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愛執の果て





 皇宮に到着してから即座にソフィーら侍女たちを呼び付けた。濡れた髪を拭き、泥や汗の付いた体を清潔にし、服を着替えさせる。

 それが終わってベッドに横たわる頃には、シャルロットは赤らんだ顔で眉間にシワを作り、呼吸を乱して時折咳をしていた。


「シャルロット…」

 ベッドの淵に腰を下ろし、額に手を置く。教会にいた時よりも額は熱かった。

「気持ち良い…」

 薄く目を開いたシャルロットはとろんとした目で微笑み掛けてくる。吐き出す息は熱く、錯覚を起こしそうになった。


「アロイス様……。…うつってしまいますので…。今夜は別々のお部屋で……」

 ただ話すだけなのにどんどん息苦しそうになる。見るに耐えない姿だった。

「もう良い。分かったから話すな」

 シャルロットのふやけた目が目蓋に隠されるのを確認してから、その言葉通り部屋を出ようとした。まだ濡れた服を簡易に拭いた程度で、雨汚れが自身にも付いていたからだった。だが数歩離れたところで、振り返って見つめていた。






 息苦しい。まるで何かが胸に詰まったかのよう。頭は何度も殴られたように痛み、全身が熱いのに、寒かった。

 本当は一人になんてなりたくない。でも、アロイス様に風邪をうつしてこの苦しみを味合わせたくはない。

 けれど…苦しい。辛い…。


「………アロイス様っ…」






 そのうわ言と一筋の涙を見て、アロイスは身を翻した。奥にある手に指を絡めて握り、額に手を置く。

「…アロイス様…?」

「こんなそなたを放ってはおけない」

「……ですが……」

「風邪を引いたら今度はそなたが面倒を見てくれ」

「…優しいお方ですわね…」

 シャルロットが笑みをこぼす。しかしその言葉には、「それはどうだか…」と誤魔化すように笑った。


「アロイス様があまりにも優しいので…いつか失うことになったらと思うと…、怖いです…」

 私もだ、と本音を伝えても、シャルロットは私を臆病だとは笑わないのだろう。それでも男としてのプライドが邪魔をして、その本音が口に出来なかった。


「ずっと…アロイス様のおそばにいたい…です…」

 熱で弱気になっているのか、閉じた目からスーッと涙が筋を作る。繋いだ手を握り締め、額に当てていた手をこめかみに滑らせた。

「私はずっとそなたのそばにいる。だから安心して眠れ」

 曲がった中指で涙を掬い、手のひらで包むように頬を撫でる。それだけで甘えん坊の子猫のように手に擦り寄り、気付けば寝息を立てていた。



「…シャルロット…」


 乾いたラベンダー色の髪を撫でながら、愛おしさが込み上げた。

 失うことを恐れているのは同じだ。シャルロットと人生を共にできるからこそ、今世を生きようと決心した。シャルロットを幸せにするために今までやってこれた。


 もしそなたを失ったら、私には生きる理由がなくなる────。

 





 

 ノックが掛かりアロイスは「入れ」と短く述べる。静かな足音でやってきたのは筆頭侍従のブルーノ・ジョルダーニだった。

「陛下、タオルで拭いただけでは陛下までお風邪を召されてしまいます。どうか湯船で温まれてくださいませ」

 雨に濡れて冷えた手が役に立った。シャルロットの苦痛の表情は和らぎ、落ち着いてきている。


「そばにいるとシャルロットと約束をした。目覚めるまではここを離れん」

 渋っていたジョルダーニだが、強く出られるわけもなく「承知いたしました…」と部屋を後にした。



 刺すような光を感じてアロイスは顔を上げる。

 怱々たる夜が明け、1日の始まりを告げる太陽が昇っていた。








 ジョルダーニが部屋を後にしてからも、アロイスは一向にシャルロットの眠る寝室から出てくることはなかった。

「シャルロット様が…あそこまでなさるとは思わなかった」

「森に向かったことか?」

 マルティンはコクリと頷いた。エリックは「まあ貴族の令嬢がそんなことをするとは普通思わないな」と納得していた。二人は雨で濡れた服を着替え、アロイスとシャルロットのいる寝室の扉の前に待機していた。

 

「令嬢にあるまじき行いとか、そういうんじゃなくて…。ただ…」


『お母さんの心臓はね、もう動いてないの。そうなってはもう、蘇らせることはできないの』

 残酷な真実から目を逸らさず、いくらでも誤魔化せる子ども相手に正直な姿勢を貫いていた。


『…こうなってしまった責任はわたくしにもあります』

『皇后陛下となられるシャルロット様を危険な目に遭わせるなど言語道断です』

『…皇后となるからこそです』


『民の上に立つ者が民を見捨てるなどあってはなりません』

 とても貴族の台詞とは思えなかった。シャルロット様をその辺の令嬢と同じだと見ていたわけじゃない。だだ、あれほどの覚悟があったとは思いもしなかった…。




♢♢♢



「先ほどはありがとうございました。エリック卿、マルティン卿」

 森から街へ戻る道のりの中で、シャルロットはふと二人の騎士を温かな眼差しで見つめた。隣のナッシュは共に救出に向かった街の者たちに軽く注意を受けていた。


「お礼を言われるようなことではありません」

「マルティン卿の言う通りですよ。私共はシャルロット様をお守りするためにいるのですから」

 マルティンは照れ混じりだったが、エリックは温和な態度で否定した。



「専属護衛の規定上はそうなのかもしれない。けれど…あのまま私がいなくなれば得をする人もいたわ」


 前世の護衛騎士たちなら、迷わずわたくしの体を支えなかったはず。わたくしとエリックくんは奈落に落ち、助けようとしたが僅かに手が届かず、事故死を迎えたと報告していたに違いない。

「…シャルロット様は私共を疑っておられたのですか」


 感情を押し殺した声色だった。マルティンが眉をぐっと寄せ、複雑そうにシャルロットを見やる。

「いいえ。信じていたわ。

だからあの時、手を伸ばしたの」


 母親を失って自暴自棄になっていた少年は、奈落に吸い込まれる最中手を伸ばした。その顔は死を受け入れたものではなく、生を望んでいた。マルティン卿とエリック卿と日頃から接するうち無意識のうちに信じていたシャルロットは、エリックの手を取るために身を乗り出していた。



「もし二人がいてくれなければ、わたくしはナッシュくんを助けられないどころか、自分自身の命も失うところだった。そうなったらナッシュくんのお母様にも街の方々にも顔向けできない上、アロイス様を悲しませてしまっていたわ」


 悲しむ程度で終わるわけがない、とマルティンもエリックも心の内で思った。

 シャルロット様を愛するあまり、陛下は毎日、コフマン伯爵夫人や私たちの定時報告の時間になると仕事の手を止め細やかに尋ねられる。シャルロット様が誰と遭遇し、互いがどんな態度で、シャルロット様がどのようなお顔をされていたのか。


 報告では飽き足らず、公務の一区切りを目処にシャルロット様を探されていることもあった。通りかかった廊下から庭園でお茶を嗜むシャルロット様を見つけた日には、日が傾くまでいつまでも眺められていた。

 …あの時は仕事がやりづらかった。補佐官イレオン・レヴィナス様に何度説得されても陛下はシャルロット様を見つめ、日が傾いた頃シャルロット様が部屋へ戻ろうとしてようやくその場を後にした。


 シャルロット様に心を奪われている陛下が、シャルロット様を失うことになったら…。下手したら帝都の東部地域を吹き飛ばし、今回の災害救出に当たった関係者全員を殺すのではないかと、二人の頭の中に嫌な想像が過った。






 シャルロットが目を閉じれば聞こえてくるのは歓声…ではなく、怒号。

『うちの妻と娘が何をしたというのですか!陛下の前を通りかかっただけじゃありませんか!』

『不機嫌な陛下に近付いたのだろう。また犠牲者が出たようだ』

 皇宮の門を叩く平民たちの悲しみと不満の叫び、廊下ですれ違う貴族たちの疑いと不敬の眼差し。誰からも歓迎されず、慕われず、わたくしたちは孤独だった。

『陛下は昼間からビアンカ皇妃殿下の寝屋か』

『あの愚王、病にでも罹らぬものか…』

『いても害を及ぼすだけ。いない方が幾分かマシだな』


 けれど今は二度目の人生。アロイス様にはもう、あのような苦しい思いはして欲しくない…。



「アロイス様には…幸せでいてほしいですから」

 ぽつりとこぼしたその言葉に何か深い意味があるような気がしたが、エリックとマルティンは何か尋ねることはできなかった。



♢♢♢



「…時折、シャルロット様が心を寄せられているのが陛下で良かったと思うことがある」

 エリックはマルティンの言葉に静かに耳を傾けていた。

「シャルロット様の繊細なお心を包んであげられるのは陛下だけだろう」

 顔だけはマルティンを見つめたまま。エリックにも思うことがあるのだろう…、そう思っていたマルティンに、ぶっと吹き出したエリックは口元に手を当てて笑いを堪えていた。

「……ナディア…。詩人か?お前は。心を包むとか…」

「例え話だろ。本気で受け取るな馬鹿者。シャルロット様は眠られてるんだから静かにしないか」

「いや悪い悪い。言いたいことは分かるんだが…」

 扉の向こうにいるシャルロットとアロイスに聞こえぬよう、エリックはなんとか笑いを堪えてひーひーと息を吐いた。そして笑いが収まった頃、日が昇る空を目を細めながら見上げた。

「まあ俺はそうは思わないな。ああいうのは片方を失った時、もう片方は呆気なく死を選ぶ」

 太陽が二人の影を伸ばす。やがてマルティンの影を飲み込む雲が現れると、エリックの影も間も無く飲み込まれた。


「陛下とシャルロット様に向かって“ああいうの”とはなんだ」

「例え話だから本気にするなって今ナディアが言ったんだよな?」

 剣に手を掛けてふりをしたマルティンに、エリックは「ここで騒ぎを起こすのは賢明じゃないぞ」と指摘していた。





 帝都ソルダの土砂災害の一件は記者によってたちまち帝国中に知れ渡った。平民しか住んでいない東部地域の救済に皇帝陛下と次期皇后陛下のシャルロットが赴き、救出及び避難誘導に当たったこと。

 その活動の中、一人の子どもを助けるためシャルロット自ら森に向かい、泥だらけになって子どもと共に戻ったこと。避難先は教会で、配給された食事は皇室の料理長により作られたこと。


「あのニュース見た?」

「もちろんだ。まさか皇室が救済に直接動くなんてな!」 

「さすがはシャルロット様!陛下から求愛を受けたお方の器はとてつもない大きさね!」

「教会や皇室騎士団も協力したんだろ?避難した者たちの配給や避難指示を行ったらしい」

「新皇帝陛下は今までの陛下とは違うかもな…!」





「街の噂はすっかり昨夜の一件になりました。

陛下とシャルロット様の人気が軒並み上昇しているようです」


 紅茶を嗜んでいたステラは、その報告ににんまりと笑いご満悦だった。

「貴族派は腸が煮えくり返る思いでしょうね」

 気分が高まり過ぎて高笑いをしていると、ニコラスに「性格の悪さが滲み出てます」と注意された。

「滅べば良いのよ、あんな奴ら。女が皇帝になれないからって好き放題言って、わたくしを利用しようと画策して」


 カップを握る手が震え、隠すように力が籠る。普段は堂々と胸を張っているというのに、時々今のように肩がすぼんで背中が小さくなる。

 弱いくせに強がってばかりだな…。そう思うものの、ニコラスは格好良い慰めの言葉一つ浮かばなかった。

「……貴女には悪女のような姿の方がお似合いですよ」

「ニコラス…。わたくしを怒らせたいの?」

 黙っているようなステラでもなく、挑発に乗ったステラはニコラスを睨み上げた。


「そろそろ見舞いの時間ではないですか」

「あっ、いけない。忘れてたわ」

 ステラは身を気にしながら部屋を出る。たかが同性の女に会いに行くだけなのに、身嗜みなど気にする必要があるのか…。ニコラスの不満げな顔はご機嫌で前を向くステラの目には映らなかった。




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