プロローグ
足が鉛のように重い。
もうどれほどの間走り続けていることか。その時間は、永遠のように長く感じられる。今すぐにでも足を止めて座り込んでしまいたいところだが、状況がそれを許さなかった。
もう少し。あと少しで…!
「待て!」
「ハア、ハア、ハア!」
この先にいる兵士と合流すれば、助けてもらえる。だからそれまでは…!
そう考えていたところに、皇室騎士団の鷲の紋章のマントが目に入る。
やったわ、見つけた…!
これでわたくしは助か─────。
「いたぞ!あそこだ!」
そんな期待は見事に砕け散った。
背を向けていた彼らはシャルロットを見るなり目の色を変えた。
「シャルロット皇妃殿下だ!」
味方だと思っていた皇室騎士団までもがシャルロットを指差し、弓矢を向け、剣を抜いて追いかけて来た。
シャルロットは青ざめ踵を返したが、後方には先ほどまで追いかけて来ていた兵士たちがいた。
放たれた弓矢が足元の地面に突き刺さる。
「っ……」
咄嗟に道を外れて森の中に潜り込んだが、そんな道を歩き慣れているはずもない。
この日のためにこしらえた群青色のドレスは木の枝に引っかかって破け、裾は土塗れになり、ドレスの装飾と色を合わせたヒールが脱げ落ちた。
なりふりなんて構っていられなかった。
───陛下は、ご無事かしら……。
人の心配などしていられない状況だというのに、頭の片隅でそんなことを考えてしまう。きっと第二皇妃と一緒のはず。
この反乱だから、陛下はあの方をお守りして…。
頬や肩に切り傷ができても痛みは気にならなかったというのに、木の枝に当たったわけでもない今、突然胸の奥がチクリと痛んだ。
森を抜け舗装された路に出る。正面の崖の下には青と緑を混ぜたような色味の澄んだ湖が広がっていた。
「ッハア、ン…ハア、ハア…」
喉が焼けるように熱くて、痛い。そこが引き裂けて、声が出なくなってしまいそうだった。
「こちらにいらしたのですね、皇妃殿下」
一瞬、息が止まった。
振り返った先で、二十ほどの兵を連れた男が佇んでいた。
「…モーリッツ卿……。どうしてこちらに…」
驚愕の色を浮かべたシャルロットは足が竦んで動けなかった。
皇室騎士団の礼服を着こなしたモーリッツは、温和な顔立ちに嘲笑を浮かべている。
そして優雅な身のこなしで抜刀した。
「聡い貴女ならもうお分かりなんじゃないですか?」
挑発するように首を傾ける。シャルロットは肩で息をしながら酸素が行き渡ってきた頭で考えた。
モーリッツ卿は第二皇妃の専属護衛騎士だった。
その方のそばではなく、ここでこうしてわたくしに剣を向けたということは…。
「…ビアンカ皇妃殿下が…謀ったのね……」
「その通りです」
ビアンカ皇妃殿下。
シャルロットが嫁いで半年後に第二皇妃となり、瞬く間に陛下の関心を寄せ、寵愛を受けていた女。
それまでシャルロットの部屋を訪れていた陛下はめっきり訪れなくなり、反対にビアンカ皇妃殿下の元には足繁く通うようになった。
「ビアンカ様に命じられ、貴女を探していましたが…骨を折りましたよ。逃げ回るのが得意なんですね」
わたくしを狙っただけなら、陛下はご無事なのね…。
そう安堵したのも束の間だった。モーリッツ共にいた兵が剣を抜き、一歩一歩と距離をつめる。
後退していたシャルロットは、背後で瓦礫が崩れる音がして湖を振り返った。
正に断崖絶壁。落ちて生きていられるはずがない。
「シャルロット皇妃殿下。ビアンカ様の下命により、ここで死んでもらう!!」
いつの間にか目前に迫っていたモーリッツが、物凄い剣幕で剣を振り上げる。
もう、ここまでだわ…。
きつく目を瞑ったシャルロットを、確かな温もりが抱きしめる。肉を切り裂く音が聞こえたけれど、シャルロットは全く痛みを感じなかった。
「貴方は…ビアンカ様と一緒にいたはず…!」
恐る恐る目を開いたシャルロットは、覆い被さるようにして俯く色白な顔を見上げ、驚愕した。
「陛下…!」
美しい顔を歪め、目を開くことなくその体から力が抜け落ちる。支えきれなかったシャルロットまで地面に崩れ落ち、視界に映った背中には深く切り裂かれた痕があった。
「っ陛下!!」
シャルロットの肩に寄りかかり、揺らしてもびくともしない。
「どうして、わたくしなどを…っ」
整わない息は浅くなり、止めどない血が地面に水溜まりを作る。
「本当に。死に来るとは…」
剣を肩に乗せたモーリッツは、片眉を上げ気抜けしていたが、すぐに吹き出して笑った。
「ふっ…はっはっは!!へそで茶を沸かすとはこのことだ!
丁度良い。陛下の始末も指示を受けていたところだ」
「そんな…!どうか陛下の御命だけはお助け下さい…!」
ビアンカが陛下に甘える姿を、シャルロットは度々目にしてきた。だから当然、ビアンカ皇妃は陛下を愛しているのだと思っていた。
「泣かすねえ。
それほど陛下を愛していたのに、陛下は他の女に夢中だった」
その言葉は弓矢よりも鋭くシャルロットの胸を貫いた。
そう、陛下はシャルロットではなく、ビアンカ皇妃殿下を愛していた。
けれど陛下は変わらず、わたくしと顔を合わせると優しくしてくださった。業務以外の会話のためにわたくしの部屋を訪れられることもあった。
変わったことといえば、ただわたくしが、笑えなくなっていただけ。
「けどその女は、陛下を一切愛してなどいなかったんだよ」
「何故…一体どういうことですか…」
「それは俺が知ることじゃない。俺はシャルロット皇妃殿下、あなたと皇帝陛下を、反乱に乗じて殺すよう命じられただけ」
昂っていたシャルロットの気持ちが静まっていく。
「二人の首は隣合わせで並べてやる」
けれどその言葉で、最後の抗いをしていた。
陛下の首を、晒したりなどさせない…!
アロイスを強く抱きしめ、シャルロットは背側に体重を傾けた。兵士たちが手を伸ばしたが、間に合うことはなかった。
頭から真っ逆さまに落ちていくシャルロットは、目を閉じてアロイスの消えかけの温もりを感じていた。
…もしも、いつか。
再びお会いすることができたとしたなら……。
シャルロットの頭を、大きな手が包む。
「──シャルロット…」
擦れた声は最後の気力を振り絞ったようだった。
シャルロットはハッと目を開いた。緊張で凝り固まっていた肩から力が抜ける。
安堵して瞼を下ろした目から、涙が風に乗って空に昇った。
シャルロットはアロイスと共に、勢いのまま湖に飛び込む。二つの影はゆっくりと、湖底に沈んでいった。