わたくしたちは、まだ
「おい見たか?新聞」
「もちろんだ。陛下が先日の即位式で一人の令嬢に公開プロポーズをされたんだろ?」
「しかも皇后陛下に迎えるって」
「お相手はテノール公国の公女だとよ」
「テノール公国ってどこだったか…」
「ほら、帝国の南西に位置する小国」
「何でそんなとこの公女を皇后陛下に?何の利点もないじゃないか」
「皇妃ならともかく皇后だなんて…」
「さあー、陛下がお考えになってることを俺らみたいなのが分かるかよ」
豪華な邸宅の一室で、侍従の置いていった新聞を目にした男は、それを手に取る。
朗報と言わんばかりに帝国中にばら撒かれた新聞には、皇帝がさっそく皇后となる者を選出したと大々的に公表していた。
「……小娘が……」
男は新聞を軋むほど握りしめる。
そして、ふと思い浮かんだ案に笑みが溢れた。
「邪魔な者は排除すれば良いか…」
呟いた直後に侍従の声があった。
「旦那様、バジリオ侯爵様がお見えです」
「ああ、今行こう」
新聞を置いた男は、テーブルに手を置いてゆっくりと立ち上がる。窪んだ目を扉に向け、のろのろと歩き出した。
中心に皇宮を置く帝都ソルダは、すっかりシャルロットの話でもちきりだった。
街には彼方此方にラベンダーが植えられ、花屋でも店先のナンバーワン商品。店頭のドレスや装飾品も、淡い紫色が主流になっていた。
「街はすっかりラベンダーカラーだよ」
新緑のような色味の帽子を被った男は、馬小屋で馬をブラッシングしていた男に声を掛けた。
「喜ばしいことだがな、公国の公女ってとこがなー」
「お会いしてみたいな。陛下が一目見て求愛されたお方だろ」
「お前ネオンマリンの花畑を皇后宮の庭園に作るよう指示を受けたんだろ?うろうろしてたら会えるかもな。いいなー庭師は」
嫌味ったらしく大声を張り上げた男を、庭師は軽い調子で笑い飛ばした。
「…人が多いわね」
シャルロットに狩猟祭の確認をしようと皇后宮に足を運んだステラは庭園を駆け回る使用人たちを見やる。
タンッ。
「あれは…シャルロット様!?」
「あれほどの腕前をお持ちだったとは」
休憩の料理を運んでいた使用人たちの手の動きが止まり、あっと驚きいている。ステラとニコラスも騒ぎを見て足を止めた。
タンッ。
「…すごいわ…」
弓を構えたシャルロットは、的の真ん中にそれを命中させる。弓矢は既に三本刺さっていた。
一匹も狩れないだろうと思っていたのに…。
ニコラスも目の色が変わった。
「相当鍛えてますね、あれは」
「…貴方が人を褒めるなんて、明日は雨かしら」
ステラはわざとらしく天を見上げる。
「褒めたわけではありません」
「普段つれない態度の貴方が興味を示しただけで、それは褒めたことになるのよ」
「褒めてません」
右といえば左なんだから…。しぶとく主張するニコラスを無視してステラはシャルロットに声を掛けた。
「シャルロット公女」
弓を構えていたシャルロットは、集中が乱れ構えていた弓矢を手放してしまう。
「っ痛…」
弓矢は的の手前の茂みに隠れるように打ちつける。シャルロットの切れた指からは血が流れ出していた。
「公女…!申し訳ありません」
「このくらい大丈夫ですよ」
「誰か、侍医を!」という声を聞きながら、シャルロットは垂れ流れる血を見つめていた。
『シャルロット皇妃殿下。ビアンカ様の下命により、ここで死んでもらう!!』
『──っ陛下!!』
今朝もあの悪夢を見た。
そのせいか、血を見ているとあの日のアロイス様を思い出す。
もう過ぎたことだというのに…。
「シャルロット……?」
顔を上げた先に、顔面蒼白のアロイスの姿があった。
「アロイス様…」
「侍医はどうした、弓をしているのに何故常駐させていない!」
「も、申し訳ございません陛下」
アロイスが使用人に声を荒げ、シャルロットは驚愕した。
「アロイス様っ…」
「もっと大惨事になっていたらどうするつもりだったのだ!」
「大変申し訳ございません!ただ今侍医がこちらに向かっておりますので……」
「っアロイス様!!」
血の付いていない綺麗な方の手でアロイスの腕を掴む。
あまりの大声に、てんやわんやしていた使用人たちも水を打ったように静まり返った。
アロイスの目も、ようやくまともにシャルロットに向けられた。
エメラルドはきらきらと揺れながら光り、アロイスは隠すようにそっと目蓋を下ろす。
「…シャルロット……」
絞り出したような声を耳にするだけで、胸を握り潰されたように苦しい。
「…心配してくださったのですね」
わたくしには…アロイス様の不安が痛いほど分かる。
毎夜あの日の夢を見る。
いつもその恐怖が付き纏う。
いつか、またあの日のようなことが起きるのではないかと思ってしまう。
「ありがとうございます。けれど少し切っただけですから」
アロイス様もきっと、あの日を思い出している。
根が深く、易々とは掘り出せない。
わたくしたちは、まだ、過去に囚われたまま。
「陛下、侍医が参りました」
手当てを受けるシャルロットのそばで、アロイスはステラに目を吊り上げていた。
「弓は危険だ。無闇に話しかけるな」
「は〜い…」
ここは低姿勢でいるべきだと、ステラの勘が危機を察知していた。
「アロイス様、あまり叱られませんようお願いいたします」
「過失とはいえ次期皇后に怪我を負わせたのだ。口頭注意で済むなら甘い処分だろう」
次期皇后。
その言葉に、使用人たちが固唾を呑んだ。
皇帝の口から改めて聞くと、何とも重々しい。
しかし当の次期皇后は微笑をたたえていた。
「口頭注意で済ませるほど、ステラ皇女殿下を大切に思われておりますものね」
前世でステラは塔にいたアロイスに何もしなかった。
アロイスが皇帝になっても必要以上に接することも、陥れることもしなかったため、距離はあったが節度のある仲だった。
けれどアロイスは妹であるステラを家族と認識していたのか、シャルロットが目にしている範囲では気に掛けている素振りがあった。
「…シャルロット、ステラがつけ上がるだろう」
「まあ、わたくしはそのように安直ではありません」
ステラは不愉快と言いたげに顔を顰める。
「終わりました」
「ありがとうございます」
包帯を綺麗に巻かれた手を軽く動かしてみる。痛みはあるけれど、生活に支障はなさそうね。
「公女、申し訳ございません」
「とんでもございません。皇后宮にお越しくださって、嬉しかったですわ。
今度はゆっくりお茶でもお願いします」
気落ちした様子のステラを元気付けようと、シャルロットは素直な気持ちを露わにした。
そういえば…、公女が本当に狩猟に参加するのか、確かめにここに来たんだったわね…。
「また来ますわ」
「ぜひお待ちしております」
ステラは護衛のニコラスを連れ、皇女宮に戻っていく。
「シャルロット公女は…不思議な方ね」
「…と言いますと?」
「お母様も皇后だったけれど、全然違うわ。お母様は関わりを持つ令嬢は選べと口を酸っぱくしていた。けれどそれで寄ってくるのは友達ではなく、皇女と懇意にしている建前を利用する、虎の威を借る狐だった」
シャルロットのように何も要求せず、静穏に暮らしている令嬢などいなかった。
次期皇后と皇帝が定めたとはいえ、契りを結んでもなんのメリットもない公国の出生。
反対の声も上がっているが、シャルロット公女は私に頼ってこないから、恐らく自力で動き出そうとしている。
「シャルロットは他の誰とも違うわ」
ニコラスは手を握り締める。
切なげにステラを見つめるニコラスの瞳の奥には、熱情がくすぶっていた。