穏健な青年
怪我人が出ていたこと、皇帝陛下のアロイスと次期皇后陛下のシャルロットが狙われたことで、狩猟祭はその場で中断となった。
勝利の栄光を手にしたのは、暫定一位のディートリヒ公爵だった。
すぐさま犯人の捜索が開始されたが、狩猟に参加した貴族の他に、怪しい人物の姿はなかった。
着替えを終えたシャルロットは、設備されていた医務室の扉に手を掛けた。
「シャルロット様、まさか先ほどの青年にお会いになるのですか?」
「ええ、そうだけど…」
怪訝そうな顔をするマルティンに、シャルロットは不思議に思う。
「シャルロット様、どうかなさいましたか」
「クラメール先生。先ほどの…」
そこまで口にしたところで、シャルロットはシルバー混じりのブロンズを見つけた。
同じ色味の垂れた目が細まる。
「先ほどは助けていただきありがとうございました」
「いえ…。相手に覚えはあるのですか?」
青年は愛嬌のある顔を緩めるだけだった。
この顔、見覚えがあるような気がするけれど…。
「どうぞお座りください」と告げられ、青年の向かいに腰を下ろした。
「私はイアン・バジリオと申します」
その名を聞いて、シャルロットはようやく思い出す。
貴族派であるバジリオ侯爵家の長男。
ステラの婿として貴族派が皇帝陛下に推していた方だわ…!
『…シャルロット公女と似てますね』
………わたくし垂れ目ではないのだけれど…。どの部分を見てステラはわたくしと似てると仰ったのかしら。
「…シャルロット・テノールと申します。テノール公国より参りました」
「存じております。陛下の即位式には私も参列しておりました。あの素敵な求婚も、この目で見ておりました」
あの時のことを思い出し、シャルロットはカァッと頬が赤く染まった。
イアンはくすりと笑う。
しかしシャルロットには、鼻に付く感じはしなかった。
「先ほども、陛下はシャルロット様を守る騎士のようで…正直、羨ましいと思いました」
「羨ましい…ですか」
「私は身を焦がすほど誰かを愛したことがございません」
「…陛下も身を焦がすほどではないと思いますよ」
「そうでしょうか?」
アロイス様に大切にされているとは思うけれど、わたくしがアロイス様を思う気持ちは、きっとそれ以上。
空よりも広く、海よりも深い。
「私も、誰かを愛する人生を送りたいと思ってしまいました」
視線を落としたイアンが、シャルロットは気掛かりだった。
貴族派なのにわたくしを目の上のたんこぶ扱いしない。
それどころか、まるで心を開いているかのように弱みを見せてくる。
単に本性を表に出していないだけなのかしら…?
「シャルロット」
ソファ越しに筋肉質な腕が首に回る。
その手を掴んで見上げると、アロイスがシャルロットに微笑んでいた。
「アロイス様、貴族の方々の応接は…」
「大方帰路についた」
人前なのに、これほど密着してくるなんて…。
シャルロットはもうイアンを見ることができなかった。
「そなたも手当ては終わったのだろう。伯爵がそなたを待っている」
アロイスの歪んだ視線から、イアンは目を逸らした。
知らず知らず、戦慄が走った自分の身を抱きしめていた。
溺愛どころじゃない。
まるで妖精が悪魔に捕らえられたようだ…。
「…では失礼いたします」
資料の細かい字が読めず、眼鏡をかけては外してを繰り返していたクラメールに手短に挨拶をして、イアンは医務室を後にした。
「……アロイス様、あの…」
「なんだ」
なんだ、じゃないですわ…。
エリック卿もマルティン卿も、ラクロワ卿もトルドー卿もいらっしゃるのですが…!
ラクロワ卿はニヤニヤしていらっしゃるし…。
「いっ、いつまでこうしてらっしゃるのですか」
「…そなたが私を嫉妬させるからだろ」
「えっ…」
振り返ると、鼻の先にアロイスの端正な顔がある。
これでもかと目を見開いたシャルロットは、後退りするようにソファに手を付いていた。
アロイスは男でさえ息を呑むような綺麗な顔をぐいと近付ける。
「あいつに惚れたのではないだろうな」
お顔が、近い…っ!
「な、何を仰るのですか。
わたくしはアロイス様一筋です!」
……あっ…。
それまでシャルロットをじりじりと攻めてきていたアロイスも、きょとんと抜けた顔をしている。
わたくしったら、公開告白してどうするの…!!
一瞬の沈黙の後、真っ先に吹き出したのはクラメールだった。
「ブッ…ハッハッハ…!!帝国の未来は安泰ですな陛下!」
続いてラクロワが我慢しきれず前屈みになってクツクツと笑う。
エリックは片手で顔を覆い、マルティンは顔を逸らし、それぞれ笑いを必死に堪える。トルドーだけは唯一、真顔のまま平然としていた。
「っ違うのです!」
「違うのか?」
切れ長の目を細め、薄い唇が怪しげに笑う。
塔の中にいて、どうしてこのような色気が溢れるようになってしまったのか。
「ち、違いません…けど…」
爽やかな顔をして虐めてくる。
シャルロットは気恥ずかしい気持ちでいっぱいで、ソファを立ち上がった。
「…アロイス様は意地悪ですわっ…」
そう言い残してその場を立ち去ろうとしたが、シャルロットの手首をアロイスの大きな手が掴む。
「そなたは本当に愛くるしいな」
優しい声に惹かれて、アロイスを見やる。
夏の日差しのような瞳に、焦されてしまいそうだった。
被さるような体が迫り、シャルロットはきつく目を閉じる。
額に口付けられたと思うと、耳に温かな吐息が掛かり、背筋がぞくりとした。
「人前でどうこうすることはない」
たった今してたではないですか…!
そう言いたかったけれど、竦んでしまいそうな足に力を入れるだけで精一杯だった。
「前世ではこれ以上のことも済ませたではないか」
「っ…!」
ボンっと爆発したように顔を真っ赤にさせたシャルロットは、ついに足から崩れ落ちた。
片手で軽々と支え、シャルロットを見下ろすアロイスの顔は、完全に揶揄っているものだった。