踏み台にして、得るもの
覚えのある香りがアロイスの鼻に付き纏う。
果実のように甘く、花のように芳ばしいその香りは思考を惑わし、やがて人々を淫らな気分にさせる。
「帝国に奇襲をかけたつもりだろうが、勝てるはずのない戦争を仕掛けてその首が残ったままだと思うのか?」
一枚のシャツを残して、上に羽織っていたものは全てベッドサイドに放られていた。
シャツ越しに人差し指でアロイスの体をなぞっていたビアンカは、アロイスが冷たく言い放つと喉を鳴らして笑った。
アロイスは両手を背後に縛られていて、その上に跨るビアンカはアロイスを掌握していることから悠然と構えている。
「明日になれば、皇室の子を身籠もっているかもしれないわたくしを簡単には処分できないはずですよ。
それに…未来の皇后に向かってその言い方はあんまりじゃありませんか」
やはりそうか。
目的は、帝国の乗っ取り。
私を殺すと帝国の後継者問題が勃発する。しかし帝国に開戦した王国の王女を、帝国民が認めるわけがない。
そのために皇帝の血を継ぐ子が欲しいわけか。
「皇后はシャルロットだけだ」
「今頃あの女も誰と何をしているか分かりませんよ。
それに…一人の女を愛さなければならないなんて、あの女が決めたんですか?」
ビアンカはまるで悪魔が囁くように耳打ちした。
「本能の赴くまま、欲しければ食べれば良いじゃないですか。
目の前に美しく若い女がいれば、食べたくなるのは当然のことでしょう?」
手入れの行き届いたアッシュブラウンの髪が華奢な肩からアロイスの胸板に落ちる。そこに手を付いたビアンカはぐいと顔を近付けた。
お香に混じり、誘惑するような蠱惑的な香りが髪から漂う。
薄いピンク色の瞳がアロイスの瞳を映し出していた。
「愛しております、陛下…」
長いまつ毛が伏せられる。
色付いた唇がそっと距離を詰めた。
「私はそうは思わない」
アロイスは目を閉じることもなく、ビアンカを鋭く見据えた。
「ただでさえ公務に追われ愛する人と過ごす時間が足りないというのに、他の女を相手にする時間はない。
それに…お前は私を愛してなどいない。そうだろう」
あまりの眼差しの強さに、ビアンカの視線が彷徨う。
これほど自制の効いた男は初めてだわ。
いつもの男たちなら、数分で正気を失った目をして、愛してるという薄っぺらい言葉に酔いしれ、沸き立った熱情をぶつけてくるのに。
まさか…、お香が効いてないの…?
「わたくしが打ち明けた思いをそのように否定なさるなんて、酷いですわ陛下」
ビアンカはわざとらしく憂い顔をして見せる。
「愛していたらこんな強行手段など取れるはずがない」
アロイスはそっと目を伏せる。
相手に嫌われやしないかと怯え、一歩踏み出す事さえとてつもない勇気がいる。
「……あの女との経験談など聞きたくありません」
ビアンカは華奢な指でシャツのボタンを一つずつ外していく。やがて見えた胸板は、鍛え抜かれた騎士の躯体のようだった。
「きっと陛下を満足させられますわ」
ビアンカの方が惑わされたかのよう。
あまりに綺麗な体に、ビアンカの指先は引き寄せられるように這っていった。
「お前は本当にこんなことがしたいのか?」
うっとりした表情から一転、ビアンカの表情が強張る。
「シャルロットを追い払い、帝国を侵略し、お前が得るものはなんだ?」
私に恋愛感情などないと、お見通しってことね。
それなら…。
「…帝国の皇后の地位。いいえ……。
子が成せれば、皇子の母。
帝国のみならず、大陸の実質的な支配者ですわ」
皇子がいれば私が影で実権を操れる。
幼いなら尚更。
「他人の命を犠牲にしてまで執着するほどのものとは思えないがな」
執着するほどのもの?
それはその座に着いているからそう言えるのよ…。
手にできる可能性があるのなら、誰だって権力を欲しがる。
そういうものでしょう…!?
「帝国法では女帝にはなれない」
「だから陛下が必要なのです」
「子が成せれば私は用済みというわけか」
「滑稽だな」とアロイスは高笑いした。
「皇后の座が手に入ったところで、侍女や使用人には影で罵倒され、貴族たちからは皇室の血を多く残すために皇妃の進言がなされ、その全員から命を狙われる。
上がいないからこそ、その地位はいつだって不安定だ。
それに皇帝の寵愛がなければ、皇宮での立場を失い、捨て追いやられるだけなのだぞ」
──かつてのシャルロットがそうだったように。
「皇后は唯一皇帝と対等な権利を持ち、その隣に立つこともできます。その地位による権力は何にも変えられないですわ」
王に愛されなければ、実権を握れないのはどの国も同じこと。
『幸せになって』
それを見てきた私は誰よりもよく分かってる───!
「尊重されない皇后に権力などない」
「では尊重させれば良いのです!皇后ならばそれができます!」
ビアンカは怒りのままにアロイスの胸板を叩いた。
憎しみに染まったビアンカの目を見ても、アロイスは全てを見透かしたように静かな瞳をしていた。
その冷静さが、ビアンカの怒りを一層沸き立てた。
さっきから何なのよ…。
その地位を持っているお前に、私の何が分かるというの…?
病に伏せていたような皇子が皇帝になったところで、世間の何を知っているというの…!
私はこの牢獄のような王城で、死ぬ思いで生き抜いたというのに…!
「従わなければ従わせる。だめなら切り捨てるまで」
それまでの柔らかで甘えるような声から一転し、ビアンカの声色が怒りを含んだものに変化した。
「……そうしてお前に、何が残るんだ?」
「え?」
皇后の地位があれば権力に財産、名声だって……。
大陸の全てが手に入ると言っても過言ではない…。
ふと見上げたアロイスの目はとても冷ややかで、ビアンカは背筋が凍った。
なによ、その目は…。
他の男なら今頃、香りに惑わされて獣のように襲い掛かってくるはずなのに…!
──バンッ
扉が勢いよく開かれる。
「陛下!」
「ご無事ですか!?」
抜刀した騎士たち、そして…。
「アロイス様!!」
その後ろからシャルロットが顔を見せた。