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 第四章 鏡と大人と血脈を繋ぐということ



 三度目の本命試験もこれまで同じ結果になった。

 試験を受けることができない。これではほとんど呪いのようなものだ。体調にも気を使い、冬の夜空の下で一夜を過ごしてでもできるだけ試験会場の近くにいた。ほかになにをやればよかったのだろうか。

 医者に徹底的に検査をしてもらえばよかったのだろうか。精神的な要因を排除し、身体的な病因を調べればよかったのだろうか。

 自分がなすべきことを中途半端に他人に依託するという苦痛と共に。

 目的と手段が入れ替わっていると他人は笑うかもしれない。めぐるの最終目的は自分の体に起きている謎を解き明かすことだ。医者になるのは目的ではなく、そのための手段でしかない。だが医者になることが最善であるとめぐるは信じていた。だったら多少の苦痛は我慢して、試験だけでも受けられる状態にしておくべきだったのだろうか。

 もちろん医者になれないからといって、自分の体を調べることを諦めるつもりはなかった。

 めぐるには一つの予感があった。どれほど徹底的に検査をしようとも、他の誰かが自分の体の謎を解明できるはずがないと。単なるあてずっぽうではなく、それはきっと事実だ。

 めぐるは自身の体を全く信頼してなかったが、それぐらいにはその異常性を信用していた。

 自分の手で解き明かすしかないのに、自分では不可能かもしれない。そうした葛藤はめぐるにとって大きな精神的負担だった。

 最終的にめぐるが合格できたのは、哲学や経済、教育などの文系学部がほとんどで、理系では数学科や情報工学しかなかった。そしてめぐるは滑り止めだった東亰大学の情報工学科に進学することに決めた。それ以外では、万に一つも自身の謎の究明に近づけないと彼女は思った。

 そして合格した学科には一つの共通点があることに気づいた。それは人間の手で生み出された問題を探求するという、きわめて人工的な学問だということだった。

 自分の身体はよほど解明されたくない謎を抱えているらしい。めぐるはそう思った。

 めぐる以外の何某かの意思が、彼女の身体に働きかけているのはたしかだった。それはかつてめぐるも考えたことはあったが、一蹴に伏した考えでもあった。生まれる時ならいざ知らず、それ以外で神のようなものに人生を左右されるつもりはない。人生とは自分の意思で切り開くものなのだと。

 しかしここに至ってめぐるはその考えを改めざるを得なくなった。だからといって、それは神のような全く外部の意思ではないし、多重人格のような自分自身の別人格などでもない。自分の内にありながら、自分ではないなにかが存在するのだと彼女は推察した。そんなわけのわからないものがめぐるの意思に介在するのだ。

 わけがわからないというのは、それ自体が恐怖の対象になった。めぐるでさえ、気味の悪さを覚えた。伝染病がかつて悪魔や魔女の仕業であったように、なにかのせいにしてしまえれば楽になれるというのに。自分の責任をなすりつけるという意味においては、特に効果的だ。

 漠然としているものを的確に捉えるのはひどく難しい。そういう意味において、名前をつけるという行為は、わけのわからないものを認識できる存在に貶める上で最適な行為だ。そして古代から行われる普遍的な対処法だ。

 さっそくめぐるは、そのわけのわからない意思に名前をつけようとした。

 自己の中で確固たる認識を持ってしまえば恐れる必要はなくなる。形のないものを形のあるものにするのだ。茫漠とした形であっても認識さえできれば不安は和らぐ。たとえそれが、この世に存在しない悪魔や魔女であっても。

 だからめぐるは、自身の内に住むわけのわからないものを『シャドウ』と呼ぼうと思った。影ほど身近にあって、肉体という主人の意思に従い切らないものはないからだ。

 初めに光あれとあったのなら、同時に闇もあったはずだ。自身を光だとするのは面映いとめぐるは感じたが、二元論で考えれば、そう悪くない名前だろう。対であり、互いに補完しながらも反発しあう。

 自分が腕を振るえば、影も腕の動きを追って動く。指先を細やかに動かせば、やはりその通りに動く。たとえ平面の中でしか動けず、陰の中では消えてしまうとしても、めぐるの意思におおむね従った。逆にそうした不完全な一致が、自身の中の存在に似つかわしいと思った。

 しばらくすると、めぐるの中に違和感が芽生えてきた。影はあまりに従順だったのだ。その上、太陽や電灯というめぐる以外の他者にも依存している。それは少し違うと感じた。

『シャドウ』ではいけない。だったら他にはどんなものがあるだろうか。めぐるはちょっとした暇の中で考えた。

 自らの意思に従いながらも、自らの意思に反するもの。自分であって自分でない存在。身近に存在し、ありふれ、誰もが簡単に確固としたイメージを抱けるもの。影とは違って、従順であってもあからさまに反抗してみせる存在。

 再開した本屋のアルバイトの休憩時間や家事の合間はもちろん、読書中や入浴中にも考えた。

 早く名前をつけて、妙な不安を解消したい。きちんと認識して対処したい。その上で今後の人生設計を再考しなければ先に進めない。そんな気がめぐるにはしていた。

 ある朝、めぐるは顔を洗い終わってふと顔を上げた。

 そこには自分の顔が映った鏡があった。何の変哲もない洗面所の鏡だ。朝一の洗顔は母が亡くなるよりずっと前から続く習慣だ。寝ぼけた頭をしゃっきりとさせてくれる。なにも問題ないはずだった。鏡に映る自分の顔はまだ少しばかり眠たそうにしていたが、そこには日々の成長こそあれ、特別変わったことはなかった。

 しかしその朝、めぐるは自分の姿がおかしいことに気づいた。何かが変化したわけではない。変わったとすれば認識だろう。

 これまでは盲目的に信じ、疑うことすらなかった。しかし一度認識してしまうと、その違和感を気にせずにいられなかった。

 鏡に映っている人間はいったい誰なのだろうかと。

 顔の造詣は左右で反転し、右手を上げれば左手を挙げ、笑みを浮かべれば鏡の中の彼女も笑みを浮かべた。物心ついた頃から変わらない、おそらく世界中で起こっている光景だろう。

 光の性質だから当然といえば当然のことだ。入射光と反射光。現実世界のすべてが、鏡の世界では左右反転する。

 目の前に立つ、鏡の中の自分はいったい誰なのだろうか。めぐるは恐ろしさを感じた。たしかに自分であるはずなのに、自分とは違う身体を持ち、違う動きをする。しかし自分によく似た身体をもって、似たような行動をする。でも決して自分ではない。

 その不気味さにめぐるは戦慄を覚えた。それと同時に、これだ、と天啓のように閃いた。

 初めは『ミラー』と名づけようと思った。『シャドウ』と同じ言語でとても一般的だ。しかし『ミラー』というはいかにも間の抜けた音だと思った。だったら他の言語にしようかと様々な辞書を引いてみたが、どうにも馴染めない。

 だから鏡から連想できる名前を考えた。そしてそれは割とすんなり決めることができた。

『アリス』

 自分の中にある自分以外のなにかを、めぐるは『アリス』と名づけることにした。


『アリス』の特徴は大きく分けて三つある。

 ひとつはめぐるを病気に罹らせないこと。もうひとつはめぐるの怪我の治癒を異様に早く速く行うこと。最後のひとつはめぐるの意に反して、身体の制御を奪うこと。

 現状では、身体は動かなくなるくらいしかめぐるは実害を知らない。なにか自分の知らない行動をされたということはないと思う。就寝中や気を失っているときは、確認しようがないけれども。

 もちろんその実害は人生の分岐点で大きく作用し、めぐるは医者への道を断たれた。ただその代わりに病気にも怪我にも悩まされたことがないし、今後もおそらくそうだろう。このことを他の人が非常に羨むということは想像に難くない。

 これまでに溜まっていた二十年間のつけの払いがようやく回ってきただけだと、だから医者になれなかったのだと、むしろ溜飲を下げる人もいるかもしれない。あの人魚病でめぐるも死んでいたのかもしれないのだから。『アリス』に助けられたのだと言われても否定はできない。

 もちろんめぐるの秘密を知っている人たちは父と亡くなった母、そして指を包丁で切ったときに治療に当たった医者くらいだ。現状に限定すれば父だけだ。それも確信しているわけではないだろう。違和感を抱いているだけだと思う。

 しかし母が亡くなって父がめぐるを避けるようになったのは、もしかしてそのせいなのかもしれないとめぐるは思った。

 どうして自分の妻には『アリス』のような力が働かなかったのか。娘の異常を眼の前にすると、そうした思いが父の胸の内に込み上げてきたのかもしれない。娘にぶつけるわけにはいかず、だからといって振り上げた拳は納めどころがない。だから仕事に逃げるしかなかった。

 めぐるは二十歳を過ぎてようやくその可能性に気づいた。昔は母が亡くなったことや家庭から逃げる男だと侮蔑さえしていた。小学校の卒業式の翌日に母の墓前で愚痴をこぼしたように、父のことをネヴァーランドに住んでいるようだと揶揄すらした。

 本当のところはわからない。でもそういう可能性を思いつくようになったのは年をとったからかもしれないとめぐるは思った。もちろん、不本意な結果ではあったけれども受験も終わって心に余裕ができ、世界を広く見られるようになったこともあるだろう。

 それでも大人というのは、そうした視野の広さや自分の非を認める素直さと寛容さを持たなければならないとめぐるは定義していた。

 経験は積むしかないが精神のあり方はそうではない。大人は大きな子供ではいけないのだ。精神は成長するのではなく、変態しなければならない。芋虫がさなぎを経て蝶になるように。

 都合よく忘れること、一貫性を持たないこと、棚にあげること。そうしたことができるのが大人だと自称大人は言う。理想ではなく現実に生きていくには仕方がないのだと。

 だが仕方がないと諦めるのは自分に対する甘えであり、同情だ。それはめぐるが一番嫌いなことだった。そもそも仕方がないというのは他人に対する許しに使うべき言葉なのだ。自分に向けるなんて下劣の極みだ。



 めぐるにとって大人というのは、成人した今でも理解するのが難しい生き物だった。

 子供というのは自己中心的で、理想を妄信し、社会や大人の寛容を当たり前のように受け止め、それに甘える生き物だ。ときにその自分勝手な理想主義、つまり純粋性に従った残虐性を発露することもあるし、ひとつの側面からしか物事を見ないこともある。その多くは自分が信じる正義や価値観によっている。正しいこともあれば、当然過ちを犯すこともある。

 それでもまだ子供だからと、社会も大人も当の子供ですらも、そうした甘えを甘受する。理想を追い求め、生きるという経験を積んでいる過程にいるのだからと。

 だったら大人はどうか。自分たちの生活を守るためといって自己の保身を優先する。理想は期待という言葉に取って代わられ、その一方的な期待が裏切られると自分勝手に腹を立てる。社会や会社、家族の寛容に期待して甘える生き物だ。決して寛容さそのものに甘えることはない。いくつかの視点を持ち、多様な価値観があることを知る。自分の正義が決して絶対ではないことも知り、たとえ正しいことでも自分が不利益を被らない限り口を噤む。過ちを犯すリスクは極力避けるのだ。なぜなら大人は社会が容易に裏切ることを知っているから。

 彼らは社会に憤りを抱くが、同時に仕方がないことだとも考える。現実主義、清濁併せ呑むといえば聞こえはいい。子供のころに持っていた純粋性はなりを潜め、自らも手の平を返すことを覚える。なぜなら社会が、他の大人がそうだからだ。社会を潤滑にするためには度の過ぎた正直さや正義感は邪魔なのだ。そしてそれが社会や会社、家族のためなのだと考える。理想を捨て、現実を生きるのが賢い生き方だと思ってさえいる。でも本音は違う。貧乏籤を引くことに怯えているのだ。大人であっても、自分が一番大事なことに変わりはないらしい。

 ほんとうに子供と大差がない。むしろ言い訳がましい分、大人の方が子供より性質が悪い。その問題がどこにあるのか、めぐるは昔から考えていた。年さえ経れば大人になれる。大人はそう思っているのだろうか。自分が子供の頃に感じた大人の理不尽さなどすっかり忘れて。そして子供には、自分を棚に上げていろいろ押し付けるのだ。

 でもそれは卑怯ではないだろうか。

 めぐるは、人間の成長はまるで螺旋階段のようなものだと感じていた。同じところをぐるぐる回っているだけ。もちろん少しずつ階段を上って高さだけは変わる。見える景色も変わる。でも同じような問題にぶつかって、同じような経験を積んで成長するしかない。だから大多数の大人は勘違いをしているのではないだろうか。

 ひとつの人生において、本質が根本的に異なる問題は少ない。そうした問題の多くは子供の頃に遭遇している。価値観を揺るがす、もしくは新たな価値観を生み出す大事件として。

 本人にとって初めて本質の異なる問題に挑めば、大きな成長や挫折を経験することになるだろう。だがそんな問題はそれほど多くない。だから大抵の場合は、本質を同じくする類題に過ぎず、難易度だけが変わっているのだ。階は違っても、位置は同じ。まさに螺旋階段だろう。

 だから一度逃げ出すとまず挽回できない。もう一度ぶつかる壁も同じような問題だからだ。乗り越えるにはかなりの努力が必要だろう。壁の高さはそれほど変化しないが、一度逃げたという重みを背負う上に、若さゆえの勢いがなくなっていくから。めぐるはそう考えていた。そしてそれこそが子供の頃から変わることのない成長システムだとも。

 精神のあり方が大きく変わるような、上る階段が変わるようなことは滅多に起こらない。

 子供ができる、組織内で役職に就く。自分の立場が相対的に上がることはある。強制的にそれまでとは違った思考方法や役割を押し付けられることもあるが、そうした外圧では人の成長などそうそう見込めない。表層的で姑息な顔の使い分けを覚え、本音と建前の乖離に慣れてしまう。社会では大人として振る舞い、家庭では子供のまま過ごすようになるだけだろう。

 正しく大人になるというのは確固たる意思がなければきっと無理なのだ。だからめぐるは二十歳を区切りに、努力して大人になろうと決意した。

 めぐるが抱いている大人の理想像は、理性的で論理的な子供だった。純粋で、論理的で、多面的で、一貫性を保つ。そのためには、新たに上るべき階段を探し出なければならない。

 螺旋階段は無数に存在し、どの階段も天国か地獄へ向かって無限に続いている。

 多くの人は途中で他の階段を上りなおす勇気がないどころか、他の階段の存在に気づこうともしないだろう。自分の上っている螺旋階段が唯一無二であり、ペースは違っても他の人も一緒に上っていると考えているのだ。そもそも子供用の階段を上り切ると大人用の階段に切り替わると思っているかもしれない。

 そういう人たちは、逆に幸いかもしれないとめぐるは思う。自分の生き方に疑問を持つことさえないのだから。

 他の螺旋階段、それもより素晴らしいものに気づきながらも目を瞑っている人もいるはずなのだ。気づいてしまえば、自分の臆病さや不誠実さを突きつけられる。だが現状を変えるにはしがらみが多い。降りる労力や落下した時の痛みを想像して慄く。結局、理想と現実の狭間で葛藤を抱えて生きることになる。それはそれで苦しいというのに。

 初めて受験に失敗した時、めぐるは精神科を受診させられた。そこにいた患者たちの多くは一見、普通の人とほとんど変わらなかった。年齢でいえば、子供から老人までいた。だが世間で思われているような気の狂った人は見当たらず、皆なにがしかの葛藤を抱えているように見えた。自分に憤りを感じている様子も垣間見えた。世界で最も身近な社会や現実である両親という大人が持つ理不尽さを、彼らは肌で感じてきたのだろうか。もしかすると自分の上っている階段が間違っていることに気づいていたのかもしれない。

 めぐるにとって大人というは不思議な生き物だった。母親が早くに死に、父が仕事に没頭していたせいか、めぐるにとっての大人は他人がほとんどだった。そのほとんどが大人の振りをした子供であったように思う。もちろん年を経た子供が大人だと定義するなら、まさしく正しい大人の姿だろう。

 めぐるには記憶に強く残っている出来事があった。象徴的な大人を見かけたのだ。本屋のアルバイトでめぐるが学習参考書のコーナーにヘルプで入った時のことだ。

 高校生くらいの息子を連れた母親が、参考書で勉強をすることを強要しているようだった。息子の方はあまり乗り気ではなさそうだった。母親も息子を監視しているだけで、参考書を薦める素振りを見せない。息子のやる気のなさそうな参考書選びをじっと眺めている。

 この母親は学生の頃、ろくに勉強しなかったのだろうなとめぐるは思った。参考書は山のようにあるが、何十年も変わらずベストセラーの本もあるし、自分がしてきた勉強方法を伝えながらそれに合った参考書を一緒に探すこともできる。もちろん息子が一番自分を知っているのだから、自分で正しく選べるのであればそれが一番いい。

 だがそれができるほど息子の成績はよくなさそうだった。がっちりした身体つきは部活動かなにかの努力の跡が見える。彼は学校の勉強に興味がないだけで真面目ではあるのだろう。

 だったら母親が参考書の評判を調べるくらいしてもいいだろうとめぐるは不快に感じた。これほど情報があふれている社会なのだ。調べる気になればすぐに調べられる。息子のこととはいえ、結局、他人事なのだろう。自発的に調べることもなく、子供に勉強を押し付けている。

 だが親が思っている以上に、子供は親の態度を見ている。

 参考書の一つも調べないような親が学生時代に自発的な勉強をしてきたとは思えない。それは学校の勉強に限らない。なんであれ上を目指して努力をするなら、調べるという行為は最初に行うべきことだからだ。

 母親が自分の子供時代を都合よく忘れていることを息子の方は当然気づいている。彼の心中を推し量るのも簡単なことだった。

 あんたがやってもこなかったことを俺にだけやらせようとするな、といったところだろう。もしそれを口にしたとしても、息子には自分がした苦労を掛けたくないと母親は言うのだ。だったら今は努力してるのかよ、と息子の方は内心忸怩たるものを感じるのだ。

 学校の授業が終わり、部活でくたくたに疲れ、夜遅くに彼は帰宅する。晩御飯を食べる。そして勉強を親に急かされる。勉強するのが子供の仕事だからと言われて。親たちは中身のないテレビ番組を観ながらお酒を飲み、就寝するまでの時間を漫然と潰すのだ。自分たちの仕事はもう終わったとばかりに。

 会社の仕事や主婦業を馬鹿にするつもりはない。仕事の時間以外でも努力を怠らない大人もいる。だが多くの大人は、労働はしても努力はしていないらしい。小中学校の頃、めぐるが同級生たちに聞いた大人たちの姿は少なくともそうだった。

 めぐるにとって学校の勉強や家事は労働であり、自分の身体についての知識を蓄えることが努力だった。母が死んでからの父は家で休むことなく、ずっと労働し続けていた。一方生前の母は兼業主婦だったが手広く家事を行っていた。休日の昼間は炊事洗濯、掃除、庭や畑の手入れをし、平日でも夕飯が済むと裁縫をしたり、ピアノの練習をしたりしていた。ピアノの腕前はかなりのもので、クラシックからジャズまで有名な曲は一通り弾くことができた。それなりに複雑な曲も初見で弾くことができた。あれは間違いなく努力の範疇だろう。それも子供の頃から継続してきた努力だ。

 自由な時間を暇つぶしのように使うことが悪いとはめぐるも思わない。それはそれで明日への力になるかもしれない。ただそれは自分には相容れない価値観だと思っていた。



『アリス』という名を与えてその意思を一旦認めてしまうと、彼女に対して妙な親近感をめぐるは持つようになった。もちろん彼女というのは便宜上の設定だ。男性の意思が自分の中に存在するというのは具合がよくなかったからだが、それだけではない。

 アリスといえば、世界中の誰もが同じ少女を連想するだろう。めぐるだってすぐにかの少女を思い浮かべた。冠には不思議だったり、鏡だったりがつく少女だ。だからそのときは相応しいと思ってそう名づけたのだ。しかしその名前が逆に良くなかったかと、少しだけ後悔した。

 自分の人生を大きく損なわせてきた者に、愛着がわくような名前をつけてどうしようというのだろうか。彼女はめぐるの怪我を早く治癒してくれたが、いざという時に身体の制御を奪っていった。大きな怪我をしたことのないめぐるには、デメリットの方がはるかに大きかった。

 アリスという少女が主人公の物語は時代を越えて、いまなお高い人気がある。彼女の性格やものの考え方だけでなく、容姿も大体わかっている。アリスのモデルとなった少女の写真も残っているし、その少女を基にした挿絵だってある。児童文学の一種ではあるが、れっきとした文学として大学で研究されている。

 高校時代に咲がその原文を読んでいたことをめぐるは覚えていた。原文でなければなかなか理解できないことが多いのです、と咲は言っていた。その後、咲から原作を借りてめぐるも読んだが、たしかに訳者泣かせの物語だと思った。

 アリスという少女は、永遠に少女のままだ。

 現実にはありえない世界を旅して、現実の世界に戻って来る。その期間は短く、身体的成長はない。でも価値観を揺るがすような体験をしたのは間違いない。それこそ、多種多様な螺旋階段の存在を確信できるくらいには。

 アリスが大人になったのならば、どんな女性に成長していたのだろう。そこにめぐるの興味はあった。もともと大人であったガリバーとは違う。異なる世界を知った彼女は螺旋階段を乗り換えることに戸惑いも、怖がりもしないだろう。

 子供のころから根本的に他人と違う価値観を持っていたなら、社会に馴染むことのできない人間になっていたのではないだろうか。他人は彼女を狂人扱いするかもしれない。だがアリスは世界の外を知っているのだ。ならば本当におかしいのは、アリス以外の社会全体を形成する人間たちということになるのではないだろうか。

 それでも社会を上手く動かすために、世間はアリスを間違った存在に断定するだろう。そのときアリスはどうしただろう。そして自分ならどうするだろう。めぐるは思索に耽った。



 大学生活も五年が過ぎた。めぐるは情報工学の修士課程に進んでいた。人間が作り出した学問にはアリスも興味がないようで、大学受験以来さしたる問題は生じなかった。

 文学部の博士課程に進んでいた咲とはしばしば昼食を一緒にとったり、休日に買い物に出かけたりもした。黒崎は医師免許をとって一足早く大学を卒業し、臨床医として病院を転々しながら医師としての経験を積んでいた。

 めぐるも大学院には進むときに書店でのアルバイトをやめて、もっと実入りのよい仕事を探そうと思った。職場に不満はなかった。むしろ上司である鏑木との関係といい、本が読めることといい、環境はとても良かった。しかし授業料などを稼ぐには時間が足りなかった。

 鏑木にそう告げると契約社員の形態でもいいから休日に入って欲しいと言われた。もちろん給料も上げるし、都合の悪い日があればあらかじめ断ってくれればいいから、と。

 めぐるは悩んだ。四年生になって研究室に配属された時でさえ、卒業研究に追われて時間が取れなかったのだ。研究室の先輩たちの多くは家庭教師をしていた。最高学府の肩書きは世間的には極めて大きく、時給も個人契約ならかなり高いらしい。

 しかし鏑木に提示された給料も相当高かった。しかも福利厚生は正社員とほぼ同等だった。

「どういうことですか?」

 めぐるが怪訝に思って尋ねると鏑木は頭を掻きながら答えた。

「めぐるちゃん、前から休み時間とかにうちの本たくさん読んでたじゃない」

「それはっ――」

 めぐるは慌てて弁解しようとしたが、鏑木もすぐにめぐるの言葉を遮った。

「もちろん責めてる訳じゃないから。そのことはわたしも許可を出してたしさ。医学系の本が多かったけど、他のものも割りと満遍なく読んでたでしょ? はっきり言ってめぐるちゃんって、いまじゃこの専門書コーナーのそれこそ専門家みたいになってるのよ。専門書の生き字引っていうのかしら。図書館だったら司書とか、美術館だったら学芸員みたいな人? めぐるちゃんに相談したいお客さまってすごく多いから、やめられちゃうと困るのよ」

「ええっと、それほどのことでは……」

 めぐるは言葉を濁した。それは謙遜でもなんでもなかった。たしかに多くの本を読んだが、他人に教えられるほど理解しているわけではない。その本がどんな内容で、どういうことを主張したいのか、説明したいのかを把握している。ただそれだけだ。

「このコーナーの本ってさ、専門家じゃないと一冊だって理解するのが大変でしょ? もちろんめぐるちゃんだって完全に理解できているわけじゃないと思う。だけどね、ある程度理解した上で多くの専門書の中身を把握できる店員なんて、普通じゃとてもとても」

 鏑木は苦笑しながら眼の前で手をぱたぱたと振った。

「でも、ほんとうに広く浅く、ですよ?」とめぐるは声を潜めて言った。

「めぐるちゃんの言う浅くは、普通の人じゃ潜れないような深さの所なのよ」

 めぐるは反論しようとして、やめた。咲の乱読癖に対して、自分も同じようなことを言ったことがあることをめぐるは思い出したのだ。

 咲も本なら何でも読んだ。本当に好きなのは美しい書体、文体で書かれた平安文学などだが、ドイツ哲学も原書で読むし、聖書もラテン語で読もうとする。できるだけ生のものに触れたがるし、その時代背景を知るために歴史書も読む。哲学者が科学者であることも多いから、数学書を読むことも多い。いつかは古代文字で書かれた遺跡の石碑なども読んでみたいと言っていた。くさび形文字や象形文字、ヒエログリフだって興味の対象になる。彼女にとって書物や碑文は人間の思考の変化や蓄積、歴史の隙間を垣間見るためのものなのだ。

 一方、めぐるにとっては、そんなことどうでもよかった。人間の思考より、蓄積された知識や事実自体に興味があった。その背景として人間の思考を知る必要があるなら、そのときに考えてみるだけだった。他人が何を考えるかなんて、正直関係ないことだと思っていた。

 そういう意味では、めぐるは本当の読書愛好家ではないだろう。どんな本も教科書でしかないのだ。知らないことを少しでも多く知ることが至上命題だった。

 それもこれも、アリスなどという未知の隣人がいたせいだろう。

 他人を知れば自分がわかる。普通はそうだ。自己とは、所詮他者の他者だ。でもアリスに対応するものは、おそらくこの世に存在しない。他人を理解して自己は認識できるかもしれないけど、自分を知ることが、はたしてアリスを知ることにつながるのかどうか。

 だからだろうか、めぐるは幼い頃から他人に興味を持つことがなかった。高校のころに同級生に言われたことは間違っていなかった。人当たりが良いのは、他人なんてどうでもいいからだ。そんなことより自分の身体が、アリスが気になって仕方がなかった。

 そもそもアリスとはなんだろうか。自分の内にある自分以外の意思だ。だったらその意思はどこから生じるのだろう。脳なんだろうか、魂なんだろうか。心はどこにあるのだろうか。

 彼女はなにを考え、なにを求め、なにをしようとしているのだろうか。

 めぐるの怪我を癒し、病気を払い除け、医学への道を閉ざす。そこにどんな意味が込められているのかわからない。自分の中にありながら、他人よりもはるかに理解できない存在がめぐるを悩ませた。他人にかまっていられる様な暇はない。

 女子の少ない工学部にあって、恋人どころか友人もいない。大学内に咲という高校からの友人がいるだけだ。彼女もある意味でアリスのように理解不能なものだった。好き好んでめぐるの友人であり続ける必要性がわからなかった。

 鏑木も似たようなものだった。そこまでめぐるに固執する理由がわからなかった。

「めぐるちゃんはお客様の趣味とか趣向とか、もちろんの本の論旨的な意味でね、そういうのを完全に把握してるでしょ?」と鏑木は確認するように、そして確信的に言った。

「購入履歴や相談に乗った内容は覚えてますから。他には読んだ本の感想とかも」

「そういうのを考慮した上で、次にどういう本を読めばいいかとか、薦めるかとか考えてるでしょう? たまにこういう本を仕入れて欲しいとか、わたしに言ってきたりしてさ」

「まあ、クレームがついても困りますし、確実に売れる本を仕入れた方がいいですから」

「本屋は在庫の管理が難しいじゃない? とくに専門書みたいに特定の人しか買わないものとか、かぎりなく趣味全開のものだとなおさらね。売れない本は倉庫も圧迫するし、赤字そのものだし。めぐるちゃんが勤めて五年くらい経つけど、専門書コーナーの赤字、少しずつ減ってきてるのよ。だいたい正社員の人件費数人分ね。でも蔵書の数はむしろ増えてる。つまり顧客数や顧客単価が増えてるの。その多くがめぐるちゃんの功績だと私は思ってる」

 鏑木はこれまでに見たことがないくらい真面目な顔をしていた。

「週一回だと少し難しいけど、週二回出勤してくれるなら正社員の待遇でいいって考えてる。さすがに賞与は出せないけどね。土日が無理なら、そのどちらかだけでもいいからやめないで欲しいのよ。その代わり、めぐるちゃんの来る日は顧客がこぞってきそうだけど」

 鏑木はかわいらしく片目を瞬かせた。

 これなら家庭教師よりもいいかもしれない。まとまったお金が手に入るし、雇用保険とかも加入してくれる。社会人として片足を踏み出したようなものだ。しかも仕事の内容はほとんど変わらない。

「でも、こんな契約を鏑木さんの一存で決められるんですか?」

 めぐるは不思議に思って尋ねた。社員を、しかもかなり変則的な雇い方で増やすなんて、人事の人間でも勝手に決めるのは難しいだろう。

「専門書のコーナーは社長の趣味だから、どうとでもできるの」

「そういうものですか?」

「文化っていうのは儲からないけど、お金を持ってる人はその儲からないことをやらないといけないのよ。それが義務ね。中世でいえば芸術家のパトロンみたいなものかしら」

「この本屋、そんなに儲かってるんですか?」

 めぐるは首をかしげた。書店の規模は大きいし大都市の一等地にあるけれども、他に支店があるわけでもない。業界の中では少し変わった大型個人書店のような扱いだろう。

「本屋の利益は、まあ、とんとんね」と鏑木は言う。

「だったら専門書の赤字が今より多かった時はどうしてたんですか?」

「それはもちろん、本屋全体でも赤字だったわよ」

 当然のように口にする鏑木の言葉に、めぐるは思わず片手で顔の半分を覆った。

「めぐるちゃん」鏑木はきっぱりとした声で呼んだ。「文化はお金持ちが支えなければならない、そうよね?」

「そういうことになりますね」

「だったら文化を守りたい人はどうすればいいと思う?」

「文化の担い手になればいい、ですか?」

 作家や画家、音楽家でもいい、文化を作る側に回ればいい。めぐるはそう考えた。しかし鏑木は首を振った。

「文化は儲からないわ。売れるものは文化とは言わない。消費者に迎合したら文化じゃなくて商業になるの。いま高値で取引される芸術品だって長い時間見捨てられていたようなものよ。もちろん例外はいくつかあるでしょうけど、作者の多くは高く評価される前に亡くなってるわ」

「たしかにそうかもしれませんけど……だったらどうすれば?」

 めぐるは鏑木に問うた。

「さっき言ったじゃない。お金持ちになればいいのよ」

 鏑木の回答はとても簡潔だった。

「つまり本屋自体は慈善事業で、本業が別にあるってことですか?」とめぐるは確認する。

「そういうこと。さらに言えば他のフロアは、専門書のフロアだけだと敷居が高くて入りづらいだろうからって作られた部門よ。本当なら収支が真っ赤な専門書専門店でもよかったの」

「酔狂な社長ですね」とだけ言って、めぐるは呆れ果てた。

「でしょう」と言って鏑木は満面の笑みを浮かべると、めぐるに向かってピースをした。

 それを見て、たしかに酔狂な社長だとめぐるは思った。

 結局、めぐるは大学院生になっても鏑木の書店を辞めることはなかった。



 大学というところは、勉強しようと思えば勉強できるし、遊ぼうと思えば遊べる場所だ。個人の裁量に任される部分が多い。そういう意味おいて、大学という場所はめぐるにとって難しい場所だった。

 めぐるが生きる第一の目的はアリスを理解すること、その原因を突き止めることだ。

 理想どおり医学部に進学して、医者それも研究医にでもなっていれば違う展望もあっただろうが、めぐるの専攻している情報工学からアリスに迫る方法は想像すらできなかった。

 それでも今の社会に情報工学が用いられない分野の方が少ないことは間違いなかった。高度な情報処理はどんな学問でも必要とされるし、高価な医療機器も情報工学がなければ制御できない。あるとすればそれこそ伝統工芸に類する技術的なことで、アリスに関係するとは思えなかった。だからめぐるはたとえ情報工学を専攻していても医学へのつながりが絶たれることはないと信じていた。というよりも妄信していた。そうでなければ大学にいる意味がなくなってしまう。

 真剣に学ぶには執着できるほどの内容ではなく、適当に遊んで過ごすには惜しいくらいの細い蜘蛛の糸があった。好奇心も刺激された。彼女にとって大学とはそういう場所だった。

 それでも定期試験はすべて首位でパスし、長期休暇を迎えるとめぐるは旅行に出かけた。大学生になったときから趣味になった海外旅行だ。それもできるだけ未開の地が広がる発展途上国に向かった。人智を知るために読む本の趣味は真逆で、神の創り出した大地を見て回った。

 熱帯雨林や砂漠、サバンナなどで見慣れない動植物を発見しては、図鑑や専門書にあった内容を頭に思い浮かべて再確認するような旅が多かった。未知の生物を発見したこともある。

 伝染病や風土病の恐れのある地域も平気で訪れた。どうせ病には罹らないのだ。入管で留められたことも幾度となくある。もし存在するなら、きっとブラックリストに載っているだろう。凶悪な伝染病キャリアの蓋然性が高い人物として。

 長期休暇のたびにめぐるが旅行へ行くことを咲が知ると、当然のように一緒に行きましょうと言った。しかし彼女のようなお嬢様に行けるような場所に行くつもりはまったくなかった。さらにいえば咲の興味の対象は文化だ。動植物の学者が行うフィールドワークのような旅行を彼女が楽しめるはずもなく、まためぐるも文化の蓄積がある場所に行く必要性を感じなかった。

 だから二人で訪れられる場所は必然的に、数世紀も前に滅んだ文明の、新しく発見された遺跡や、もしくは観光地にされることすらない無名の遺跡などだった。

 長い間、未開の地でひっそりと眠り、人知れず朽ちていくのを待っている遺跡には、表面に無数の表意文字が刻まれていることも多くあり、咲の趣味にも合っていた。

 面白いもので、農家の娘はそれなりに体力があるのだろうか、文化に携われるとなると道なき道も平気なようで、足取り軽く行くのだった。

「変わった絵文字ですね、これは」

 咲は遺跡の外壁にある文字らしき絵を見ながらそう言った。縦に読むのか、横に読むのかさえめぐるにはわからないが、咲はじっくりと見ながら次々と写真に撮っていく。

 めぐるが五、六カ国語話せるのに対して、咲は同じくらい多くの古代の言葉を読むことができた。その遺跡の言語も知っていたのだろうか。

「わたしは遺跡の中に入ってみるわね」

 一方的に言い残して、めぐるは遺跡の中へ入っていった。咲からの返事は待たなかったし、期待もしていなかった。赤道近くの蒸し暑い森の中でも、遺跡の内部は涼しかった。

 めぐるも遺跡に興味がないわけではなかった。だが、どちらかといえば道中や遺跡周辺の自然の方が好きだった。土や風の香り、木々のざわめき、動物の鳴き声。動物の糞や食べ残された木の実などを捜したり、変わった昆虫や植物に遭遇することに胸を膨らませた。

「いいにおい」

 遺跡最奥の石室の中でめぐるは鼻から大きく息を吸い込んだ。

 矛盾しているようだが、自然を好む一方で、風化して埃っぽい回廊の臭いや苔むした室の臭いも好きだった。時が止まったかのような空気の化石を吸っている気分になるのだ。もちろん密閉されていたわけでもないので、せいぜい黴臭い澱んだ空気を吸っているだけだ。それにその遺跡も繁栄していた当時は当時なりに清潔にしてあったはずなのだ。大抵の遺跡は宗教的な意味合いが強いのだから。

 咲なら昔の人々の息遣いを感じ取れる気がするとでも言うのであろうが、めぐるにはそうした趣味はない。ただ古びた空気を求めてしまう欲求がめぐるにはあった。普段の価値観とは大きく矛盾するはずなのに、忘れられた都を訪れることだけは不思議と嫌いになれなかった。

 人の手から永く離れた人工物は、ある意味ではとても自然なのかもしれない。

 原生林が自然であるように、不毛な大地が広がる月だって自然だ。大都市が人工であるように管理された自然公園だって人工なのだ。

 咲とはいくつもの遺跡を訪れた。咲の近くにいると不意に意識が遠のくという現象も、彼女と出会った頃とはうってかわって鳴りを潜めていた。あれは思春期によくあるただの貧血だったのだとめぐるは結論付けた。友人として咲がめぐるの側によくいただけの話で、彼女の側だから気が遠くなるというのはあまりに暴論だろう。

 しかしそう結論づけるのは、やはり早計すぎたのかもしれない。

 突然めまいに襲われ、めぐるは石の階段を転げ落ちた。

 一瞬なにが起きたのかめぐるにはわからなかった。咲の慌てたような、それでも上品さを失わない悲鳴がどこかから聞こえた。意識は朦朧としていた。なにかが自分の身に起きたことだけは認識できたが、なにが起きたのかめぐるにはわからなかった。

 知らない間に眼の前が地面だった。身体が何らかの信号を発してくれることはなかった。むしろ感覚を奪われたような、アリスの意思が働いた時のような虚脱感を覚えていた。

 そしてめぐるは夥しい量の血を口から吐いた。骨が折れてどこかの内臓にでも刺さったのだろう。目の前に大きく広がる血を認めて、ようやくわずかながらも痛みを感じ出した。

 ああ、怪我をしたのだな。めぐるは淡々とそう思った。

 まさに生まれて初めての大怪我だ、これほどの血は見たことがなった。しかし自傷実験で痛みに慣れてしまったせいか、初潮のときほど新鮮さを感じなかった。脳内物質による麻酔効果のせいではないだろう。習慣性とは恐ろしいものだと、めぐるは朦朧とした頭でそう思った。

 めぐるはすぐに病院に担ぎ込まれた。しかしそこには輸血用の血液がほとんどなかった。未開の遺跡の近くなのだ、病院があるだけましだった。

 とにかく血が流れすぎていた。手術もしなければならない。輸血は必至だった。

 幸い、めぐるは自分の血液型が特殊だという話を聞いたことがなかった。むしろごく一般的で、大多数を占める型だと聞いていた。だから血液センターが近くにあるというし、輸血に関しては問題ないだろうと高をくくっていた。

 しかし国が違うせいか、めぐるの血液型の量は決して多くないと言われた。失血した分と手術に必要な分を考えると足らないだろうと。

 このまま出血性ショックで死ぬことがあるのだろうか。めぐるはアリスのことを脳裏に浮かべながらそう思った。彼女がこのまま手をこまねいているとは考えられないのだ。あらゆる傷を治癒し、自分の受験をことごとく阻止してきたというのに。

 しかしめぐるの容態は悪くなる一方だった。

 アリスはなにもしなかった。もしかして彼女はすでに自分の中から消え失せたのかもしれない。大学受験からもう五年以上、彼女の存在は強く感じるような出来事はなかった。

 普通の人間になれたかもしれないことと謎のままに消えてしまったアリスの存在は、死に掛けていためぐるにとって嬉しいさと悔しさとの二律背反を味あわせた。

 そんなめぐるの様子を見ていて色を失くしたのは咲のほうだった。眼の前で友人が死ぬかもしれない状況にいる。それがよほど衝撃的だったのだろう。自分の血を調べて欲しいと医師に伝えた。もし使えるのなら、使えるだけ使って欲しいと。

 運よくめぐると咲の血液型は完全に一致していた。自国ではわりと一般的な血液型だからとめぐるは考え、咲と旅行していてよかったと心の底から思った。もし独りだったら死んでいたかもしれない。医師にもなれず、アリスのことも一切わからないままに。

 めぐるは手術後、嬉しそうに泣く咲に謝罪と感謝をした。



 そんなことが一度だけ起こったが、おおむね大学生活を学業と書店でのアルバイトと旅行で満たしながら、めぐるは平和に過ごした。

 咲は学者としての道を選び、博士課程を終えたあとも大学に残った。学生時代から変わらず千年以上前の文学を研究し、いまやそれを生業にしている。

 大学自体もそうだが、特に文系の学問の半分くらいは直接社会で役立つようなものがない。専門性の低い職業に就くなら、論理的思考の訓練は高等学校で十分な水準に達している。

 もちろん教養として書物を読むことは大事なことだし、歴史や小説は人間の思考や感情を知るために必須な教材だ。しかしそのように心を学ぶということは、学問として知識を蓄えるのではなく、自分独りで深く追求して自分にあった結論を導くべき類のものだろう。

 そういう意味において、国文学の博士課程まで進んでさらに研究するのはほとんど趣味のようにめぐるには思えた。教授にでもなれれば話は別だが、そうなれるのは一握りの人間だけだ。めぐるも咲がそうなれるとは考えていないし、咲自身もおそらくそうは思っていないだろう。

 咲にとって、国文学の研究とは趣味の延長線上でしかなかった。だから薄給だろうと地味だろうと問題ないと彼女はめぐるに語った。

 彼女は長女だったが末娘でもあったから、束縛なく自由があった。婚約者がいるという話も、いつの間にか立ち消えていた。

 なんでも祖父同士の約束はお酒の席の他愛もない話で、あの男がそれを鵜呑みにしたに過ぎないようだ。もちろんそうなったらそうなったで、両家の祖父たちは良かったのだろう。だが咲は一生困ったはずだ。価値観が違いすぎて混乱することは目に見えていた。

 病院を経営している医者の子供に、医療をサービス業として考える者は少ない。自分をお医者様だと考えるのだ。あの鼻につく人を見下したようなエリート意識は、きっと咲には理解できないものだろう。自身も大農家の娘で金銭感覚は少しずれているというのに、職業貴賎の意識や選民的な思想はなかった。

 結局、大病院の息子はどこかの医学部の教授の娘と結婚したらしい。

「咲は結婚っていうか、恋愛に興味はないの?」

 大病院の息子が結婚したと聞いたとき、めぐるは咲にそう尋ねた。結婚以前に、彼女に特定の彼氏ができたという話すらこれまで耳にしたことがなかったからだ。美人で気立てがよく、控えめで優しい。男がほうっておくはずがなかった。咲がすべて断っているのだ。

 だが咲はめぐるが疑問を一蹴した。

「もちろん、興味はありますよ。めぐるさんはないんですか?」

「わたしはとくにないかな」少しだけ考えてからめぐるはそう答えた。「結婚する以上、子供を産む。ちがうわね。子供を産み育てるため、子孫を残すために結婚する。本能的にはそうすべきなんでしょうけど……私には無理かな」

「無理、ですか?」

 咲は納得しがたいように不思議そうな声で言った。言外に、無理なはずないですよね、という意味が含まれていた。

 本当にこの娘はわたしをどんな完璧超人だと思っているんだろう、と咲の期待とも信頼とも違う、信仰のような態度にめぐるは呆気にとられた。

「でも、子供が嫌いというわけではないんですよね?」

 疑問というより確認するように咲が問う。めぐるは首を振って否定した。

「もちろん、そういうわけじゃないわ」

 アリスがいる以上、子供なんて考えられないのだ。しかしそれを彼女に言っても仕方がない。

 ただ性欲がないわけではない。無性に男性に抱かれたくなる時がめぐるにはあった。それも自分の趣味にはまったく合わない、女遊びの激しそうな男に出会ったときに、である。自分の身体が勝手に求めているという嫌悪と同時に、そんな時はアリスの存在を疑ってしまう。

 自分の恋愛は果たして自分の意思に基づいているのだろうか。アリスと名づけて認識することでそうした性欲は抑制することができたが、それが自分の本性だとしたら耐え難かった。

 もしアリスの存在を認識せず定義もしないでいたら、本能に抗えず、行きずりの男をホテルに誘っていたかもしれない。そんなことになっていたら絶望のあまり死にたくなっただろう。

 恋愛の先にある結婚生活を全うできるのかどうか。もしかしたら不倫してしまうかもしれない、アリスが子供に遺伝してしまうかもしれない。めぐるの不安は尽きなかった。

「個人的な時間がなくなるでしょう? それが我慢できないのよ」めぐるはそう嘯いた。

「めぐるさんなら、そんな時間、簡単に捻出できそうですけど?」咲は可憐に小首を傾げる。

「多少はできるでしょうけど……それじゃあ、全然足らないわね」

 人生のすべてを費やしてもアリスを解明できるかどうかわからないのだ。医師ですらなく、回り道を無様にひた走っている。それでも愚直に走るしかなかった。現状、なんの目途も立っていないのだから。

 めぐるは窓から外を見下ろした。街灯の光が眼下に広がる。冬枯れした街路樹がイルミネーションで煌びやかに輝き、外套に身を包んで寒さに震える人の群れがそれを一様に見上げて歩いている。木枯らしが紅葉の終わった木の葉は巻き上げ、みな外套の襟を立てて背を丸めた。

 二人は大学から少し離れた小さなカフェにいた。二階建てで、大半の客や店員は一階にいる。自家製の洋菓子と美味しい紅茶が飲める隠れ家的な店だった。店内にはかすかに管弦楽の曲が流れ、二階は十数席しかないこぢんまりとした、内緒話をするにはちょうどよい空間だった。静かな店内にはひそやかな話し声がさざなみのように響き、時折それを咳の音が引き裂いた。

 今年もインフルエンザが流行しているらしい。この時期になるとめぐるはいつも、母が亡くなったときのことを思い出す。多くの人間が似たようなものだろう。大勢の人間が死んだのだ。

 もちろん人魚病という未知の病が原因だったことは理解している。ただ、はじめに新型インフルエンザだと発表されたことと流行し始めた時期が同じこと、毎年流行するインフルエンザのニュースが人魚病の記憶を毎年のように掘り起こすこと。いろんな要素が重なって、インフルエンザと影が重なる。もうすぐ二十年が経つというのに忘れられない、忘れさせてくれない。

 父とは違う意味で、めぐるも母の死を吹っ切れないでいた。いまだに日本の人魚について、彼女は調べようとはしなかった。遠ざけてさえいた。聞きそびれた人魚の話を知ることが母との絆を切ってしまうような、そんな気がしたのだ。悪く言えば正しく未練だった。

 聖誕祭が近いせいか、眼下の歩道には男女のカップルが多く目につく。腕を組み、楽しそうに笑っている。彼らのうちの何組かは将来子供を作り、孫に囲まれ、そして死んでいくのだ。

 生き残った人間はその生を次代に継がなければならない。それはいまを託され、享受している人間の義務だ。だがめぐるは無理だと思っていた。それがなんとはなしに心苦しかった。申し訳ないとさえ思っていた。人魚病で亡くなった母だって死にたかったわけではない。子供の成長を見届け、孫の姿だって見たかったことだろう。あと十年も経てば母の享年を抜く。

「そんなことより、咲が結婚とかに興味を持ってるなんて方がびっくりよ。同性愛者だっていう噂があったくらいなのに」とめぐるはおどけるように言った。

「そのお相手はめぐるさんでしたけどね」と咲が小さく笑う。

「やぶへびだったかしら。でもこれまでのことを考えれば、そう思われても仕方がないじゃない? 三十路近くになっても、まったく異性の影が見えないんだから。近づいてきた男の人は全部断ってるし、婚約者も実際にはいなかったわけだし」

「同姓の方からでもお断りしていますよ?」

 咲が平然とそんなことを言ったので、めぐるは苦笑した。

「相手は異性だけじゃなかったのね。でも異性に興味があるようには見えなかったわよ?」

 めぐるが十年以上見てきた咲は、本や文化に少々度の過ぎた興味を抱いた少女もしくは女性だった。そして幼い頃から婚約者がいて、恋愛や結婚を意識せずに育ってきたように見えていた。婚約者の話は結局違っていたものの、そうでないのであればなおさら彼女の恋愛や結婚に対する意識の低さが奇妙に思えた。仕事で自分の存在を主張したがっているわけでもない。

「恋愛や結婚には興味がありますけど、自分がしたいかと言われると……」

「憧れはあるけど、現実にするには二の足を踏むってこと?」

「そういうことでもないのですけれども……」

 咲はしばらくの間、天井からぶら下がる電灯やテーブルの足へと視線をさまよわせた。誤魔化すためではない、自分の考えを上手く伝えられる言葉を捜すように。しかしそんな都合のよい言葉が見つかるはずもなく、彼女は自身の綺麗に手入れされた爪を見つめて、徒然に応えた。

「恋愛しているときの男女が何を考えているのかとか、とても永い結婚生活をどうしたいと思って生きているのかとか……どうやって結婚を決断するのか、きっかけはなんなのか」

「そういうことを感じられる人に出会わなかったってこと?」

「いえ、そういうことでもなくて……」

「どうして恋愛や結婚をするのか、それ自体がわからないから興味がある?」

 咲は視線を上げてじっとめぐるを見つめ、そして黙ってうなずいた。

「……そう」

 めぐるは目を瞑って幾度となく小さく頷き、咲の考えを受け入れた。

「さきほど、めぐるさんは本能的には子孫を残すために結婚するとおっしゃったじゃないですか。まさにそうだと思うんです。自然界ならより強い子孫を残すことを目的に生殖や繁殖します。でも人間の場合はそうじゃなくて、たいてい恋愛をした上で結婚しますよね?」

「最近はお見合いとか政略結婚なんてものも少ないから、一般的にいえば恋愛結婚が普通かしら」めぐるは母の亡骸にすがり泣く父の姿を思い出した。「たしかに恋愛感情に左右される結婚観は不自然よね、淘汰という自然のシステムからすると」

「そうなんです。月並みですけど社会の中でも強い者、権力や権威、財力のある人間――主に男性――に女性が群がることが自然だと思うんです。昔の貴族を考えればわかると思うんですけど、ああいう時代は男性も女性も関係なく、複数の異性と関係を持ちますよね。貴族の妻が夫公認で不倫することだって往々にしてありました。通うことも囲うこともあります」

「極めて政治的な話よね。恋なんて社交会におけるスパイスみたいなものでさ」

 バイト先で読んだ中世貴族の性事情の知識から、めぐるは合いの手を入れる。そして生姜の香りの強く効いたミルクティーを口に運んだ。

「何度も情を交わした後ならともかく、恋愛的な要素が根にあるとは思えません。ロミオとジュリエットなんて貴族社会では醜聞ですよ、きっと。だから創作物の劇として生活苦のない庶民たちの間で人気になったと思うんです」

「悲劇じゃなくて、喜劇なわけか。本音じゃ、ざまあみろって感じなのかしら」

「本来、貴族の恋愛は政治の上にあるはずなんです。恋愛は目的ではなく、手段なんです。恋愛が許されるのは政治的に利があるから。異性と関係を持つのも、多くの有力な貴族と渡りをつけることや有力貴族の血を手に入れる手段でしかありません」

「政治と軍事は国の両輪だってことよね。国が平和なら政治力は武力以上に影響力がある」

「そうです。しかも封建制の元では政治力というのは血に色濃く反映されます。だから貴族たちはその力を子供に受け継ぎ、できれば強い権力を持った血脈と交わってより強い子孫を残すことに苦心します。おのずと権力者には人が群がります。結婚するまで愛情なんてほとんどないんです。下手をすれば、結婚してからでも愛なんてないかもしれません」

「一夫多妻、一妻多夫、多夫多妻……ね」めぐるは首を振って、苦笑しながら言った。「たしかに恋愛の末がそれだったら正気を疑うわ」

「そうかもしれません。めぐるさんがおっしゃった通り、恋愛は政治上の男女関係におけるちょっとした、それこそスパイスでしかないんです。男性はより多くの女性との間に子供を作れば、他の男性の子孫を減らして勢力を広げることができますし、他の勢力を取り込むための婚姻関係も多く結べます。でもそれは貴族の義務なんです。だったら仕事として遂行するより、擬似的にでも恋愛をした方が楽しいというだけです。もちろん火遊びで火傷を負った人たちも多くいたでしょうけど、そういう人たちは目的と手段が入れ替わってしまったんでしょうね」

 そう言って咲は紅茶をティーポットからカップに注ぎ、ストレートのまま飲んだ。

「でも種の保存と繁栄という観点からすると、女性がたくさんの番を持つ必要はないわよね。妊娠は一度に一回しかできないし、その期間も長い。妊娠できる種だって大抵一つでしょう? 男の火遊びに付き合う必要はないんじゃない?」

 めぐるが意地悪く問うと、咲は大きくうなずきながら答えた。

「たしかに男性と違って、女性は子作りという意味では一度に複数の異性と関係を持つ意味は少ないと思います。でも女性の方が男性よりも現実的なんです。たとえ血に反映できなくても自分の子供がより力を持てるように、より上位の男性と関係を持つことはあります。血の繋がりがなくても、出世には口出しできるように。それが子孫の財産になります。それに一人に絞るとリスクが高まります。相手が失脚した時に挽回できるようにしないと」

「それも理解できるけど、中世までみたいに淘汰されやすい社会ならともかく、今はそうじゃないわよね? 会社での出世だって、婚姻でどうこうなるような前時代的な世襲制は減ってきてるし。自由恋愛っていうのかしら、いまの男女関係って」

「そこが興味深いところなんです」咲は小さく音を立てて手を合わせた。「いまや結婚に政治的な要素はほとんどありません。貴族社会は権力を失い、農村でも家が断絶するほど貧しい家はありません。生物的に強い子供を産む必要性なんて、なおさらです」

「結婚から政治的な意味が消失して、スパイスだった恋愛成分だけ残ったわけよね?」

「もともと恋愛は子供ではなく人脈を作ってきました。貴族なら婦人を通じて男同士が近づきました。力が劣れば男女の関係にすがる。いまの一般的な恋愛感とは違うかもしれません。それでも同じような部分もあります」

「どういう部分が?」めぐるは純粋に尋ねた。

「いまでも異性にすがる人はいます。すがる方は必死です。愛情なんて見せかけか、自己暗示でしょう。本能的に利を計算して、力を手に入れようとします。いまならお金ですね。すがられて情に流された側は完全にほだされたわけです。施しではありません。無心されているというのに相手を可愛いと思ってしまうなんて、一方的に恋愛だと幻想しているだけですよね?」

 咲はよほど恋愛に関心が強いのか、思い思いに語った。そのことにめぐるは驚いた。

「無心する側は昔の恋愛をしていて、無心される側は現代の恋愛をしているってこと?」

「たぶん、ですけど」咲は確信が持てないのか、急に弱々しそうな声でつぶやく。

「そういう部分が不思議で、咲は現代の恋愛や結婚に興味があるわけか……」

 めぐるのつぶやきに、咲はそれまでとは一変して黙り込み、しばらくしてから頷いた。

「そう、かもしれません」

 恋愛に対してそこまで深く考える咲のことがめぐるには不思議だった。

 ただ、めぐるには咲に言わなかったことがあった。一妻多夫というのは人間以外の生物では稀にある生態だった。産卵期の雌が、一度にたくさんの雄と交わるのだ。そうすることでより強い精子を得る、つまりより強い個体の子供を産むことができるというのだ。もちろん咲が口にしたように今の文化的な人間に生物的な強さは必要ないだろうが、本能はどうなのだろう。

 めぐるはカップに口をつけ、周りを見渡した。

 カフェの内装は簡素で、わざとだろうが木製の床や壁の色が所々はげていた。暖色系の灯が店内をほのかに照らしている。壁には目障りにならない程度の大きさの額が少しだけ掛けられていた。唐辛子やラベンダーのようなドライフラワーが入っていたり、絵画が飾られていたりしている。その中に森を走る馬の絵があった。

 キャンバスの大部分が木々の緑だが、その木の下で乗馬を楽しむ人々が暗い色で影のように描かれている。騎乗することが貴族にしか許されない時代もあったし、競馬も貴族の娯楽だったといわれている。お金の掛かることは権力のあるところでしか発展しないのだろう。鏑木が言った通り、文化とは、お金とそれを理解、実践するための高い教養が必要なのだ。

 めぐるはその絵を眺めながら、ふと咲に聞いてみた。

「ところで競走馬の種付けって知ってる?」

「競走馬、ですか? 競馬の馬ですよね」

 突然の話題の転換に、咲は驚いたように聞き返してきた。

「そう。それでその馬主ってさ、競馬で勝つための競争馬を作るのが至上命題でしょ? だから強い遺伝子や優れた血統を考えに考え抜いて受精させるの。そうやって大レースで勝つことを目指すわけ」

「名誉と賞金が目的ですか?」

「名誉や賞金も大事だけど、勝利した馬は引退後の価値が上がるから」

「引退後、ですか?」

「まあ、金持ちの道楽の場合もあるけど」とめぐるは苦笑した。「優秀な種牡馬の種付け料って、一回で高級車が一台は買える値段なのよ。契約によっては牝馬の受精が成功しようがしまいが関係なく。馬だけで生きてる人たちからすれば、本当に賭けよね。種付けだけじゃなくて、レースに勝てるか勝てないかも含めて。しかも産まれる前に大部分が決まるわ。強い馬の仔は強い。王様の子供は王様ってことね。その可能性が高い。しかも王様は毎年、大きなレースの数だけ生まれる。一匹の王に雌が群がれば次代は血が濃くなる。血も濃すぎると危険性が増すわ。この辺りは貴族も一緒かしらね、一代くらいなら近親でも大丈夫だろうけど、二代三代と続けていくとさすがに問題かしら。まあ、難しい選択よね。現代社会で、もっとも無慈悲な子作りのひとつかもしれないわよね。勝てそうにない馬は、仔馬の段階で間引かれるし」

「たしかに自然以上に選別は厳しいとは思いますけど、商売ですから」

 平然と答えた咲に、めぐるは彼女が豪農の娘だということを思い出した。酪農も行っていれば、当然精肉用の牛や豚に触れる機会があるだろう。可愛がっていた動物が売られていくのには慣れているのだろうか。伝染病が流行れば大量に殺処分することだってある。

 種牛だって競走馬と同じような仕組みだ。レースに勝つことではなく、品評会での結果による。競走馬でなく種牛で話せばわかりやすかったかと少し後悔した。

 ただ牛の種は、長年同じ牛たちのものを使っていたようなことを聞いたことがある。競走馬のように種牛になるための競争はない。やはり競争馬を選択してよかったのか。

 めぐるはそんなことを頭の片隅で考えながら話を続けた。

「似てると思わない、さっきの貴族の話に? 優秀な種はばら撒くことができるけど、優秀な卵にはそういうことができない。卵子の良し悪しを正当に評価するには、少しばかり牝馬が子供を産む機会は足らないわ。でも精子の良し悪しは母体や子供の数だけ評価できるから、牡馬の評価はしやすい。サンプルが多い分、確率論が成り立つからね。だから種馬は種をばら撒けるだけばら撒く。極端にいえば自分の子供の中から優れた遺伝子が一つでも残ればいい。馬にとっての大レースは貴族にとっての戦争で、種付けは政争かしらね」

「そして牝馬には長い妊娠期間がある、というわけですか?」

「そういうこと。だから牝馬は量より質を、評価が高く血筋の良い種馬を慎重に選ぶ必要がある。妊娠期間が長ければ牝馬が子供を産める回数は必然的に限られてくるし、その少ないサンプルから優秀な子孫を紡がなければならない。競走馬として期待できない仔馬は長生きできないし、母体としての価値も下がるから。牝馬は競走馬としても命がけだし、引退しても命がけ。自分の遺伝子を後世に残すってことはあの世界ではとても難しいことなのよ。貴族の女性も同じでしょう? 血統の良い男性と結婚して子供を産むことがレースに勝つことで、子供が出世できるように男を捕まえるのが牝馬としての評価を高めること」

「競馬と貴族社会が同じ、ということですか」

「というより、淘汰を繰り返す社会が恋愛を殺すんじゃないかしら」

 咲は物憂げな表情でめぐるの言葉を聞いていた。

「競馬は咲が言ったように商売だから利益を優先する。レースに勝つ馬が生き残る一方で勝てない馬は遠慮なく淘汰されていく。食肉用に出荷されたりしてね。感情なんてまったくないわ。競走馬は当然だけど、それを行う人間なんてなおさら。自分たちで勝手に作り出しておいて、勝てなければ殺すんですもの。殺さないにしても、その馬の子どもは作らない。感情らしい感情ないわ。あるとしても強い馬を作り出して大きなレースで勝つっていう浪漫くらいね」

「その浪漫は、恋愛と同じくらい意味がわかりませんね」咲はくすりと笑う。

「馬にも恋愛っていうものがあるならそれはそれで興味深いけど、そんなものもないだろうしね」めぐるも同意しながら笑った。

 ひとしきり笑った後、咲は視線を落とし自分の手の爪をじっと見つめ、少し考え込むように黙ってから再び口を開いた。

「人間以外に恋愛をする生物っているのでしょうか?」

「人間のものを恋愛と定義するなら、おそらくいないでしょうね」

「社会や種の維持のような本能よりも個人の感情を優先させている、ということですよね?」

 咲の言いたいことをめぐるは考えながら、逆に問い返した。

「種として考えるなら人間も本来そうであるべき、ってこと?」

 それは他の生物と人間を区別して、ことさら特別視する人たちには理解できない考えだろう。人間と畜生を同列に並べるといっているように聞こえかねない。

 しかし咲は首を振って否定した。

「いえ、べきというつもりはないんです。ただ……」

「ただ?」

「どうして感情に左右されすぎるのか。それが不思議なだけです」

 めぐるはずっと、咲は文化に興味があると思っていた。しかしその本質がまったく違うところに根ざしていることに、そのときようやく気づいた。

 彼女にあるのは人間の思考、哲学に対する興味だ。古い文学で描かれた、千年以上前からほとんど変わることのない喜怒哀楽の価値観、愛憎や争い、そして死生観。彼女は自分が理解できないものをただ知りたいのだ。他の生物にない、本能から遠く離れた感情を。

「感情の入り込む隙間が大きいってことは、ある意味平和な証拠なのかもね。ただまあ、感情から戦争を起こす生き物もいるけど」

 もしかしたら咲も他人なんてどうでもいいのかもしれないとめぐるは思った。自分の興味にだけ、純粋に相対している。そう考えると、彼女がずっと自分の友達でいることもおかしなことではないのかもしれない。

 めぐるはアリスという謎の解明に興味を、そして咲は人間の感情の謎に興味を抱く。

 めぐるの表層的な人当たりの好さは薄っぺらで、見抜かれることもよくあった。本質的に他人に興味がないからだ。しかし咲はその性格の好さを褒められることはあれども、非難されたことはなかった。単純に猫かぶりがめぐるより上手いわけではなく、彼女はちゃんと他人に興味を抱いているのだ。

 咲は誰とでもきちんと会話をし、私生活でも交流を行い、たまに面倒にならない程度の他人に世話をかける。深くつき合うわけではないが、丁寧なつき合い方をする。だから誰もが彼女に好感を抱く。

 たとえそれが様々な条件下での人間観察でしかなく、観察対象に対する興味でしかなくても、人は信じたいものを信じる。誰しも、咲のように上品でおしとやかなお嬢様の性格が人間としてどこか歪だとは思いたくないものだ。

 彼女は感情を上手く理解できないのだろう。はにかむような表情も儚げな表情も緻密な計算と経験が生み出した精巧な仮面なのかもしれない。

 他者とは仮面を隔てて接し続けている。まるで動物園の檻が眼前にそびえているように。もしくは水族館の水槽のガラスを間に挟んでいるように。

 どちらが見つめる側で、どちらが見つめられる側なのだろうか。

 咲というお嬢様はきっと、鳥籠の中から人間を観察しているのだろう。回りの人間たちが鳥を愛でていると勘違いしている隙に。めぐるはそう思った。

「たしかに感情が薄ければ共産主義も成功するかもしれないわよね」

 そう言い残して、めぐるは伝票を手に席を立った。






















 第五章 欲望がなければなにも始まらない、そしてハリガネムシ



 文化を守りたい人間は金持ちになればいい。

 鏑木のこの言葉は、めぐるにとって理解はできても納得はしづらいものだった。金持ちになること以前に、日々の糧を得るためだけに皆して労働に勤しんでいるのだ。待遇が変わるまでは、めぐるのバイト代だって生活費と学費に消えていた。

 その一方で文化の担い手でなくても構わないというのは天啓だった。お金さえあれば担い手を支えることができるのだ。医者になってアリスを解明することを断念せざるを得なかっためぐるにとって、それは新たな指針となった。

 そしてめぐるは大学院に在籍している間に起業した。

 鏑木の本屋で稼いだ金を起業資金にあて、細かなやり方も鏑木から教わった。情報工学の分野に進んでいたのは幸いだった。アイディアひとつで世界と戦える企業が作れるのだ。ある意味、錬金術のようなものだ。ブランド名という付加価値ほど中身のないものではないが、それでもただ単に情報を上手く扱えるようにしただけだ。新たな生活の必需品といって持て囃されているが、それまでだって無ければ無いで生きることができていたのだ。便利さが一つ増え、不便さが一つ減った、と同時に新たな面倒やしがらみが増える。実情は、目につく不便さが消えて、見えにくい不便さが増えただけだろう。開発者でもあるめぐるはそう考えていた。

 そしてその会社の運営を一気に軌道に乗せると、めぐるはすぐに新たな会社を興した。製薬会社だ。製薬会社とはいうものの研究機関としての側面が強く、遺伝子工学や医療を中心に、解剖学や免疫学などを扱っている。ほとんど医療全般といえた。ただし医療行為を行わない。

 薬を作ることが目的ではなかった。アリスを研究するためだった。本業で儲けて、製薬会社の赤字を埋めればいい。だからめぐるの会社は株式を一切発行していなかった。

 すべてはめぐるの意思を絶対のものにするために。絶対の君主でいるために。

 鏑木が本業をある程度他人に任せて本屋で働くのとは異なり、めぐるが隣接する製薬会社に顔を出すことはほとんどなかった。自身が素人であるということはもちろんだが、アリスの影響を懸念したのだ。だからこそ研究員に優秀な人材を集めることは必須だった。

 そこですでに医師となっていた黒崎の伝を頼った。

「人として問題があっても研究さえまっとうにできればいいって条件はありがたかったね。もちろん犯罪者はいないよ」と名簿を入れた封筒をめぐるの机の上に置きながら黒崎は言った。

「犯罪者予備軍もいらないわよ」とめぐるは冗談を返した。

「どうだろうね。未来にまで責任は持てないよ」

 黒崎はそう軽口を叩く。彼がそう言うなら大丈夫だろう。責任感が強く、面倒見のよい男だ。

「人間関係で出世できなくなった人や突飛な考えが上司に受け入れられずに干された人が中心だね。臨床医、研究医問わず、医学の世界というのは極めて封建的で閉鎖的だから。顕在化していなくても、はみ出し者を探すのはわりと簡単だったよ。風の噂がすごい勢いで吹いてた。狭い世界に生きてるからか、そういう話が公然と飛び交うし、すぐに飛びつく人も多い。守秘義務に縛られてるせいか、医者同士の秘密の暴露が楽しいのかもね」

「真面目な発表がなければ、学会なんて同窓会か井戸端会議よね」

 どんな学会でも、有名な研究者たちは多くのパイプを持っているし、付き合いもある。めぐるが所属している情報処理の学会でも、旧交を温めるような光景がしばしば見られた。

「医者の学会はさらに狭いし、下っ端にはそもそも関係がないから余計にひどいよ」

「夕飯時の家族の団欒ってところかしら。今日なにがあったとか、隣の誰々さんがどうしたとか。大抵のことはしゃべっちゃうわけ」

「そうかもね。もっとも、ぼくの家ではそんな団欒なんかなかったけど」

 黒崎は困ったような顔をしてみせた。そしてめぐるも肩をすくめてみせた。

「わたしにだってそんな記憶ないわよ」

 母親が生きていた頃ならそんなこともあったような気がするが、もう昔のことだ。たとえめぐるにその記憶があっても、実感までは残っていなかった。

 めぐるは机の上に置かれた封筒を手にして、中から薄い名簿の束を取り出した。氏名と所属している大学や病院、研究施設の名前が並び、さらにその横にその人物の研究分野や問題点が列挙されていた。そして申し訳程度に業績が書かれている。

 めぐるは一枚一枚名簿をめくっていった。途中で秘書がめぐると黒崎にお茶を持ってきた。部屋中に甘い香りが充満する。めぐるの趣味で社長室ではコーヒーを出さない。紅茶や緑茶が主で、たまに青茶などが出る。めぐるは茶葉を使ったものか、ハーブティーくらいしか飲まない。高校の頃から咲の趣味に付き合っていたらそういう味覚になっていたのだ。

「変わった味のお茶だね。甘い緑茶なんて」

 黒崎はティーカップの中を覗きながら言った。

「今日は巨峰かしらね。それと甘い香りがするだけで、実際に甘いわけじゃないわよ」

「それはそうなんだろうけどね。なんだか、ちょっと奇妙な感じかな」

 そう言った黒崎の表情は、奇妙というより苦手だという雰囲気を漂わせていた。眉をひそめて、なにかを悩むようにもしくは深く味わっているように。

「茶道を嗜んでる黒崎さんには、お茶は苦くないと感覚がおかしくなるのかしら?」

 めぐるが揶揄するように言うと黒崎は首を振った。

「抹茶にしろ、急須で出すお茶にしろ、正しく淹れれば苦味の中にもほのかな甘みがある」

「それは知ってるけど、でも慣れの問題よ。黒崎さんだってミルクティーは飲むでしょう?」

「大抵はそうだね」と言って、黒崎は腑に落ちないような顔をしながらお茶を口に含む。

「だから常識の問題なのよ。紅茶だって初めてミルクを入れた人は変人だったと思うもの。素材の香りを台無しにするし。ただ、まあ、わたしも黒崎さんのことを笑えないんだけどね」

 めぐるもティーカップを口元に運びながら苦笑した。

「きみにもなにか拘りがあるのかい?」

「お菓子に抹茶が使われているのが、まったく理解できないのよ。抹茶は和菓子と一緒に頂くものじゃない。それで甘味と苦味が交互に来るわけでしょう? 甘みと苦味が混ざるなんて、いつ口をすっきりさせたらいいのかわからないわよ」

「そっちは大丈夫なんだけどね、僕は」

 めぐるは信じられない気持ちで苦笑している黒崎を凝視した。

「大抵の場合が紅茶とセットになって出てくるんだから。香料の一種だと思えばいいじゃないか?」

「それこそ訳がわからないわ。抹茶と紅茶よ? 結局どっちなのって話よ。たしかにバニラエッセンスみたいに香りづけに使ってるだけのつもりかも知れなけど、わたしは納得できない」

「べつにお茶として使ってるわけじゃないんだから、お菓子と紅茶のセットだと思えばいいじゃないか? お菓子だって苦味が入ってすっきりとした味になるし、風味も良くなる。僕はいい考えだと思うけどね。それこそ常識の問題だよ」

 どっちもどっちだということはめぐるもわかっている。ただの趣向と哲学の違いだ。他人がどうこう言う問題ではない。本人が納得できるかどうかだ。カレーのスパイスだって、元を辿れば薬だろう。でもカレーを薬膳くさいと言う人間はそうはいない。常識の問題なのだ。

 それでもめぐるは黒崎に言ってしまう。

「そんな風に物分り良さそうに言ってるけど、黒崎さんだって結局この緑茶のフレーバーティーは認められないんでしょう?」

 めぐるは持っていたティーカップを自分の顔の前で、軽く一回だけ持ち上げて見せる。少しだけ困ったような顔をした黒崎に、めぐるはさらに追い討ちをかけた。

「ちなみにこれ、咲のお土産よ。あの娘、こういうのが好きだから」

「それを言うかな、このタイミングで」

 黒崎はそう言って苦笑すると、両手を挙げて降参のポーズをした。

 どうやら彼は咲に好意を抱いているらしい。それほど会う機会はなかったとは思うのだが、気になる存在であることは確かなようだ。

 高校の頃から咲は本屋や図書館にいることが多かった。もしかしたらまだ黒崎が鏑木の本屋でアルバイトをしていた頃から目をつけられていた可能性はある。清楚なお嬢様という雰囲気は、人畜無害にしか見えない奥手の黒崎が好みそうなタイプだ。

 咲はしばしばめぐるに会いに来るが、工学部と文学部の立地場所はけっこう離れている。学生が使う学食やカフェなどが違う程度には離れている。医学部は、その工学部よりさらに遠くにある。学内では会おうと思ってもなかなか会えないだろう。それこそ約束でもしない限り。

 唯一共有されている場所が図書館だが、文学と医学の本ではまったく違う場所に書庫がある。

「そういえば、わたしが大学に入った頃、よくわたしに会いに来ましたよね」

 めぐるは黒崎が大学を卒業する前のことを思い出しながら訊いた。

「まあ、きみの進路は気になってたからね。うちの大学の医学部にはいなかったし、他の大学の医学部だってずいぶん探したんだ。きみの名前はずいぶん有名だったようだしね。一度も模試で勝てなかったって後輩の子たちが悔しがってたからね。それがまさかうちの工学部にいるなんて、さすがにぼくも想像できなかったよ」

「わたしだって想像していませんでしたよ。まあ、原因不明の体調不良が起きますから」

 めぐるは肩をすくめた。黒崎もそれほど気にした風を見せなかった。それが彼なりの優しさだということはめぐるも理解していた。それに免じて、自分を探すのが目的じゃなくて本当は咲に会うことが目当てだったのだろう、と訊くのはやめてあげることにした。

 黒崎が二人のいる部屋の中をぐるりと見回した。

「それがいまや世界的な企業の社長なんだから。人生、なにがどうなるかわからないね」

 社長室は来客も多いため、調度品はそれなりに高価なものを揃えている。華美なものを嫌うめぐるは品のよい、しっとりとしたもので統一させていた。いま二人が座っているソファも本皮の最高級品だ。ソファの良し悪しは金額の多寡に直結しているというのがめぐるの考えだ。シンプルなデザインだが、素材自体が吟味されており、仕上げの仕事も丁寧だ。

「それでこのリストの人たち、仕事はできるの?」

 黒崎の持ってきた名簿をひらひらと振りながらめぐるは言った。

「能力的には問題ないみたいだよ」

「でも、業績はいまいちよね」

「それは仕方がないよ。上司に横取りされてるとか、雑用係みたいに扱われてる人が多いから。ただ結果は出してるみたいだよ、だから飼われてる。それに、上から睨まれてない人は出世できそうな場所から離れようとはしないよ。ここに来るのは、冒険が過ぎるからね」

「それなりにお金はかけてるわよ?」

 国の研究所並みに設備投資はしている。野心家なら乗ってこないだろうか。

「この会社にはまだ実績がないだろう? どんな職場なのか全く謎だからね。しかも君の会社だ」

「わたしの会社だと問題があるの?」

「言い方は悪いけど、きみは成金だからね。業種的にも実体がないし」

「業種っていわれても、情報自体が実じゃないもの。それは仕方ないじゃない」

 めぐるは憮然と言った。彼女自身、情報産業を錬金術だと揶揄しているが、そもそも虚を実とみなすのが資本主義だ。そして情報産業はその最先端にある。彼女にはそれこそどうしようもない。そんな虚像だと嘲笑っている砂の上に現実があることを、皆、忘れているのだろうか。

「赤字になれば撤退するとか、キャリアアップには遠回りだとか保守的な人は考えるんだよ」

「もともと赤字覚悟の会社なんですけどね」とめぐるはやさぐれたように言った。

「そんなことはきみくらいしか知らないことだし」

 黒崎は苦笑してそう言った後で、真面目な顔をして話を続けた。

「医者の実態は、受験勉強で優秀な人間が安定した職を求めた結果に過ぎないよ。崇高な目的もないし、たとえあったとしても能力がない。工学部の方が天才的な閃きを持つ人は多いよ、きっと。医者の大多数を占める臨床医なんかは本来、技術職だと思うんだ。決められた手順や知識をなぞるだけ。もちろん職人みたいなすごい腕の外科医とか、一瞬で病気を判断できる内科医とかもいるんだろうけど」

「入学試験の問題なんてパズルみたいなものだしね」

「きみが言うと嫌味に聞こえるよ」と言って、黒崎は嘆息した。

「負け犬の遠吠えよ」とめぐるは皮肉を込めて自嘲した。

「まあ、そんな医者が多いわけだから、能力があって冒険心の強い研究医なんて一握りだよ」

「もっとこう、あれがしたいとか、これがしたいとかないわけ?」

 めぐるは自分がなりたかった職業にそんな人間が就いているのかと思うと歯痒くなった。

「だから、そういう人はそうそう医者になんてならないんだって」

「黒崎さんみたいに欲望まみれだと、わたしも安心できるんですけどね」

 黒崎は目を見開き、驚愕の表情を浮かべた。

「僕のどこが欲望にまみれているんだい?」

「だって、いまでも患者を診られればいいんですよね?」

 めぐるが浪人していた頃、つまり黒崎がまだ一介の医大生だった頃に訊いた彼の志望動機を確かめると、黒崎は間髪いれず肯いた。

「もちろんそうだよ」

「救世主にでもなりたいとしか思えませんよ。患者から神のように崇められるお医者さまになりたいわけですから」

 黒崎はとにかく患者を診察したいという動機しかなかった。患者を救いたいわけでも、病人や死人を減らしたいわけでもなく、ただ患者を診るのだ。そして患者の満足を得る。その結果、救われる人や亡くなる人がいても気にしない。お金に執着するわけでも社会的地位にこだわるわけでもなく、生活も最低限成り立てばいい。余人がどう思おうが構わない。黒崎が先ほど言っていた多くの医者とは、やっていることは一緒でも、目的が致命的に違った。

 さすがに腹でも立てるかな、とめぐるは思った。でも黒崎は否定するどころか、なるほどといった感じで納得してしまった。

「ああ、そういうことね。たしか……メシアン・コンプレックスだったよね。でも他人のためは自分のため、ってことだからいいんじゃない? 情けは他人のためならず。しかも共依存。ほら、問題ない。患者を放置して症状を悪化させてから救うわけじゃないしさ」

「わたしも自作自演までは疑っていませんって。でも患者を救いたいって気持ちがあるわけじゃないですよね?」

「べつにないわけじゃないよ?」黒崎はめぐるの言葉を否定しなかった。「職務は完璧を目指してるし、誰かに迷惑を掛けてるつもりもないし」

「それは知ってますよ。ただ自分勝手な欲望ですよねってことです」

「でもそれって普通のことだよね。多かれ少なかれ、人間、独りで生きていけるようにはできていないんだからさ。他人に必要とされないことほど辛いことはないよ」

「もちろん、それはそうなんでしょうけど」めぐるは苦笑をせざるを得なかった。「それをきちんと理解した上で忠実なんですよ、黒崎さんは、欲望に対して」

「桐原さん流の褒め言葉だと思っておくよ」

 黒崎はティーカップに手を伸ばし、しばらく水面を眺めてから口をつけた。

 冷めてくると鼻に届く香りは弱くなるが、逆に口の中に残る香りは強く感じる。巨峰の甘味が想像以上に強く感じたのか、黒崎は口をぎゅっと結んだ。

 めぐるは秘書を呼び出した。冷め始めたお茶を替えさせる。今度はストレートの紅茶を頼んだ。タンニンの渋みとファスト・フラッシュのさわやかな香りが喉の奥で広がる。

「好奇心と探究心と実行力を持っていて、その上欲望に忠実で、でも暴走せずに能力の高い、しかも口の堅い、余計な詮索をしない研究者ってどこかにいないのかしら?」

 めぐるの物言いに、黒崎はさすがに呆れたような声を出した。

「すごい制約だね。それを満たせるほど人間は強くないんじゃないかな?」

「臨床医ならわたしの眼の前にいるけど?」

「僕はそこまでひどくないよ」

「わたしも難しいことは言ってないわよ。研究内容はある程度こちらで範囲を絞るにしても、その範囲内で研究に没頭して成果を出して欲しいだけだもの。もともと医者なんだから守秘義務には慣れてるだろうし、一応こっちも企業だから社外秘だって、部外秘だってある。秘密が秘密なのには理由があるんだから、それを口外したり暴こうとしたりすれば契約に反するのは当然のこと。違います?」

「でも欲望に忠実で、暴走しないって矛盾してないかい?」

 そう言われてめぐるは、ずいぶん信用がないんだなあと思った。

「欲望がわかりにくいと信用できないだけよ。本心がどこにあるのかわからないような人間に自由は与えられないの。それから暴走にしたって、研究のために人体実験を強行するとか、人倫に反するとか、いたって普通の意味での暴走のことよ。できるだけ当人の思うとおりに研究できる環境を与えたいから、その分、採用条件が厳しいだけ」

「本当にそれだけかい?」

 黒崎は柔和な表情こそ崩さないが、その声はやはり信じきれないような響きを含んでいた。

 めぐるは肩をすくめて答えた。

「まっとうに、欲望に忠実な人間ほど性格がまっすぐな人はいないと思うわ。情けは他人の為ならずって、黒崎さんもさっき自分で言ってたじゃない」

「言葉は同じでも、意味は少し違うんじゃないかな……」

「ほとんど変わらないわよ。自覚のない欲望ほど怖いものはないわ。すぐに軸がぶれるの。で、そういう人間ほどすぐに他人を理由にするの。とくに失敗した時の言い訳なんかにね。成功はした時は自分のおかげって言うくせにね」と言って、めぐるは落胆したように首を振った。

「功名心を自覚していたら、そんな恥知らずなことは言えないか……」黒崎は首を傾げる。「でもそんな人がきみの近くにいたのかい? 研究室の教授とか?」

 めぐるは首を振った。

「うちの教授はいい人よ。起業する際にもいろいろ相談に乗ってもらったし、飛び級にも骨を折ってもらったし。今でも一応、研究室に所属してるのよ、わたし。だから一般論よ」

 そうめぐるは嘯いた。自身が師事する教授はとてもいい人だが、大学教授といえども色々いる。根性のひねた人、精神のずれた人、人間的におかしい人。ものを教える前に自分を正したらどうだろうかと思うこともしばしばだった。功名心の自覚と恥知らずが同居する人もいた。

 起業するときも、口ばかりの人間が現れては消え、消えては現れた。しかもとても現金だった。成功すれば、見知らぬ親戚が増えるどころか、めぐるを罵って去っていった人間でさえ笑顔で戻って来る始末だ。

 貫けないような考えなら初めから抱くんじゃないわよ、とめぐるは心の中で罵倒した。

 だからだろう、黒崎はめぐるの説明にぽつりと感想をこぼした。

「一般論にしては辛辣だったと思ったんだけどね」

「そう?」

 めぐるは眉を軽くあげてみせた。もちろん自覚はあった。

「でも、考えてみれば、きみは昔からいつも辛辣だったね」

「ひとこと余分よ」

 朗らかに笑う黒崎に、めぐるは憤然と言い返した。

「でも無自覚に他人を理由にするのは、それほどいけないことなのかい?」

 黒崎の反論ともいえない軽い問い掛けに、めぐるは深く同意を示すようにうなずいた。

「もちろん人間それほど強くないから、他人を理由にしないと生きていけないというのも真理かもしれない。孤独に耐えるのはとても大変だから。でも孤独が嫌だからって、根源的な欲求を抑圧してたら人はいつか破綻する。そのことは黒崎さんも知ってるでしょう?」

「専門外だけどね。精神科の領分だから」黒崎は苦笑して答えた。

「もちろん欲望にも善悪があるから、人を殺したいっていうような欲求はだめよ」

「まっとうな欲求を自覚していて、まっとうな手段とまっとうな精神で研究に没頭する。暴走するんじゃなくて、超特急の人間か……なるほどねえ。きみもいろいろ考えてるんだ」

 黒崎は腕を組んで、そのまま柔らかなソファに背を預けた。

「ひとを考えなしみたいに言わないでよ」

「こんな赤字必至の、しかも暴走列車みたいな会社を作ろうとしてるきみが悪いよ」

 めぐるは、僻地医療の専門家で、税金で生活している国家公務員の黒崎に諭した。

「鏑木さんも言ってたんだけど、儲かってる民間企業には雇用創出と社会貢献の義務があるのよ。医療研究所は社会貢献にふさわしいでしょう? 利益は出なくても実益にはなるもの」

 黒崎はため息混じりに首を振った。

「『欲望に忠実なのが信条』のきみが、社会貢献なんて言っても僕は信じられないよ。鏑木さんを見てるからなおさらね」

 難しい書籍の文化を守りたい鏑木の本屋は、趣味と実益を兼ねたものだった。

「いいじゃないですか。わたしの欲望と会社の利益がたまたま被ってたんですから」

 めぐるはほんの少し昔の、アルバイトに精を出していた頃を思い出しながら、黒崎に仕方がないとばかりに肩をすくめて、そう応えた。そして研究者のリストを封筒に入れると、それを持ってソファから立ち上がった。

 部屋の入り口正面の壁、というか一面すべてを覆う三重の硝子窓を通して青い空が見える。

 雲ひとつなく、空気の澄んだ高い冬の空の向こうには黄色がかった緑の山々が連なっていた。

 枯れ木も山の賑わい。遠くから見る分には夏の単調な山より色彩豊かで面白い。山頂が雪化粧の高い山もある。国内最高峰の不死山もうかがえる。表情豊かな自然を眺めることができた。

 しかしこれからしばらくするとこの辺りはすっかり雪に包まれる。白一色の単調な世界になる。厳しい冬が訪れるのだ。人の行き来も途絶え、陸の孤島へと一変する。

 めぐるの会社は首都圏から超特急を使っても片道二時間以上かかる山奥にあった。秋までは田畑が豊かな実りをつける農村地帯だが、冬になれば眠るように静まりかえる。めぐるが本業の会社を作るまで過疎化する一方だった。普通列車で片道一時間もかかるような場所に通勤することがなくなって久しいのだから、時代錯誤も甚だしい。社員のほとんどが社宅住まいだ。

 どうしてこんなところにこんな場所に会社を作ったのか、と聞かれることが何度かあった。

 情報産業はネットワークが通じていればどこでも仕事ができるから、とめぐるは答えていた。地方の活性にもつながるし、大企業が田舎にあっても問題ない。人ごみにまみれず仕事できるならその方がいいだろう。都会に執着する必要は別にないのだ。多くのインタビュアーが感心したように賛同したが、そんなものはめぐるが適当に繕った一般受けの良さそうな言い訳だ。

 本音はやはりアリスのせいだ。夏より冬、暑さより寒さに弱いらしい。アリスの意思が確実に弱まる。交通の便や言語、生活環境を鑑みて、適当だったのがこの地だっただけの話だ。

 冬の寒さに弱いのに、真冬の受験日にめぐるの身体の制御を奪うとはアリスも無茶をしたものだと、めぐるもいまなら思うことができた。もし自分が変温動物に生まれていたらアリスはどうしていたのだろうかと意味もなく考えたこともあった。

 そんな過酷な勤務地でも入社したい人間だけが集まったからか、普通のはずがなかった。業務外に趣味的な開発を行うのはよくあることで、あまりに実験的なプロジェクトを進めた挙句、大失敗することもあった。その一方で本業はどんどん新しい商品を世に送り出し、それに付随した文化が生まれて、さらなるお金を呼び込んだ。

 めぐるはそれをよしとした。本来の業務をおろそかにしないのなら、どんどん好き勝手にやればいい。それがいつか本業に返ってくるのだと知っていた。予備の予算も用意してあった。

 そして、そんな気質の研究医が集まってくれるものだとめぐるは考えていた。それほど多くの研究馬鹿を本業の方で見てきたのだ。しかし工学系の研究者と違い、研究医はそう都合よくはいかなかった。

 使命感が強いのか、安定志向が強いのか。黒崎に言からは後者の比率が若干高そうだった。

 めぐるは自分の執務机の上に研究者リストの封筒を置くと、黒崎に向き直った。机の縁に腰を当てて軽く寄りかかり、胸の前で両腕を組む。

 咲と違って大した胸でもないから、色気よりも有無を言わせない高圧的な雰囲気が醸し出される。ソファに座ったままの黒崎をめぐるは無表情に見下ろす。

「黒崎先輩」

「なにかな?」

 黒崎が少し緊張気味の硬質な声を出した。そして強張った笑みを浮かべた。

「きみに先輩って言われると、途端に不安になるんだよ。どんな難題が飛び出してくるか、まったくわからないからね」

「研究者への給料は、いま提示している額の倍を用意します」

「今でも相当な額だよ?」黒崎が驚いたように言う。

「本当はぎりぎりまで落としたいんです。その方が研究一筋の人材だけが集まりそうですから。でもそれではそのご家族は納得できないでしょう。仕事と家庭の両立が難しい分、お金と福利厚生で補償します。ここは都心ではありません。学校もあまり進学には向かないでしょう。だから子供の教育面も支援します。塾でも託児所でも要望があれば作ります。社員の家族なら、研究施設を使って診療することも構いません。ただしこちらは病院ではないので手術はできません。製薬会社ではなく病院にでもすれば可能なんですが、今度は法の束縛や役所からの監視が強くなるのでそれは受け入れられません。代わりにドクターヘリを用意します。大きい病院に融資でもして連携させます。とにかく将来に禍根を残すほど生活に困るような待遇にはしません。いざとなれば社用でシャトルジェット機の導入も考えましょう。一日往復二便。そうすれば東亰まで三十分もかかりません。地理的には遠くなりますが時間的には近いはずです」

「シャトルジェット機って、シャトルバスじゃないんだから。世界中のどこを探したってないよ、そんなもの」と黒崎は呆れたように言った。

「資金は十分にあります。自家用ジェット機を流用すればいいだけです。問題があるなら、わたしの個人持ちでも構いません。これなら首都圏からの通勤も可能になるはずです」

「今度は飴に群がる蟻みたいに半端な医師が集まりそうだ……それで、僕になにをして欲しいんだい? まさかその蟻の選別? さすがにそれはきついんだけど。仕事もあるし」

 黒崎は困ったような表情をした。

「蟻はうちの秘書にでも任せます。そこから先の厳選は頼みますけど、お願いは別です」

「前置きから考えると、ちょっと怖いね。聞かないとだめかい?」

「もちろんです。それに、大それたお願いではありませんよ」

 めぐるは少しだけ表情を和らげた。

「本当にたいしたことではありません。黒崎さんも産業医としてうちに就職しませんか? 社員だけでは患者の数も知れてますが、山の向こうには無医村がいくつかあります。限界集落です。対外用に小さな診療所を用意しましょう。往診もご自由にどうぞ。そうだ、うちの本業の方と組んで、遠距離診察技術の開発というのも悪くないかもしれません」

 そしてめぐるは急に口を閉じた。そしてすこしだけ考え込んでから話を続けた。

「むしろ診療所の医者としてうちの会社と契約する方がいいかもしれませんね。黒崎さんの裁量は大きくなりますから。もちろんうちの社員になっていただいた方がありがたいですけど。僻地医療の専門家として、この地に根をおろすというのはいかがですか?」

「いや、いかがもなにも、どうして僕なんだい?」

 黒崎は純粋に疑問を口にしていた。

 めぐるは深く息を吐きだし、一度目を瞑ると、意を決してその疑問に答えた。

「黒崎さんに秘密にしていても仕方がないですけど、研究所の研究内容はわたし自身です」

「……そうだろうとは思っていたよ」

 黒崎は視線を足先に落として、ぽつりとそう呟いた。

「わたしは、わたしの中にいるわたし以外の何かを『アリス』と名付けました」

「それは解離性同一性障害とは違うんだね?」

「もちろん。多重人格のような精神疾患ではありません。別の人格ではなく、別の生物がいるとみなしています。アリスという人格ではなく、『アリス』という生き物です。わたしの意志に反して一方的に介入するんであって、入れ替わるわけではないんです。なんというか、ハリガネムシのようなものですかね」

「ハリガネムシ?」黒崎が怪訝そうに言う。「トンボとかに寄生する、あの細長い?」

「そうです。そのハリガネムシです」

 めぐるは深く頷く。

「ハリガネムシは完全な水生生物です。しかしその多くは一生を、水辺以外で過ごします」

「水生生物なのに水辺にいないのかい?」

「はい。自力で餌をとるのではなく捕食者に寄生するせいです。ハリガネムシが生まれた直後はとても小さいので、小さな生物に捕食され、そして寄生生活を始めます。ですがハリガネムシの成虫はかなり長くなるので、小さな宿主ままではハリガネムシの成長は阻害され、宿主諸共死んでしまいます。ハリガネムシが成長するには、より大きな宿主が必要となります。つまり今の宿主がより大きな生物に捕食されなければなりません」

「つまり食物連鎖を利用して大きな宿主へと移住するわけだね」

「そうです。そのうえ水生生物の中には変態する生物が多くいます。たとえばヤゴやアカムシですね。ヤゴはトンボに、アカムシはユスリカになります。変態した虫の多くは翅を生やして生息域を水中から陸へと変えます。当然ハリガネムシも水から離れた生活を余儀なくされますが寄生しているので生活環境の変化に問題はありません。宿主の栄養を奪って成長するだけですから。そして陸上でも宿主を変えたりしながら成虫になるまで成長していきます」

「それじゃあ、『アリス』というのも、きみから何か物質的なものを奪っているのかな?」

 黒崎は冗談めかして言った。めぐるは首を振って曖昧に否定した。

「それはわかりません。ただ、いま問題にしているハリガネムシも、それだけなら私もアリスと同類だとは言いません」

「だったらなにが似てると言うんだい?」

「陸上生物に寄生しているハリガネムシには致命的な問題があるんです。いったいなんだと思いますか?」

「致命的、となると限られるね」黒崎は考え込むように顔をしかめたが、すぐに明るい顔をした。「成長した後の生活と繁殖の場所だね」

「そうです。トンボのように変態する前が水生生物なら川辺で繁殖するのでまだいいでしょうが、ハリガネムシの最終的な宿主にはカマキリやカマドウマなど水辺に縁のない生物もいます。そのままだと成長して宿主から外に出ても、そこは陸の上です。干からびて、文字通り針金のように硬い屍を曝すことになります。寄生虫とはいえ、そこは水生生物の性ですね」

「だったらハリガネムシはひどく運任せの一生を送ることになるね。カマキリやカマドウマみたいな陸上生物に宿主が捕食されないように祈らないといけない」

 黒崎はおどけたように、それでいてそんなこと微塵も思っていないような声でそう言った。

「もしそうだったらハリガネムシはすでに絶えてますよ、きっと」

「まあ、そうだろうね。当然、そうならないシステムがあって、そのなにかが『アリス』と同類ということなんだね」

 納得したように頷く黒崎に、めぐるも肯いてみせた。

「ハリガネムシは宿主にある種の命令をするんです」

「命令? カマキリに食べられるなって命令するのかい?」

「さすがにそんなに具体的な命令は無理ですし、内容も違います。命令というのも少し言い過ぎました。それでも宿主の行動を誘導することはできるそうです」

「行動を誘導って……もしかしてきみが無動状態になることと関連づけてるのかい?」

 驚く黒崎を手だけで押し止め、めぐるはハリガネムシの話を続けた。

「ハリガネムシは成長を終えると、ある種の物質を宿主の脳に流して水に強く反応するようにさせます。そうなると陸上生物でも水辺へ引き寄せられ跳び込みます。自分の意思なのか、そうでないのかわからないままに。そしてハリガネムシは見事水中の生活に戻れるわけです」

「にわかには信じられない現象だね」

「ですが、山の沢などにカマドウマやカマキリの死骸が不自然に多いことは知られていますし、ハリガネムシが寄生している宿主の脳には、普通ではありえないある種のタンパク質が発生していることも論文で発表されています」

 めぐるは完全に話を終えると黒崎の反応を黙ったまま待った。おそらく黒崎は混乱している。情報を整理して、色々な可能性を洗い出し、医師として納得のできる結論を出そうとしている。

 遺伝子の異常が原因である種の神経伝達物質がめぐるの体で作られているのかもしれないし、それこそ本人が気づいていないだけで解離性同一障害かもしれない。医学的な肉体的、精神的異常をまず医師としては考えなければならない。

 だがめぐるは、完全に解明されているわけではない現代医学に拘泥するほど黒崎が狭量だとは考えてはいなかった。それくらいには二人の間に信頼関係があると思っていた。しかし、それでも『アリス』を彼が認めるのは難しいだろう。そのことは想像に難くなかった。

「つまり『アリス』とかいうわけのわからない生物に寄生されて、行動を誘導もしくは操作されているときみは認識しているわけかい?」

「生き物かどうかもわかりませんけどね」

「だったら狐憑きとか悪魔憑きだとでも?」と黒崎は冗談めかして言う。

「ああ、それ。すごくわかりやすいですね。今度からはそう説明しますよ」

 次があるとは思わなかったがめぐるが感心したように言うと、黒崎は呆れ果てた顔をした。

「それじゃあ一発で狂人扱いだ。ハリガネムシの方がまだ説得力があるよ」

「でも悪魔憑きっていうのは言い得て妙ですね。自分の欲望のままにふるまう。自分の欲求を探求し続ける。まさに悪魔にそそのかされた人間そのものですよ、わたしは」

 黒崎は真面目な顔で首を振って、めぐるの言葉を否定した。

「それを言うなら悪魔にそそのかされない人間は、今の世界じゃ生きていけないことになるよ。努力は欲求の先にあるんだからさ。したい、やりたい、なりたい、そういう願望もそのために行う努力も、悪魔の囁きの結果だよ。天使の教えを厳格に守っていたら、それこそ機械のように感情を捨てて生きていくしかなくなる。知恵の実を食べた以上、それは無理なことだよ。それはきみだけの話じゃない。人間社会全体がそういうものの上にしか成り立たないんだ」

「でしたら、人類みなそろって悪魔憑きですね」

「とはいえ、きみの『アリス』ように顕在化しているとは思わないけどね」

 めぐるは眉を寄せて、険しい顔をつくってみせた。

「慰めてるのか、貶してるのか、いったいどっちなんです?」

「どちらでもないよ」黒崎は苦笑しながら言った。「そもそも悪魔は人間の欲望を擬人化したもので、さらに外部装置として扱うことで、行き過ぎた欲望を自分以外のなにかに擦りつけるためのものだからね。本来、善も悪も全部自分の中にあるものだ。別の誰かのものじゃないし、他の誰かのせいでもない」

「それは正しいことだと思います。それでもアリスに関してだけは話が別です」

 めぐるが断言すると黒崎は困った顔をして手を組み、再び考え込んだ。

 話しているめぐるでさえ荒唐無稽だと思っていた。容易に信じられるものではない。ただ黒崎以上に信頼できる医者がいないのも事実だった。医者である前に大事な友人でもあった。

「ほんとうに信じがたいことだよ」黒崎がぽつりとこぼした。「自分以外のなにか? 解離性同一障害でもなければ統合失調でもない。非定型でもないし、他の精神疾患でも神経の病でもない? 信じられないよ」

 黒崎はソファの背もたれに身体を預けると天井を仰ぎ見た。その焦点は別の何かを、もっと遠くの空を眺めているようだった。

「でもわかってはいるんだ、きみがそういう病にかからないだろうことは。抑圧を払い除ける精神力があるし、そもそも抑圧されるような立場に陥らないように努力するタイプだ。生まれつきの狂人だとも思えない。もしきみが狂人ならもっと強かで狡猾になる。医学部を諦めるような演技をする必要もなかった。そう、わかってはいるんだ。よく、知ってるんだ……」

 黒崎は重々しい雰囲気で自問自答を繰り返し、最後には深い、深いため息を吐いた。

 めぐるはもう一度黒崎の向かいのソファに座った。わずかに残っていた少し温くなった紅茶を一気に飲み干した。そして黒崎の名を呼んだ。

「黒崎さん」

 黒崎の目はまだ茫然としたままだった。信じられない気持ちと信じるしかない気持ちのせめぎ合い。医学の常識ではない、これまでとは違う意味での混乱が彼の頭の中で起こっていた。

「黒崎さん、これはなんですか?」

 黒崎の眼前にめぐるは自身の右手を差し出した。

「……カッターナイフかい?」

 その言葉にめぐるはうなずくと、めぐるは反対の左腕の袖をまくって、ティーカップの上にかざした。そしてカッターナイフの刃を押し出し、その刃をそっと左腕に当てた。手首より上の、前腕の柔らかい部分だ。

 黒崎はまだ、めぐるがなにをしようとしているのかわからなかった。だがかつてのめぐるには日常的な行為だった。

 めぐるは戸惑うことなく腕の肉を切りつけた。褐色の血が夥しくあふれ出し、腕を伝ってティーカップの中に注がれていく。

 その流血を目の当たりにして黒崎は瞬時に正気に戻った。そこはやはり医者なのだろう。

「なにをしてるんだっ!」

 彼は勢いよくソファを立ち上がった。そしてネクタイを緩めながらめぐるの方へ近づく。そのままソファとテーブルの間にひざまずいた。まるでめぐるを崇めるように黒崎は見上げる。

「腕を貸して」

 黒崎は有無を言わせずめぐるの腕を取り、肘の辺りをネクタイできつく縛った。

「心臓より上に上げて」

 しかしめぐるは首を振って、黒崎のその言葉に従おうとはしなかった。

「早くっ!」

 めぐるは久しぶりの感覚を思い出し、こんなに痛かったかなと少し後悔した。もう少し浅く切ればよかったとさえ思った。習慣性のことをすっかり忘れていた。痛みだって慣れるのだ。

 携帯電話を取り出した黒崎にめぐるは平然と断った。

「大丈夫よ、このままで。救急車も呼ばないで」

「そんなわけにはいかないっ。死にはしなけど早く縫合しないと」

「わかってるから。本当に、なんともないから」とめぐるはなだめるように言った。

「それは病人が最初に言う言葉だよ。こんなに血が出る怪我で口にする台詞じゃないっ」

 慌てふためく黒崎を見て、自殺まがいの行為を眼前で見るのはさすがに医者でもなかったか、とめぐるは逆におかしく思った。そして冷静に黒崎の表情を観察してみた。やはり滑稽だった。

「本当に大丈夫だから。ほら、見て」

 そう告げて、めぐるは自分のハンカチで傷口の血を拭き取った。そこには小さな傷しかなかった。どう考えても流れ出た血の量と矛盾していた。

「ど、どういうことなんだい?」

 狼狽する黒崎に、めぐるは肘に巻かれたネクタイをほどきながら言った。

「ごめんなさい、驚かせるつもりじゃなかったんだけどね」

「つまり、僕を騙したのか?」

 血糊を使ったトリックだと黒崎は思ったようだ。彼にしては珍しく、憤然とした声音だった。

 めぐるは首を振ってそれを否定した。

「もう治ってきてるのよ。もう一度見て。ほら、すっかり傷跡が消えたわ」

 ネクタイを返して、めぐるは再び血を拭った。

 黒崎は唖然とした。たしかにあったはずの傷が痕跡すら残さず全く消えていた。肌理こまやかな白い肌だけがそこにある。どす黒いのハンカチには瘡蓋すら付着していなかった。

「これがアリスの証拠。わたしには怪我すら許されないみたいなの。むしろこれがなければ、わたしだって脳や神経の障害、精神疾患を疑ったかもしれない」

 黒崎は力なく、絨毯の上にへたりこんだ。

 ティーカップに満たされた血は本物だった。嗅ぎ慣れた酸化鉄の臭いが次第に強くなる。生々しい粘度と徐々に黒ずむ赤。だがその源となった傷はない。ただ大量の血液だけそこにある。

「頭がどうにかなりそうだよ」

「それでもバケモノだと罵って、わたしを見捨てたりはしないでしょう?」

 そう言ってめぐるは黒崎の手を優しく取った。

 めぐるにとってそれは確信だった。信じてくれることも、助けてくれることも。

 めぐるの嫌いな、倫理感の強い医師として面が黒崎にはあった。でも今はその資質を利用すべきだった。ここまで知ってしまえば彼は逆に断れなくなる。泥沼にはめたようなものだ。

「だから僕なのかい?」

「一般の研究員たちにしっかり研究して欲しい。でもその研究対象がわたしだということは知らせたくない。当然、真実を知るまとめ役が必要になる。それを黒崎さんにして欲しいの」

 黒崎は静かに首を振った。

「研究医たちのトップに、臨床医の僕が座るのは不自然だよ」

「情報の統括と調整が中心だから大丈夫。信頼できるようになれば、各部の長にはある程度の秘密の暴露も構わないし、多少なら現場の研究員たちにも話せばいい」

「それでも全部、とは言わないんだね」

「枝葉の研究なら対象の細胞だけ見てても問題ないわ。それなりの成果が出ると思うの。でも、いつかは各研究の成果を統合しなければいけない時期が来る。調べたいのは根幹であるわたし自身のことなんだから。単なる細胞の研究じゃなくて、人間の研究なの。必然的に部長級の全体会議を開く必要がある、それも定期的に。その部長たちが研究の全体像を理解していないんじゃあ、大した成果は導けないでしょう?」

「それはそうだね。目的が曖昧だと研究は上手くいかない」

「黒崎さんに厳守してもらいたい秘密は、研究対象となる人間がわたしだってことだけよ」

 黒崎は床からよろりと立ち上がり、もう一度めぐるの対面のソファへ向かった。その足取りいささか頼りなく、苦悩している様子が誰にでも見てとれるようなものだった。そして脱力するようにソファに座った。彼の身体が柔らかなソファに沈み込む。背中を丸めた彼の表情は、少しだけ老けたようにみえた。

「僕にできるのは、せいぜい君の主治医になることくらいだよ」

「秘書もつけるし、単純な事務仕事はほとんどないわ。会社の運営も経営も専門の人間を雇うし、赤字でも問題ない。多少はわたし以外の病気やなんかも研究しておいた方が外聞はいいけど、それはまあ、あとで考えましょう」

「つまり僕がやることは――」

「すべての秘密を知ってる人間が現場のトップで差配してくれればいいだけ。私の名代よ」

「傀儡だと言われそうだね」

「現場も、専門知識のないわたしに直接命令されるよりはいいでしょう?」

「きみほど専門知識を持ってる素人はいないよ」

 黒崎は両手をパンツのポケットに突っ込んで、再び天井を見上げた。ぐっと背筋を伸ばす、というより仰け反るような姿勢で。

 彼がなにを考えているのかめぐるにはわからなかった。めぐるの視線から表情を隠すように彼は顔を背けていた。それでもこの話を断ることはないと思っていた。

 めぐるは三度、秘書を呼んでお茶を用意させた。血塗れのティーカップを一瞥した女秘書は一瞬、身をすくめた。しかしそれも本当に一瞬のことで、すぐにめぐると黒崎のティーカップを下げた。そしてロイヤルミルクティーを二人の前に置いて退室した。

「僕以外にこのことを知っているのは?」

 黒崎が不意に姿勢を正して訊いてきた。

「私だけね」

「つまり、僕しかいないのか」

「そういうこと」

 黒崎はまた黙り込んだ。結論はひとつしかないというのに往生際が悪い。こうした優柔不断さは鏑木との会話の中で笑いの種だった。

 めぐるは面倒なことだと思ったが、お茶を飲みながら、彼が結論を出すのをゆっくり待った。

「……わかった。引き受けるよ」

 黒崎がため息交じりに承諾の言葉を口にした。

「よかった。もし黒崎さんに断られでもしたら、途方にくれて泣くところだったのよ」

 そう嘯いてめぐるは笑った。

 ふとめぐるは妙案を思いついた。黒崎と咲との仲を取り持ってもいいかもしれない、と。

 それもひとつの鎖になるだろう。黒崎にとっても悪い話ではない。そして咲にとっても恋愛や結婚を実践できる環境を提供できる。

 黒崎も咲も歪んだ価値観の持ち主だが、二人とも好感の持てる人間だ。問題ない。



「結局、どの細胞からもとくに問題となるような遺伝子は見つかりませんした。菌やウイルスも検出できません。結果は健康体の細胞そのもので、いたって普通の人間です」

 研究所から上がってきた報告にめぐるは自身の目を疑った。愕然としたといってもいい。

「社長」

 報告に来た上級研究員がめぐるに呼びかけたが、彼女はまるで気づけなかった。

 問題がなにもない? 問題だらけの身体とアリスという意思を持つのに問題がない?

 半ば怒りにも似た感情が湧き上がると同時に、矛盾したように虚無感にも襲われた。つまり全くもって精神や神経の病なのかと。

「社長」

 研究員に付き添っていた黒崎が呼ぶ。そこでめぐるはようやく気づき平静を装って応えた。

「なに?」

「彼が聞きたいことがあるようです」と研究員を見ながら黒崎が言う。

「そう……なにかしら?」とめぐるは研究員に訊いた。

「この件に関しては質疑が許されていないことは承知していますし、念書にも署名しました。しかしこの細胞に着目した理由はなんなのですか? 研究が失敗した、成果が出ないだけならまだしも、まったく問題のない細胞から異常な部分を探せと言われましても……」

「つまり砂漠から砂金でも探すようなものだと?」

「それなら納得します。しかしこの結果では、もともと砂だけで作った砂漠で金を探せと言われているように感じられるのです。わたしだけではありません。少なくない研究員がそう感じています」

「そうなの?」

 所長である黒崎にめぐるは確認を取った。

「彼は性格が良いのでそう言っているだけで、現場の研究員は大半がそう思っていますよ。成果が出なければ、好奇心も満たせないですし、ついでに箔もつきません。好きに研究はさせてもらえているし高給です。設備も最新で、個人の裁量権も大きい。そこに不満を持っている研究員は皆無ですが、いわば金鉱脈ではなく砂場では意味がない、とも思っているわけです」

 なるほど、研究員の彼は言葉を濁してくれたわけだ。

 めぐるは研究結果が纏められた資料を眺め、ペン先でそれを二度、三度と叩いてみせた。周囲に強いストレスを与えることはわかっている。だが自分の動揺を悟られるわけにはいかない。

「あなた、遺伝子工学の専門家よね」

「はい」

 研究員は首肯した。

「当然、工学博士だから工学と理学の違いはわかるわよね?」

「現実での実現を目指すか、理論の追及をするか……ですか?」

 専門家としての経歴は彼の方が長いが、めぐるの実績の前では萎縮してしまうのだろう。自信なさげに答えた。

「そうね、工学は目的を重視し理学は手段を重視する。ただ、わたしは情報工学の出身だから余計にそう思うんだけど、工学っていう学問は、結局のところ人間が一から作り出したものだという意識が強いの。テイラー展開だって理屈よりその便利さが大事だし、遺伝子だって分子までしか見ない。ニュートリノを観測すればいいっていう問題じゃないけど、理学みたいに真理の追求まではしないわよね。もちろん理学だって十分人工的だという反論もあるでしょう。真理に一番近い数学ですら大衆的にはユークリッド数学だし、積分と聞けばリーマン積分になる。物理もニュートンに基づいてる。自然現象を人間が紙面上で扱えるように極めて便宜的な定義や式を与えてね。ここまでは、あなたにも異論はないと思う」

「はい」

「それでも理学はそうした便宜上の定義や式を、より自然現象に則したものに改定し続けるわ。それが目的だから。逆に工学はここまでで十分、っていうラインを引く。理論は手段でしかないし、そうじゃないと実用化の目途が立たないから。必要以上にお金を注ぎ込んで採算がとれない、では上から叱られるからね」

 上が国か上司かは勤務先に依るだろう。それでも研究者なら似たような経験があるはずだ。

 めぐるの言葉に研究員は重く答えた。

「よく、わかります」

「私にとって工学と理学の差は、利用する定義の水準をどこに定めるのかということなの。工学では現実で使える水準の定義で十分だとしています。その上、学問の枠を人間が決めます。情報工学なんて零から十まで人間が規定してるわ。一方理学では、理想的で高い水準の定義を採用します。定義をより真理に近づけるためです。常に定義や常識を疑っていると考えられます。学問の枠が自然の摂理ですからね」

 彼は直立不動でめぐるの話を聞いている。彼女が社長という立場でなければ、世界的に成功した研究者であり実業家でなければ、詭弁だとすら言われかねないことを言うつもりなのに。

「あなた方が普通の人間の細胞だと結論付けたことはひとつの成果でしょう。では、普通とはいったいなんですか? どのように定義されていますか? 統計的に大多数を占める、という意味ですか? あなた自身はどう考えてその言葉を口にしていますか?」

 研究員の顔が途端に強張った。黒崎は彼に見えないところで声に出さず苦笑していた。めぐるは黒崎に厳しい視線を向けてそれをやめさせた。研究員は額に脂汗をかいていた。

 普通というのは普通だ。みなが普通だと思う、ごく常識的なことだ。それ以外にどう言ったらいいものだろうか、と彼は考えていることだろう。普通、に疑問を抱くには彼は普通すぎた。よく研究所に入ったものだとめぐるは思った。彼女はもっと変人が集まると思っていたのだ。

「答えにくいようなので言葉を変えましょう。あなたの中では、どういう状態が普通だと定義されているのですか?」

「……異常が見つからない、ということだと思います」

「そうですね。異常のない状態――正しく普通、正常というものですね」

 研究員は胸を撫で下ろしたように息を吐いた。しかしめぐるの本題はここからだった。

「では、異常とはなんですか?」

 まるで禅問答だ。研究員は完全に顔色を失くし、固まった。

「普通ではない状態、ですか? それでは堂々巡りです。どうしたらいいと思いますか?」

「そ、それは……」

「それは?」

 めぐるは間髪入れずに問い返す。極めて高圧的で、威圧感を与える話し方だった。だがその声自体は優しく、その矛盾が奇妙だった。

 黒崎の表情が再び崩れそうになったのをめぐるは見咎めた。よほど奇異に見えたのだろう。

 めぐるは研究員の胸元についていた名札に目を向けた。そして黒崎と初めて出会った時のことをふと思い出した。黒崎の名前も書店の名札で知ったのだ。

「小暮さん、あなた方には常にそれを考えて研究して欲しいのです」

「異常の定義、ですか?」

「その通りです。普通とは異常のない状態、つまり余事象的なものです。しかし異常というのは無数にあるはずです。人が認識している異常もあれば、人には認識できない異常もある。異常が認識できなければ普通というのは暴論でしょう? 限界を自ら定めているようなものです。理学のように真理を探し、常識を疑いながら、その細胞の研究して欲しいのです」

 研究員の表情は優れない。いったいどうすればそんなことが可能なのか。そんなこと言われてもそもそもできるはずがない。仲間にどう伝えようか。そんなことを考えて、葛藤しているのだろう。最新設備だって、そのほとんどが既存の知識を基盤としているのだ。

「秘匿事項なので黒崎以外には伝えていませんが、まあ、いいでしょう。少しだけ情報を開示します。本人の了承も、なんとか下りるレベルです。砂場だと思われても困りますので」

 研究員はそれこそ飛び起きるように、顔を上げた。

「あなた方がいたって健康だと思っている細胞の持ち主は、明らかに異常を抱えています。ぱっと見では普通の人間と変わりませんが、極めて特異な体質の持ち主です。『彼』は誰にも秘密を打ち明けたくはありませんでした。同時に真実を知りたいという感情もありました。その二律背反の末、私が知るに至ったのです。そしてあなた方に研究をしてもらっているわけです」

「しゃ、社長はその人の症状を知っているのですか? いったいどんな症状なんですかっ?」

 研究員は噛みつかんばかりの勢いでめぐるに問うた。しかしめぐるは首を振った。

「これ以上はさすがに明かせません。ただ砂漠に砂金が紛れていることは事実です」

「そ、そんなっ。それがわかれば研究の方向性も定まるというのに……」

「ならばその人の信頼を掴むしかありませんね。現状では明かせないというだけです。事実、黒崎はすべて知っています」

 振り返り、黒崎を見つめる研究員に黒崎は首肯した。

「まさか、黒崎所長の患――」

 研究員の言葉を遮り、めぐるは言った。

「まだ若い、しかも臨床医にすぎない黒崎が研究所の所長だということに不満があると聞いています。しかし彼である必要があるのです。理由は、まあ、あなたの想像に任せます。ただし口外しないように。それから、症状を告げない理由は他にもあります」

 研究員は口を噤んで、顎を引いた。真剣な表情でめぐるを見た。

「症状を知れば、いらぬ先入観を持ちます。それでは謎を解き明かせない可能性があります。この研究はあらゆる手段と閃きで完全に解明したいのです。ひとつに注力するのではなく、全方位的に研究して欲しいわけです。この研究所の目的は、工学的な研究ではなく理学的な研究です。採算を問わない理由でもあります。あなた方にはどこまでも広く深く追求して欲しいと考えています」

「なるほど、そういうことでしたか……わかりました」

 おどおどしていた彼の顔はすでに研究者らしいものに変わっていた。無駄な詮索をしない、その上で好奇心と探究心が強く、自分のやるべきことを弁えている。信用できそうな男だとめぐるはようやく理解できた。早く研究所に戻りたいという意思が彼の瞳には宿っていた。

 彼と話していて黒崎の研究員を選別する目を疑ってしまったのは、どうやら早合点だったようだ。それと同時に、面接官として手伝って貰った咲に対して申し訳なく思った。

 彼を退室させると、居残らせた黒崎にめぐるは訊ねた。

「さすがですね、彼を採用するなんて。一見だとまったく優秀そうには見えないもの」

「本当は不採用のつもりだったんだ、僕は。ただ妻が」

「咲が?」

「そうなんだ。彼女が採用するように強く言ってね。僕も半信半疑だったんだけど、仕事に関しては君の要求を十分に満たしてるよ。ただ、それ以外がぱっとしないのもたしかだけど」

「でも悪くなかったわ。咲によろしく伝えておいて」

「わかったよ」

 本当に彼女の人の本質を見抜く能力はたいしたものだとめぐるは思った。

 自分が理解できないことに関して人は貪欲に知ろうとする。人の感情を上手く理解できない咲には面接官は天職かもしれない。国文学者なんてやめて、転職すれば世界的に成功しそうなのにもったいない。

「それにしても、『彼』かい?」と言って黒崎が苦笑した。

「それ以外に嘘は言っていないから問題ないでしょう?」

「遺伝病や発病率は男女でけっこう違うから問題にならないとはいえないよ? たぶん自分とは無関係ってミスリードさせようとしたんだろうけど、遺伝子レベルで調べられてるんだから性別なんて誤魔化しようがないよ。染色体の形状なんて最初に区別がつくって、それこそ普通の人だって気づきそうなのに」

 少しだけ呆れたように黒崎は言った。しかしめぐるには心外だった。

「たしかにお粗末でした。それは認めます。でもショックで頭が回らなかったんですよ。むしろあそこまでよく丸め込めたと褒めてもらいたいぐらいです。それなのにそこまで辛辣に言いますか?」

「きみに対する期待値が高すぎるんだ。信頼の証だよ」

「これでも結果に意気消沈してるんですから、慰めてくれてもいいじゃないですか」

 めぐるが冗談まじりに言うと、黒崎は微笑を浮かべながら首を横に振った。

「他の女性に優しくして妻に怒られたくないからね」

「咲がそんなこと言うはずありませんよ」

「たぶん、まあ、そうなんだろうけど……でも、だからこそ逆に怖いんじゃないか」

 きみはまるでわかっていない、とばかりに黒崎は肩をすくめた。

 たしかに夫婦の機微というのは、ほぼ片親で育ち、未婚のめぐるにはよくわからない。それでも咲のことはわかっている。少なくとも朴念仁の黒崎よりも。そして世界の誰よりも。

「咲なら本当に怒らないわよ。浮気くらいなら笑って許すと思うわ」

「それこそ怖いよ」

 黒崎は身をすくめて、震えあがった。

 しかしめぐるはその点に関して確信を抱いていた。咲はきっと浮気する夫の感情をつぶさに観察することだろう。妻にばれているかどうかという疑心暗鬼、気まずさや後ろめたさ。ばれた後の非論理的な言い訳や、下半身の衝動。浮気なのか本気なのか。恋なのか愛なのか。

 いっそ結婚生活におけるすべてのイベントを起こしてもらいたいと彼女は潜在的に望んでいるかもしれない。浮気も、浮気相手からの別れて欲しいという苦情も。ひとつひとつが観察すべき事象だ。上辺はどうであれ、そうした状況を彼女は嬉々として受け入れるだろう。黒崎とその浮気相手がかわいそうになるくらいに。

「もうすぐ咲も妊娠五ヵ月ですよね?」

「そうだね。大学から産休を貰う手続きも終えたって咲さんも言ってたよ。義父母たちも喜んでるよ。女の子の孫は初めてだからね」

「とはいえ、そろそろ男性としては浮気したくなる時期じゃないですか? うちの研究所は女性も多いですし、立場も悪くない。黒崎さん、選り取り見取りですよ」

「だから、冗談でもそういうことを言わないでよ。咲さんが本気にしたらどうするんだい?」

「そのときは咲と一緒に問い詰めますよ。根掘り葉掘り、どういう風だったのかって」

「性質が悪いよ。本当に、きみは」

 本当に性質が悪いのはあなたの奥さんよ、とはめぐるも言わない。

 めぐるは笑って黒崎に退出を促した。

「もう遅いし、ここから直接帰宅してください。咲も大学から戻ってる頃ですから」

「ありがとう。でもまだ仕事が残ってるんだ、いったん研究所に戻るよ」

「職場で行為に至らないでくださいね?」

「しないっていうか、違うから」

 めぐるの冗談に黒崎は笑って出て行った。

 夫婦仲がよくてよかったと仲人を勤めためぐるはそう思った。


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