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1.炎

雨粒が地面を弾く音が鳴りやまない。

夜空を覆った雲から落ちた水が、屋根を叩き、壁を伝い、道を濡らす。

人々は凍えた身体を抱くように歩き、いそいそと帰路につく。

馬車が飛沫(しぶき)を上げて雑踏を縫い、馬は荒々しく(いなな)きをあげる。


街全体を覆った土砂降りの中、音も温度もどこか遠くに捉えながら少女は前だけを見据える。

胸に詰まった息を吐き出せぬまま、剣の切っ先を高く保つ。


視界には一人の青年と煤だらけの壁。

暗い路地に沈み込むように佇む青年の背後。雨の中にも関わらず炎が揺らめき、今なお何かを燃やし尽くさんとしている。

激しい異臭。肉の焼ける臭いに、ゴムを焼くような刺激が混じっている。


一向に消える気配のない炎を横目に、青年は一つ息を吐く。

フードを目深にかぶり表情は読み取れないが、見覚えのある真っすぐな眼光がその炎の先、煙の奥に向かっている。

彼は唇を引き結びその場から走り去ろうとする。


「逃げるんですか」


少女の口からでたのはそんな言葉だった。

言って少女は落胆した。自身の役割にも、青年との仲にもそぐわない言葉が、自身の一貫性のなさを象徴しているようで嫌気がさした。思わず眉をしかめる。


だが、そんな言葉に引っ張られるように、青年は逃走の姿勢を解き、一度身体を弛緩させる。

それでもすぐに、もう一度足に力を籠めると一瞬にして闇の中に消えていった。



闇には火の粉が飛び、馬が人が雨が雑音を生む。

音の中に少女が一人残された。








光歴582年 10月22日


夜も深まり、空の星が最高の光を放つ頃、「盾の国」の要塞(ようさい)都市アルクスの番兵ラケルはいつも通りの時間にいつも通りの場所を見回っていた。時計を見て確認すると2時を2分過ぎたところ。


「よし! いつも通りだ」


満足げに第二壁塔の見回りを済ませ、重い扉から壁上歩廊へと出る。


身を切るような冷たさの風が吹き抜け、思わずラケルは我が身を抱く。


「そろそろワインの季節かな」


ワインは盾の国の名産だ。年中寒冷に見舞われる盾の国だが、険しい山々が聳え立つ聖地より南部には、山の少ない土地が広がっており、暖気も流れ込むため非常に糖度の高い美味なワインが作られるのだ。ラケルも昨年無事18歳となり成人を迎えたのだが、その祝いの際に出されたワインが極上で、すぐに虜になってしまった。翌日襲われる頭痛を無視すれば、毎日毎晩でも飲みたいとも思っている。


だが、ここは砦。そうも言っていられない事情というものがある。

ホットワインへと向いていた意識をすぐに呼び戻し、時計に目をやる。

2時4分。

いつも通りであることを確認したのち、壁の外に視線を移す。


「よし。いつも通り」


闇の中に静かに森が広がっている。

時折風に(あお)られざわざわと葉を鳴らすが、それ以上の変化はない。


ラケルは再度歩を進めようとしてすぐに止める。


「遠吠え……?」


ラケルはいつも通りを愛する人間ではあるが、楽観的ではない。

自己の美意識に酔い、現実を見失う者は要塞都市アルクスという最前線には送られない。

もう一度しっかりと耳を傾ける。

ラケルは自身の風の寄生妖精(きせいようせい)アウリーの力を借りるべく、右腕を掲げる。

手首から腕にかけて幾層かの紋章が光る。


沈黙が聞こえそうなほどの静寂の後、妖精の力を借りたラケルの耳は、つんざくような咆哮を拾う。

ラケルは石の床を蹴り、力を解放したままに駆け出した。



そこにはすでに先輩兵士が数人集まっていた。

皆が皆一様に同じ場所を凝視している。

ラケルは息を切らしながらもすぐに壁から身を乗り出す。



まず見えたのは一筋の煙。常人では視認できないほどの細い煙が闇夜に立ち上っている。ラケルの寄生妖精は聴覚強化に特化しているが、5層紋以上を刻んでいるラケル達アルクスの兵士は、1層紋の人間よりはるかに目がよい。即座に次の異常に気が付き、息をのむ。


「炎……」


誰ともなく口にした。

赤い、揺らめく熱が森を抜けてくる。

赤い、揺らめく熱を(まと)った何かが森を抜けてくる。


気が付けばラケルは自身の右腕の紋章を左手できつく握りしめていた。


周囲の先輩兵士も同様である。


きっとこの世界の人間は奴に出会うと本能が呼び起こされるのであろう。


「炎の獣……!」


その言葉に弾かれたように全員が行動を起こす。

一人は東塔へ。一人は兵舎へ。また、何人かは内郭へ。そしてラケルは警鐘を鳴らしに西塔へ。


その騒ぎに呼応するように、狼の姿をした炎の獣が身を震わせ、森から躍り出る。

まだ要塞まで距離があるにも関わらず、その体躯がはっきりと見て取れる。

炎の獣は熱量を持った遠吠えをする。

アルクスを囲む森全体が震え、無数の獣が気配を放つ。


この日この時の出来事より、世界の均衡は崩れることとなる。


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