す。涼しい風が吹き抜けた途端、無性に寂しくなり小さな手を握っていた。
振り向いたシャルロットはまだほんのりと顔の血色が良く、にこりと細まった目元が愛らしい。
「アロイス様?」
皇帝としてではなく、私自身を見てくれる唯一の存在。もちろん、臣下の者に皇帝としてみられなければ終わりとは分かっている。だがそれでも、皇后陛下である彼女だけは、今も、この先も、特別であって欲しい。
「…これからも、私のそばにいてくれるか?」
儚げに憂いを帯びた目がひたむきにシャルロットを見つめていた。
どうして、とシャルロットの頭に疑問が浮かんだ。わたくしがアロイス様を捨ててどこかへ行けるはずもないのに、どうして時折不安そうになさるのか。どうすればもっと、アロイス様を安心させられるのか。
このお方はきっと、とても脆い。けれど臣下の誰もそれを知らない。他の者の前では、その脆さで崩れ落ちぬよう必死に取り繕っているのかもしれない。この脆さを知っているのは、わたくしだけなのかもしれない。
シャルロットは厚い体をぎゅうと抱きしめ、アロイスを見上げた。
「もちろんですわ。わたくしがアロイス様のおそばを離れられるわけがございません」
シャルロットから抱きつかれたことのないアロイスはすぐに「そうか…」と破顔した。普段見せられたことのない緩んだ表情に、シャルロットの胸は熱くなっていた。
離れられるわけない。だってわたくしは、ずっとこうしたかったのだもの。
主人と生贄ではない。複数いる妃の一人でもない。他の妃の元へ足を運ぶ背中を見過ごしたり、漂う甘い女の香りを我慢することもない。
ただ二人だけで、共にいたかった。
わたくしだけを、愛して欲しかった。
「シャルロット…」
アロイスの力強い腕に包まれ、穏やかな顔がすぐ目の前に迫る。シャルロットが目蓋を下ろしたのを最後に、アロイスは薄く開いた唇を奪った。
婚姻の儀式のためアロイスとシャルロットが帝国を不在にしている間、窓を固く閉ざした一室に老いた男たちが集っていた。
「バジリオ侯爵が昨夜、処刑されたようです。地位剥奪に留まらず、陛下は徹底的に排除なさるおつもりなのでしょう…」
「このままでは我々まで危うくなります!エンリオス公爵!」
その名を呼ばれたエンリオスは焦りを滲ませる皆とは対象的に目を閉じたまま微動だにしなかった。
「危うくなると怯えているだけでは貴族派は滅ぼされて終わるぞ」
その場の空気が固まったように他の者が言葉に詰まる。エンリオスは萎んだ目をギロリと開いた。
「バジリオ侯爵は証拠をしっかりと処分しなかったからああなったのだ」
実際には裏で手を引いていたエンリオスが偽装した証拠だったが、疑うものはいなかった。
「…そう、ですよね…」
「…ですが、皇帝陛下は公務の判断処理の手腕も優れており、早々に皇后陛下の座を埋めて皇室の安泰を印象付けるなど、着々とその地位を固めております」
「そう弱気になるでない」
エンリオスに凄まれ、貴族派の者たちは背筋が伸びた。
アロイス皇帝陛下…。
一目見た時から気に食わなかった。大した功績どころか、公務の経験が一切ない。さらに言及すれば、貴族社会の厳しさを知ることもなく、長年病弱で床に伏せていた、隠されし皇子。
だが現れた途端、貴婦人ら女性の支持を根こそぎ奪っただけでは飽き足らず、初めての公務とは思えない手腕で文官たちをも納得させた。
その座には貴族派から輩出した者が皇帝として立つはずだった。皇室から男の血が途絶えたのは、貴族派が帝国を支配すべきとする天の導きだと思っていた。
あと僅かで唯一の皇族であるステラ皇女殿下にバジリオ公子を婿として取らせることができたはずなのに…。
あの皇帝が現れたばかりに、我々の計画は足元から崩れ落ちる羽目になった。だがそれまでの実績もない即位したばかりの皇帝の基盤が盤石であるとは到底言い難い。きっかけさえあれば、揺るがすことは困難ではないはずだ。
「既に手は打ってある」
エンリオスはすうっと目を細め宙を見据えた。
温室に刺客を送り、隙をついて殺そうとしても失敗。
公子に怪我を負わせて罪をなすりつけ、失脚させようとしても失敗。
ならば、次はもっと、確実性の高いやり方を用いるまでだ。
「現皇帝陛下の時代は、じきに終わりを迎える」
まるで人を殺したことのあるような躊躇いのない瞳に、貴族派の者たちは気を呑まれてただ立ち尽くしていた。