前世がもたらした塔の闇
パイプの階段を滑りそうになりながら上り、天井を手のひらで押す。開いた空間に月の明かりが差し込んだ。
「…ここは…」
森…。どこかしら。
地上に出たシャルロットは開いていた地面を元に戻した。
「あ…」
誰もいないと思っていたそこに、人の声がしてびくりと振り返る。
艶々とした金色の髪がなびく。
真紅のドレスが、一層女の華やかさを引き上げていた。
…ステラ皇女殿下…!!
どこか顔に焦りが見える。
今の…見られていたかしら……。
その背後には、ディートリヒ騎士団の制服姿の赤髪の若い男が腰に手を当て、興味なさげにシャルロットを見下ろしていた。
どうしてこんな状況になってしまったのか。
向かい合って腰掛けるシャルロットとステラの元に、お茶が差し出される。侍女は一礼をして皇宮の方へ去っていった。
「体調は回復されたのですか?シャルロット公女」
凛とした眼差しがシャルロットを見つめる。
「もしかして…わたくしを助けてくださったお方というのは…」
「はい。ステラ・ノア・ラングストンと申します」
「ご挨拶が遅れてしまい申し訳ございません。テノール公国より参りました。シャルロット・テノールでございます」
ステラは気さくな笑みを浮かべ、カップを手に取った。
見られていなかったのかも…。
紅茶の香りが漂い、心が穏やかになってきたシャルロットもそれに手を付けた。
「見たのですか?」
しかしその言葉で、シャルロットの手が止まる。
ステラは紅茶の香りを楽しむように目を閉じていたが、やがて金色の瞳をシャルロットに向けた。
「…はい」
「そうでしたか」
出てくるところを見られてしまっては、言い逃れはできない。
帰り道の途中には空の酒瓶だらけの部屋もあったけれど、塔に足を踏み入れ、階段を下ってからは一本道だった。
「他言はなさらないことをお勧めします」
「……あの方は、どうしてあんなところにいらっしゃるのですか」
周囲に人影はなかったが、シャルロットは声を潜めた。
今すぐ連れ出して、まともな食事を与えてあげたいというのに…。
「皇后陛下の指示です。自ら手にかけた先代皇后の子ですから」
その言葉はシャルロットの胸を衝く。
ステラはてんとして顔色を変えなかった。
「先代皇后陛下は命が狙われていることを悟り、お腹の子のことを隠して郊外に移り、そこで出産しました。その後先代皇后陛下が暗殺され、“あの人”はそれからあの塔にいます。
あのような場所で生き続けなければならない苦しみを子に味合わせたいと思うほど、先代皇后陛下を憎んでらしたのですよ」
「そんな……。では生まれてからほとんど、塔の外の世界を見たことがないのですか?」
「はい」
腹の底から怒りがこみ上げる。
けれど、わたくしごときが陛下を助け出せるわけもなく、もろとも皇后陛下に殺されてしまうかもしれない。
前世で陛下があのような偏った性格に育ってしまったのも、陛下となられるのに皇族の名簿から除外されているのも、あの塔を嫌っていたのも、皇室の近代史を隠していたのも、全てはここにあったのね…。
そういえば…皇帝陛下はご健在で、陛下より年上の皇子が二人もいるというのに、前世では何故陛下が即位されたのかしら。
…それに、前世でわたくしが知っていた皇族は、陛下とステラ皇女殿下だけだった。
他の皇子の存在など、それこそ今世で初めて知ったというのに…。
考え込むシャルロットを、ステラは不躾なほど見つめていた。
あの塔は、皇宮の使用人たちには、もう使われていない旧監獄と伝えられている。
古びた見た目も相まって幽霊が出るのではと噂され、誰一人恐れて近付くことをしなかったというのに、公女は何故あんな場所を訪れたのか…。
「あっ…」
長年閉じ込められていて外の世界を知らない。
そして陛下のいらっしゃったあの牢には、時間を潰せるような、学べるものは何もなかった。
前世で陛下がダンスを一切踊られなかったのも、外国語に疎かったのも、帝国とは異なる公国のマナーだったわたくしを咎めなかったのも、学ぶ機会がなく、陛下がご存知ではなかったのだとしたら…?
そういえば、ご自分で手紙を書かれることもなかった。補佐官に代筆させるか、わたくしに指示されることもあった。
『そなたはそなたのことを幸せにしてくれる者と共になるべきだ』
もしかしたら…自信がないのかもしれない。
臣下たちの決議の結果に、陛下は口出しされることも多く、従わない者はその場で切り捨てた。
けれど陛下の政策は、失敗続きだった。
恐怖と権力で支配する陛下はいつしか影で愚王と呼ばれ、嘲笑う者もいた。
望まぬアロイスの境遇が、アロイス自身を滅ぼしたのだ。
「…どうかなさいましたか?」
「…パーティーを抜け出してきてしまったことを思い出しました。今頃父と兄が心配していると思うので、失礼ながら退席させていただいてもよろしいでしょうか?」
「それは仕方ないですわね。また機会があれば是非」
立ち去ろうとしたシャルロットは足を止め、ステラを振り返る。
「まだ何か?」
「…あのお方のことを、よろしくお願いいたします」
皇室への挨拶ではない、本当にアロイスを心配した声色で丁寧に頭を下げたシャルロットに、ステラは目を瞬かせた。
もしかしたら、現皇帝陛下はお父様が持ちかけた縁談の取引を拒否し、わたくしを拒むかもしれない。
けれどその時は…どうかステラ皇女殿下が味方になってくれることを祈るしかない。
今度こそ皇宮に戻っていくシャルロットの背中を見つめながら、ステラは眉を顰めていた。
「同情されたのかしら…」
「それにしてはかなり真剣な様子でしたね」
「そうなのよね」
けれどあの人は塔から出たことがない。
公女はあの人と初対面のはずだから、あのように頼み込む義理もないはずなのに…。