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底無し沼





「…ん…」

 重い目蓋を上げ、見慣れた天井が映る。

「起きたか」

 ベッドに腰掛けていたのは、他でもないアロイスだった。


「アロイス様っ!?」

 寝ぼけていた昨夜の出来事を思い出し、顔から火が出る思いだった。夢の中なら我儘を言ってもいいかと思っていたけれど、夢ではなく現実だったなんて…!

「まさか…昨夜からずっと起きてらしたのですか!?」

「昨夜ではない。明朝だ」

「徹夜ではないですか…」

「慣れている。それより体の調子はどうだ」

 アロイス様のお体の方が心配なのですが……。乱れたままの髪を整えながら、「もう大丈夫ですわ…」と告げたが、「まだ意識がぼんやりしているぞ」と見抜かれてしまった。


「昼過ぎにステラが見舞いに来るそうだ。その前に何か口にできそうか?」

「はい。湯船にも浸かって体を洗いたいのですが…」

 令嬢や夫人が黄色い悲鳴をあげるアロイスの端正な顔が迫り、シャルロットの額に自身の額を合わせた。

「っ……」

「…まだ少し熱があるようだが?」

 額を離したアロイスがほくそ笑んでシャルロットを見つめる。エメラルドの熱に焦がされてしまいそうだった。


「揶揄わないでくださいませ。もう大丈夫ですわっ」

「くくっ…、そうか。ではソフィーに伝えておこう。食事はここに用意させる」

 アロイスは吐息で笑い、ベッドから腰を上げる。


「…アロイス様」

 上からただ見下ろされているだけなのに、妙にドキドキとしていた。


「ありがとうございました。ずっと、ついていてくださって…」

 アロイスはシャルロットにふっと笑い、手を伸ばす。

「愛する未来の妻なのだから、当然のことだ」

 そう言ってアロイスの手が包むように頭を撫でる。優しげに細まった目はその言葉が嘘ではないと物語っていて、シャルロットの胸は一層高鳴った。


「もっと強請ってくれていいぞ」

「強請るなど…」

「そなたの頼みなら何だって聞く」

「それでは我儘になってしまいますわ」

「我儘になって良い」

 シャルロットより一回り大きな手が顔の横のベッドに付く。上から被さるように見つめられて再び熱でも出てしまいそうだった。 


「だからどうか、辛い気持ちも苦しい気持ちも、我慢などしないでくれ」

 アロイス様は…、本当に……。胸が締め付けられたように苦しいのに、温かいものが溢れてくる。

「それは…わたくしの台詞ですわ…」

 アロイス様はわたくしに優し過ぎる。それは、例えるならば甘い、甘い、スイートチョコレートのよう。


 狩猟祭で守ってくださり、わたくしの悪夢を和らげようと共に寝てくださり、昨夜も、雨に打たれながら救出と避難の指示を出されてお疲れだったはずなのに、長らくおそばにいてくださった。

 わたくしを度々気遣ってくださり、甘やかしてくださる。わたくしばかりが、アロイス様に寄り掛かっている。


『そなたが私を心配してくれるのは嬉しい。

だが私も、そなたが心配なのだ』

 けれど、わたくしはアロイス様に何も返せていない。アロイス様の辛い気持ちも、苦しい気持ちも、何も知らない。




「今のわたくしでは…胸中の苦しみを見せ、寄り掛かることはできませんか…?」


 シャルロットが何故涙を堪えて見上げてくるのか、アロイスは理解に苦しんだ。守りたかった。笑顔でいてほしかった。故郷に帰りたいなどと思って欲しくなかった。

 それなのに、シャルロットの苦しみを取り除くだけでは足りないのか…?

 シャルロットの背に手を回し、体を起こさせる。

「そのような顔をするな。私まで心苦しくなる」

 アロイスは沈んだ面持ちになって、シャルロットの頬を包み顔を覗き込む。エメラルドの宝石の中に泣きそうなシャルロットの顔が映り込んでいた。

「私は…そなたが私のそばで笑ってさえいてくれれば、何も苦しいことなどない」


 塔の中で、今度こそ幸せになってほしいと願った。今世で初めて出会い、そなたを幸せにしたいと思ってしまった。本当にシャルロットの幸せを考えるならば、帝国の地に足を踏み入れさせるべきではなかった。しかしそれをさせてしまったのは、愚かにも彼女を隣で見ていたいと思ってしまったから。

 そして今では、ただ隣にいるだけでは満足できなくなっていた。

「…いや、一つあるな」


 嫉妬に駆られて縛り付けてしまうのは見苦しいと自分でも思う。だがシャルロットはこれを私の弱さだと気付いていない。そんなそなたの優しさに付け込み、散々甘えて寄り掛かっている。それなのに足りないと言われると、底に隠していた欲望が溢れそうになる。


「あまり他の男を見ないでくれ」

 もっと、もっとと心が求める。

 みっともない我儘を、シャルロットはふわりと微笑んで受け入れる。

「わたくしの心にはアロイス様のお姿しか映っておりませんわ」

 まるで子どもだとでも言わんばかりの、全てを受け入れる慈愛に満ちた微笑みだった。このように欲張っても抵抗しない。底無し沼にはまっている気分だ。前世よりも、再会したばかりの頃よりも、愛しい気持ちは膨れ上がっていっている。

 だからなのだろう。失うことを恐れる気持ちもまた、同じほどに大きくなっていく。





「陛下、そろそろよろしいですか」

 ノックと共にソフィーの声がした。

「まだダメだ」

「汗を拭いて食事を摂らなければ、シャルロット様の回復が遅れます」

「またシャルロットを出してきたな…」

 扉に向かったアロイスは嫌々ながらソフィーたち侍女を部屋に入れた。二言くらい言葉を交わすと、入れ違うようにソフィーたちがやって来る。


「シャルロット」

 扉に手を掛けたアロイスは深い緑の瞳で真っ直ぐにシャルロットだけを見つめていた。

「何かあればすぐに呼べ」

「…ありがとうございます」

 パタンと扉が閉ざされ、ソフィーが息を吐いた。


「陛下の過保護度合いが日に日に悪化している気がします」

「ふふっ。心配してくださるのですよ」

 侍女たちに服を脱がされ、一糸まとわぬ姿となる。

「そうですよ侍女長。シャルロット様の陛下からの寵愛ぶりは皇宮に留まらない勢いですから」

「愛し合って結婚に至るなんてそうありませんよ」

 侍女たちの言葉が照れ臭い。シャルロットが頬を染めていると、ソフィーは「愛し合って?」と疑問を口にした。


「シャルロット様は陛下に想いを寄せられていないでしょう」

「「「「え、そうなのですか!?」」」」


 侍女たちの声がピッタリと重なった。一気に視線を向けられ、湯船に浸かっているとはいえ裸だったシャルロットは気恥ずかしさで両手を体に回していた。

「…違うのですか?シャルロット様」

 てっきり、手塩にかけられ箱入り娘だったシャルロット様が男性に不慣れで、いつも陛下に照れているのだとばかり…。ソフィーも手を止め、シャルロットの解答に注目している。

 

「わたくし…も、陛下のことは…お慕いしており───」

「「「「───キャアアアッ!」」」」

 途端に頬に手をやり、侍女たちは色めき立っていた。



「陛下の熱い愛にシャルロット様も落ちてしまったのですね!」

「何百もいた貴賓の中からたった一人、シャルロット様を見つけられてその場でプロポーズされてしまったお方よ?愛が深くて当然だわ…」

「今シャルロット様とアロイス様をモデルにしたのではと噂されるラブロマンス小説が流行っているんですよ!」

「そうそう。帝都でも大流行で、お二人のように恋愛結婚に憧れる女子からは崇められております」

 崇められているという言葉にシャルロットはくすぐったいような感覚だった。アロイス様が崇められるべきお方である一方、わたくしは違うのだけれど…。 





 身を清めて新しく整えられたベッドに戻った頃、ニコラスを連れたステラが訪れてきた。

「シャルロット、具合はどう?」

 心配そうに眉を寄せたステラはシャルロットに駆け寄った。水色の透かしたような絹を何枚にも重ねたドレスは、ステラの白い肌をより美しく見せていた。

「もう大丈夫ですわ」

「1、2日は安静にしているようにと侍医のクラメールが申しておりました」

「ソフィー…!」

「無理はしないでシャルロット。シャルロットに何かあればあの人は誰も手を付けられなくなるのよ」


 昨夜、熱にうなされ気絶したシャルロットを抱えて帰ってきたアロイスの必死な血相を見ていた皇女宮の侍女たちは、口々に不安をもらしたものだった。シャルロット様を失われでもしたら、陛下はどうなってしまうのでしょうか…、と。

「ありがとう。気を付けますね」

 何も知らないシャルロットはステラの厚意に微笑みをたたえた。あの人がどれほどシャルロットのことを好きで、手放したくないと思っているのか、シャルロットは気付いていないんでしょうね…。ステラは心の中で同情していた。


「ですが…王都に降りてみて、もっと街を見てみたいと思いました」

 ……やっぱり…。あまりにもアロイスが哀れになり、ステラは小さく息がこぼれた。

「あの人が許可を出すとは到底思えませんわ」

「どうしてでしょうか?」

 すぐに手の届く皇宮とは違い、外で何かあれば対応が遅れる。盗賊に狙われたり拐われたり、シャルロットに危険が及ぶかもしれないというのに、過保護なあの人が許可を出すわけがない。


 そう思っていたが、アロイスは呆気なく許可を出し、ステラは拍子抜けした。

「ただし、私も着いていく」

 そして許可のための条件にはさらに驚くばかりだった。日々の公務は皇宮や皇后宮等で行われ、皇室が縄張りの外に出るのは外交や滅多にない視察の際くらい。街に降り、ましてや遊びに出るなど聞いたこともない。

「…意外ですわ」

「シャルロットは帝国に来たばかりだ。自国とは異なるこの国を見せてやるのも当人のためになるだろう」

 それだけではない。

 前世でシャルロットは皇妃宮と皇宮を行き来するだけだった。デートとやらに憧れていると分かっていながら、何が起こるか分からない街に連れ出す勇気もなく、籠の中なら安全だろうとたかを括っていた。

 実はその籠の中で虎視眈々と狙い来る敵に囲まれ、逃げ道を失っていたとも知らずに。


「……一つ聞いてもよろしいですか」

「何だ」

「どうしてシャルロットを選んだのですか?」

 アロイスはそれまで動かしていた手をピタリと止める。インクがポタリと落ちて紙に滲んだ。


「以前シャルロットと会ったことがあるのは存じています。けれどその日きり。なのに陛下は躊躇いを見せませんでした。

一度や二度会った方と生涯連れ添い、しかも唯一の妃として皇后に迎えるなんて普通じゃ考えられません」

 普通…。ステラの言う普通の常識から考えれば、一度帝国民やシャルロットを裏切るような真似をして湖で生涯を終えた私が、過去に戻って再び皇帝の人生をやり直すこともあり得ないことなのだろう。ましてや、一度裏切った私がシャルロットとまた夫婦になりたいなど、軽々しく口にしてはならなかった。だが…。

「…欲が出たのだ」

 私に会えないことに泣き、暴言にも強気に言い返すわりに、今後会えなくなることに悲しみ、離れたくないと言う姿を見て、心を揺さぶられた。


『わたくしは今生も、陛下のおそばに在りたいと思っております』

 

「シャルロットと共に未来を生きてみたい、と」


 分かっていたことだった。あの暗闇と絶望の中で、陛下がシャルロットという光に手を伸ばしてしまうことくらい。

 陛下に皇帝への第一歩…それ以前に、人としての第一歩を与えたのはシャルロットなのだから。

「口が過ぎましたわ。申し訳ございません」

「構わない」

 ステラは一礼してその場を後にしたが、アロイスの切なげな表情がいつまでも頭を離れなかった。

 



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