最初で最後の
衣装直しをしたアロイスは、神殿の庭園で開かれたガーデンパーティーに参加していた。しかしその隣にシャルロットの姿はない。
「ラングストン帝国で採掘される宝石は大きさも輝きも一流です。こちらの王国でも話題となっております。帝国産の宝石で細工された装飾品はひと目見て分かりますから」
終始ご機嫌なふりをして愛想を振りまくジャスナロク王国の国王スーザをアロイスは心の中で滑稽だと笑っていた。シャルロットの不在でにこりとも笑わないアロイスは、冷ややかな態度で媚びやおべっかには目視しか返さなかった。他の国の王たちは既に逃げ去り、残ったのはスーザだけだった。
ちらり、と目だけをスーザに寄越す。何も言われぬ間がこれほど恐ろしいとは…。スーザが耐え切れず固唾を呑んだ時、アロイスがどこかを見つめた。
「ジャスナロク王国の上質な絹は帝国でも評判が良い。輸入して卸売をしていた筆頭の頭取とは私も面識があり、何度か皇宮にも招き、その絹で服をこしらえたこともあった」
「そうでしたか。気に入っていただけたようで何よりで───」
「だがその頭取の脱税が発覚し、強制連行した。さらに調べを進めると、帝国の情報を他所に漏洩させていたようだ」
スーザは全身の肌が粟立った。
「確かその頭取の名は…ボルトラ男爵だったか」
スーザの頭の中に散々やりとりをしていた男爵家の紋章入りの封筒が浮かぶ。便箋の最後に綴られていた名はナリア・ボルトラ。
今度こそスーザは目を剥いた。まさか…陛下は全てを知っていらっしゃる………?
私の耳に彼が処刑されたことなど入ってきていない。帝国でも秘密裏に処分したということか?では今までやり取りをしていたのは一体……!
「顔色が悪いようだな、ジャスナロク国王」
ものすごい速度で考えを巡らせていたスーザは目の前の男の言葉で目が覚めた。これは陛下が仕組んだ罠。張り巡らされた蜘蛛の糸に、まんまと引っかかったわけだ…。
「い、え…。お気になさらず」
公女を受け入れず別の皇妃を望む貴族派と、公国の出で何の権力も持たない公女に呆れた皇帝派は、互いに公女の不満をもらしていると、貴族派のボルトラ男爵からの書簡にはあった。しかし蓋を開けてみれば貴族派がどう思っているかはともかく、皇帝派は皇后陛下を認め望んで配下にいるようだった。
病弱で床に伏せていた名ばかりの王と思っていたが…この王の基盤を瓦解するには相当緻密な計略が必要だろう。しかし頭が回る陛下を相手にすれば骨が折れるのは目に見えている。計略が陛下の元に晒されれば次こそ私の命はないかもしれない。
「少し休むと良い。私はこれで失礼する」
「感謝いたします」
頭を垂れたスーザは靴音が遠ざかっても面を上げられなかった。冷や汗がこめかみを伝い、地面に落ちた。
アロイスが現れるまで、帝国の混乱は極まるばかりだった。正式な後継者がいない皇室といえど、誰かを皇帝陛下として輩出しなければ帝国の存亡が危うまれるからだ。貴族派と皇帝派は対立を深め、今がチャンスだと帝国を乗っ取ろうとした矢先に、あの男が現れた。
陛下を引き摺り下ろし、今度こそ帝国を乗っ取ろうと画策したが、陛下はそれを気付いている様子だった。陛下を足蹴にして帝国を手に入れることは至難の技。となると、やはり狙うべきは皇后陛下の方だろう…。
皇后陛下、もしくは皇妃にビアンカを添えれば、その母国であるジャスナロク王国は優遇され、強大な帝国の力を手に入れたも同然となる。
だが皇帝の寵愛を一身に受けているのは現皇后だから、それも一筋縄にはいかないはずだ。陛下がビアンカの魅力に気付き、あの皇后を捨ててくれれば手っ取り早いのだが…。王国でなびかない男などいなかったほどの魅惑的なビアンカにさえ、陛下は興味を示さなかった。
「一国の王がいつまで頭を垂れているの、みっともない。わたくしの顔にまで泥を塗るつもり?」
人前では愛らしい顔をしていても、父親の前ではふてぶてしくなる。
「決めたわ。陛下をわたくしの虜にしてみせる」
「しかし先ほどの様子では…」
「王国から帝国の妃を輩出すれば…。お父様もそう考えられたのでしょう?」
くすりと嘲笑ったビアンカが首を傾げる。嗅ぎなれない甘い香りがして、スーザは眉を顰めた。
「そのような強い香水を使いおって…」
「あら、お父様の知識はその程度かしら?これは香水じゃないわ」
クスクスと笑ったビアンカはアロイスの後を追った。
アロイスの許可を得たシャルロットはガーデンパーティーを抜け出し、エリックとマルティンと共に母国テノール公国の控えの部屋の一室に足を踏み入れた。
「シャルロット様…!以前より一層お美しくなられて…!わざわざ私のためにここまで足を運んでくださりありがとうございます」
「それは私の台詞よ。ここまで遠かったでしょう?」
レイラは満面の笑みでシャルロットを出迎え、パウンドケーキとレモンティーを差し出した。エリックとマルティンにも勧めたのだが、護衛だからと断られた。
侍女や侍従はあくまで控え室で貴族たちの世話をするために連れて来ることを神殿に許されている。そのため、侍女であるレイラは例え主人のベーベルの指示でもこの控え室を出ることは許されない。シャルロットがこの場に赴いたのはそういう理由からだった。
「また暫く会えなくなる前に、シャルロット様に一目お会いできて良かったです」
レイラは涙ぐんでいた。その言葉がシャルロットの胸に重く突き刺さる。長くシャルロットの世話をしてくれていたレイラは、特別な存在だった。
前世で帝国の侍女に侮られ手を抜かれ、陰で嘲笑われる日々を送っていた時、どれほどレイラが恋しかったことか。
「…仕事を続けていると聞いたけれど、お父様から報奨金を頂いたでしょう?一人でもしばらくは暮らしていけるのだから、あれほど忙しい大公邸で働くこともないのよ?」
レイラは緩く微笑んで首を振った。
「あのようなご褒美をくださり、本当にありがたいと思っております。お暇をくださるお話も出ておりましたが、私のような者をシャルロット様の侍女として置いてくださった大公殿下に感謝しておりますし、少数ながら和気あいあいとした大公邸で働けること誇りに思っております。ですから…お金があろうとなかろうと、仕事を続けていきたいのです」
レイラの話を聞くうち、シャルロットは自分は所詮、令嬢なのだと恥を知った。お金さえあれば好きなことをして自由に暮らす…なんて、下働きや苦労をしたことのないわたくしだから考えられたこと。
「…ごめんなさいレイラ。わたくしが間違っていたわ」
「とんでもございません。シャルロット様が私のためを思って仰ってくださったことだとは理解しております。
さあ、せっかくの紅茶が冷めてしまいます。シフォンケーキも共に召し上がってくださいませ」
シャルロットが反省して抱え込む隙を与えず、愛嬌のある笑みを向ける。シャルロットは「そうね…」と呟き、気の進まないままケーキに口を付けた。
「……美味しいわ…!」
しかし一瞬で気が晴れていた。
「公国で今流行っているカフェがありまして──」
それから、シャルロットとレイラはたわいも無い話をしていた。大公邸の誰と誰が恋人同士になったとか、新人護衛騎士が美男子だとか。シャルロットも、担当の侍女長が口調は厳しいけれどとても優しいだとか、街がすっかりラベンダー色に染まっているだとか、ネオンマリンの花が美しいだとか、そんな話をした。
「シャルロット様、そろそろお時間でございます」
「あら、もう…」
夜が更ける前にシャルロットもガーデンパーティーに参加しなければならない。各国からの来賓を見送る最後の場だからだ。そのために、シャルロットは夕方のうちにガーデンパーティーを抜け出してやって来ていた。
「神殿まで来てくれてありがとう、レイラ。お話できて楽しかったわ」
「こちらこそ、お忙しい中こちらに赴いてくださってありがとうございました」
シャルロットは扉の前に待機していたマルティンから小包みを受け取り、レイラに手渡す。
「受け取ってくれるかしら」
「え…」
「ありがとう、レイラ」
シャルロットの顔が見えなくなり、体が温もりに包まれる。そうしてようやく、レイラはシャルロットに抱きしめられていることを自覚した。
「っシャルロット様!私にそのようなことをなさってはなりません!」
「…ごめんなさい。でも…今日だけは許してほしいの」
だってレイラは、特別な存在だから。侍女だけど、友人のようであり、姉のようであり、母親のようでもあった。
シャルロットの目尻に涙が浮かんだ。
♢♢♢
「ねえレイラ、どうしてお母様は今日もいらっしゃらないの?」
シャルロットの古い記憶の中で、幼かったシャルロットは純粋な疑問をレイラにぶつけていた。
レイラは動揺して瞳が揺れていた。
「…お出かけしていらっしゃるのですよ」
「どこへ?」
「……それよりシャルロット様、先ほど甘いお菓子が焼けたと料理長が…」
「お菓子!?早く食べたいわ!」
次の興味に乗り移ったシャルロットの頭に、もう母親のことはなかった。レイラは腹に溜まった不安を吐き出すように安堵した。
その日の夜、いつまでも寝付けなかったシャルロットの胸に、レイラは手をトントンと当ててくれていた。
「レイラ…」
「どうしましたか、シャルロット様」
「………レイラ“は”、どこにも行かないでね…」
ぴたりとレイラの手が止まる。シャルロットはレイラの返事が怖くて目をぎゅうと閉じていた。
「……」
レイラはそんなシャルロットの眉間に手を置く。何事かと目をぱっちりと開いたシャルロットは隣のレイラを見つめた。
「私はどこへも行きません。ずっとシャルロット様のおそばにいます」
その時が最初で最後だった。シャルロットがレイラの涙を見たのは。
♢♢♢
ずっと不憫に思っていた。男娼に入れ込む母親は娘とはほとんど目も合わせない。それでも幼かったシャルロット様は母親を望んでいらした。
やがてシャルロット様は成長され、母親がいてもいなくても、興味を示されなくなった。それは、母親が失踪しても「…そう」と呟いた小さな背中からも伝わった。
愛に飢え、渇望している。そう気付いた時には、私はシャルロット様を愛していた。差し出がましいと分かっていながら、まるで実の母親のように。
「別れを急かすようですまないが、妻を返してもらえるだろうか」
痺れるような低く響く声だった。
「アロイス様…!」
シャルロット様は途端に笑顔になり、その方の元へ駆け付ける。皇帝陛下は頬を緩め、シャルロット様の涙を指の腹ですくった。
『………レイラ“は”、どこにも行かないでね…』
あの言葉が思い浮かんでしまうなんて。私は母親でもないというのに、なんとおこがましいのか。
あの頃の愛に飢えた幼子は、もうどこにもいない。目の前にいるのは、一人の男性に愛されている幸せな女性。
「…お二人の未来が幸多からんことを、遠くの地よりお祈り申し上げております」
レイラは侍女として、頭を下げて礼を示した。