招かれざる客
目覚めて早々シャルロットは目をパチクリとさせた。視界全体に厚い胸板があり、その下には筋肉が盛り上がった腹がある。
頭が事態に追いついていかない。
えっ。えっ…!
視線を上げていったその先で、まだ眠たげなアロイスが目を細めて不敵に笑う。
「目覚めたか」
「えっ…!?」
飛び退いたシャルロットの腕をがっしりと掴み、アロイスはベッドに押し倒す。寝巻きからちらちら見える逞しい肉体と寝起きの締まりのない顔は、シャルロットの心臓を高鳴らせた。妙な色気に当てられて、そのまま委ねてしまいそうだった。
「…おはよ」
…朝から心臓に悪い。
「お、おはよう、ございます…」
遅れてシャルロットは気が付いた。まだ顔も洗っておらず、長髪はボサボサ、化粧も施していないことに。
「わ、わたくしまだ何も支度を済ませておりません…!あまり見ないでください…っ」
好きな人には、綺麗な姿だけを見てほしい。それは、どんな女性でも思ってしまうことではないかとシャルロットは思う。
けれどアロイスはそれを分かってくれそうになかった。顔を手で覆いたいのに、暴れようとするとアロイスの手がきつくシャルロットを押さえ込んで許さない。
「昨夜もそうだったではないか」
「夜は暗いので…っ」
耳まで真っ赤…。どこまでも男をその気にさせる。しかし一歩外へ出ると、凛として品の良さが前面に溢れ出る。
この照れた顔も、ふやけた顔も、誰の目にも晒したくない。
「アロイス様?」
考え込んでいたアロイスを双眸が見上げる。
「どこか具合でも悪いのですか…?」
無神経だとは思うが、シャルロットに心配をされると心が躍る。注意が私にのみ向けられ、深みのある海のような目の視線を独り占めできるから。
「…いや、これからどうしようかと考えていた」
「っどうもしませんわ。もうすぐソフィーが来る頃です」
拗ねてしまいそうだったので、華奢な手首を解放して隣に寝転ぶ。するとシャルロットは余韻もなく起き上がってしまう。離れていく背中が、前世で夜にネオンマリンの花畑を見に出ていた背中と重なった。
「…シャルロット」
彼女は気付いているのだろうか。
私の心は相変わらず狭く、臆病だということを。
「なんでしょうか」
振り返ったシャルロットの温かな眼差しに安堵し、息がこぼれた。
「呼んでみただけだ」
朝食を摂り終え、アロイスと並んで歩きながら、シャルロットは小声で気になっていた話題に触れた。
「先日の狩猟祭のことですが」
「バジリオ侯爵家の公子か」
「はい。貴族派が犯人の可能性がありますが、噂では皇帝派が犯人だと…」
「…仕立て上げられたか」
考えたくはない。けれど、腹心で陰謀を巡らせていた貴族派には、その可能性は高い。
「貴族派のしそうなことだ。わざとバジリオ公子を襲い、一番可能性のある皇帝派に責任を負わせる。厄介な奴らだ…」
重いため息を吐き出したアロイスは、執務室の扉をくぐりながら振り返る。
「圧を強めてみるが、そなたも警戒心を解くな」
「…はい」
守ろうとしてくださっている。けれど守られてばかりではいられない。
その足で皇女宮に向かったシャルロットは、使用人が忙しなく行き交う庭園に顔を覗かせた。今日はステラとお茶会を予定していたが、雲行きの怪しい天気はお茶会日和とは言い難い。
薔薇の花が気高く咲き誇る庭園は和やかかと思いきや、張り詰めたように緊迫していた。ニコラスは瞬き一つせずただじっと一人の男にガンを飛ばしている。紅茶に手を付けたステラがカップをいささか乱暴に戻し、キッと正面を睨み付けた。
「何の御用でしょうか」
強烈な眼差しを男は爽やかな苦笑で交わす。
「そんなに怖い顔をなさらないでください」
「事前の連絡もなしに突然訪問された無礼者に、情けは無用かと思いますが」
喧嘩腰のステラは気付いていなかったが、背後にいたニコラスがシャルロットに気が付きステラに耳打ちした。
「…噂をすれば何とやらね」
「気を付けてくださいシャルロット様」
「お茶にも手を付けられませんよう」
「分かったわ」
マルティンとエリックの助言を受け、満面の笑みのステラに手招きされたシャルロットは一歩を踏み出す。振り向いた男は立ち上がって一礼した。
「怪我の具合はいかがですか、バジリオ公子」
「お陰さまで順調に回復しております。先ほどクラメール先生にも御礼をお伝えました」
「そうでしたか」
シャルロットが席に着き、湯気の立ち昇るカップが差し出される。この香り…!
「ラングルンのレモンティーね…!」
シャルロットの目がきらきらと輝いて食い付いた。
「持ち寄らせていただきました。飲まれてもいないのに気付かれるとは、さすがですね」
「帝国のレモンティーは甘みもあって、ピンクがかった黄色をしているもの」
シャルロットはニコニコと返答をする。完全にシャルロットを味方に付けられた…とエリック、マルティン、ステラは落胆した。
「公子、わたくしはこれからシャルロットとお茶の予定でしたので、本日はお引き取りください」
「シャルロット様もいらっしゃるのであれば、ちょうど良いです。
本日は狩猟祭の件でお話があり参りました」
ステラは見極めるように目を細める。シャルロットはイアンの姿を見た時から予測していた展開に驚きはしなかったが、彼の口から何を語られるのだろうかと緊張が走った。
「確証がなかったため、以前シャルロット様に犯人の心当たりを尋ねられてもお答えできませんでした。
しかし先日、父の書斎の前を通りかかり、聞いてしまったのです」
♢♢♢
「イアンの怪我の具合は」
「順調に回復しております」
「ふんっ、腕ごとき。せめて腹ならこちらが疑われる余地もなかったろうに」
足を止めたイアンの心臓が悪い音を立てた。自身の野望のためには息子も利用するような人間だとは思っていたが、これほどまでとは思っていなかった。
まるで、駒の一つのようだ。
「万が一ということがありますから」
「…まあ良い。それで、皇帝派の方はどうだ。噂は流したんだろうな」
「もちろんでございます。皇帝派の中に犯人がいると思い込み、罪の擦りつけ合いが始まったようです。公女が狙われたことで、皇帝も犯人探しには力を入れていますから」
「見つかれば永遠に牢獄かもしれんからな」
父親の高笑いに腹の底でもやもやが蠢く。私を皇帝にし損ね、軌道に乗っていた土木工業も国が買収し、現皇帝の圧力により懇意にしていた者たちも離れていった。衰退の一途しかないバジリオ家をこれ以上の沼に引き込んでまで、身の丈に合わない地位を欲するのかと辟易した。
「第二段階に移行しろ」
「かしこまりました」
「“公女が犯人”ならば、自身の身が可愛い皇帝派も口を閉ざす。真っ先にイアンの元に駆け付けた点も怪しまれるだろう」
♢♢♢
「わたくしが…犯人…!?」
シャルロットはギョッとしてイアンを見やった。
「私は父に勧められてあの場所で狩りをしていました。公女がそばにいることを知っていたのでしょう」
『貴族派が犯人の可能性がありますが、噂では皇帝派が犯人だと…』
『…仕立て上げられたか』
アロイス様の仰っていた通りだわ。仕組まれた上、まさかわたくしが狙われていたなんて…。
「父は大義名分の下シャルロット様を引き摺り下ろし、後継問題を主張して貴族派の令嬢を皇室に入れるつもりなのだと思います。
ですが私は、これ以上父の思惑通りに進める気はありません」
きっぱりと断念したイアンを、それでもステラはよく思わなかった。
「まさかバジリオ侯爵と対立するおつもりですか?」
鼻で笑いながら言われた言葉だけで、イアンにも何が言いたいのかは想像が付いた。
父親のお陰で周囲から注目を集めているだけで、次期当主の肩書がなくなればイアンには立場的な魅力がない。外見の魅力を除けば、それまで集まっていた人が離れていくのは必須だろう。
「対立ではありません。私が表立って皇帝派の味方をしたところで、はたして何人がついて来てくれることでしょう」
イアンもそれを分かっていて、無謀な戦いはしないようだった。
「父はいつも誰かを忌み嫌い、自身が上に立つためには非道な行いも厭いませんでした。
私にはそれが、不思議でしょうがなかった。何故共に仲良くできないのか、横に並べないのか。
人を憎むのではなく、愛せないのかと」
『私も、誰かを愛する人生を送りたいと思ったのです』
ふと、シャルロットの頭を過ぎった言葉があった。狩猟祭で怪我を負ったイアンの元を訪れたシャルロットが、医務室で耳にした言葉だった。
「いつまでも不毛な争いを続けていれば、やがて国内で分裂が起きてしまいます。それに何より…私がもう、疲れてしまったのです。誰かを蹴落とす父に加担することに」
貴族派の二大筆頭の片方であるバジリオ侯爵家の次期当主イアンが、何故シャルロットの記憶の中に薄いのか、シャルロットはその理由が分かった気がした。
バジリオ侯爵と全く似ていない。
演技をしているように見えないし、本心で言っているのだわ。
「私の周囲は父の味方ばかりです。しかしシャルロット様とステラ皇女殿下の周囲には、皇帝陛下の味方が数多くいらっしゃることでしょう」
動けない自分の代わりに、こちらから動いてくれということね…。
「バジリオ公子にご協力いただけるのでしたら心強いですわ」
「シャルロット…!」
ステラの強気な視線を受け、シャルロットは笑い掛ける。
「避けては通れぬ道です。いずれはさらなる対立が深まり、公子の仰る通り国内で争いが起こります。そうすれば最後、好機と見た従属国に攻め込まれかねません」
言い切ったシャルロットに、ステラは疑問を抱いたが、その憂慮が事実起こりえないと言う確証もなかった。
「…分かりました」
すっくとステラは立ち上がる。
「これは取引です。もし裏切れば…」
成り行きを見守っていたイアンも腰を上げ、手を差し出した。
「その時は私の首を狙ってください」
「それは名案だわ」
愉快だと言わんばかりに悪女のような笑みを浮かべたステラは、その手を握ろうとする。しかしその前に背後から伸びて来た手に止められた。
軟弱そうなイアンの手とは異なり、傷も付いた硬い手だった。
「…ニコラス、何のつもり」
「手に毒が仕込まれているやもしれません」
ステラの手を阻んだニコラスの手は、一向に離れる気配がない。ステラは諦めて手を引っ込めた。
「…やはり皇帝派は、幸せそうな方々が多いですね」
微笑んだイアンの言葉の意味を理解したシャルロットとニコラスとは異なり、ステラだけは理解ができなかった。