運命の歯車が動き出す(1)
そこが神聖な空間だということは、内緒話一つしない神官たちの謹厳な雰囲気からひしひしと伝わってきた。皇帝陛下の即位式でさえ、噂好きの夫人たちはアロイスの美貌と突如選ばれた皇后陛下候補のシャルロットについて語らねば気が済まなかったというのに、神殿では黙りこくっている。
しかしその視線はシャルロットに射るように注がれていた。好奇や羨望、嫉妬など様々ではあったが、シャルロットは臆することはなかった。
「テノール公国第一公女、シャルロット・テノール。
貴女は、ラングストン帝国を照らす太陽、アロイス・デル・ラングストンを夫とし、健やかなる時も病める時も、生涯愛することを誓いますか?」
「…誓います」
テノール公国より駆けつけたベーベルとクリストフは、守り続けてきた姫の巣立ちに涙を流す。
「ラングストン帝国皇帝陛下、アロイス・デル・ラングストン。
貴方は、ラングストン帝国を輝かす月となるシャルロット・テノールを妻とし、健やかなる時も病める時も、生涯愛することを誓いますか?」
「誓おう」
ようやくね…とステラは一息吐く。その背後で、ニコラスはぎろりとした目で辺りを見渡し警戒していた。
「ここに、お二人のご成婚、及びシャルロット・ラングストン皇后陛下の誕生を宣布いたします」
二人は互いを愛おしそうに見つめる。シャルロットが花が咲いたように微笑むと、つられてアロイスの目元が和らぎ、唇が上がっていた。
そんな二人を睨み付けるピンク色の双眸があった。
神殿から二人の主役が出てくる。先に出ていた貴賓は拍手と共に、花びらを散らして祝福を示した。
「ご成婚おめでとうございます、皇帝陛下、皇后陛下」
ステラの大層らしいにんまりとした笑みに、シャルロットも洗練された笑みで応えた。
「ああ」
「ありがとうございます、ステラ皇女殿下」
「とても素敵なウェディングドレスですわ」
「皇后陛下の美しさを一層引き立てておりますね」
新雪のような真白い絹を惜しげもなく使用したウェディングドレスは、光沢があるだけではなく滑らかな手触りで着心地も良い。
レースを重ねて重厚感を出しながら、胸元と背中を広く開けることで華奢な肩と豊満な胸、引き締まったくびれを強調するのがマダムサリルのアイデアだったが、色気で死者が…と危惧したマダムサリルが何度も手直しをし、胸元と背中、二の腕をレースで覆い調整した。
胸元を開けすぎると神聖な神殿には不釣り合いで、シャルロットの悪評が立ちかねないと懸念したソフィーが再三改善要望していたのは無視していたのに…。そう思ったが、拘りの強いマダムサリルに口を出すとさらに過激なドレスになってしまいそうで、シャルロットは何も言えなかった。
「ありがとうございます。ディートリヒ公爵夫人、フォーゲル公爵夫人」
アロイスも公爵たちと言葉を交わしている。
帝国の高位貴族の中でも、神殿には選ばれた者しか招待されていない。貴族派を招待しなかった辺り、アロイス様の仕業ね…。
「皇帝陛下、皇后陛下、初めてお目にかかります」
この声は……!
息も忘れていた。振り返る一瞬が、何分間にも感じられた。
グレーがかったブラウンの髪が風でふわりと舞う。どこからか漂う蠱惑的な香りが鼻腔をくすぐった。りんごのような瑞々しく爽やかな赤色の唇が弧を描く。
ビアンカ王女………!!!!!
「見ない顔のようだが」
アロイスに肩を抱かれて、脳も体も硬直していたシャルロットは我に返る。
どうして…。まさかアロイス様が呼ばれたの…?
盗み見たアロイスは、寸分の困惑も見せず皇帝の威厳を崩さない。
「娘の無礼をお許しください、陛下。
ジャスナロク王国より参りました、国王スーザ・ジャスナロクでございます。
こちらは私の娘、第一王女のビアンカです」
「初めまして、皇帝陛下」
ビアンカの隣に並んだジャスナロク王国の国王はさりげなくビアンカを紹介する。顔を上げる際、その視線は流れるように地面からシャルロットの肩にあるアロイスの手をとらえていた。
「そうか。妻のシャルロットだ」
「お初にお目に掛かります」
ビアンカの紹介を軽く受け流し、アロイスの手はシャルロットの腰に落ちる。シャルロットは自然なそれと思わせるよう、優雅に微笑んだ。
この香り…前世と変わらない。アロイス様を惑わせた色香。
ニコリと細まったビアンカの瞳の奥で、淡いピンクが鋭く煌めいた気がして、冷や汗をかいたシャルロットの指先がピクリ、と動いた。
気まずい沈黙が四人にのし掛かる。
「…祝いの言葉はいただけないようだな」
「お二人の仲睦まじさに圧倒されてしまいました。
改めまして、ご成婚おめでとうございます」
ビアンカがじっとシャルロットを見つめている。弱気になりそうな心を和らげてくれたのは、隣から聞こえる慣れた声と、密着した体から流入してくる温もりだった。
『愛している』
…大丈夫よ。今は前世ではない。わたくしはもう、新しい人生を歩んでいるのだから。
「お世継ぎが楽しみですわね」
「…ええ、本当に」
貴女にアロイス様は渡さない…。殺させもしない。
「けれど帝国の大貴族や王国の王女ならともかく、小さな公国の血筋では後継者として正当ではないと、帝国内で反発が起こるのではありませんか?」
「なんて生意気な口なの」と離れた位置でソフィーが目くじらを立てる。その隣にいたマルティンも厳しい目を向けた。
わたくしはもう、一人じゃないわ。
「皇帝陛下はまだご健在ですが…。まさか次世代をお望みですか?」
割り込んできたステラが喉を鳴らし笑う。帝国の貴族たちが扇子の奥でひそひそと会話をしながらビアンカを見やった。
それは、皇帝陛下アロイスが亡くなることを祈っているようにもとれる言葉だった。
「まさか。わたくしはただ帝国の未来を心配したまでですわ。どうしてそのようにわたくしを悪人に仕立て上げようとするのですか…?」
言い返そうとしたシャルロットのところへ、品のある出立ちの夫人が現れる。
「一国の王女とはいえ、帝国の後継をビアンカ王女殿下が憂う必要はありませんわ」
「ステラ皇女殿下はビアンカ王女殿下が軽率な発言をなさったから尋ねたまでです」
フェラニアとリンジーが毅然とした態度で割って入った。
風で髪が舞い上がる。ギリッと歯を噛みしめたビアンカは、風が落ち着く頃には潤んだ目をぱちくりとさせて、「まあ…そうだったのですね」と視線を落とした。普通の男なら迷わずビアンカを助けようとしただろう。
しかしこの場の味方は父親のスーザのみ。そのスーザも、シャルロットを守るように固める帝国の夫人たちの圧に押され、驚愕していた。
何故だ…。公女を受け入れず別の皇妃を望む貴族派と、公国の出で何の権力も持たない公女に呆れた皇帝派は、互いに公女の不満をもらしていると、貴族派からの手紙で確かに来ていたはず…!それなのに何なのだ、この公女と皇帝派の結束は。
それに、貴族派も来るというからビアンカを連れて来たというのに、一人も助けに来ない。貴族派の後押しでビアンカを皇妃に据える案をこの場にいる帝国貴族や他国の者たちに植え付けようとしたのに…。
…まさかここにいる帝国の貴族は全員皇帝派……!?