ネオンマリンの庭園
部屋の扉が閉ざされた途端、ニコラスはため息のように言葉をこぼした。
「証拠でもあれば貴族派を追い詰められたというのに…」
「その証拠を自ら処分したのはどこの誰」
「そうだそうだ。そのせいで俺たちが陛下に圧をかけられるはめになったんだぞ」
マルティンは睨みを利かせ、エリックも目くじらを立てた。
「あのまま生かしておけば何をするか分からなかった。
それにいずれ処理するものを先に処理しただけであのように言われる筋合いはない」
「けれど貴方の推理は的外れよ、ニコラス」
ステラはニヤリと笑って人差し指を向けた。
「仮に早々に貴族派と交流を持って釘を刺しても、貴族派はそれで大人しくなる連中じゃないわ。虎視眈々と機会を窺ってる。だからバジリオ侯爵家の長男をわたくしに充てがい皇帝にするなんて案が浮かぶのよ」
ニコラスは不機嫌そうに口を閉ざす。
さすがはステラ皇女殿下。
ニコラスの扱いに長けている。
エリックが心の内でそう思ったのも束の間だった。
「それよりシャルロットが心配ねえ…」
その言葉により、ニコラスの額に青筋が浮かんだ。
「かなり怒ってるな、ニコラス」
「仕方ない。近頃のステラ皇女殿下は、口を開けばシャルロット様の話ばかりらしいから」
マルティンに耳打ちすると、同じように返される。
「だからか。シャルロット様に食いついてくるとは思っていたが」
ステラを温かな眼差しで見守るニコラスは、アロイスとシャルロットを思わせる。エリックは合点がいった。
抜けるような晴れ空の下、庭園には青い絨毯が広がっている。
控えめに花開き、長い花びらは真ん中で外側に折れる。
夜は月の光で深海のように闇を見せていたのに、昼の日差しの下では淡い色合いになっていた。
まるで、ささくれたわたくしの心をほぐそうとしているかのよう。
「ネオンマリンが好きだっただろう。
内緒で連れてきて驚かそうと思っていたのだが…皇后宮へ来た初夜に先を越されてしまったな」
かつてアロイスがシャルロットのために花畑を作った、ネオンマリンの花。
その花畑が再び、目の前に広がっている。
「とても嬉しいですわ」
舗装された道を通り、シャルロットはふわりと笑んでアロイスを振り返る。
アロイスは胸が温かい気持ちでいっぱいになった。
「…シャルロット…。……前世の狩猟祭、私が怪我をしたから、そなたも参加するのか?」
ステラとソフィーからシャルロット狩猟に参加するという話を聞き、弓の練習をしている姿を見るまで、到底信じられなかった。
彼女もこの四年、ただ待っていたわけではないとは思っていたが…。
「…はい」
花畑を先に歩き、小さくコクリと頷く。
照れて顔も合わせられないシャルロットが可愛らしくて、背後から腹に腕を回していた。
「心配してくれているのか」
いきなりのことにどきりとして、シャルロットはまん丸の目でアロイスを振り返った。
「ようやく目を合わせたな」
吸い込まれそうな翠玉の瞳の中で、頬を染めたシャルロットの瞳は揺れていた。
「ア、アロイス様…」
「逃げ腰だな」
「その…まだ昼間ですし……」
目を伏せたシャルロットは赤くなった頬を隠すように前を向いてしまう。体を反転させて、両頬を手で包み込んだ。
「…そなたは相変わらず、いや、過去以上に恥ずかしがり屋だな」
頬を親指で撫でる。
ゆっくりとアロイスの顔が近付き、吐息が鼻に掛かってシャルロットの肩がびくりと跳ねた。
再び距離を取ろうと後退しながら、シャルロットの手はアロイスの手首を掴んだ。
「こういうことは夜にお願いいたします…」
「私は昼の方が興奮する。そなたの愛くるしい表情が良く見れるからな」
「っ…」
興奮、だなんて…。
それに、愛くるしい表情……?わたくしが…?
「それとも夜なら何をされても良いというのか?」
指を絡めて握ったアロイスは、その手を引いて倒れかかったシャルロットを抱きしめる。
シャルロットが瞬きをした一瞬のうちに起こり、何が起きたのか理解が遅れた。
そろそろ本当に心臓が持ちそうにない。
バクバクと爆弾のように脈打ち、爆発してしまいそうだった。
「アロイス様…っ」
「そなたが私を心配してくれるのは嬉しい。
だが私も、そなたが心配なのだ」
アロイス様の鼓動が、早い。
耳に降りかかる甘い声は、悲痛な叫びを抑え込んでいるようだった。
「…できることなら、生涯安全な場所に閉じ込めておきたい」
「そ、れは…」
「ああ。無理だというのは分かっている。
帝国民の支持を得るためにも、自主的に動かなければならない」
だがそれくらい、大事にしまっておきたいくらい、愛おしくて堪らない。
どんな危険からも遠ざけたい。
「…歴史的に見ても、武術に秀でた皇后は世間を賑わし、その後の政策によっては高い支持を得ています。
皇室にとって悪くない話のはずです」
「名声を高めても、そなたが怪我をしてしまったら元も子もない」
「…アロイス様がお怪我をなされても、同じですわ」
前世の狩猟祭では巨大な親イノシシが突っ込んできて、アロイスに怪我を負わせた。
それが何者かの画策によるものなのか、人間が一年ぶりに森にやってきたからなのかは不明で、有耶無耶なままアロイスは回復し、事件は収束した。
「わたくしはアロイス様から離れません。それならよろしいでしょうか?」
「…ああ」
体を離したアロイスは、哀愁を漂う瞳でシャルロットを見つめた。安心させようとシャルロットが微笑むと、視界で人影が動いた。
「あっ!」
横道で屈んでいた男が立ち上がり、アロイスに一礼をする。シャルロットは我が目を疑った。
「皇帝陛下にご挨拶申し上げます!
散策されているとは知らず…、申し訳ございません。すぐに出ますので」
その者は、かつてアロイスが嫉妬し、牢屋で手に掛けたあの庭師だった。
「そのままで良い」
アロイスは手で制して、シャルロットの腰に腕を回す。
「そなたのお陰でシャルロットを喜ばせることができた。感謝する」
「い、いえ。滅相もございません…!」
まさか庭園を皇帝陛下が散策するとは思わず、庭師は事態に対処しきれずあたふたとしていた。
先代両陛下はどんなに手入れが上手くいっても、庭園をゆっくりご覧にいらっしゃったことなどなかったのに…。
「今後も頼んだぞ」
「っはい!」
意気揚々と返事をした庭師は、通り過ぎる二人の姿を見送った。
「…シャルロット様…」
淡い紫の髪が宙に流れる。
“陛下が即位式の礼装に紫を取り入れていたのは、ラベンダー色の髪を持つ公女に合わせていたのか!?”
今朝の新聞も皇帝陛下とシャルロット様の話題が一面を飾っていた。一目惚れや知り合いだった説などが飛び交っているが、そんなのどちらでも良いと思えてくる。
…お美しい。
そう思えるのは、最愛のアロイスを見上げる微笑みのせいなのだと、庭師は気付いていた。