立場が与える影響
街の高級喫茶は、貴婦人や老夫婦が優雅なひと時を愉しむ。
紅茶を嗜む男の背後の席に、帽子を目深く被った男がやって来た。
「公爵様。例の件、失敗したようです」
失敗、か。
皇宮の警備が見直され、今後はより手を出すことが困難になるな…。
男はカップをソーサーに置く。窓の外をのんびりと眺めていたが、ふとその視界にテーブルに置かれたラベンダーの花が入った。
「………雇った者は処分しろ。その他にも使用人に接触している者は一人残らず」
「かしこまりました」
男は帽子を抑えながら立ち上がり、すぐに出て行く。
残された男はラベンダーの花を皮が弛んで皺々になった手で力一杯握り潰す。
指先から手を離すと花びらがひらひらとテーブルに落ちた。
支度を終えたシャルロットは、侍女が寝泊まりする一角を訪れていた。
護衛によって開かれた扉の向こうには、ベッドに寝込むソフィーの姿があった。
「シャルロット様…」
代替の侍女に指示を出していたソフィーは、シャルロットを目にすると体を起こそうとする。
「まだ動かないでください、コフマン伯爵夫人」
それを苛めたのは、そばに腰掛けていた白衣の侍医だった。
「クラメール先生、ソフィーの具合は…」
侍医のクラメールはふさふさの白髪と同じ色の口髭をなぞる。
「芳しくないですね。コフマン伯爵夫人も、私と同じ老体ですから──」
「──クラメール先生、老婆とはいえ紳士たるもの女性の年齢に関する発言はお控えください」
「はっは、失敬失敬」
咎めながらも、ソフィーの目は笑っていた。
…お二人は仲が良いのかしら?
そういえば、クラメール先生も長い間皇宮で侍医を勤められていたはず…。
「お茶を出すために台車を運ぼうとして、突き飛ばされたようで、全身を打ってしばらくは動けません。多めに見て二週間は休みを与えてください」
「分かりました」
「申し訳ございませんシャルロット様。私があの者に台車を取られたりしなければ…」
シャルロットは悔しげなソフィーの顔を覗き込んだ。
突き飛ばされて体を打ち、動けなくなったというのに、体に鞭打ちわたくしの元まで這ってでもやって来た。
わたくしに危険を知らせるために。
「何を言っているの。貴方が無事で良かったわ、ソフィー」
温情が溢れた眼差しに、ソフィーは強い感銘を覚えた。
シャルロットはソフィーを笑顔にさせようと「お休みの間の給与も支給されるから心配しないで」と軽口をたたいた。
便乗したソフィーは「業務で怪我をしたので手当てもお願いします」とシャルロットに笑い掛けた。
そんなことを言い合えるくらい回復したことに、シャルロットはホッと胸を撫で下ろす。
「回復したら、またわたくしの侍女として働いてくれる?」
シャルロットは気になっていたことを尋ねた。
深刻に考えていたわけではなかったが、シャルロットの手は僅かに震えていた。
ソフィーはそんな些細な変化にも気付き、座りながらも姿勢だけは正して頭を下げる。
「もちろんでございます」
シャルロットがいなくなった部屋は、花壇で花だけ摘まれたように、色味のない侘しい空間だった。
「良かったな」
「なにがです」
「お優しい方にお仕えできて」
「ええ、本当に…」
目を閉じたソフィーは、シャルロットに似た誰に対しても分け隔てなく優しい女性を思い浮かべていた。
「先代皇后陛下は非道なお方で、私は庭掃除に回されてせいせいしたものでした」
アロイス皇帝陛下に侍女に戻らないかと提案を受けても、二の足を踏んでいた。
急遽迎えたい令嬢がいるから筆頭侍女をしてほしい、辞めたいと思ったら即座に庭掃除に戻す、と説得され、渋々頷いた。
筆頭侍女なら給与は庭掃除の三倍、それに辞めたいと思えば即座に辞めれる。
何よりも、陛下ご自身が私などのために何度も足を運ばれた。
死ぬ前に最後、誰かに仕えるのも悪くはないと、軽い気持ちでいた。
「今も、二週間だけ侍女から外れることになるが」
シャルロット様を迎えて一月半。
今ではもう、庭掃除をしていた頃の自分が空いた時間に何を考えていたのか思い出せない。
シャルロット様が悪魔にうなされて寝不足なご様子だから、リラックスや安眠効果のあるカモミールティーの在庫を増やそうかしら。
シャルロット様はステラ皇女殿下と度々お茶をなさるから、あちらの侍女と次の空き時間を確認しておいた方が良いわね。
少し暇な時間ができただけでシャルロット様のことばかり考えてしまう。
そばでお支えできることを光栄に思う。
いつの間にか、その魅力に取り込まれていた。
「とても寂しいものです」
握り締めた両手を見つめるソフィーはいつもの険しさを他所に顔を綻ばせていた。
その日の夕刻に集められたシャルロットたちは、レヴィナスから報告を受けていた。
「使用人に化けていた者は金で雇われた素人でした。招き入れた使用人が発覚し、先ほど白状いたしました」
シャルロットとアロイスが並び、向かいにステラが腰掛ける。それぞれの護衛が背後にたち、レヴィナスは三人の間に立っていた。
「雇い主は貴族派か?」
「そちらは不明です。使用人曰く雇い主は身なりが良いわけではなかったそうですが、羽振りが良かったそうで、生活に困窮していたため話を受けたと」
「皇宮の使用人が生活に困窮するわけないじゃない。
ドレスに宝石に、買い漁ってたんじゃないの」
鼻で笑ったステラに、レヴィナスは頷いた。
「まだ調査段階ですが、部屋には給与に見合わない装飾品が多数見つかりましたので、恐らくはステラ皇女殿下の仰られた通りでしょう」
お金に目が眩んだのね…。
着飾った貴族たちを見る機会が多ければ多いほど、みすぼらしい自分が惨めに思えてくるのだろう。
私には分からない感情だけど。
ステラは一抹の同情さえできなかった。
「次期皇后であるシャルロットを狙ったのだ、貴族派と見て間違いはないだろう」
「…まだ関わりも持っていないというのに、立場だけで狙われてしまうのですね」
隣で沈んだ表情のシャルロットを、アロイスは見過ごせず抱きしめるようにして頭を撫でた。
「それほど貴族派は追い詰められているということだ」
それまでステラの座るソファの背後で黙視していたニコラスが、唐突に口を開く。
「…シャルロット様が早めに手を打っていれば、このようなことにはならなかったのでは?」
自身の落ち度だと言われたシャルロットは、突然名前を呼ばれ驚いた表情のままニコラスを見上げた。
その隣で、アロイスが睨みを利かせている。
ステラは心の中で黙って、お願い黙って…!と祈っていた。
「日々庭園や温室を散歩されては、呑気にお茶をされているそうですが、皇后陛下になられるお方のお言葉があれば貴族派も強気には出られなかったはず」
三白眼のせいか、シャルロットは威圧されているように感じた。けれど、殺意は感じられない。
「護衛は口を挟むな」
ニコラスのとりすました顔にアロイスの中で苛立ちが募る。
「シャルロット様の怠慢が事件を引き起こしたのだとしたら自業自得…。寧ろ皇室にも火の粉が降りかかっているのですから、疫病神とも言えます」
「口を慎め、ニコラス・ディートリヒ。忠誠を誓った皇室のファーストレディに歯向かうのか」
「事実を述べたまでです。陛下こそ、色眼鏡で見られているのではありませんか」
どうして近頃のニコラスはあの人やシャルロットに食ってかかるのよ…。
まるで水と油。時間の無駄だわ…!
火花を散らす饒舌な二人をキョロキョロと見比べていたシャルロットに、ステラは可愛く強請るような顔でアロイスを指差した。
お願い、あの人を止めて………!
察したシャルロットがアロイスの腕に手を置く。
「アロイス様、貴族派はまた何か仕掛けてくるのでしょうか…」
ステラの思惑通り気を逸らされたアロイスは、見上げてきたシャルロットを安心させようと再び髪を撫でた。
「…皇后宮も皇宮も、ディートリヒ皇室騎士団に徹底的に調査させている。一度失敗して警戒の度合いが引き上げられたことは向こうも予測して、二度同じ手は使わないだろう。…通常なら」
「…通常なら…?」
「一週間後に迫った狩猟祭ですね」
渋い顔をしたレヴィナスの言葉に、アロイスはため息混じりに「ああ…」と肯定した。
「シャルロットが皇后宮という囲いを出る。狙うにはうってつけだ」
エリック卿もマルティン卿もいらっしゃいますわ、とは言えなかった。
ステラとお茶をしていた時も、二人は離れた位置だが、シャルロットの姿がはっきりと見える距離にいた。
「シャルロットは……」
「…出席いたしますわ」
「…身の危険が迫っているのだぞ」
それはシャルロットにも分かっていた。
しかし何度も夢に見た出来事が正夢となってしまうのではないかと危惧の念を抱いてしまい、前世の恐怖が蘇って頷くことができなかった。
わたくしがおそばにいても、状況は変わらないかもしれない。けれど……。
シャルロットは目蓋を下ろし、長い睫毛が影を作る。
答えない、か…。
「外で話をしよう」