帝国で迎える朝
『シャルロット皇妃殿下。ビアンカ様の下命により、ここで死んでもらう!!』
『──っ陛下!!』
映像もなくその声だけが頭に反響する。
意識が覚醒したシャルロットの視界がベッドに変わり、夢か…と目蓋を下ろした。
それでもドクドクドクと心臓が激しい鼓動を繰り返している。
枕に頬を寄せ、シャルロットは深く息を吐く。
一瞬にして目が覚めてしまったけれど、ベッドがふかふかすぎて起きる意欲が削がれるわ…。
「お目覚めですか」
聞き慣れない声だった。
幾多の修羅場をくぐり抜けてきたような高圧的な声色に、シャルロットの気が再び引き締まる。
眩い朝日が目いっぱいに差し込み、小さなお姫様の部屋のような白い天蓋が目に入る。
「おはようございます」
離れた位置にいた侍女が、起き上がったシャルロットに帝国風のお辞儀をした。
髪は全て白髪で顔の皺も多く、かなりの高齢に見えるけれど腰は少しも曲がらずピンと伸びている。
シャルロットはまじまじとその侍女を見つめた。
そうだわ、昨日陛下にプロポーズを受けて…、ラングストン帝国に残り…、皇后宮で眠りについて…。
「私はソフィー・コフマンと申します。侍女長を務めております。
ソフィーとお呼びくださいませ」
コフマン…。コフマン伯爵家の夫人かしら…。
この年で侍女を続けているなんて、体に触ると思うのだけれど…。
「彼らはシャルロット様の護衛を務める騎士でございます。ハーゼ・エリックとナディア・マルティンです。熟練の騎士なのでご安心ください」
扉の前に佇んでいた男女の騎士が柔らかく微笑む。
昨夜扉の前で護衛をしてくれた二人だった。この二人も前世では見た覚えがない。|鷲《わし》の紋章があるから、ディートリヒ騎士団の正式な騎士なのは間違いない。
「シャルロット・テノールと申します。このような姿で申し訳ありません」
「皇后陛下となられるお方なのですから、そのようにかしこまる必要はございません」
ソフィーは目を伏せ淡々と申し上げる。
護衛騎士たちに目配りをして、その扉が開かれると、待機していたように侍女たちがわんさかとやって来た。
…皇妃だった頃でさえ五人が通常だったのに、その倍以上いるわ…。さすが皇后陛下ね…。
「本日のご予定は、陛下と朝食を摂られた後、ドレスを仕立て、皇后宮をご案内致します。本日だけではご案内しきれないため、皇宮も含め数日に分けて行います」
予備で公国から持って来ていたドレスに着替え、皇宮へ移動する。
「シャルロット様もお目覚めが早いのですね」
「…陛下もですか?」
「はい。ですので、陛下が朝食を摂られる時刻もお早いのですが、本日は公国より参られたシャルロットが疲れていらっしゃるだろうからと、朝はお目覚めまで待つように仰られました」
あ…。わたくしが共に朝食を食べたいとお伝えしたから…。
朝食の席には既にアロイスがついていた。歩くたびシャルロットのラベンダー色の髪が揺れる。
懐かしい光景だと、アロイスは目を細めた。
「アロイス様、遅くなってしまい申し訳ございません」
慌てたようにシャルロットは席に着く。
前世では待たされるのが嫌いだったアロイスが遅いと不機嫌になったため、自然と身に付いていた。
「……私も今来たところだ」
過去の自分の過ちが、シャルロットをこうも縛り付けている。
そのことにアロイスは深い罪悪を感じた。
食事が進み、いつの間にかデザートに変わる。
「昨夜はよく眠られましたか?」
微笑みながら尋ねてくる仕草も変わらない。
当初は私への恐れからだったのに、いつの間にか労るように、気遣うようになっていた。
その彼女の優しさを踏みにじって、前世はあの女の元に体が動いていた。
「ああ。シャルロットは」
「わたくしもですわ」
久しいふかふかベッドの寝心地は極上だった。すっきりした顔のシャルロットに、アロイスは笑いがこぼれた。
積もる話もあるというのに、使用人やシェフがいる手前、シャルロットたちは下手な話はできなかった。
昨日の即位式で初めて顔を合わせ、その場で婚約のような形になってしまったから、互いのことは深くは知らないと思われているだろうし…。
「全員席を外せ」
「…!」
アロイスの命令に逆らうはずもなく、室内にいた者たちが一斉に下がっていく。
最後にソフィーが扉を閉ざし、二人きりになった空間で、アロイスはガタッと席を立った。
たったそれだけのことに心臓が跳ね、靴音に合わせて身体中に伝わる音が大きくなる。
昨日のパーティーは興奮状態で、夜も薄暗くて誤魔化されていた。
日差しと灯りの下、こうして面と向かうと、どうして緊張してしまうのかしら。
「シャルロット」
差し出された手を取ると、アロイスは安堵したように顔が緩む。立ち上がったシャルロットの口元も自然と綻んだ。
前世で手を繋いだことはあまりなかった。
公式の場でエスコートするよう臣下たちに言われたとき以外、道を歩く時もアロイス様が先を行っていた。
「そなたとこうして再び共に過ごす日を思って…今日まで生きてきた」
「わたくしもですわ」
アロイスは自嘲的な笑みが浮かんだ。
きっと彼女は知らない。
私がどれほどそなたを欲していたか。
過去の自分に遡り、再び忌々しい塔に一人で置かれ、そなたと再び会えるかどうかも分からず、後悔ばかりの日々。
しかしシャルロットに再び出会い、初めて過去ではなく未来を見つめた。
生きる希望を見い出せた。
淡い紫の滑らかな髪を撫でながら耳に掛ける。シャルロットの頬は薄らとピンク色になり、照れたように視線を逸らした。
いつまでも触れていたい。
いつまでも見つめていたい。
「あ、アロイス様…っ。…見過ぎですわ……」
気付けばただじいっと見つめていたようで、シャルロットが距離を取った。「顔に穴が空いてしまいます」と嫌がるその反応さえ可愛く見えてしまう。
「もっと良く顔を見せてくれ」
顎に手を置いて上を向かせる。カァッと顔を赤くさせ、シャルロットはふいとそっぽを向いた。
「は、恥ずかしいです…」
変わっていない。
何度夜を過ごそうともシャルロットは恥ずかしがって、全てを曝け出そうとはしてくれなかった。
見えていないのをいいことに、細い体に腕を回す。
すっぽりと埋もれてしまうほど小さかった。
「…こんなに小さかったか?」
「アロイス様が大きいのですよ」
そういえば、ベッド以外でまともに抱きしめたことがあっただろうか。
背中に腕を回したシャルロットが弱い力で抱きしめてくる。これほど非力だというのに、戦えもしない彼女をあのような反乱の渦中に置いてしまった。
「… あの女の…第二皇妃の事だが…」
そう言いかけた時、唐突に扉が開かれる。
「陛下、仲睦まじいのは大変よろしいことですが、シャルロット様はこれからすべきことがございます。陛下もご公務が残っていらっしゃるようですね」
懐中時計を片手に、ソフィーはシャルロットとアロイスの時間を引き裂く。
シャルロットは今までの抱擁が嘘であったかのように即座に腕を離し後退した。
シャルロットとの憩いの時間を……。
それが故意ではないと頭では理解しているものの、アロイスは苛立ちを覚えた。
「共に過ごす初日なのだ、多めに見ろ」
「しかし陛下は引き継ぎ業務に加え、結婚式の日取りを決め各方面に一報を入れなければなりません。
シャルロット様のウェディングドレスもまだ決められておりませんし、それどころか、公国式のドレスしかお持ちでないシャルロット様が皇宮で着られるドレスも仕立てられておりません」
待ち遠しい結婚式とシャルロットの不便について言われてしまうと、アロイスはソフィーに言い返す言葉が出てこない。
「……休憩はこまめに取るように」
「かしこまりました」
名残惜しそうに業務に向かおうとしたアロイスが唐突に踵を返す。アロイスは脇にあるテーブルに手を置き、何かしらと見上げたシャルロットの頬に口付けを落とした。
「っ……!!」
息を呑んで頬に手を当てる。初心なシャルロットに色香のある笑みを見せると、颯爽と去っていった。
皆が見ている面前で…!
「素敵ですわ」
「愛されておりますわね」
侍女たちの声も相まって、シャルロットは赤い顔をなかなか上げられなかった。