そばにいたい
先日のお茶会の出来事は、噂好きの夫人たちには瞬く間に流布し、寄ると触るとその話題だった。
「シャルロット公女が皇后陛下の如く振る舞ってらしたそうよ」
「お陰で貴族派の良い顔が見れたそうですわ」
「まあ、それはさぞ愉快だったでしょうね」
「貴族たちの誰よりも遅く来て、随分と面の皮が厚い方だったそうよ」
「そんな方が皇后だなんて、相応しくないのではありませんか」
皇帝派の夫人たちは口元に笑みを浮かべ、貴族派の夫人たちは扇子が軋むほど握りしめた。
「不評を買うかと思っていましたが、皇帝派にはそうではなかったようね」
「皇帝陛下の不在で割り込んできて、皇帝派も不満を溜め込んでいましたから。良い気味だと思われている方も多いのではないでしょうか」
庭園で一人お茶をしていたシャルロットはソフィーが目の前に出したゼリーを口に含んだ。
「シャルロット様、お耳にお入れしたいお話がございます」
マルティンはシャルロットのそばまでやって来る。
「何かしら」
「先日の狩猟祭でバジリオ侯爵の御子息を狙った犯人ですが、貴族派の者かもしれません」
シャルロットはよく噛みもせず、ゼリーを丸呑みしてしまった。
「貴族派が同じ貴族派を?」
「…は、はい。あの近くで狩猟をしていたのは、貴族派の者たちだけでしたから…」
ゼリーとはいえ、丸呑みは大丈夫なものか…。
まさかこれも陛下に咎められる対象なのか…?
「彼は唯一皇帝陛下になれる器だったのではないの?」
侯爵の子息という地位があり、未婚であり、皇族であるステラ皇女との年齢の釣り合いがとれる。
貴族派の中で彼以外に相応しい人物が他にいるとは思えない。
「はい。そのはずですが、恐らく既に皇帝陛下が即位され、その地位は狙えないと思ったのではないでしょうか…?」
「切り捨てられたということ?けれど切り捨てたところで貴族派に利点はないはずよ…」
皇帝陛下の座を狙っていたことを知っていたのが、貴族派重鎮とバジリオ公子だけなら、口封じも考えられる。
けれど貴族派は隠しもせずに公子を皇帝の座に据えようとしていた。今更公子を処分したところで、何の得があるというの…。
「どうでしょうか。バジリオ侯爵家の御子息が怪我をされていたのは腕でした。避けられて失敗したのかもしれませんが、確実に仕留めるなら私は腕には当てません」
「それもそうね…」
頭、心臓、首。
そのどれでもなく、腕だった。
「何か別の意図があって彼を怪我させたか、自作自演だったか…。物柔らかな方だったから、後者はないと思うのだけれど…」
「あの貴族派の筆頭であるバジリオ侯爵家で育てられたのですから、油断はされない方がよろしいかと思いますよ」
「…ええ、そうするわね」
怪訝そうな顔をしていたマルティンは、シャルロットの笑みを見て表情を和らげた。
午後はソフィーの誘いで外でティータイムを楽しんだ。
ネオンマリンの見えるガゼポでソフィーがラングルンから取り寄せたジャスミンティーを飲み、心を休める。
以前ラングルンが好きだと話したため、ソフィーが用意してくれたのだった。
「けれどわたくしはやっぱり、ソフィーの淹れてくれるお茶が一番好きよ」
そう告げると、ソフィーは表情をふっと緩ませて、「恐れ入ります」と微笑んでいた。
風が冷えてきたことでソフィーに室内に戻ることを促されたシャルロットは、夕日が見える前に皇后宮に戻ろうとした。
「シャルロット公女」
声を掛けられ、足を止める。
「ディートリヒ公爵、フォーゲル公爵」
そこには、腰に両手を当てて熊のようにドンと立つ騎士団長と、反対に細身で貴族らしく美しい姿勢で佇む宰相の姿があった。
「先日の狩猟祭は災難でしたな」
「ええ、本当に…」
「故意に引き起こされたものですがね」
マーカスは油断ならないと言いたげに目の奥がギラリと光っていた。
「その件なのですが…、バジリオ侯爵家の御子息は、お二人から見てどういったお方ですか?」
「私は全く関わりがありませんな」
「私も彼の内面を良く知るわけではございません」
「そうでしたか…」
収穫はなさそうね…。
「そういえば、狩猟祭のことで良くない噂がございます」
「何でしょうか」
良くない噂という言葉に、シャルロットの身体が強張る。
「かつて皇帝陛下の有力候補だった貴族派が狙われたことから、犯人は皇帝派ではないかというまことしやかな噂が流れ始めています」
まさか…。そう声が出そうになったのを、シャルロットはなんとか堪えた。
噂の一つや二つに踊らされるようでは、アロイス様の隣に立つ者として相応しくないと見られてしまう。
シャルロットはあくまで冷静に努めた。
「……フォーゲル公爵はどう思われますか」
「皇帝派の方々は、貴族派のように機会があれば皇帝陛下を輩出しようなどという無礼かつ大胆な思想は持ち合わせておりません。事実ではないと思われますが、断定できる根拠もございません」
「…そうですわね…」
シャルロットの身がぶるりと震えたところで、ソフィーに半ば強制的に室内に連れられた。
食事や沐浴を済ませ、寝巻きになり温かなカモミールティーを口にしながら、ぼうっと宙を眺める。
“犯人は皇帝派”…。
先ほどマルティンから聞いた話と正反対だわ。
巷は不確かな憶測で混乱しているということかしら。
もしそれが事実であるとするならば、やはり彼が皇帝陛下の有力候補だったことが原因で、散々貴族派が厚顔な態度をしてきた腹いせなのかもしれない。
この噂が公に広まれば、皇帝派の立場は弱くなってしまう。
その前に、何か手を打たないと…。
そう考えていると、ノックの後に扉の外にいたエリックが顔を覗かせた。
「シャルロット様、陛下がいらしております」
「アロイス様が…?」
許可を出して入ってきたアロイスもシャルロット同様、寝巻きの姿だった。
「このような遅くに…。何かあったのですか?」
「引き継ぎ業務が一段落したからな。そなたの顔を見に来た」
要らぬ杞憂だったようで、シャルロットは一安心した。
ご多忙な中でも時間を作り来てくださったのね…。
「ではお茶を用意させましょう」
「いや、いい」
手を引かれたシャルロットは、肩を押されてベッドにぽすんと座る。
まさか……今夜…………………?
天蓋に密閉されているようで、やけに胸の鼓動が激しく鳴る。
動揺を隠せない瞳の中で、アロイスは唇を綻ばせた。
「アロイス様っ…、今夜は香油を塗っておりませんし……」
影になったアロイスの体は、それでも隆起した筋肉が分かる。
その体が迫り、むわっとした熱気が伝わると、息をすることさえ躊躇われた。
きつく目を閉じたシャルロットの頭に、大きな手が乗る。
「何を期待しているのだ?私はただ、そなたの隣で眠ろうかと思っただけだが」
……わたくしが勘違いをしていただけ……!?
首まで茹でタコのように真っ赤になったシャルロットは、「…意地悪ですわっ」と捨て台詞を吐いてベッドに潜り込んだ。
わたくしはこんなにもドキドキしてしまうのに、アロイス様はまるで違う。
いつも余裕で、わたくしばかり空回りして……。
「…シャルロット」
絶対に返事をしないと意地になっていたシャルロットは狸寝入りをした。
「……シャルロット…」
反対側を向いてしまったシャルロットの長髪が波紋を作り、月明かりで艶々と輝く。
寝巻きから伸びるすらりとした小さな手足は傷一つなく、白く美しい素肌と相まって月の女神のようだとアロイスは思った。
アロイスがベッドに乗ると、シャルロットの背後で窪みができる。
「っ…」
背後に座っている。
それだけが分かるのにあまりにも何もされないので、焦らされたシャルロットの心臓が爆発してしまいそうだった。
「…寝たのか」
寝巻きからもシャルロットの豊満な胸の形がくっきりと浮かぶ。
谷間に引き寄せられそうになったが、手前の二の腕を掴み、見た目よりも柔らかい感触に思わず何度も掴んで確かめていた。
「っん…」
腕の中で震える吐息に唆られる。
何をするつもりもなかったのに、体が熱く滾る。
首に掛かった髪を手で払い魅惑的なうなじが見えると、顔が自然と向かっていた。
髪から何の香りでもない、ずっと嗅いでいたくなるような甘い香りが漂う。
過去にもアロイスの心を癒し、深い眠りに誘った香りに懐かしさを覚えた。
「寝たなら何をしてもバレないな」
アロイスの荒々しい呼吸使いが首をなぞり、シャルロットも疼く下半身を堪えるよう足を擦り寄せる。
うなじにチュッと口付けられ呼気をもらした直後、尖った牙が立てられた。
「…っあ…」
シャルロットは歯を噛み締めて堪える。
アロイスには手加減をしたつもりだったが、思いの外歯型が残っていた。
「…アロイス様……!」
くるりと寝返りを打ったシャルロットは、潤んだ目でアロイスを睨むように窺う。
これほど恐怖を感じさせない睨みがあるのか。むしろ可愛いのだが…。
「何もしないと仰りました」
「そなたの隣で眠ると言ったのだ。何もしないとは言っていない」
視線を落とすと、寝巻きがはだけてくっきりと喉仏が浮かんだ首元が露わになっている。
下に続く厚い胸板を間近に直視できず、シャルロットは枕に顔を埋めた。
先ほどから心臓が騒がしい。
聞かれたくないというのに、ドクンドクンと身体中に響いて指先にまで伝わってくる。
「今夜から寝室を共にしないか?」
……え?
パッと顔を上げたシャルロットの期待の眼差しが、アロイスに突き刺さる。
我慢させていたのだとそれだけで分かった。
「しばらくは昼間だけでも公務は回るから、夜はシャルロットと一緒にいられる」
「…わたくしが提案した時は断ったではありませんか」
「考えが変わったのだ」
『シャルロット様は時折、悪夢にうなされて目覚められるそうです』
何度も皇后宮に足を運ぼうとした。
しかしその度に、補佐官に引き止められた。夜もまとまった睡眠を取ったことはなかった。
しかしようやく、夜だけはシャルロットとまともに寝られる時間をとれた。
「…では、毎晩こちらに?」
「ああ。ここはそなたの香りが強くて落ち着く」
「…香りはソフィーが毎日入れ替えてますよ」
「違う。そなた自身の香りだ」
わたくしに香り……?クンクンと腕に鼻を近付けてみる。
が、やはり何の香りもしない。
「っふ…」
アロイスは顔を逸らして笑っていた。
「どうして笑うのですか」
「犬のようでな…」
「犬ではありません」
顔を顰めたシャルロットを捕らえるように、背中に腕が回る。
動こうと試してみてもびくともせず、逞しい腕はさらにきつく抱きしめてきた。
「愛らしい、ということだ」
アロイスの胸板に顔を埋められて、視界は真っ暗になる。
そこからは早い心音と、燃え盛るような温もりが伝わってきた。
アロイス様も、緊張なさっている……?
「…今日はもう寝るといい」
懐かしい。
昔もアロイス様はわたくしを抱きしめて眠りに付いていた。
抱き枕のように思われていたのかもしれないけれど、アロイス様の腕の中で眠ることが、わたくしは大好きだった。
シャルロットは目を閉じた。互いの温もりを感じながら、二人は一晩中寄り添って眠っていた。