ツェルンの森
駆け出した馬は止まることを知らない。
なに、なにが起こったの…!?状況が把握できず、シャルロットはまさにパニック状態だった。
崖で足場を無くした馬は馬車ごと転がり落ちる。岩にぶつかりながら転がるうちに、小窓は割れ、婚姻に向けて特別に用意された真っ白な馬車は土塗れになる。衝撃で扉が外れ、シャルロットは扉の外に身を投げ出された。
「シャルロット様!!」
マルティンが車内から手を伸ばす。シャルロットの手入れの届いた細長い指先は、寸前のところで宙を握った。
目を見開いたマルティンと気絶したソフィーを乗せた馬車が、さらなる崖の下に落ちていく。
「ハア、ハア、ハア」
地面に打ちつけた左半身がじんじんと痛む。何故、どうしてと頭の中で結論に至ることなく巡った。シャルロットは体に鞭打ち、崖の下を覗き込んだ。
岩波が水飛沫を上げ、全壊した馬車の木屑が下流に流されていく。
…………そんな……。
「あれはやり過ぎだろ」
「あそこまで止まらない馬だと思わなかったんすよ。確かこの辺だったと思いますけど」
男の声…!
“ツェルンの森には男ばかりの山賊が住み着き、女が一人で足を踏み入れれば惨い姿となって帰ってくると言われている。”
シャルロットは両手で口元を覆った。岩陰に隠れているため、近付かなければ気付かれない。どっくん、どっくんと心臓の音が耳に伝わる。
「うわ、川に落ちちゃったじゃないすかあ〜」
「なんだよー。せっかく姫がいるっていうから楽しみにしてたんだぞー」
姫…?今回の道のりで女性は十名もいない。騎士のマルティン卿、侍女のソフィーと、他の侍女たち。皆平民か令嬢夫人だから…狙いはわたくし…!?
離れた位置から川を覗き込んでいた、山賊らしき男たちの雑草を踏む足音が遠ざかる。
油断は禁物だというのに、ホッと息を吐いて安堵してしまった。
「なーんてね、ドレスの裾が見えてるぜお姫さん」
「っ!!」
岩陰に顔を覗かせた男は、小麦色の肌で不潔にも口元と顎に砂や埃の絡まった髭がぼうぼうに伸びていた。
「うわ、めーっちゃ可愛いじゃん!お姫さまって感じ!」
「まんま過ぎるだろ…」
若い男は傷んで荒れた長い髪を一つに結んでいる。
「っや…!」
腕を掴まれ、引っ張られる。物凄い力だった。
「聞きました?や、って!可愛いすぎ!」
気味の悪い笑みを浮かべ、シャルロットを抱き寄せる。撫で回すような手つきにぞわりと鳥肌が立った。
前世で初対面のアロイス様に間も無く体を奪われた時でさえ、恐怖こそあったものの、こんな気色悪さは感じなかった。きっと手加減をしてくれていたのねと、こんな時に胸を打たれた。
「めっ、ちゃやわらけえ!シルクみたいな触り心地!」
「お前シルクの感触知ってんのかよ」
「知りませーん」
ゲラゲラと笑い合う男たちはそれでも力が緩むことはない。絶対に勝てない…。頭の中で、そう悟った。
「どうします?連れて帰ってみんなで楽しみます?」
手足に戦慄が走る。みんなで…?複数の人に……?
「いや、こんな上玉一生に一度出会えるかどうかだぞ?
俺たちが一番乗りして、飽きたらあげればいい」
「それもそっすね!!」
シャルロットに覆い被さるように男が馬乗りになる。
「っ…いや!!」
足をバタバタとさせて退かそうとしたが、若い男が押さえつけた。
髭の男が腰元に携えた短剣を手に取ろうとする。シャルロットはその前に素早くその剣を抜き、振り回した。
「っ待て!」
上半身を軽く逸らして男は避ける。次に突きを入れると、完全に体を退かした。
今しかないわ…!
立ち上がったシャルロットは短剣を捨て、重いドレスを持って夕闇の森を走り出す。
「おい待て!」
「何勝手に逃げ出してんだ!」
身軽な男たちにすぐに捕まったシャルロットは、思い切り頬を打たれ倒れ込んだ。
「貴様…!!」
シャルロットを仰向けにした髭の男は、容赦なくシャルロットのドレスを引き裂く。あと一枚の布が、シャルロットの上半身を隠していた。
わたくしはこのまま…この男たちに弄ばれるの?
アロイス様にだけ捧げるつもりだったこの体を、貞操を奪われてしまうの…?
「ったく、手間かけさせんなよ」
助けてと叫びたいのに、口が動かない。抵抗したいのに、体が動かない。恐怖でみっともないくらいガタガタと体が震えていた。
助けて……。誰かっ…。
────アロイス様っ…。
両腕を押さえつけられ、首筋にいつもと違う吐息が掛かる。脳裏にアロイスの姿が浮かび、涙がこめかみに流れた。
「…なんか聞こえません?」
夜の虫が鳴き、川の流れる水音が辺りを支配している。馬の蹄の音は、気が荒ぶった髭の男には届かなかった。
「あ?なんにも聞こえ──」
そう言いかけた髭の男の背後から、一頭の馬が突っ込んで来る。シャルロットを器用に飛び越えて髭の男だけを吹き飛ばした馬は、くるりと回って今度は逃げ出そうとする若い男に突進した。
「っぐあ!」
倒れた二人の男は指先が痙攣していたが、肋骨が折れて動き出せそうになかった。
涙で視界が歪んでいたシャルロットには、何がなんだかさっぱりだった。馬だけだと思っていたが、降りてきた人影がシャルロットの体を起こす。
「シャルロット…」
目を凝らすと、エメラルドグリーンの瞳が猫のように光って見えた。
「………アロイス、様…?」
わたくしを助けに来てくださったの…?
温かな手が顔を包み込む。安心させるように微笑んだアロイスだったが、頬の痕に気付いてカッと目を見開いた。
「その顔…頬を殴られたのか!?」
「あ…。ですが、一度だけですから」
「……他には?何をされた」
拷問のように詰め寄るアロイスに押され、元々パニックに陥っていたシャルロットの目から次々と涙がこぼれ落ちる。そこでようやくアロイスは、しまった…と自身の行いを悔いた。
「すまないシャルロット、そなたを泣かすつもりはなかった。そなたが傷付けられたことが許せなくて…」
顔を伏せたままこくりこくりと、シャルロットは頷いた。分かっている。アロイス様がわたくしを心配してくださっていることは。
「…っ…」
アロイスはシャルロットに自身のマントを被せ、両腕を回した。
優しい温もり…。初めからアロイス様は、わたくしに手加減をしてくださっていたのね…。
「上に、乗られたので…逃げようとしたら、頬を…。その後、服を破かれましたが、すぐにアロイス様が来てくださったので…」
「そうか…」
アロイスの温もりに包まれてシャルロットの緊張が解けていく。回るようになった頭で次に考えたのは、アロイスにどう思われるのかという懸念だった。
「腕は、触られましたが…、他は触られておりません」
「…?…ああ」
他の男に組み敷かれたわたくしを、アロイス様は汚らわしいと思われるのかもしれない。傷物として見てしまうのかもしれない。
「……だから…どうか、わたくしを嫌わないでくださいませ…っ」
止まりかけた涙が溢れ、アロイスの服に吸い込まれていく。
瞠目したアロイスは腕の中のシャルロットをしばらく見つめていた。そのようなことを不安に思うなど…。私がどれほどシャルロットを愛しているのか、まだ分かっていないのか。
アロイスはシャルロットの額に口付けた。赤くなった目で見上げてくるシャルロットが愛おしくて堪らなかった。
「要らぬ心配だろう」
「……ですが…」
「私の気持ちは何があっても変わらない」
前世の愚かな私を、今世でも選んでくれた。
塔の中の醜い私を見ても、逃げ出したり、諦めたりしなかった。
私が嫌われることはあっても、そなたが嫌われることなど、天地がひっくり返ってもあり得ないこと。
「愛している、シャルロット」
心まで包み込むような柔らかな眼差しに、残っていた最後の一筋の涙が流れる。
アロイスが伏せ目がちに顔を寄せ、シャルロットも目蓋を下ろした。
「わたくしも、愛しております。アロイス様」
二人の影が一つに重なる。星がさんざめく薄紫の空には満月が浮かんでいた。