存在の欠片もない
廊下を歩いていたシャルロットは、ベーベルが書斎から顔を出したところに出くわした。
「おお、シャルロット。家庭教師は?」
「帰られましたわ」
「そうか…。少し、話さないか?」
内容には検討はつく。
お兄様か、掃除をしている侍女から聞いたのかしら…?
ベーベルは使用人を全員下がらせ、部屋にはベーベルとシャルロット二人きりになった。
「帝国について、熱心に学んでいるそうだな。興味があり、いつか訪れたいと」
「…お父様といい、お兄様といい、出歯亀なのですか?」
わざとらしくクスクスと笑い、はぐらかそうとしたが、シャルロットの思惑通りにはいかなかった。
「シャルロット……」
ベーベルは厳粛な面持ちを保ったままだった。
「事実ですわ」
「……そうか…」
かしこまった様子に覚悟していたシャルロットは、それ以上追求してはこないベーベルに拍子抜けした。
それなら、わたくしの方から…。
「そういえば…帝国の皇室についてですが」
ベーベルの息が一瞬止まった。
シャルロットに帝国と関係を結ぼうとしていることが気付かれているのではないかと、不安が駆け巡る。
「皇子殿下が二名と、末に皇女殿下がいるだけなのでしょうか?
皇室にしては、少ないように思いましたが」
ベーベルの心臓が嫌な音を立てる。
シャルロットは、本当は気付いているのか…………?
「そのようだが…」
「お会いになられたことはございますか?」
「…どうして突然そのようなことを尋ねるのだ?」
ベーベルは自分でも笑みが引き立っているのが分かった。
「あのラングストン帝国の皇室ですから。興味も湧きますわ」
シャルロットはミーハーではない。
花や紅茶には釣られても、大国の頂点に興味が湧いたからと首を突っ込むようなことを好んでするだろうか…。
「二度ほど、お会いしたことがある」
「やはり、帝国に多いと聞く金に近い茶色の髪色なのでしょうか?」
「ああ。しかし皇女様は皇后陛下の髪と同じ、眩い金色だった」
髪色も違う…。
陛下は漆黒の髪だった。
色白だと言われる私よりも不健康なほどに白い肌に、黒い髪は映えていた。
やはり陛下は…現世にはいないのかしら……。
考え込むシャルロットにベーベルは猜疑の念を抱いていた。
レイラに頼んでいた、ラングストン帝国の現在の情勢についてまとめた資料を渡され、授業もなかったシャルロットは朝から目を通していた。
前世でも皇妃となったことで帝国の歴史を習ったけれど、直近の皇族に関する歴史は教えられなかった。
皇妃として知らないことは業務に支障が出ると思い、やんわり家庭教師を問い詰めると、口が重そうに陛下の命令であると言われた。
皇妃相手に皇族の近代史をひた隠すのは腑に落ちなかったが、気分を害されることを懸念したシャルロットは直接アロイスに伺うことはしなかった。
アロイスのご機嫌と皇妃が皇族の近代史に疎いことを天秤に掛けると、アロイスのご機嫌の方が重かったからだった。
「前世と変わりはないわね…」
わたくしが知ったものと変わりはなく、強大な戦勝国として名高い。
何百年も戦争を繰り返し、敗戦国を支配下に置いたり、領土を没収したりして、大陸一帯で最も大きな面積を保有し、従える従属国の総数も大陸一。
敗戦国から巻き上げた武器や資金を元手に、さらなる戦争を押し進め、帝国の権威を拡大させている。
戦争慣れした兵士たちが新米を鍛えることで、軍事力も凄まじい。
歴史が築き上げた強い国家は、国民の気も強くさせ、やがてはあの反乱が起こるのだけれど……。
また、国内整備を進め、経済の中心である帝都や、宝石の採れる鉱山に人を流通させている。
そうすることで、帝都で豪遊する貴族が増え、宝石をドレス工房や装飾品造りの職人に捌くことで、国内の経済は潤っていた。
鉱山から採掘できる宝石は、ルビーやサファイアなどもあったが、人気が高かったのはダイアモンドだった。
大陸の中で唯一ダイアモンドが採掘されるのが帝国だったため、希少価値がある。
貴族らが最も好む宝石。
それらを他国の名産品と交換する形で輸出入をすることで、帝国ではあまり見られないシルクなどの生地や暑い南の島でしか採れない果物などの食料品を補っていた。
肝心の皇族の近代史も、手掛かりになりそうなものはなさそうだった。
皇族は11名。
現皇帝、皇后。皇妃たち。皇子と皇女。
かつて皇妃は9人だったが、6人が病死や夜逃げ、毒殺など理由あって亡くなり、現在は3人となっている。
皇子皇女も、本来あと息子が2人と、娘が2人いたが、皆生まれてすぐや幼いうちに亡くなっている。
よくある国の構図だから、妃やその子供が亡くなっていることに違和感はない。だけど……。
陛下はやはり…いらっしゃらないのかしら……。
暗中模索の日々は、シャルロットに陰りを落とす。
せめて、一目だけでもお会いしたい。
陛下がご無事だったと、この目で確認したい。
ふとレイラが花瓶に挿れてくれた花が目に入る。
公国にはこれといって突出した希少な花はないが、帝国には他国では咲かない花が数多くあった。
♢♢♢
「素敵なお花ですね」
花専門の庭師は、皇妃であるシャルロットに声を掛けられたことで、恐れ多いと腰を抜かしていたが、それから何度か声を掛けるうちに、照れたような笑顔を見せてくれた。
「皇宮の花は隅から隅まで手が行き届いているので、一人でお世話していると伺ったときはとても驚きましたわ」
「今だけですよ。数ヶ月前までは三人体制でしたから」
普段は通らない花の庭園に、アロイスは柄にもなく足が向いていた。
自室にも執務室にもいないとなると、恐らくはそこにいるのだろう…。
しかしそこで目にしたのは、一人で花を眺めている姿でも、香りを堪能している姿でもなかった。
彼女と日々を過ごすことで、初めて手に入れた愛。
それを奪われることは、何よりも許せなかった。
「陛下、こちらにいらし──」
「あの男を牢屋に連れて行け」
「はっ……彼が何か…」
「見て分からぬのか。あの者が皇妃と蜜月の仲じゃないか。皇妃の未来の子の父があの者だったらどう責任を取るつもりだ」
ただ話をしているだけだというのは、補佐官の目にも分かることだった。
しかし逆らえば跳ねられるのは自分の首かもしれない。
固唾を呑んで仕方なく「畏まりました…」と頷いた。
そのやり取りを知る由もないシャルロットは、花の庭園を訪れても庭師に会えないことを疑問に思っていた。
そしてある日、掃除をしている使用人たちが陛下と庭師の噂をしているのを耳にした。
シャルロットが綺麗だと飽きずに日が暮れるまで眺めていた、海のように青く透き通った花。
その花畑を王宮に作るよう庭師に命じてくれたのは、他でもない陛下だったと庭師が教えてくれた。
どうしようもなく嬉しかった。
陛下がわたくし一人のためにそこまでのことをしてくれたことが。
それなのに、陛下は協力してくれた庭師を、身勝手にも手に掛けてしまった。
どうしてと心の中で陛下を責めた日もあった。けれど、そんな陛下を咎めることができなかったシャルロットもまた、同罪なのだと胸を痛めていた。
♢♢♢
「…陛下……」
シャルロットは雲行きの怪しい空を見上げる。
これは、もしかして罰なのかもしれない。
国民に反乱を起こさせるほど帝国を瓦解させたわたくしたちに、天が与えた罰。
もしそうだとしたら、陛下は……わたくしと同じ世には………。
ポツリ、と葉に滴が落ちる。
次第に降り出した雨は、何日も降り続いた。