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・あらすじ(投稿時のもの)

人魚病という奇病が流行し、世界中で多数の死者がでた。

人魚病で母を亡くした桐原めぐるは大学入試を三回も失敗する。原因不明の不動状態になるためだ。彼女の異常はそれだけではなく、怪我も早く治り、病気にもならなかった。その謎を解明したくて医学部を目指し、挫折した。

結局、情報工学の道を、自身の謎を追及できないまま大学院まで進んだめぐるは、バイト先の上司から天啓を得る。売れない専門書を取り扱う書店の上司だったが、実態は貴重な文化を伝えるため、本業とは別に趣味で書店を営むオーナーであった。

自身で解明できなくても、資金があれば解明させることはできる。彼女は起業を決意した。幸い専攻した情報工学も起業に向いていた。

企業は成長し、めぐるは研究所を開設した。自分のためだけにある研究所だ。世界中から研究にしか興味のない人間を集めた。めぐるは自身を異常だと認識、秘匿すべきだと考えていた。だから自分で解明しようと足掻いてきた。そして彼女は会社の女帝になった。

長年の研究の末、めぐるの体細胞には、他の細胞に擬態する性質があるとわかった。むしろその細胞が彼女の細胞を擬態しているかもしれない。

めぐるは自分が人間かどうかで悩むも、研究を凍結せず謎を解明することにした。

擬態細胞の特徴は細胞のコピーだ。めぐるは知らず不老長寿になっていた。

そんな折、唯一の親友が病に倒れる。めぐるの体を使うことでしかその治療の研究ができないことを知り、彼女は自分の立場を危険にさらすことを決意する。

果たして、世界中にめぐるの細胞が知れ渡り、彼女の危惧通り、世界の監視下で研究されることになった。

後年、元研究者が私見を伝えた。めぐるの体は人魚病の結果だと。絶滅の危機にある病原菌たちの箱舟だと。

めぐるは自分の死を考えた。死ぬのはきっと人類が滅んだ後だ。

たくさん見取った。だから誰にも知られずに死ぬことをめぐるは寂しいと思った。

 序章 乗り越えられない壁、大人と永遠の少女



 その日、正午のテレビニュースでは、例年のように国立大の入学試験の様子が映し出された。

 受験者数の推移や大学へ試験に行く学生の姿が報道される、いつもの内容だ。

 ただその年の報道は、いつもとは明らかに扱いが違った。事件性をもって語られていた。

 受験生の一人が国内最高学府で前代未聞の不祥事を起こした、とアナウンサーが言った。

 建造物侵入と判断されてもおかしくない、とキャスターが追って言う。

 大学の自治権に阻まれ、上手く取材がいっていないのだろう。ある受験生が試験の前日から大学構内にいたという話が他の受験生から漏れただけで、大学側はなんの会見もしていない。建造物侵入も訴えてはいないし、そんな受験生がいたことさえ情報として流そうとしなかった。

 しかしテレビの中の人々は憶測だけで、好き勝手に言う。テスト問題でも盗もうとしたのかとか、どうとかこうとか。

 社員食堂でその報道を見ていた桐原めぐるの父は、直感的に娘のことだとわかった。

 そしてもう娘にはそんな手段しか残っていなかったのだと不憫に感じた。そしてニュースの内容に憤りを覚えた。精神的に疎遠にはなったが自分の娘のことだ。気に掛けない訳がない。

 これだけ話題になったということは、娘の企みは失敗したのだろう。そう思うと切なくて悲しくて、そして遣る瀬なかった。



 なりたいと思うことと、実際になれることの間には大きな隔たりがある。

 桐原めぐるにとって医者になることは、なりたいと目標に抱くことであり、ならなければいけない責務であり、実際になれるだけの学力的な能力を備えることだった。

 そして彼女自身、その全てを十全に持っていた。

 なりたいという気持ちには三つの段階というか、種類があるように思う。漠然としたまま終わる夢と、片手だけでも届くような目標と、努力の末に確実に掴み取れるだけの確信と。

 なれたらいいなあと考える程度の人間は、たとえ片手が目標に引っ掛かっても、そこからよじ登ることができない。目標と確信という、近くて遠い断絶した狭間で心が揺れ動く。

 残念なことに人間の意志は弱い。このくらいでいいや、運がよければきっと、などといって手を抜き出すのだ。確実になれるという感触が得られるまで努力し続けなければ、夢を現実に変えることはできないというのに。希望的もしくは楽観的な意思の元では目標の成就はない。

 しかし桐原めぐるにとって、試験で高得点を出すことはそれほど難しい問題ではなかった。

 彼女は間違いなく、医学部に受かるだけの努力をしてきたし、首席で受かる自信も持っていた。当然、周りの誰もがそうなるものだと信じていた。


 三度目の冬は例年よりも寒く、都心ではしばしば雪が積もり、交通網も麻痺を起こした。

 その日も当然のように粉雪がちらつき、冷たい風が骨身にしみた。

 東亰大学の医学部の受験を翌日に控えた夜、桐原めぐるは試験会場の入り口付近に隠れていた。古着屋で買ったダウンジャケット二着と、ぼろぼろになった毛布を数枚と銀色の断熱シートを持って。彼女は風が遮れそうな場所を探すと、そういったものに身を包んで夜を明かすことにしていた。

 真冬の夜だ。最低気温は零度を下回る。凍死する可能性だって十分にあった。眠ってよいのかどうかさえわからなかったが、彼女にとってはこれは最後の賭けだった。

 一度目の失敗は偶発的な事故の可能性を考え、二度目の失敗で確定した事実だと認識した。ならば三度目はそれらを前提に動くしかない。

 これまでと同じことをしていては、同じ結果を繰り返すことは目に見えていた。なにかを変えなくてはいけない。そうした気持ちがめぐるには強くあった。我ながら短絡的だと彼女自身呆れもしたが、一番わかりやすく、直接的な変化だと思って行動に移したのだ。

 二浪目の冬はまさに三度目の正直であり、人生の目的を諦めるかどうかの試金石だった。

 めぐるには医師として抱くべき高尚な理念は持ち合わせてはいなかった。病人を救うことは否定しない。それは医師としての当然の義務だ。名誉が目的でもない。もちろん金儲けに走るなら他の職を選ぶ。ただ、極めて個人的な好奇心が、医師としての道を彼女に選ばせていた。

 寒さに震えながら、睡魔と闘いながら、めぐるは一夜を過ごす。受験日の前夜ということもあって、教職員や学生の姿はなく、学内はひどく閑散としていた。学舎の中も、非常灯の幽かな青白い光が漏れ出すばかりだ。普段は深夜まで煌々としているはず研究室の名残も今はない。

 常時稼動しなければならない機械があるのだろう。その音が遠くの方から地鳴りのように響いていて、それだけが大学の普段の息遣いをめぐるに教えてくれていた。

 二十歳になっためぐるにとって三浪という考えはなかった。二十歳を越えれば大人だ。大人と子供の境界線がどこにあるのかわからないし、誰もそれを証明することできないだろう。それでもめぐるは、十代からの脱却というのはきわめて大きい区切りであり、そこには隔絶した差があると考えていた。絶壁の崖や壁があると言い換えてもよいかもしれない。だからこそ大人は大人なのだし、大人たらねばならない、それこそ完全に。

 彼女の見てきた多くの大人は、大人の皮をかぶった子供だった。心の中に数多くの棚を持ち、姑息な言い訳や蒙昧な信念を口にする。さらに呆れるべきは、それを免罪符にする人がとても多いことだ。子供よりも性質が悪いとめぐるは思っていた。

 子供はときに残酷だし、理想主義で潔癖だ。大人は社会を知り、妥協と自身を誤魔化すことを覚える。諦めが肝心なのだと、そして仕方がないと自分に同情をして、現状を守ろうとする。

 大人は単に年を経た子供であってはいけない。完璧な大人というものに脱皮することこそ、子供の頃から、めぐるが心に決めていた事だった。

 二浪した時は十九歳だった。しかし、今はもう二十歳だ。つまり大人に生まれ変わったのだ。

 自らの責任は自分で負わなければならない。その上で確固たる信念と理想を貫き、どんなに回り道をしても目的は達成する。自分に同情して諦めるような無様な人間にはなりたくなかった。たとえその結果が、他人から見てどれほど惨めであっても。

 浅い眠りと覚醒を繰り返しながら、めぐるは朝日が昇るのを待つ。

 医者になるということは、めぐるにとって使命と趣味とを高度に融合させる絶対の職業だった。今年こそ合格しなければならない。その意思がめぐるに真冬の野宿を決意させていた。

 吹き荒ぶ風音を悪魔の子守唄のように聞きながら、めぐるは不意に幼い頃のことを思い出した。当時、寝しなによく読んでもらった人魚姫の話だ。泡となって消えてしまう人魚姫を仲間たちはいったいどう思っていたのだろう。馬鹿な娘だと思ったのだろうか。哀れな娘だと思ったのだろうか。人魚姫の自己満足と受け止めるか、王子へ純粋な愛と受け止めるか。

 このまま自分が死んだら、どうなるのだろうかとめぐるは思った。

 大学入試が中止されることはないだろう。たった一人のために年に一度の試験をふいにすることはできない。馬鹿な人間がいたと思われることだけは間違いない。はた迷惑な人間がいたとも思われるだろう。逆に、哀れに思う人はほとんどいないだろう。それこそ身から出た錆、自己責任だ。他人に迷惑をかける、最低の行為を行っている自覚がめぐるにはあった。

 自身が取り得ることのできる最善の策だったとしても、他人にはそれが理解できない。それこそ遺書に、そこへ至るまでの考えを書き連ねて懐に仕舞っていたとしても、それを他人が理解することは不可能なのだから。

 だんだん白くなっていくビルの際。それを認めて、めぐるはぐっと手を握り締めた。自分の思うように拳に力が入る。勝ったと思った。今年こそ試験を受けることができる。

 日の出とともに、気温はぐっと下がる。身を切るような冷たく張り詰めた空気がめぐるの頬をちりちりと撫でる。

 そして昇りゆく冬の弱々しい太陽を見つめながら、めぐるは徐々に意識を失くしていった。

 気づいたのは保健室のベッドの上だった。試験開始の時刻はとうに越えていた。しかしまだ間に合う時間だった。残りの試験で満点を狙えばいい。めぐるはベッドから起き上がろうと力を込めた。しかしその力はどこにもなかった。意識ははっきりしている。だというのに身体が動かない。まるで神経回路が切断されているかのように、身体を失ってしまったかのように。

 手を握り締める。しかし朝のように拳の形を作ることはない。ただ指先が震えるだけ。

 今年もだめか。めぐるは素直にそう思った。こうなることは半ばわかっていたことだ。

 悲しくない、悔しくない、辛くない。

 そんなはずはなかった。じくじくと胸の奥が疼く。

 それでも医学部を受験できないという事実を、めぐるは受け入れるしかなかった。自分はそういう人間なのだと。たとえそれがどれほど理不尽で理解不能な現象であっても、自分の身体が原因なのだから。

 だからといって諦観することも、自分に同情することも許さない。事実は事実として認める。そうしなければ次の手を打つことすらできない。手段は違えど目的は果さなければならない。

 それが正しい大人のあり方だとめぐるは思っていた。






























 第一章 人魚の苦痛と医者



 本当に幼い頃――二歳か三歳の頃か――桐原めぐるは人魚姫の話が好きだった。

 映画のせいかもしれないし、絵本や童話のせいかもしれない。

 最終的には悲しい結末を迎える物語だが、そもそも児童文学というのはそういうものだろう。なかなかハッピーエンドで終わらない。一貫して人間の業が描かれている。幼子に読ませる本に教訓めいたものが多いのはなぜだろう。倫理的な教育を大人が求めているせいだろうか。

 人魚姫は人間の王子に恋をし、人間になる代償にその美声を失い、最期は命まで捧げる。悲恋なのか悲哀なのかはわからないが、めぐるは幼心に訳のわからない悲しみに襲われ、よく泣いたものだ。

 自己犠牲の人魚姫が悲しく、その愛情に気づかない王子に対して強い苛立ちを覚えた。

 だから成長して王子側の事情を慮るまで、王子に対するめぐるの印象は最悪だった。それでも人魚姫の話が好きだったことはめぐるにとっても不思議なことだった。喜怒哀楽の全てが満たされ、他にはない後味の悪さが逆に良かったのかもしれない。

 日本にも人魚の伝説があるのよ、と教えてくれたのはめぐるの母だった。当時のめぐるはその話を母にせがんだが、母は笑って誤魔化し、内容を教えてくれることはなかった。その理由は結局わからず仕舞いになってしまったが、めぐるはしばらくの間、日本の人魚に対して不思議な憧れを抱いた。

 しかし幼い頃にどれほど強い興味を持っていたものでも、成長するにしたがって薄れていく。

 めぐるの人魚への興味も当然のように薄れていった。小学生になった頃には、そんなものが存在しないことを理解したからだ。もし人魚が存在すれば水族館にいてもおかしくないし、人類の一種なら普通にテレビに出ていてもおかしくない。あえて人魚として挙げるとすれば、マナティやジュゴンといった海生哺乳類だった。そこには憧れも悲しみもなかった。

 知恵づく頃になると、人魚姫の自己犠牲が自己憐憫にさえ見えるようになった。王子への苛立ちが、ついには人魚姫にも感染してしまった。

 本当にあの行為は愛なのだろうか。めぐるには、愛がなんだか奇妙なものに思えた。

 だからめぐるは日本の人魚にまつわる話を母から聞かなかった。人魚に対する興味もなくなっていた。日本の人魚伝説の話そのものを彼女は忘れていった。

 そうしているうちに、めぐるは母から話を聞く機会を永遠に失ってしまった。



 多くの病が世界中で流行する。それは人間だけでなく動物も植物も同様で、さらにいえばもっと微細な生物に至るまで、病というのは生きる上で語らずにはいられないものだ。とても小さい世界で発生する生存競争だ。しかしその影響力は下手をすれば生態系さえも左右する。

 面白いもので、感染者の全てが発症するわけではない。細菌やウイルスを媒介するキャリア自身が発症する場合もあれば、発症しない場合もある。風邪の細菌やウイルスを保持しているからといって、周囲にばら撒くだけばら撒き、自分はなんともない感染源というのはなんとも性質が悪いが、当人に罪はないだろう。本人は気づいてさえいないのだから。

 病原体にしても、種を繁栄させることが目的であり、人を苦しませたり、殺したりしたいわけではない。現在の病死の多くは、遺伝子異常や幼児期や老年期の抵抗力不足に起因する。

 病原体からすれば、外れ籤を引いた気分だろう。自分たちの住処が欠陥住宅なのだから。

 そういう意味では、無自覚で、無症状の感染源となる健康な宿主はありがたい存在だ。病原体も自然の一部であり、人間と共生しているのだ。彼らも、人間の負担にならないような進化を模索しているのかもしれない。

 だから致死率の高い病は本来、人類には縁のなかったものなのだろう。森の奥地など人間いない場所で、ほかの動植物が織り成す生態系の中にひっそりと組み込まれていたに違いない。

 だが人間は未踏の大地を切り開く。そうして原始の病原体が初めて人類に遭遇した時、なにが起きるか。病原体が消えるのか、人類が消えるのか。

 もちろん互いに無視し合うこともあるかもしれない。だが、しばらくの間は生存競争が起こるだろう。初めから共生できるはずがない。人類を新たな宿主とするには時間がかかるのだ。

 上手くいけば彼らは、人間にとってまったく無害な存在になる。多少有害な存在でも、死なない程度の共生なら世の中に無数とある。彼らは多岐にわたる進化を、試行錯誤を行うのだ。

 だから大抵の人間は病に罹る。熱が出て、咳が出て、血が出て。それは病原体の努力の跡なのだ。症状は千差万別だが、苦しいことが多い。生涯に渡って一度も病に罹らない人間はおそらくいないだろう。


 それでもめぐるは、生まれてこのかた病気になったことが一度もなかった。めぐるという少女はどんな極寒の地で水浴びしても体調すら崩さない。熱帯地方で伝染病が流行していても彼女だけは無事だった。

 知恵熱すら出したことがなかったとは母親の言葉だ。

 そんなめぐるが小学生の頃、突然、未知の病が世界各地を襲った。

 当初、非常に毒性の強いインフルエンザが世界的に流行したと考えられた。それはまったくの突然変異で、ワクチンは的を外して役目を果さず、従来の薬も効かなかった。患者自身が発する高熱と免疫だけが頼りという、はなはだ心許ない状況が世界中で起こった。

 それでもウイルスの形は、まさにインフルエンザだった。そして症状も高熱や咳といったものだった。問題はその症状が重いうえに、感染力も異常に強いことだった。

 誰もがまったくの新型インフルエンザだと思った。不思議だったことは、これまでとは違って、人間を宿主にするつもりがないのか、致死率が極めて高かったことくらいだ。

 だからその病気特有の症状に、初めは誰も気づかなかった。

 まず初めに気づいたのは、亡くなられた人たちの遺体を清める人だった。手足の水掻き部分に違和感を覚えた。次に研究医が、特に重い症状を発した患者の足の指がなくなっていることに気づいた。もちろん現実に指が消えたわけではない。足の指を横につなぐ様に水掻きが発達していた。手の指に比べて足の指が短いせいでそう見えたのだろう。

 遺体からウイルスや細菌を採取して、それを研究することはあっても、遺体の手足の指を広げて見るような医者はいなかったのだ。

 そしてインフルエンザとは似て非なる、遺伝子を侵す病だと結論づけられた。正式名称はひどく長く難しかったので、一般的には『人魚病』と呼ばれた。

 その感染力は本当に強く、医療体制の万全でない発展途上の国にまで拡散していたなら、小国の十や二十、滅んでいたかもしれないといわれた。死者の数が想定を多少下回ったのは、飛行機で人が行き交う先進国が感染地域の中心だったせいだと専門の研究機関が発表した。

 それを不幸中の幸いというべきかどうかは人によるだろう。

 なぜならめぐるの母親はその時に死んだからだ。めぐるが十歳の誕生日を迎える、ほんの一週間ほど前のことだった。

「めぐるに感染しなくてよかった」

 それが母の残しためぐるへの最後の言葉になった。

 母の急な死は小学生だった彼女には現実感のないことだった。葬式が一通り終わっても、茫然としていた。悲しいという気持ちすら感じなかった。そのまましばらく学校に通った。友達の中にも家族を亡くしたものが大勢いたし、友達自身が亡くなってもいた。泣き腫らした赤い目が教室のいたるところに見られた。

 それでもめぐるは母が死んでからまだ一度も泣いたことがなかった。父親は恥も外聞もなく、娘であるめぐるや親戚の前で号泣していたのに。

 愛していなかったわけではない。ただ母親がいなくなったのだ。仕事をしていた母は家にいる時間が少なかった。その時間がさらに減っただけだ。一生出張をしているのと変わらない。めぐる自身、家事は拙いながら一通りできた。寂しくはあっても、困ることはなかった。

 めぐるの母親が死んでから、しばらくの間は伯母が心配して顔を出しに来た。しかし、それも長くは続かなかった。

 悲しそうな素振りを見せないめぐるのことが可愛くないらしい。気味が悪いと父に言っているのをめぐるは聞いたことがあった。両親の共働きがいけなかったとか、愛情を掛けて育ててこなかったとか、感情が欠落する障害でもあるんじゃないかとか。

 自分は母に愛されていたし、今感じているのは確かに怒りの感情だとその人に言いたかったが、それでも母の死に対する悲しみは感じていなかった。

 父は仕事に没頭して、その悲しみを忘れようとしていた。母の面影をめぐるに見るのか、家に帰ってくるのはめぐるが眠った後だった。めぐるはそんな父親に頼るのをやめた。逃げるべきではない現実から、逃げようと思えば逃げられる夢の世界へ父は移住したのだ。

 めぐるはそのまま一年以上過ごして、小学校を卒業した。めぐるの父親も卒業式には出席していた。ただその卒業式に両親が共に揃っている家庭はとても少なかった。考えるまでもなく、人魚病のせいだった。

 明くる日、届いたばかりの中学校の制服を身にまとい、めぐるは独りで母親の墓前に訪れ、卒業の報告をした。それだけでなく色々な話を心の中で語りかけた。家庭を蔑ろにする父親に対する告げ口もあった。お父さんは子供だよ、と。いくらでも替えのきく仕事に逃げてるんだから。それは母に語りかけている風を装いながら、自分に言い聞かせている言葉だった。

 めぐるは母親の死に際の顔をしっかりと覚えていた。苦しそうな、申し訳なさそうな、それでいてほっとしたような表情だった。

 その表情がどんな感情から出てきたのか、めぐるには理解できなかった。

 自分が子供だからだとは考えなかった。大人になればわかるなどと安直に考えもしなかった。大人であるはずの父親に幻滅していたせいもある。だったら母親になればわかるのだろうか。

 そんなことを考えていると、唐突にめぐるは人魚姫のことを思い出した。本当に数年ぶりに脳裏に過ぎった。王子を殺して自分が助かることを拒絶し、泡となって消えていった人魚姫。そんな人魚姫の姿が、死んでいったときの母の表情と少しだけ重なった。

 その人魚病も、今ではすっかり消えてしまった。病人は治るか亡くなり、ウイルスさえ消えてなくなった。まるで泡沫の幻のように痕跡すら残さず。それこそ人魚姫の最期のように。

 人魚病と人類の生存競争は、最終的に人類の勝利で終わったということだろう。

 でもその傷跡は深く残っている。人魚姫のお伽噺も昔のようには語られないし、絵本だって書店で見かけなくなった。決して禁句というわけではないが、自然と口を噤む。世界の人口は大きく減少した。先進国の高齢化は解消され、核家族どころか片親や孤児が増え、子供も減った。家庭環境のあり方もずいぶん変わった。

 人魚が話題になるのは、ニュースで水泳の世界新記録を達成したのが人魚病の元感染者だと伝えられる時くらいになった。水掻きだけが後の世に残ったのだ。マナティやジュゴンを人魚と呼ぶこともなくなった。

 めぐるの母の手にも、やはり水掻きがあった。関節ひとつ、余分に発達していた。だから母は、無菌室の中から指を広げて手を振ろうとはしなかった。いつも指をそろえて弱々しく手を振っていた。死ぬ間際でさえそうしていた。

 自身の奇形を見たくなかったのか、それとも娘に心配を掛けまいとしたのか、めぐるには今も判らない。ただいつも優しい顔をしていたように思う。

 同時にめぐるは日本の人魚伝説のことも思い出した。他愛もない母との会話だった。めぐるが小学校にあがった頃には、人魚姫に興味がなくなってしまったから聞かず仕舞いだった。

 だがその話を母から聴く機会が永遠に失われてしまったことにめぐるははたと気づいた。どれだけ話を聞きたくてももう聞けないのだ。自分で調べることはきっとできる。でも、母の口から、母の声で聞くことはもうできない。それに対する考えを母と語り合うこともできない。

 西洋の人魚姫の、王子に対する怒りは母にぶつけられたというのに。

 どうせひどい話なんだろうとめぐるは思った。幼稚園に通っていた娘に話すことが戸惑われるくらいの内容なのだ。あんな結末でも西洋の人魚姫のほうがよほどましな内容なのだろう。

 母も口に出してから少しだけ後悔したような、口を滑らせたというような表情を浮かべた。そんな記憶がめぐるにはある。もちろんそれは、幼かっためぐるの記憶違いかもしれない。

 仕事先じゃあ完璧な上司なんだそうだ、と関連会社に勤める父が自慢げに母を語っていた。

 しかしめぐるはそんな風に母を見たことは一度もなかった。職場での母を知らないせいもあったが、家庭では本当によく失敗をしていた。包丁で指を切ることも多かったし、皿もよく割った。扉や柱の角で額や足をぶつけて涙を浮かべていた。おっちょこちょいな母だった。

 娘の前でだけは完璧さを繕わないでいられたのかもしれない。自由で、気が置けなかったのかもしれない。母にとって自分はそういう存在だったのだろうか。

 出張であまり家には居なかった母だが、自分は十分に母を愛し、母に愛されていたのだろう。そんな母ともう話すことができない。人魚の話を聞くこともできない。

 母とできなかったことが溢れだし、母とやりたかったことが脳裏に次々と浮かび上がる。

 不意にめぐるの瞳に涙がこみ上げてきた。溜まりに溜まった感情があふれ出し、堰を切ったように大粒の涙が墓地の石畳にこぼれ落ちた。ようやく母親を失ったのだとめぐるは悟った。声に出さないように嗚咽をこらえた。ただただ涙を流した。心の隙間を満たしていくように。

 だからめぐるは医者になるのを目指すことした。母を殺した病に対して復讐するという、どこにでもあるような理由で。

 でも後になって考えてみれば、それは彼女が医者になろうとしたきっかけに過ぎなかった。



 親戚がめぐるを気味悪がった理由は感情を表に出さなかったことだけでなく他にもあった。

 父母だけでなく、学校や地域、国中で病が流行していたのに、めぐる一人にだけ何の症状も出なかった。感染していても症状が軽いという人達は稀にいた。それでも微熱は続いた。しかし重篤な感染者に交じって生活をしていて感染の疑いも強いというのに、自覚症状も他覚症状もなく、人魚病のウイルスのキャリアですらない者は皆無だった。検査も陰性だった。

 めぐるが自身の異常性を認識したのは、中学二年生という比較的遅い初経を経験した時だ。

 突然襲われた腹部と腰の、あまりの痛みについ手を滑らせた。働きに出る父親に代わって、夕飯を作っていた彼女は砥いだばかりの包丁で指を深く切ったのだ。

 幼い頃から放課後を一人で過ごすことの多かっためぐるは自分で救急車を呼んで、病院へ向かった。父親に対してはもうそれほど期待していなかったから連絡らしい連絡すらしなかった。唯一、夕飯の用意ができないから外で食べてきて、とメールを送っただけだった。

 検査の結果、傷の深さは骨まで達しているようだった。血はなかなか止まらなかったが、医者に縫合され、化膿止めの薬をもらい、タクシーで帰宅した。お金は生活費の一部から払った。

 母に相談することはついぞなかったが知識はあった。帰宅途中に薬局で生理用品を買った。

 めぐるは止まらない流血に少しだけ感動していた。彼女にとって怪我の経験といえるものはかすり傷程度のものしかなく、それもすぐに治ったからだ。

 月経と怪我、その血と痛み。そうした刺激がめぐるにはひどく新鮮だった。

 だがその新鮮さはあっさりと終わりを告げた。痛みに慣れたという訳ではまったくない。

 三日も経つと、指の傷は跡形もなく消えてしまったのだ。月経の痛みは鈍いながら続いていたが、指の痛みは完全に消えていた。逆に縫いつけられた糸の方が痛かった。

 傷が治ったと彼女が病院に行くと医者は当然、怪訝な表情をした。しかし実際に傷は治っている。異常すぎると医者は言った。しかしめぐるにとっては普通のことだった。治癒の早さを他人と比較するような人間の頭の方がおかしい。自分というのは大抵の場合、常に普通なのだ。

 それほど大きくない病院の勤務医だったせいだろう。仕事を煩わしくさせたくなかったのか、職務に忠実すぎるせいなのか、それ以上なにも言わず抜糸して彼女の治療を終えた。

 非常に短期間で完治したという重い傷がカルテ上に残ったが、だれもそれを掘り起こす者はいなかった。もちろん発見されたとしても、診断ミスとされるのが関の山だ。

 その日からめぐるの、自傷行為という名の実験が始まった。指先をカッターナイフで切ることから始まり、次いで剃刀で手首を切った。初めに思いつく定番の場所だった。しかしそうした場所は目立ってしまった。次第に他人の目にさらされない場所を切るようになった。

 死にたくなるほど誰かに訴えたい負の感情も葛藤もない。誰かに何かを気づいて欲しい、なんてことはないのだ。

 もちろん死にたいわけでもない。だから二の腕を深く切ることはしないし、頚動脈なんてもってのほかだった。ただ、どんな傷口もしばらくすると跡すら残さず消えた。しかも習慣性があるのか、次第に回復期間は短くなり、たいていの傷は翌日の朝には癒えていた。回復というより修復、復元という言葉がお似合いだった。

 まるでカビがコロニーを作るように皮膚の組織が作られ、広がっていった。

 それでも一線を越えて、死に至るような怪我を負いたいと思わなかったことだけは僥倖だったと、当時を思い出して桐原めぐるはそう思うことがある。

 とにかく自分の身体が普通とは違うことを、中学二年生のときにめぐるははっきりと自覚した。病気だけでなく、怪我でさえも避けて通る。そんな自身の体の謎を解明するためにも医学部に行くことを決心した。

 母の仇討ちや誰かの役に立つなんていう理由よりもはるかにわかりやすく、まっとうな理由だとめぐるは思った。そして一生を費やすに足る欲求だと感じた。



 高校は全国的にも有数の進学校に進んだ。私立ではあったが特待生として入学し、授業料は免除されていた。そして部活もせず、勉強と自傷行為による研究に没頭した。

 そういう意味では、彼女の高校三年間はかなり異質だっただろう。学年一位を守り続け、全国模試でも一桁に名を連ねた。学校での評判はよかったが、そのころの記憶をめぐるはあまり持っていない。それほど有意義であると感じていなかったせいだろう。

 学業が優秀なせいか学級委員の仕事が回されることが多く、真面目なこともあって先生からの信頼は厚かった。そもそも進学校の先生は成績がよくて、人間的にまっとうな生徒なら、実態よりも評価を上げてしまうものだ。また運動神経も悪くなく、面倒見もよいから同級生や下級生からも頼られる。もちろんめぐるからしたら学校生活における仕事、役割をまっとうしたに過ぎない。

 独りでいることが多く、授業の合間でもよく本を読んでいた。読む本は医学、生物系の専門書だ。小遣いのほとんどがそうしたものに消えていった。休日に友達と出かけることもない。家事があるからとやんわり断る。人魚病のせいでそういう家庭は増えていたが、彼女の場合それが極端に多かった。

 今の企業は出産休暇や育児休暇のみならず、家事休暇が存在する。多くの家庭が片親になったせいもある。さらに頼るべき祖父母も亡くなっているケースが多かった。それまで家事をやったことのない親、とくに男親が子供の面倒を見るのは非常に大変なことだった。専業主婦や主夫の偉大さが理解し、企業の役員の大半を占める男性たちが根を上げ、家事のための休暇を認めるくらいに。

 めぐるの評判は確かによかった。だが深い付き合いをしようと彼女に近寄ってくる人間はほとんどいなかった。上辺の評価に左右される人間が少なかったのだろう。直感的にめぐるの奇妙さを見抜くくらいには、彼女のすぐ側にいた生徒達はまともな感性をしていたのだ。

「人当たりが良すぎて、逆になにを考えているのかわからない」とか「他人なんて、本当はどうでもいいと思ってるんでしょ!」と面と向かって言われたこともある。

 的を射ているとめぐるは感心した。彼女にとって興味関心は自分の体に在って、他人というのは社会生活を円滑に動かすための歯車程度にしか感じていなかった。適度に油を注し、螺子の緩みや部品の消耗具合の確認をしていればいいのだ。

 顔も悪くなかったせいで、それなりにもてた。女子高だったせいで同性が多かった。学外の異性から告白されたり、付き纏われたこともあった。だがそんなことに興味はなかった。思春期における性への興味は、月経がもたらす定期的な痛みという刺激の前には意味のないものだった。父親の影響で男性に対してよい感情を持てないせいももちろんあった。

 月経が来る。それだけで妙な興奮を覚えた。彼女はどちらかといえば重い方だった。主観でしかない以上、他人との比較は無駄だとは思ったが、数少ない学校の友達はそう言っていた。

 そんな高校生活を送ってきためぐるの人生最初の挫折が大学受験だった。

 学費が桁違いに高い私立大学の医学部は受けるつもりがなかった。一般企業に勤める父の稼ぎでは到底無理な話だった。だから彼女は国立大学の医学部を志望していた。もちろん受験の回数は限られる。それでも学校の教師や友達、そして本人も問題ないと思っていた。実力から考えれば十二分に合格できるはずだった。それが最高学府であろうが関係ないくらいに。

 しかし落ちた。正確にいえば、受験すらできなかった。当日になって身体が動かなくなるという不思議なことが起きた。別の受験日にも同様のことが起きた。

 浪人が決まった後、病院にかかると「受験に対する精神的なストレスが身体に影響を与えたのでしょう」という精神の弱さに医者は原因を帰着させた。そして精神安定剤を処方された。

 めぐるは当然飲まなかった。そんな惰弱な精神はしていないと思った。普段通りに試験を受ければ問題ないのだ。どこにプレッシャーがあるというのか。あの医者はやぶだと思った。

 医学部に落ちた女が、医学部に受かって医者になった男に見当違いな診断を下される。それはめぐるにとっては大きな屈辱であった。

 浪人生活も独りで過ごした。全国模試だけは大手の予備校へ出向いたが、そこでは毎回首位を取り続けた。あの医者から受けた屈辱がそうさせたのだ。もちろん医者にだってピンからキリまでいる。少なくともあの医者が高校生だった頃より上でいたいとめぐるは思った。

 自宅で受験勉強のかたわら家事を行い、気分転換に専門書の多い書店に立ち読みに行くことが彼女の日課だった。大学の医学部で使われるような基礎的な教科書はもう読み終わっていたので、細菌やウイルス、果ては農学系など人間以外の細胞などの本もよく読んだ。

「医大生なのかな?」

 突然、男の人に声をかけられた。めぐるはとっさに本を閉じて声の方へ顔を向けた。めぐるよりも男の背は高く、見上げるはめになった。男は書店のエプロンを首からかけていた。

 めぐるは読んでいた本を棚に戻しながら答えた。

「浪人中です」

「医者になりたいの?」

「はい。研究医ですけど……」

 男の人はめぐるの読んでいた本を見ながら言った。

「まだ勉強してないはずだけど、理解できるの?」

「理解できないと、なにか問題でもありますか?」めぐるは男をきっと見つめた。

「い、いや、悪いわけでは……いつもこの辺りの本を見てるみたいだし。浪人生なら、受験勉強に対するモチベーションを上げる為にそういうのに触れるのも、うん、悪くないよね」

 男は少し焦ったように言い繕った。

「黒崎さんはお暇なんですね。いつもわたしを観察していたみたいですし」

「ど、どうして僕の名前を?」

 めぐるは男のエプロンについていた名札を指差した。そこには黒崎としっかり書かれている。

「あっ、ああ。これを見たんだね。びっくりしたよ」

 黒崎という店員は、どうにも気が弱く、突発的な出来事にも弱そうだとめぐるは思った。だから客に声をかけるなんていうナンパのような行為をするのが不思議だった。田舎の小さな書店でもあるまいし、立ち読みを掣肘する意味ではないだろう。

「それで、わたしが医大生だとして、なにか用でもありましたか?」とめぐるは訊いた。

「いや、用というか……僕が知る限り、この辺りに君みたいな医大生がいた記憶がなくてね。もちろん医者という年齢にも見えないし。ちょっと不思議に思ったんだよ。一般の人なら家庭用の医学書を読むことはあるけど、君は専門書ばかり選ぶ。僕からすれば奇妙な光景なんだよ」

「医大生のストーカーか、医大生狙いの詐欺の業者ですか?」

 めぐるの言葉に黒崎はぎょっとした表情を浮かべた。そしてすぐに苦笑した。

「そうじゃないよ。あまりきみの前では言いたくないんだけど、ぼくも医学部に在籍していてね。医学部は縦の繋がりが強いのは有名だけど、実は横の繋がりもあるんだよ、最近は。大学の枠を越えて医大生だけの閥みたいなものが。右も左もわからない新入生の僕も当然そこに加入させられてね。一昔前の労働組合みたいにさ。それでまあ、君の顔は名簿になかったから。これでも結構顔が広いし、組合の仲間にも聞いたんだけど、それらしい学生がいなくてね」

「やっぱりストーカーですか」

「せめて不審者に目を光らせる警備員くらいにしておいてよ」

 黒崎は少し笑った。そして周囲を見回した。他の店員に見られていないか気にしているような仕草だった。

「それで医大生の黒崎さんは、こんな書店でなにをされているんですか?」

「アルバイトだけど?」

「……医大生ならもっと割りのいいアルバイトがあるんじゃありませんか?」

 塾の講師や家庭教師など、自給に換算すれば本屋のアルバイトの数倍は儲かる。もちろん教えることの下手な、自分の成績だけが良いタイプもいるだろうけど、一定の需要はある。

「僕は本が好きでね。といっても読むことじゃないよ。もちろん読むのも好きだけど。それよりも本に触れたり、囲まれていることに幸せを感じるんだ。大学図書館の書架で暮らせたら、一生どころか、終の住処にしてそこで死にたいくらいだよ」

「そんな場所でセックスする羽目になる奥さんが気の毒ですね。生まれてきた子供も」

 黒崎は表情を失くし、めぐるの顔をじっと観察するように見つめた。

「きみって顔に似合わずけっこうすごいこというんだね」

「どういう顔かは気になりますが、よく言われます。直截的だとは」

「悪い意味じゃないよ」黒崎は苦笑する。「きみみたいな美人が、初対面の人間に対して、その……子作りの話をするなんて信じられなくてね」

 めぐるは自分のこめかみの辺りを中指の先でこつこつ叩いた。

「セックスに子作り以外の意義がありますか?」

「えっ、いや、その……愛を確かめるとか?」

 特別な感情を抱くこともなく問うめぐるに対して、黒崎は恥らうように答えた。

「それは異性間の――同性を差別するわけにはいきませんね――人間同士におけるセックスの意味ですよね。生物的な視点から見たセックスの意義、大義です」

 黒崎は少しだけ困ったような顔をした。

「君は、知性化するのが上手いんだね」

「それはどうも」

「褒めたつもりはないんだけど……」

 めぐるは左腕の袖をわずかに引っ張った。腕時計を見ると、スーパーのタイムセールがもうすぐ始まる時間だった。

「時間ですので、これで失礼します」

 めぐるは黒崎にそう告げて出口の方へと身体を向けた。そして二、三歩進んでから、振り返った。黒崎はまだそこにいて、困ったような、唖然とした顔をしていた。

 めぐるは黒崎の誤解を否定しておいた。医学部志望者が憧れだけで、専門書を読んでいるとは思われたくなかった。

「あれぐらい本の内容なら理解できますよ」

「えっ、だってさっきは――」

「冗談です」とめぐるは答えて踵を返した。「今度こそ失礼します」

 どっちが、と黒崎は咄嗟に聞き返したくなった。思い返せば、彼女は内容が理解できないとは一度たりとも言ってなかった。煙に巻かれたような、そんな不思議な印象を黒崎は持った。



 その年もめぐるは医学部に願書を出した。結局高校を卒業してからの一年間、模試で首位の座を誰かに譲ることはなかった。最難関の大学でも合格判定には余裕があった。一応練習の意味も込めて、私立大学の農学部にも願書を出した。細胞やウイルスなどの研究が盛んな大学だ。

 受験が近くなっても自傷行為は続いていた。いろいろ試した結果、死に近い場所や身体の欠損に結びつきそうな傷ほど早く治ることがわかった。表層的な切り傷よりも、深部まで穿った刺し傷の方が早く治る。身体の外側の傷より内側の方が早く癒える。静脈より身体の中央を通る動脈を護ろうとでもしているのだろうか。

 めぐるは自分の身体が、自分以外の何者かの意思によって左右されているような気がした。もちろんその何者かが誰かはわからない。神様かなにかだと考えられれば楽だが、そんな存在に自分の身体の運命だか宿命だかを弄ばれたくない。そんなものは受精のときだけで十分だ。

 自分がこの世に生を受けたことは、両親や神様に感謝している。遺伝的には父母から半分ずつ形質を受け継ぐものだということは知識で知っているが、それがいま生きている自分になるとは限らないのだ。卵子の数は生まれる前にピークを迎え、誕生した時にはすでに半減して数百万個に、成人する頃にはさらに激減しているというし、精子にいたっては毎日毎日、無駄に数億個の命が生まれては死んでいく。自分が生まれる確率はそれこそ神様の意思次第だろう。

 それでもというか、だからこそ自分の人生だけは、自分の力で紡いでいきたい。そうでなければ、わざわざ自分で医者になる必要なんてないのだから。

 そうして一年を過ごし、めぐるはまた受験に失敗した。理由は一年前と同じだ。受験の日に限って身体が動かなくなった。

 発熱するわけでもなく、眩暈を覚えるわけでもなく、もちろん病気になったわけでもない。泥酔した人間の抱柱期ように身体から力が抜け、重くなるのだ。父でさえベッドから動かすことができないほどだから、めぐる本人にはどうしようもなかった。完全なる無動状態だった。

「どうだったの?」

 久しぶりに寄った書店で黒崎に出会った。彼は声を潜めて、恐る恐るといった声でめぐるに聞いてきた。

「落ちました」

「そうか……」

 黒崎は沈痛な表情を浮かべた。どう慰めるべきかわからないのだ。彼自身は医学部に合格して、医師になる道を順調に進んでいるのだから。

「また、挑戦するかい?」

「はい」

「成績が伸び悩んでいるなら、僕の知ってる家庭教師でも紹介しようか? 優秀らしいから。もちろん女の子だよ、そこのところは安心して欲しい」

 めぐるは首を振って断った。

「成績に問題はないんです。わたしの上には誰もいませんから」

 黒崎は目を瞬かせるだけで微動だにしなかった。めぐるの言葉の意味を理解するのに時間がかかっていた。思いもよらない言葉だったのだ。黒崎は目をむいて、めぐるを見下ろした。それぐらい常識はずれの言葉だった。

「全国模試で首位なのかいっ! それならどうして?」

 黒崎は顎が外れたように口を開いていた。運よく取れるような成績ではない。きちんとした実力がある。だからどれほど運が悪くても、二年も連続で落ちるはずがない。

「受験日になると身体が動かなくなるんですよ」

 自分でもまったく理解できない現状を、めぐるはつい黒崎に吐露してしまった。医者はもう信じられなかったから出向くことはしない。だが医大生にすぎない彼ならばと彼女は油断した。

「精神的ななにかかい?」と黒崎は言った。

 その言葉にめぐるは知らず落胆していた。この男もあのやぶ医者と一緒だったかと思った。

 自分がわからないことに対して、自分の知識内にある適当にありえそうな原因を言うのだ。わからない、知らないとは絶対に口にしない。適当に言葉を濁すのだ。

 しかし落胆する程度には、黒崎に対して期待をしていたことにめぐるは驚嘆した。これは好意というものかもしれない。もちろん勘違いかもしれないが、彼女は自分の感情に感心した。

「でもおかしいね」と言って黒崎は首を傾げた。「首位って、よくなるんだよね?」

「もちろん。毎回のことです」

「まさか毎回とは」黒崎は惚けたように、すごいねえとつぶやいた。「それなのに精神的に追い詰められるって、なかなかすごい精神力だよね。逆に」

「そうでしょうね」

 不機嫌に応えためぐるに、黒崎は慌てて手を振る。そして真面目な顔をした。

「君がそうだっていう意味で言ったんじゃないよ。君はむしろそうした所から正反対の位置に居そうだからね。精神的に追い詰められるなんて想像もつかないよ。もちろん僕は専門家でもないし、医師免許すら持ってない。表層的な性格とは真逆の精神を、心の深いところに澱のように溜める人だっているんだろうけど、君はそういう感じじゃない。僕の薄っぺらな知識と主観でしかないけど、精神的な問題ではないんだろうね、きっと」

 めぐるは少し黒崎を見直した。そして先ほど下した評価をある程度回復させた。ただ、第一印象を、思わずとはいえ口に出してしまったのは頂けない。

「なかなか面白い推測ですね。洞察力も鋭いし。その辺の医者よりも圧倒的に優れてるんじゃないですか、黒崎さんって」

「そ、そうかな?」と言って、黒崎は照れたように頭を掻いた。

「偉そうに聞こえると思いますけど、黒崎さんは自分の力量を弁えてるし、無知であることを認めることもできる。普通の医者にはできないことだと思います」

「そういう意味ね」黒崎は苦笑した。「でも仕方がないよ。国家試験に受かるための勉強しかしない学生ばかりの大学も多いからね。特に入試の偏差値は低いのに、国試の合格率だけが妙に高い私大なんかはね。そうやって医者になった人ほど、自分の知らないことを患者から聞かれたくないから高圧的に出て患者に質問させないとか、当たり障りのないことないことを言って誤魔化したりとかするらしいよ、教授曰くね。いろんな症例を見た経験もなければ、医者になった後に勉強し続ける気概もないんだってさ」

 黒崎は肩をすくめた。もちろん自分はそうはなりたくないとでも言うように。

「でも僕の場合は医者よりも君の性格を知ってるし、医師免許も持ってないから言葉に責任もない。ただの想像と妄想を、思いつくがままに言える立場にいただけだよ。どう言い繕ったって、結局は原因不明だって答えたようなものだからね」

「それはそうですね」

「逆に僕だって医者なら、原因不明ですなんてなかなか言えないよ。それこそ最先端の研究を網羅しているような専門医じゃない限り、知識不足と経験不足を疑われるんだからさ。原因不明じゃなくて、治療法はありません、の方が医者としては楽なんだろうね。自分のせいじゃないんだから。もちろん人間的に、というより医者としてなら余計にそんな風に思っちゃ駄目だし、そういう言葉を口にするのは本当に心苦しいんだろうけど」

 黒崎は悩ましげに唸る。自分がその立場に立ったときのことを考えているのだろう。彼の場合は、そう遠くない将来に必ず訪れる現実なのだから。

 そんなことを考えていると、めぐるはふと眼前の男がどうして医者を目指すのか気になった。

「黒崎さんはどうして医学部へ入ろうと?」

 深く思索していたのか、黒崎ははたとめぐるの顔を見た。そしてめぐるに聞き返してきた。

「何か言った?」

「どうして医学部に入ろうと思ったんですかって尋ねたんです」

「医者になろうと思ったからだけど?」

 黒崎は不思議そうに言った。しかしそんなことはめぐるにだって、誰にだってわかる話だ。医者になること以外の目的で医学部を目指す人間はまずいない。医学部の定員はその間口がひどく狭められているのだ、資格マニアだって遠慮するだろう。もちろん医者の適正がないと途中で諦め、進路を変更する者はいるだろうけど。

 めぐるが訊きたいのは医者になろうと思ったその理由だ。再度尋ねたが、黒崎の答えは変わらなかった。

「医者になりたかったからだよ」

「だからその理由が聞きたいんです」

「ん? だから医者になりたかったからだって」

 わからないかなあ、と黒崎は困ったような顔をして顎に手を当てた。そして無意識なのだろうか、そのまま指先で唇を何度も引っかく。

 その仕草がめぐるには苛立っているようにも見えた。だから話題を少し逸らした。彼が医者になることを目的にしていることはわかった。しかし医者であること自体を目的としているようにも見えなかった。世の中には医者という社会的身分を欲する者もいるが彼は違うと思う。

「医者になった後はどうするつもりですか? 大学の付属病院みたいな大きなところで働くのか、開業医になるのか」

「どっちでもいいかな。たくさんの患者さんさえいれば」

 それはめぐるにとってすごく不思議な感じがした。患者なんていないほうがいいに決まっている。犯罪や火事と同じだ。病気なんてできるだけ未然に防ぎたいものの一種だ。患者は少なければ少ないほど、人間にとっても社会にとってもよい。医師とは、自身の存在意義を失うために努力をし続けなければならない因果な職業であるとめぐるはずっと考えていた。

 しかし黒崎によって初めて気づかされた、医者は商売なのだと。警察や消防とは違うのだ。患者は多ければ多いほど、しかも重篤でない慢性病のリピーターが多いほどよい。

「だったら黒崎さんは、医者になってお金儲けがしたいってことですか?」

 しかしそう口にしてからめぐるはすぐに間違いだと気づいた。金儲けが好きなら書店で働くはずがない。その証拠に黒崎はやはり眉頭を寄せていた。

「もちろん無償で診られるほど僕は金持ちじゃないし善人でもないよ。でもお金儲けが目的なら医者にはならないよ。家業を継いで初めから顧客や設備が十分な街医者になるならともかく、労働の過酷さや責任の重さをお金に換算したら、他の仕事の方が絶対にいいよ」

 黒崎は少しだけ色を失くした。おそらく教授や先輩からいくつも話を聞いているのだろう。他人の生き死に一番近い職業だ。いい話ばかりではない。殺すことを生業とする軍人とはまったく違う葛藤や苦しさがあるだろう。殺すことに快楽を覚える人間にも見えない。

「医大生にはもちろん臨床の実習もあるんだけど、さんざんだったね。転部した子もいるよ」

「それなら医者になって多くの患者を診て、その先になにを目指しているんですか? 技術の向上とかですか?」

 工芸職人の気質と一緒だ。その対象が医療技術に向かっているだけのことで。それに技術を極めることを目的にするのも間違いではないだろう。結果として患者が助かるのだ。めぐるの場合は、医師になりたい理由は自分の身体をいつかは研究したいからだが、還元できるものがあれば還元したいと思っている。でもそれは普通、医者になった後に無力感を味わって初めて志すものだろう。きっかけにはかすりもしないはずだ。

「知識を増やしたり技術を向上させないと対応できないのはたしかだけど、患者を診て、治療する。自分で無理なら治せそうな医者に託す。そうした医者の情報を集めて、積極的に伝を作る。それ以上に大事なことはないんじゃないの、医者にとって」

 黒崎は頭の中で繰り返してそう考えているのだろうか。それとも校訓や社訓のように詰め込んだのだろうか。彼は非常に滑らかに言葉にした。そして静かながらも非常に情熱的に語った。

 もしその言葉が本心からなら、理想と現実の板ばさみに遭いそうだとめぐるは思った。現実を知らない医大生だと本職の医師たちは言うかもしれない。

 それでもやはりどういう医者になるかという指針でしかなかった。なぜ医者になろうと思ったのか、まるで答えが見当たらない。

 黒崎という男はよくわからないとめぐるは初めて思った。

「それなら予防とかはどうなんですか? 患者が減りそうですけど」

「そうしないといけない予備軍の人は生活習慣の改善とかで予防しないとまずいし、定期的な診断は必要だろうね。兆候はあるわけだし。でもそうじゃないけどそうしたい人の場合は、勝手にそうすればいいんじゃないかな。人間ドッグにかかるとかね。厳密に言えば患者じゃないしさ。とにかく僕は、患者が助けられればなんだっていいんだよ。民間療法でも明らかに間違ってさえいなければ止めはしないし。患者がそう望んでいるなら、なおさらね」

「患者を診ることが大事なんですね」

「Exactly」

 この男が医者になったら一度、精神科医に診せた方がいいだろう。とくにあのやぶ医者にだ。

 あの医者ならきっと彼を病人扱いするだろう。そしてこの男は、間違いなくあの医者にやぶの烙印を押すはずだ。

























 第二章 努力と労働、知恵と知識、そして本屋というもの



 そうしてめぐるの二浪目の年が始まった。

 二年目ということもあり、それほど準備することはない。

 だからといって問題がなかったわけではない。まったく代わり映えしない日々がまた来るのかと考えると、初春だというのに気が滅入るのだ。昨年とは少し違った環境を作るべきかもしれないとめぐるは考えた。

 受験勉強は模試でトップクラスをキープできればいい。一年以上余分に勉強しているのだ。もうやることはない。あとは忘れないように定期的に訓練すればいいだけだ。

 だからアルバイトをしようと思い立った。これ以上、父に金の工面をして貰うのも気がひける。それから身体のたるみが気になった。非常に真面目に家事をやれば肉体は絞られていくが、昨年は勉強に勤しみすぎた。両立するには、やぶ医者に対する対抗心が強すぎたのだ。

 床や壁、天井などの拭き掃除やワックス掛けもこまめに行わなかったし、家庭菜園の植え替えや雑草取り、追肥も少々雑にこなした。庭木の剪定も芝刈りも最低限だった。

 自身の身体の研究についても行き詰っている。病気もしなければ、怪我もすぐ治る。個人のレベルで行えることはほとんどなくなっていた。

 だから今年は、家事とアルバイトを中心に行おうとめぐるは心に決めた。

 とはいえアルバイトと一口に言っても千差万別、一度も経験したことのないめぐるにはどんな仕事がいいのか見当もつかなかった。身体を使いたいとはいっても、単なる肉体労働に興味はない。知的好奇心を満たす仕事でなければ時間の無駄だと思った。

 そういう意味では、めぐるはひとつ特殊な仕事を知っていた。以前、黒崎から聞いた話だ。

 黒崎の通う大学の付属病院が、治験のアルバイトを募集していたというのだ。薬の効果というより副作用などを調べるのが目的だったらしい。もう最終段階で、大きな危険もほとんどなく、時間的制約もあまりないし、給料も割高だったという。もちろん万が一もあるから黒崎がめぐるに勧めることはなかったが、その内容をめぐるはよく覚えていた。自分の研究が進むかもしれない情報に彼女は餓えていたのだ。

 早速募集している大学付属の病院をネットで探してみたが、どこの病院も未成年者は不可能だった。年齢を誤魔化すのは無理だと諦めて、めぐるは椅子の背に身体を倒した。ぐっと胸を張って、天井を見上げる。そこには木目を模した壁紙が張られている。

 めぐるの部屋はシンプルだ。壁にはポスターどころかカレンダーすらない。ベッドと机がひとつずつ。それから受験参考書が少しと衣装箪笥が一棹、そして小遣いの大半を費やした専門書専用の本棚が並んでいるだけだ。

 無駄な物をめぐるは持ちたくなかった。父親がいまだに母の形見を後生大事に肌身離さずにいるのを見て、自分の死後にそんなものを残したくないと思ったのだ。

 子供が唯一の形見というのが、ある意味では理想かもしれない。人間以外の生物は大抵そうだろう。子供に相続する財産として、巣穴を不動産と見なすかどうかは知らないけれど。

 結局めぐるは黒崎がいた大型書店で働くことにした。肉体労働をある程度はしたいという考えと彼女の世間の狭さから、ほぼ一択だった。

 塾の講師でも仕事としてならこなせる自信はあったが、高校が最終学歴の浪人生なんかを雇うところはないだろう。なにより塾講師では体力よりも忍耐力が鍛えられそうだった。本当に生徒のことを考えている塾なんてそうはないだろう。きっと素晴らしい社訓に反した拝金的な現実がめぐるの頭を沸騰させるに違いない。やりがいと成長をうたい文句にしている所ほど人の良心につけ込んでくるらしい。

 もちろんこの話も黒崎からだから、現実から大きく外れてはいないだろう。それぐらいには彼を信用していた。

 そしてそういうことに目をつぶれるほどめぐるは大人ではなかったし、そんなことを許容できるような大人になりたくもなかった。そう考えると忍耐力を身につける前に、軋轢だけを盛大に作り出して馘首になりそうだった。

 しかしアルバイトをしようとしたその書店に黒崎の姿はなかった。

「黒崎くんなら三月いっぱいでやめたよ」と女性の店員が教えてくれた。「国家試験と実習で忙しくなるみたいなんだって。すごいよね、医学部なんて。わたしじゃ絶対無理だわ」

 女店員は笑いながらぱたぱたと手を振る。

 それはそうだろうとめぐるは思った。やる前から自身満々に不可能だと思っているのだから。もしかすると自分の無能を冗談で済まして、誤魔化しているのかもしれない。そういう生き方、処世術があるというのはめぐるも知っていた。その裏に強烈で、卑屈なプライドがあることも。

 ただこれが純粋な謙遜で、自信と誇りに裏打ちされたものならたいしたものなのだろうけど。

「そうですか」と言って、めぐるは感謝の言葉を口にした。

 黒崎がいてもいなくてもめぐるには関係ない。だけど少しだけ残念だと思った。

「そうだ。桐原さんのことで言付、というか預かり物があったんだ」

 はたと手を打って、女性店員はスタッフルームの奥へと向かった。そして大きな紙袋を引きずるように持ってきた。

「はい、これ」

「……なんですか、これ?」

「よくわからないけど、黒崎くんがあなたにって」

「わたしには頂く理由が思いつかないのですが」めぐるは困惑して女性店員の顔を見る。

「桐原さんがいつか来るからって。黒崎くんはもういらないから遠慮せず使って、だってさ」

 いらないものの処分を任されても困るのだが。めぐるは一応、袋の中身を確認した。

「図解・解剖学、感染症のメカニズム、消化器系の手術……」

 背表紙に書かれた書籍名を読み上げる。医学部で使われているだろう教科書の類だった。持っているものも少しあるが、興味が薄かったり高価だったりして持っていないものが多い。

 国家試験の勉強で必要だろうに、大丈夫なのだろうか。もらえるのはありがたいが、めぐるは黒崎のことが不安になった。

「でもまさか、お客さんじゃなくて店員としてアルバイトで入ってくるとは黒崎くんも思わなかっただろうね」女性店員は快活な声で笑った。「黒崎くんの誤算か、珍しいなあ」

「傍目には卒がなさそうですからね、あの人」

 めぐるがそう応えると、女性店員はうんうんとうなづいた。

「そうそう、そうなの。本当は間が抜けてるんだけど、なんとか繕ってる感じだよね。桐原さんはなかなか観察力があるね。別に彼氏彼女の関係だったわけじゃないんでしょ? 前に店内で見かけたときには、そういう風に見えなかったし」

「もちろん違います。ただの客と店員の関係です。でも、見ていたんですか?」

 めぐるの問いに女性店員は仰々しくうなずく。

「それはもちろん。これでも、この専門書フロアのボスですから。お客さまの行動と店員の仕事には常に目を光らせてるの」

 めぐるは女性店員の名札を一瞥した。鏑木という名前だけで役職名はない。

「漫画コーナーだと万引きに気をつけないといけないんだけど、専門書のコーナーだと少し違ってね。年配の方も多いし、話を聞いて欲しい人とか質問がある人の方が多いのよ」

 鏑木という女性店員は腕を組んで、またうんうんと頷いている。どうやら自分の言葉を頭の中で反芻するのが好きな人のようだ。それとも前向きで肯定的な人なのか。その両方か。

「桐原さんって、読書、好き?」

 唐突に話題が変わる。めぐるは少し面食らったが、「殊更というほどでは」と答えた。

「ならよかった。本屋って力仕事が多いし、現場は本を読むような仕事でもないから。特に専門書は大きいし、厚いし、重いしの三重苦で、肉体的にきつくてね」

「適度な力仕事がしたかったので、願ったり叶ったりです」

 鏑木はそうかそうかという風に鷹揚にうなずいている。

「それなら問題ないね。読書好きの貧弱な子が入ってくると大抵やめちゃうから。はじめに確認しておこうと思ってね。黒崎くんみたいに本自体が好きで、ついでに読書も好きなのが一番かな。それで身体ががっしりしていたら、本屋のアルバイトとしてはいうことなし」

「本自体は嫌いではないです。読書も……嫌いではないです。力は普通だと思います」

「オーケー、オーケー。専門書のコーナーに配属しようとした店長の慧眼に感謝ね」

 そうして鏑木は、またうんうんと頷いた。

 こんな賑やかな人が上司では気疲れしそうだと、めぐるは密かに思った。


 浪人生活の二年目は自宅と本屋を行き来するところから始まった。

 黒崎がいなくなった代わりに鏑木という女の上司と話すことが増えた。仕事の話以外にも鏑木はよく話す。年齢を口にはしないが、役職的にはおそらく三十前後だろうか。

 けっこういい大学を出ていそうだという話を他の店員から聞いた。若くも見えないし、若作りもしていない。自然体でよく笑い、身体を動かすおかげか動きや身体つきに衰えは見えない。

 鏑木という人は、本当に年齢のわからない女性だった。

 若い人にしてはきちんとしていて落ち着きがあり、てきぱきと仕事もできる。年齢を重ねた人にしては溌剌としていて肌にしみ一つないし、ユーモアもあって無理のないかわいらしさを発揮している。その上、頭の回転も速く知識も豊富で、めぐるも話していて退屈しなかった。

 第一印象にあった頭の悪そうな素振りは、新人に対する一種の道化だったのだろう。そして正しく謙遜だったのだ。めぐるにとって鏑木は、子供のような、しかし確立された大人だった。

「若くないよー。めぐるちゃんよりずっと年寄りだしね」と何かの拍子に鏑木はそう言った。

 専門書のコーナーは意外に仕事がない。もともと目的が決まっている人か、良書にめぐりあうためにぶらぶらと書棚の間を眺め、さまよう人がほとんどだ。まるで上質な図書館だ。

 家電量販店と違い、店員に中身の良し悪しを問う客も商品の説明を求める客も多くない。

 本に囲まれ、在庫を整理し、書棚に並べて、たまに他のコーナーのヘルプに行く。そしてたまに客の自慢を聞いたり、文句に頭を下げたりする。黒崎が気に入りそうな職場だった。

「めぐるちゃん、勉強は大丈夫なの?」

 たまたま休憩時間が重なった時に、鏑木がめぐるに言った。

「医学部を受けるって聞いてるけど」

「大丈夫です。成績は落としていませんから」

「それならいいけど。夏休みって現役生が成績を伸ばし始めるでしょう? 学参のコーナーなんて制服着た受験生みたいな子たちでごった返してるし」

 たしかに学習参考書のコーナーでは、多くの受験生らしき客たちが、あれでもない、これでもないと参考書を手にとっては眺め、棚に返すという行為を繰り返している。予備校が近くにあるとはいえ、ずっと書棚の前にいる学生さえいる。

「まあ、そうですけど」

 めぐるはそう言って苦笑し、一度二度首を横に振ると説明することにした。

「去年もたいして追い上げられませんでしたから。それにほとんどのできる子たちって春の段階ですでに上位にいるんですよ。夏以降に伸びる子は、たまたまその分の伸び代が残っていただけです。基礎を完璧にすることに終始していた子たちとか。でもこれから基礎から応用までを網羅するには時間が足りません。それに成績を伸ばす子たちはやるべきことをきちん知っています。当然弱点とかも。だから参考書選びにあれほど時間を掛けません」

「でも受験は夏休みが勝負の分かれ目だって言うじゃない?」

「夏が過ぎれば秋が、秋が過ぎれば冬休みが、年が明ければ直前が大事だって言うんですよ。逆に二年生には、三年になるまでが勝負だとか。結局、日ごろの努力が大事だってごく当たり前のことを、言葉を変えて言っているだけです。何も言ってないようなものです。情報量が増えてないんです。反対にいつまで遊んでいればいいのかって話を教えて欲しいですよね」

「たしかに、先生たちってそういう風には言ってくれないわよねえ」うんうんと昔を思い出すように何度も鏑木はうなずく。

「でもそれを先生に訊くと、個人によって違うって答えるんですよね、きっと。それとも遊ぶ暇なんてないとかですかね? だったら勝負の分かれ目なんてわざわざ言わなくてもいいのに」とめぐるは言った。「だからああいう言葉は、単にやる気のない子に発破を掛けてるだけなんだと思います。勉強する子は常にやっていますから言う必要もないですし。もしくは先生が仕事をしている気になるためか、威厳を保つためか。邪推すれば塾とか本屋が受験生の親を煽って、購買力を引き出すためですかね?」

「ここもそういう本屋さんなんだけど……」鏑木は困ったように笑った。

「口が過ぎました、すみません。ただ『新年明けたら現実を見よう』とか『来年を見据えて基礎から頑張ろう』とか、そういう標語があってもいいと思うんですよ、本当に無理な子たちに対してなら。谷底に突き進むような、無謀な目標に向かって努力させるのは少し違う気がして。もちろん努力を否定しているつもりはないですよ。努力と運次第では逆転することもありますし。ただ努力の方向性は正しくないといけないと思うんです。努力自体はいつだってしなくちゃいけないし、大学進学を目指している以上、受験勉強に対して相応の努力はすべきです。それなのに勝負の分かれ目とか、今更のように言われても反応に困りませんか?」

「でも部活動とか、他の事に一生懸命だった子たちもいるわけじゃない。そういう子たちは勉強をおろそかにしてたりするし、いざ勉強といわれても右も左もわからないんじゃない?」

「勉強以外で努力をしてた人たちは、努力することを知ってるんです。試験までの時間が足りないのは仕方がないですけど、最初から最後まで、愚直に走ることができるんです。たとえその年は無理でも、もう一年素直に頑張れば確実に努力が実ります。その一方で夏どころか、受験の直前になってさえ、目標に向かって懸命に努力できない人たちもいます。そういう人たちは、口先でなにを言われても結局やらないんです。見通しが甘いのか、自分に甘いのか」

 そこでめぐるは一息つき、鏑木に尋ねた。

「嫌な言い方ですけど、大学の合否ってその後の人生を大きく左右しますよね?」

「一般的にはそうねえ。大学進学が当然の世の中だし、学歴社会でもあるし」

 もちろん例外もある。だが人生の大きな分岐点になることは間違いない。

 本人以外の誰も助けてくれない。自らが責任をもって行う初めての大きな選択といえる。

 親の手から離れる、小さいけれども大きな一歩だとめぐるは考える。

「それなら最低でも新年が明けたら努力するのは当然だと思うんです。勝負の分かれ目がどうとかっていう問題じゃなくて、一生の問題かもしれないんですから」

「いたたた。それを言われると耳が痛いわー」

 鏑木は冗談めかして苦笑し、両手で豊かな胸を押さえた。まるで自分の学生時代の悪行に胸を痛めているように。

 しかしめぐるは彼女がそんな人間ではないことを知っている。彼女は常に努力をする人間だ。ただ楽しそうにこなしてしまうので、他人には苦労しているようには見えないだろう。

 だからめぐるは話を続けた。

「でもそんな短期間でさえ努力できない人たちって、一生の内のどこで前向きに努力するつもりなんですかね。わたしには不思議で仕方がないです」

 いつも朗らかな鏑木が珍しく、言い様のない微苦笑を浮かべた。とても大人の女性に見えた。

「けっこう辛辣だねえ、めぐるちゃんって」

 めぐるも自身の性格を自覚していたので平然と応えた。

「黒崎さんから聞いていませんでしたか?」

「黒崎くんが年下の女の子のことを悪く言うと思う?」

「……たしかに、想像できませんね」

 めぐるはもう、うろ覚えになってきている黒崎の顔を思い出しながら答えた。

 彼は素直で、人が良く、考え事がすぐに顔に出て、苦労を背負い込む人間だ。そうした善意がどこからやってくるのかはわからないが、不器用な性格と生き方を選択しているということはわかる。

 医学部の教科書だって、二浪しためぐるに少しでも元気になって欲しかったからだろう。その結果、国家試験の対策で困るだろうことは目に見えている。彼は、合格率を異常に気にする私立大ではなく国立の医大生だから、試験対策を大学が大々的に支援してくれることはない。

 休憩時間が終わり、出版社から送られてきた書籍を整理する。平均的な身体の大きさのめぐるでは一抱えもあるような図鑑などもたくさん送られてきている。

「今日は大物ばっかりね」と鏑木が感心したように言った。

「そうですね」

「まあ、発注したのはわたしなんだけどさあ」一度だけ深々とため息を吐き出すと、鏑木は背筋を伸ばして身体を動かし活を入れた。「よしっ、めぐるちゃん。がんばろう!」

「はい。わたしも筋肉がついてきましたから大丈夫ですよ」

 めぐるは腕を曲げ、二の腕の力こぶを鏑木に見せた。めぐるはどちらかといえば脂肪の少ない身体つきだった。鏑木とはまったく違い、胸も薄い方だ。こぶというには慎ましかったが、以前に比べれば腕は引き締まって、明らかに筋肉質になっていた。

「おおっ! じゃあ、頼りにしてるから」

 そう言って鏑木は大きな本を数冊抱えた。そして少し進んでから歩みをとめ、振り返った。

「ねえ、めぐるちゃん」

「なんですか?」

 めぐるは屈んで重い本を抱え込みながら、気もなく訊いた。

「さっきの答えだけどね」

「はい?」

「死に掛けるとかよほどの事がない限り、一生努力しないの。死ぬまで労働に明け暮れるわ」

 それだけ言い残して鏑木はさっと本を運んでいってしまった。

 あまりに不意のことだったのでめぐるはしばらく茫然としていた。鏑木がそういうことを口にする印象がなかったこともあるし、その内容が頭に浸透するのに時間がかかった。

「努力と労働の違い、か……」

 鏑木の言葉に妙な説得力を感じてめぐるはそう呟いた。そして今の仕事に、努力はどの程度含まれているのだろうかと思った。

 めぐるは抱えていた本をいつもより少し増やした。鏑木と同じくらいの量を運ぼうと試みたのだ。しかし腰が壊れそうだったので途中で諦めた。努力不足、ということなのだろう。

 めぐるは一旦本を置いて腰を伸ばし、そしてため息をついた。それにしても鏑木のあの柔らかそうな身体のどこにあんな力があるのだろうか。疑問でしかなかった。

 やはり明確なコツでもあるのだろうかと思って、めぐるはかつて問うたことがある。

 だが鏑木の言葉は擬音語ばかりで理解できなかった。彼女は理論的というよりも感覚的なのだ。だから他人にはうまく伝わらない。それでも指示は的確にできるのだから、不思議なものだとそのとき思った。

 いつか自分なりのやり方を探そうと考えを改め、めぐるは持てる範囲の量の本を抱えた。



 その日は長期休暇前ということもあり、出版社から送られてくる本はとにかく多かった。専門書も多かったが、漫画や雑誌、小説など娯楽性の高いものはそれに輪をかけて多かった。

 自前の倉庫に入りきらないから、専門書の倉庫に一時的に保管させてくれといわれる始末だった。鏑木は困った顔をしながら、それを承諾した。専門書の倉庫は足の踏み場もない状況になった。いろんな部署の書籍が、吹き溜まり木の葉のように集まってきているのだろう。

「こんなことって初めてよ」と鏑木も茫然と本入りのダンボールの迷宮を見つめていた。

「うちってそんなに楽そうに見えるんですかね?」とめぐるも憮然とせざるを得なかった。

 ダンボールの隙間を縫うように歩き、在庫の棚に書籍を並べていく。さらにそこから売れた本を売り場まで運ぶ。倉庫と売り場の間に階段がないことだけが幸いだった。

 ただ倉庫内に置かれたダンボールの隙間はとても細かった。大きな専門書を運ぶ時は、本を頭上にまで上げて、ダンボールに引っ掛からないようにするしかなかった。人ひとり分の幅しかないので、本を持って横歩きすらできない。

「店長もなに考えてんのかなあ……」鏑木が珍しく愚痴をこぼす。

「他の部署は違うんですか?」とめぐるは尋ねた。鏑木の言葉が、まるで専門書の倉庫にしわ寄せがきたかのような物言いだったからだ。

「うーん」鏑木は少し迷ってから言った。「他は商品の回転がうちより早いからね。あんまり倉庫内の動線を汚くはできないかな」

「でもうちの商品も高価だったり、稀少だったりして、あまり負担は掛けられませんよ?」

「それはそうなんだけど、他の部署が儲けてるからうちみたいな部署が存在できるわけでさ」鏑木は腕を組んで悩ましげに言った。「文化って本来は大衆に支えられるものだから、どうしたって本屋もそれに迎合していっちゃうわけでしょ? 商売である以上、すごくいい本でも売れない本に意味はないって感じでさ。でもそうなると文化的価値の高い、っていうと語弊があるかもしれないけど、貴書とか採算の取れない本、たとえば点字の本とかは社会の流れから取り残されていくわけじゃない?」

「まあ、たしかにそうですよね。一般的な本屋は漫画とか週刊誌とかが大半ですし」

 あとは教育関連か、流行の本。ここまで需要の少ない専門書が並ぶ本屋はそうはない。

「でしょう? わたし、そういうのが嫌なのよ」

「だから多少の面倒は甘受するわけですか?」

 めぐるが渋い顔で訊くと、鏑木は首を横に何度か小さく振った。

「対等な取引だよ。わたしは面倒を引き受ける。代わりに彼らは赤字を引き受ける」

 鏑木はまた何冊も本を抱えた。一冊五万はする、図書館が所蔵するしかなさそうな本だった。誰が買うのかはわからないし、どれだけ長い期間書棚に並んでいるかもわからない。ただそうした書物の蓄積が文化であり歴史であって、そうした本を読んできた人々がさらなる文化を切り開き、歴史を掘り起こしてきたのだ。医学書みたいに最先端を行くものと、史書や古書のように過去を切り取ったものが融合しているという意味では、この本屋は商業施設として非常に稀有な場所だ。そして現在の大衆に求められているものも完備している。

 過去から未来へ、確実に何かを伝え残そうという意思が鏑木の言葉には感じられた。

「黒崎さんがこの本屋で働いていた気持ち、少しわかった気がします」

 めぐるはダンボールから専門書を丁寧に取り出しながらそう言った。その言葉を聞いた鏑木はとても嬉しそうに微笑んだ。



 知識とは役立てる術を知って知恵とするから大事なのであって、知っているだけでは意味がないと、父が言っていたことをめぐるは思い出した。大事なのは知ることではなく、使えることだと。父のことは嫌いだが、それだけで父の言葉を否定するほどめぐるは子供ではなかったし、狭量でもなかった。そして学校で勉強していた時には確かに彼女もそう思っていた。

 数学や物理ではその傾向が顕著だ。基本の公式を知っていても、問題が解けなければ意味がない。厄介なのは公式を知っていれば解ける問題が多かれ少なかれあることで、そこで勘違いをする人は一定の水準から理解が深まらなくなる。なぜそうなるのかを思考せず、忌憚なくいってしまえば公式をただの道具に過ぎないと認識してしまうからだ。

 だが、その道具がどのような考えに基づいて作り出されたのか、それを理解することが重要なことだと勉強を通じてめぐるは知っていた。論理的な思考を育むこと、知恵を磨くことこそが一般教育の本質のはずだ。

 昔の哲学者は、知恵は知識に勝る、と言っていたらしい。料理に例えると、知識が材料なら知恵は調理技術ということだろう。調理技術があって初めて食事にありつけるということか。

 ある天才は、知識なんて持っていない、とすら言っていた。概念を聞けば十全に理解できて、すべてを導き出せたかららしい。たとえそれが公式といわれるものだったとしても、導き出したのは自分だから、それを知識として認識できない。既存の知識も、過去の偉人たちが知識と知恵で導いたものでしかないのだから。

 でも食材がなければなにも食べられないし、概念もひとつの知識には違いない。

 鏑木と一緒にいると、知識の存在価値を再認識しなければいけないような気がしてきた。

 知識があって知恵になり、知恵が知識になる。

 もちろん原初の知識は、観察行為から得られた自然現象を体系化したものだろう。たとえば風上から臭いがするとか、雨が降ることを風で知るとか。つまり経験の蓄積だ。動物なら狩りなどで本能的に学習していくものだ。それは知恵があればこそ発見できたともいえる。それを子孫に伝えれば知恵は知識になる。

 凡人はそうして与えられた最後の知識を覚えていくしかない。そこから自分の頭で考えるのだ。初めから知恵だけで解決できないから。

 もちろん知識という道具の存在意義やその意味を知ることは、道具を円滑に使うことにつながるし、新たなものに昇華されることにもつながる。つまり知恵だ。道具に対する理解がなければ、意図して新たな道具を作り出せない。運頼みになってしまう。それでは人間の進歩は捗らない。

 知識は、他の知識と常に結び付けておかなければ使えない。それを結びつけるのも知恵だ。

 知恵がなければ、知識を活用することはできないのだ。いくら知識があっても、活用できないならば宝の持ち腐れだ。そんな知識にも意味があるのだろうか?

 そしてめぐるは、社会を生きていくには知識より知恵の方が重要だろうと考えていた。知識はひたすら覚えればいい。だが知恵は努力して鍛えなければならない。情報収集の簡単な社会に百科事典のような人間が必要だとは思えなかった。要は理解力と柔軟性、行動力の問題だ。

 学問としての理解を問うために、公式を導くだけの試験問題さえある。ある意味教科書の内容そのままだ。しかしそんな問題を解けない学生が意外に多い。数学の公式なんかは、証明できて初めて知っていると口にできるとめぐるは考えていた。だから試験前に理解することもなくすべてを暗記しようとする学生は、めぐるにとって軽蔑の対象だった。

 でもこうしてこの本屋の、この専門書を扱う部署で働くことになって、めぐるはその考えが変わりつつあるのを感じていた。

 知識に基づかない知恵もないし、知恵に導き出されない知識もない。本来それらは多分に相互的なもので、現代人にとっては、もはやどちらが先というものではないのだ。

 だからめぐるは知識と知恵の優劣を考えるのは馬鹿らしいと考えるようになった。知識が知恵に劣るはずがない。まったく次元の違うものだから。

 さらにめぐるは、知恵のない集約された知識にも価値を見出し始めた。

 知識は知識で大きな価値があるのだ。一切人間の役に立たない、知恵に結びつかない知識にだって価値はある。人類にとってまったく無意味で、死蔵されそうなものだろうと関係ない。

 知識として残っていく、蓄積されていく。存在する、そのこと自体にも価値があるのだ。

 文法書がなくても簡易的な辞書には意味がある。単語だけでも意思の疎通はできる。

 考古学を学ぶこと、宇宙の誕生を知ること、神話を読むこと、どれも今の生活に直結するものではない。今の生活に役立てられるものでもない。だがそこには営みがある。

 天動説は間違った説だった。四大元素も錬金術も詭弁だった。

 だが天動説を知らなければ地動説の大切さや常識への懐疑、そこへ至った歴史が途切れる。不老不死はまやかしでも錬金術がなければ化学は発展しなかった。宗教家は価値観を担保していたし、錬金術者は研究手法を確立していったのだ。

 鏑木はきっとそういうことに価値を見出しているのだろう。流行に左右されず、本質的な価値を見抜き、集めて、売っていく。彼女は歴史に培われた文化を売って、その存在を主張したいのだ。たとえ間違いでも、すでに廃れたとしても、それがあるから今が存在する。その時代、その時代の価値観や考え方、常識や知識があるのだ。いまだけが大事なんじゃない。

 面白い内容ではないかもしれない。いまはもう不要かもしれない。でもそれは、かつてたしかに存在したのだと。長い時間を経るという無情な試練を乗り越えて、いまも生き残っている。たとえ葬られていても甦らせれば、その時代にしか通用しないかもしれないけど、その時代の知恵を知識にできる。

 黒崎と鏑木が二人とも言っていたことだ。本を読むことが好きなのはもちろんだけど、本に囲まれているだけで幸せな人間が専門書のコーナーには適していると。

 ここは知識の集積場なのだ。けっして墓場などではない。

 すべての本が古くからの知識を蓄えている、もしくはそうした知識に支えられている。必要とされている本は非常に専門性が高く、あるいは趣味性が極端に高い。その一方で点字の本を作り販売したり、朗読会も開いたりもする。広く浅く、誰にでも知識を届けられたら。たとえ客の目が見えなくても、耳が聞こえなくても関係ない。ここを訪れる客は知識に餓えているのだ。そして鏑木はそんな客たちの飢えを満たそうと努力していた。

 知恵を売ることは他人がやればいい。それが鏑木の考えなのだろう。



 めぐるが本屋に入り浸ることを、彼女の父は何も言わなかった。成績は常に報告していたし、娘の異常な体質を認めたくないのか、父は積極的に接触しようとはしなかった。母親が生きていた頃は、もう少しまともな父親だったような気がするとめぐるは密かに思っていた。

 本屋の仕事に追われて、長く暑い夏はあっという間に終わった。昨年の夏に比べれば、めぐるの勉強量は圧倒的に減っていた。模試の結果も当然下がって、一桁をなんとか維持できているような状態だった。それでもめぐるは本屋への仕事を続けた。腕も脚も引き締まり、特に背筋が強くなったせいか姿勢が良くなった。人並みの身長だとめぐるは思っていたが、背筋が曲っていただけなのか、二十歳を迎えて急に二センチも背が伸びた。高いヒールの靴を履けば、その辺りの男性を見下ろしそうになる。もっとも、めぐるにはハイヒールなんて履く気もなかったが。

 志望する大学の医学部には十二分に入れる。彼女はそれでよしとした。やぶ医者のこともどうでもよくなった。自分の知らなかった大事なことを本屋で学べたのだ。つまらないプライドに固執して時間を浪費するのも馬鹿らしい。所詮入試は、手段の、そのまた手段でしかない。

 休憩時間には医学系のみならず、倉庫にあったさまざまな専門書を読んだ。

 鉱石や深海魚の図鑑、古代ローマにおける都市国家の成り立ちや常習的な連続殺人犯たちの記録と精神分析、ヴィクトリア朝の性と風俗に関する考察、進化に関する種々の仮説、少し学校の学習内容に近いが珍しい古文の原文、そういったものも読んでみた。難しいがそれぞれの面白さがあった。読了後のちょっとした達成感や優越感も専門書だからこそだろう。読みはしなかったがラテン語で書かれた聖書なんてものもあった。

「商品だし、本当はいけないことなんだけどね」と言って鏑木は微苦笑していた。

 めぐるは素直に感謝し、専門書を汚さないように読んだ。本屋に勤めてから、本の扱いにはとくに神経質になった。もともと折り目すらつけたくない性質だったが、売り物の本を扱うときはそれなりの装備をするようになった。白い手袋と白いマスク。古文書や絵画を扱う学芸員か、現場検証中の警察の人かといった風体だ。もし売り物にならなくなったら当然買い取りだ。下手をすれば一月分の給料が吹っ飛んでしまう。

 専門書だけあって随所に専門用語があった。あまりの専門性の高さに読む人を選んでいるのだろう。もちろん大抵の場合は一般的な辞書を引けばよかった。厄介だったのは、見た目は普段使われているものと同じ言葉なのに、意味だけが専門的でまったく違うときだった。法律用語でいうところの善意と悪意みたいな感じだ。辞書でさえ専門のものが必要だった。

 国語辞典に憤ったこともある。読んでいた内容が、実は正反対のことを解説しているとわかったときだ。でも考えてみれば当たり前のことだとめぐるは冷静に考えた。古語辞典で今の言葉が理解できないことと同じなのだ。源流から支流が生まれるように、日常の言葉から専門用語が作られ、変化し、派生していく。物事は新たな刺激に出会って、変化していくものだ。

 めぐるが黒崎や鏑木と出会って変わったように。

 これほど一人の人間と長く、そして深く話したりすることは、めぐるの人生の中でそうはなかった。自分が他人と違うということが、意識、無意識に関わらず壁作り出していたのだろう。人前でちょっとした怪我をすることさえできないのだ。大怪我でもした日には、それからずっと仮病のように振舞わなければならなくなる。それはきっと多大なストレスを感じる日々になるだろう。気を使うという意味でも、嘘をつくという意味でも。だから他人とはできるだけ距離を置いて生きてきたというのに。

 めぐるの身体の異常性はまだ誰にもばれてはいない。一緒に働いている鏑木はもちろんだが、父親ですら詳しくは知らないはずだった。せいぜい受験になると身体が動かなくなることを知っているくらいだろう。でもそれは黒崎や鏑木も知っていることだ。もしかしたら娘に興味すら持っていないかもしれない。

 あの男は妻が死んだときに、人として大事な部分を失ったのだ。死んだその母だけは、もしかしたら知っていたかもしれないけれども。

 めぐるの好奇心の源は自分の身体にあった。当然のように主として読んだ専門書は医学系だ。

 免疫学や解剖学の本も読んだし、なぜか置いてある再生医療など論文誌も読んだ。そうしたものにも、めぐるの症状はまったく載っていなかった。

 あえて挙げるとすれば、癌に近いかもしれない。しかも完璧に制御された癌だ。傷口近辺の細胞だけが異常に増殖していくのだ。そして本来の遺伝情報と合致した瞬間、ガン細胞は死んで正常な細胞にバトンタッチするのだ。自然死を司る遺伝子の壊れたガン細胞が自壊していくというのも変な話だが、それが一番めぐるの腑に落ちる推論だった。

 もしくは人魚病だった。水掻きができるという遺伝子異常を起こした点がたった一つの根拠だ。あの病気だけは原因不明な上に解明する手段すら残されていない。ウイルスがもう存在しないのだ。だから怪奇現象のように怪しげな仮説が世に蔓延っている。まっとうな論文は少なく、死者の数や感染状況など統計的なものしかなかった。

 もちろん素人の考えだし、医者ならもっと的確な判断を下すに違いない。ちゃんと細胞の検査をするだろう。遺伝子レベルでの解析すら行うかもしれない。過去の文献から似たような症状だって探すだろう。総合的な知識と分析に基づいて、一定の見解を述べてくれるだろう。

 それでも結局わからないと言われたら、期待した分だけ落胆してしまうのだろうか。めぐるは想像した。いっそ医者というものに幻滅するかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 毎年、数千人の医者が生まれることを考えれば、あのやぶ医者のように、ろくでもない医者だって出てくるだろう。いつも風邪の診断しかしない街医者に、ほかの事を訊いても無駄なのだ。それぐらい今の医療は多岐にわたっている。

 数学や物理、建築学から医療、美術までこなす科学者なんて歴史上にしか存在しない。そうした科学者的な医師がいたら、心置きなく診察を受けるものを、とめぐるは悔しく思う。

 あれも知ってる、これも知ってる、それだって見覚えがある。そうやって人を肉体どころか精神まで分解していくのだ。治療するためというより、自分の知らないことを探し出して、好奇心を満たすために。知らないことがある、それ自体が不満なのだと。

 それはすごく純粋な自分勝手で、自分に対しても他人に対してもきわめて正直で、だからこそ信用できるとめぐるは思った。博愛的な理由づけすらしないし、使命感なんてものもない。もしそんなことを医者に言われるくらいなら、お金のため、名誉のためとでも言われた方がましだった。波風を立てたくないという消極的な理由だって構わない。

 自分以外のために何かをする人間がいるはずがない、というのがめぐるの持論だ。もしそんなことはないと否定する人間がいるとすれば、誰かのために、何かのために働いていると思っている自分が、思われている自分が好きなのだ。自らの幸せを他人の幸せに依託しているだけだ。だから救うべき他人がいなくなったらきっと困るだろう。自分の価値が喪失するから。

 もちろんそれは社会全体としてみれば素晴らしいことだとめぐるだって思う。まさに滅私奉公の精神だ。そういう人間ばかりなら共産主義だって成功したはずだ。でも人間が生きていこうとする力は、なにがしかの欲望が根幹にある。そうでなければ三大欲求を除けば、機械と似たような存在になる。三代欲求しかない赤ん坊を対象としてなら性善説を信じてもいい。

 だから他人のためとか医師の使命感とかが、救世主的な願望を内包した利己主義の成れの果てだってことさえ自覚してくれればめぐるも許せるのだ。だがそうでない人間に自分の身体を預ける気にはなれなかった。

 自分の身体は大怪我もすぐ治るし、病気もしない――ように見える。もちろん不老不死というわけではないだろう。怪我をすれば痛みだってある。それでも羨ましく思う人間は少なくないだろう。自分をめぐって争う人間の醜い姿がめぐるには容易に思いついた。

 博愛的な研究者がそんなときにどう言うか、想像に難くない。人類のため、医療の進歩のために研究させて欲しい、だ。本当にそうか、とめぐるは思う。死に難い人間ばかりになったら、人類なんて食糧問題で一気に絶滅しそうだ。人類のためだなんて大嘘だ。ただ未知の研究がしたいのだ。もちろんそこは政治の問題だと言い繕うだろう。一介の研究者の問題ではないと。

 でもいったい誰が研究と政治の線引きを正しくできるというのだろうか。めぐるが政治家なら絶対できない。誰もがいつかは藁をも掴むのだ。めぐるという藁は、きっと黄金色をしている。いざという時にそんな藁を眼前で取り上げられたとしたら、冷静でいられるはずがない。そんなことをした批判と怒号を堂々と受け入れられるような人間は相当精神がおかしい。

 だからめぐるは思うのだ。真に好奇心だけに突き動かされる人間にしか自分の身体を診せたくないと。蜘蛛の糸なんて初めから存在しない方が平和なのだ。

 功名心のない純粋な好奇心は秘密主義に走る。自分はこんなことを知っている。こんなことができる。でもその秘密を誰かに話したいという見得はない。時折、それをそっと取り出して深く思索、考察する。まるで初恋の思い出を扱うように。そうした心が重要なのだ。

 めぐるの望む人間はモーツァルトのようなずば抜けた天才だ。彼は日常生活ではとんでもない変態だけれども、それで構わなかった。むしろそこがいいのかもしれない。

 ひとつのことに飛び抜け、他はすべて余興でしかない。そうしためぐるの考えに共感できる人間であればなんでも良かった。

 自分は怪我人でも病人ではない。そもそも医者が診るべき対象ではないのだ。

 だから自分で調べるのだ、同じ志を持った仲間と。

 その志が好奇心でしかないという、医師としてははなはだ歪なものであっても。



 めぐるの自傷行為は多岐にわたった。

 指先を針で刺すことが生まれてから一番はじめに行った自傷だった。しかしそんな傷は瞬く間に塞がれてしまった。ついでカッターナイフで指の腹を切り裂いた。火傷した瞬間のような熱く鋭い衝撃が指の表層に奔り、ぬめっとした鈍い赤褐色の血が流れ落ちて、傷口の奥でなにかが蠢くようにじくじくと痛んだ。しかしそれも数時間で治ってしまった。

 それから一日考えて、リストカットを敢行しようとめぐるは思った。自殺の代名詞だが、実際にはほとんど死なないと知っていたからだ。ただ、指と手首では決行する際の恐ろしさがまるで違った。触覚の神経は指先の方が密だというのに、手首の方が痛そうな気がするのだ。もちろん傷口が広いのだから、その分痛みは増えるかもしれない。血だってたくさん出るだろう。

 それとも普段はすり傷しか作らないような場所に、たしかな切り傷をつけるからだろうか。そこには未知の痛みが待っているのだ。そう考えると痛み自体が怖いというより、知らないことに挑戦することの方が怖いのかもしれなかった。

 たった一枚、手首の皮を切るだけだというのに、何度も躊躇した。手首に刃を当ててはその冷やかさに慄き、肌から離した。だが結局は行うしかないのだ。

 痛みは衝撃だ。なにか身体に異常が起きたことを本人に知らせるシグナルだ。一番初めの痛みが最も強く、勢いがある。あとは傷があることを忘れさせないように鈍い痛みが継続する。

 だからめぐるにとって怖いのは、切るか切らないかを決断して、実際に自傷するまでの時間だった。行動に移したときには、すべてが終わっている。その後に訪れる痛みは、恐れの対象ではなく、ただ耐えるものだった。

 恐怖を作り出すのはいつも、めぐる自身の想像力だった。同じ場所を同じように傷つけたからといって、同じ痛みになるとは限らない。

 今回の痛みはどの程度だろうか。あの程度だろうか、あれ以上だろうか。それともたいしたことないかもしれない。そんなことをめぐるは初めに考えてしまう。

 痛みを数値化して統計的にデータを取ることができれば、きっと、心にゆとりを持てるのだろうけどと思う一方で、感覚が鋭敏な時には同じ痛みでも当然強く感じるだろうとも思うのだ。経験則なんて当てにならない。常により現実より大きな痛みを想像して、その恐怖を乗り越えるしかない。

 そのようにしてめぐるは中学生の時にリストカットを行った。

 それでも次第に慣れというものは身につくわけで、刺し傷や切り傷も徐々に大胆になり、白い腕に浮き出る静脈まですっぱり切断することも、もものように太く目に付かない場所を深く貫くこともあった。当然それ相応の、夥しい血が流れることになる。めぐるの箪笥の中には赤色のタオルがいくつも仕舞ってあった。

 爪を剥いだこともある。翌日にはきれいな爪が生えていた。下手に手入れした爪よりきれいになっているのだから手に負えない。

 ときには皮を剥ぐこともあった。皮を剥ぐという行為は切ったり、刺したりするよりも忍耐を要する。一瞬で終わることなく、ある程度の範囲を剥がすまで手を止めることができない。しかも魚の皮を剥ぐのとは違い、肉の部分もそれなりに切ってしまう。削ぐと言った方がむしろ正確かもしれない。肉をえぐるように、すくうように刃を入れる。傷口から流れ出る血がナイフを伝って、彼女の利き手を赤く染める。その間中、痛みに耐え続けながら、刃を進める。脈動がナイフから伝わり、心臓の鼓動が手に取るようにわかる。

 だから北京ダックのように一枚一枚皮を削ぐことはできない。気が狂うとめぐるは思った。彼らは死んで調理されているから平気なのだ。彼女が削ぐことができたのは精々一枚だった。

 悲しいのはやはり、削いだ肌の跡にできた皮膚の方が他よりも美しく、くすみ一つない状態に戻っていることだろうか。瑞々しく張りもあり、肌理も細かい。

 太ももの内側を切る時と、外側を切る時では治る早さが違った。それはめぐるにとって大きな発見だった。体の内側ほど大事なものが多く、外側はそうでないものが集められている。

 動脈が体の内に流れ、静脈が外を廻る。できるだけ護りやすいところに大事なものは仕舞っておくという進化を生物は遂げているのだろう。そしてめぐるの体は大事なものほど早く治癒をした。

 心臓を刺したら、一瞬で治るんじゃないか。めぐるはそんなことまで想像した。

 しかしさすがのめぐるでも、内臓をどうにかしようとまでは考えなかった。想像はしたことはあったが実行に移そうと思ったことはない。切腹のように体内に深い傷をつけるのは死ぬかもしれないのだ。自身の体の謎を解明する前に死んでは本末転倒だ。

 体内をいじる時は、すべからく細心の注意を払うべきなのだ。めぐるは自身にそう言い聞かせていた。

 めぐるにできたのは、刺す、切る、削ぐ、剥ぐといったどちらかといえば表層的なものだった。場所はいろいろと変えてはいるが、本質的にはそれほど変わっていないだろう。

 指を切り落としても生えてくるかもしれないとは思ったが、生えてこなかったときのことを考えるとやはり不可能だった。あたら若い身空で、外見を故意に大きく損ないたくはない。

 異性に興味を持つことはなくても、綺麗でいたいという気持ちは女である以上、めぐるにも少なからずある。それに五体満足で産んでくれた母にも申し訳がたたない。一昔前までなら出産とは命懸けの行為だ。たとえ医療が発達した今でもそこに感謝の念を忘れてはいけない。先祖が命を掛け続けた結晶が今の自分なのだから。

 だからどれだけ専門書を読んでも、実際にやれることは高が知れていた。

 めぐるにはきちんとした実験室が必要だった。それも万全な。そして自身の体を預けられる信頼の置ける相手が。

 単純な外科手術なら万事ロボットが肩代わりしてくれる。そんな未来が今、このときだったらよかったのにと彼女は悔しがった。





















 第三章 農家の娘、そして微積分と古典文学、進歩と進化



 夏も盛りを過ぎ、蝉時雨も遠ざかる。雷鳴が轟き、時折雹が降りそそぐ。田圃の稲穂は徐々に黄金色に輝き始めていた。

 めぐるの住む街はちょうど都会と田舎の境目、しかも田舎側にあった。国内でも有数の大きさを誇る都会の隣に、田畑や里山の広がる田舎があった。山の奥に分け入れば野生の動物が多くいて、熊や狼も出るらしい。めぐるの家からは畦道が見え、蛙の鳴き声が聞こえた。

 田圃の匂い、稲穂が風にそよぐ音、そうしたものが次第に強くなってきた。秋の気配だった。

 しかし彼女の家のある区画の裏側へ出ると太い国道が通っていた。そしてもう少し行くと、高架の環状高速道路がはしり、高層ビルが点在し始める。季節を忘れた街がそこにはあった。

 この時期になるとめぐるは思い出すことがある。高校時代の思い出がそれほど多くないめぐるではあるが、ことさらに覚えている記憶もあった。

 めぐるの卒業した高校は都会側にあったので、やはり都会の子供が多かった。逆に田舎の子供たちは、農業や林業で成功している家の子供が多く、お金に余裕があった。有数の進学校である上に、それなりのお嬢様学校でもあった。

 めぐるは一度、そうした田舎の娘の家に遊びに誘われたことがあった。その時のことだ。

 高級車の出迎えから始まり、ある程度田舎道を走ってからの田畑のほとんどが彼女の家のものだったのだ。それこそ稲穂が頭を垂れて黄金色に輝き、風にそよぐ音が世界中に満ちていた。彼女の家に着くと周囲に見える山々のすべてが彼女の家の敷地だった。山の中には小川が流れ、天然の魚が獲れたり、高価なきのこが自生していたりと、めぐるは驚愕するほかなかった。

 そして用意された夕食にはめまいを覚えた。家事を一手に引き受けているめぐるだから、どれだけ高級な食材が使われているのかがすぐにわかった。一緒に行った友人たちが平然としているのが、少しだけショックだった。彼女たちはそれに気づいていないのか、それとも慣れているのか。自分がかなり場違いなのではないかとそのときばかりは居心地の悪さを覚えた。

 その娘もめぐると同様、母親が人魚病で亡くなっていた。だがめぐるの家と違ったのは料理人を雇っているということだった。庭師を雇い、使用人を雇い、小作人も大勢抱えていた。

 その友人はなに不自由なく生きていた。性格も穏やかで良縁があれば、すぐにでも嫁ぎ先か入り婿が決まるような娘だった。それでも学業に精を出し、自立して生きてみたいという願望叶えるべく努力を怠らなかった。そこだけが他のお金持ちの同級生とは一線を画していた。

 その娘にとってめぐるは憧れの存在だったらしい。だがめぐる自身は都会人でもなく、田舎のお金持ちでもない。ただの中産階級の家庭に生まれた、勉強しか能がないしがない女だ。

 頼られる人間ではあったが、人望はなかったように思う。周囲に人は集まったが、友人はほとんどいなかった。派閥というか、仲の良いグループに所属するわけでもなく、だからといって孤立するわけでもなく、渡り鳥のようにいろいろなグループに顔を出した。

 そしてめぐるは孤独を愛せた。放課中には本を読み、放課後には家で独り、家事をこなした。

 学級委員はやっていたが、その娘に慕われるような人間ではないと思っていた。

 だが不思議なことに、その娘だけはめぐるの友人といえる立場に高校の三年間、いつづけた。来る者は拒まず、去るものは追わず。友人も増えたり、減ったりを繰り返す。他人に興味がないと責められたりもしためぐるのうしろを、その娘はいつもついて来ていたような気がする。

 高校を卒業した今となっては彼女がどうなってしまったのか、めぐるにもそれはわからない。めぐるが目指している大学に合格し、国文学を学んでいることだけは聞きおよんでいた。


 そのときのめぐるは、大きなダンボールの束を持って非常階段を下りていた。新刊の書籍を詰め込んでいた移送用のものだ。今は用済みになって畳まれていた。不要になったものは片付ける。それは当然だろう。最上階にある専門書の階から、一階を目指してめぐるは下りていく。

 階段を使うのはほとんど店員だけだ。客はエレベータかエスカレータを使う。いくら健康志向でも、本屋に来てわざわざ階段を使う人間はそれほど多くない。

 だから少しだけ気を抜いてしまった。思い出に浸ってしまった。そのせいでめぐるは、階段の踊り場で揉めている一組の男女に気づくのに遅れてしまった。

 まずい、と思ったときには手遅れだった。男女の視線はめぐるに注がれていた。邪魔者を見るような男の目、縋るような女の目。厄介だったのは二人とも自分の知り合いだったことだ。

 男の方はかつてめぐるに言い寄っていた他学校の男であり、女性の方はたった今思い出していた友人だった。

「めぐるさん」

 男は嫌そうに、友人の女性は嬉しそうにめぐるの名を口にした。

「どうかされましたか、お客様」とめぐるは二人に言った。

 めぐるは店員として接することを心掛けた。面倒に巻き込まれるのはわかっていたからだ。

「君こそ、こんなところでアルバイトとは」と男は嘲笑するように言った。

 小馬鹿にしていることは明白だった。間違いなく、めぐるが浪人していることを知っている風だった。ずっと上に見てきた、その上自分を振った――彼自身は足蹴にされたと感じたらしい――人間が自分より下の立場にいることが彼は嬉しいのだろう。そんな性格だからまともな女性には相手にされないのに、とはめぐるは言わない。そういう男の性格を見抜けず、見た目や立場、財産で男を選ぶ女性もいる。彼は大きな病院の跡取り息子だった。そんな記憶がある。めぐるにとっては名前すら覚える価値のない男だったが、病院が病院だけに頭に残っている。

「まさか君が受験に失敗するなんてね」

 男は暗に、自身が医大に受かったことを自慢しているのだろう。どこの大学かまでは興味もないけど、医大に受かったという話はめぐるも風の噂で聞いていた。振られたことやめぐるの成績を上回れなかったことがよほど屈辱的で、今でも癪に障るのだろう。

「本番に弱いだなんて、意外にも女性らしいか弱さがあったんだね。もっと気丈な性格だったと思っていたんだけど。しかも二浪している上に、こんなところでアルバイトとは。もう諦めたのかな?」

 こんな男が長男というだけで大病院の跡取りになるのだ。次期院長さまだ。その病院の将来はどうでもいいが、患者の未来に不幸が起こらないことをめぐるは祈るほかなかった。

 ちょうどそんなことをめぐるが考えていると、友人が、友人なりに大きな声で言った。

「めぐるさんは病気で受験できなかっただけです!」

「それほど病弱には見えないけどね。顔色もいいし、肉づきも悪くない。精神的なものかい? 成績に自信がないとか」

「めぐるさんは今でも全国模試で一桁を維持しています! ここで働きながらでも」

「模試だけは相変わらずなのか。それならよほど自分に自信がないのかい?」男は鼻で笑った。「練習でだけ上手くできてもね」

 男もやぶ医者と同じ見解をした。一般的に何かわからないことがあると精神的なもののせいにする世の風潮はどうかとめぐるは思う。ただ、男の言うことは一理あった。

 結果が欲しいときに結果が出せないのでは意味がない。結果より過程が大事だというのは、他人を慰める時に使う言葉だ。自分に向かって使うものじゃない。それはただの言い訳だ。

 しかし友人はストーカーかなにかだろうか。

「他のお客様のご迷惑になりますので、揉め事は他所でお願いいたします」とめぐるは店員としての態度を崩さずに告げた。ことさら男に向かって。

 原因は間違いなくこの名前も知らない男の方だろうから。めぐるの友人はとにかく大人しく、おっとりとしていて、儚げな娘だった。男と問題を起こすような柄じゃない。いまさっきの大声ですら――もちろん友人にしてはだが――信じられなかった。

 男はわずかに顔を顰め、しかし大きく息を吐いてめぐるの友人に言った。

「咲さん、婚約の件はまた後日。桐原さんにはもう会うこともないだろうけど、それじゃあ」

 そう言い残して男は階段を下りていった。

 咲! そうだ、剣持咲だ。めぐるは友人の名前をようやく思い出した。農家なのに剣持とは如何に、と当時思ったものだ。それなのに名前は農家らしく、咲だ。

「婚約は祖父同士が勝手に盛り上がっているだけで……」咲がか細い声でぼそぼそと申し訳なさそうに言った。「彼のおじいさまは苦学してお医者さまになって、それはそれは尊敬できる方なんですけど……」

 だがめぐるの関心は友人の婚約よりも、友人の名前を思い出したことだった。喉の奥に引っ掛かった魚の骨のように、ずっと気になっていたのだ。

 薄情かもしれないけど、二年近く経てば忘れることもある。その代わり、黒崎と鏑木の名前を覚えた。店長の名前は覚えていない。

 めぐるは人の名前を覚えるのが苦手だった、自分に近ければ近いほど、その傾向は強かった。もちろん歴史上の人物は覚えている。たとえ生きていても、現職の首相の名前は常識として知っている。ロシア文学の長ったらしい主人公の名前も一回で頭に入る。例外もあって、あの次期院長の男のように本当に興味がなければやはり覚えていられない。

 咲の場合は少し特殊だった。彼女の近くにいると、その雰囲気にあてられるのか、茫然としてしまうのだ。高校を卒業する頃でこそ慣れたものだったが、初めて会ったときは気絶しそうになった。その後も会うたびに貧血のような眩暈をめぐるは繰り返し覚えた。もちろん貧血を起こしたことはないので想像でしかない。ただ彼女に対して一方的に苦手意識を持っていた時期があった。

「めぐるさん?」

「ん? なにかしら? それにしても久しぶりね、咲」

 めぐるは、話を聞いていなかったことを誤魔化すように応えた。

「はい、お久しぶりです」咲は深々と頭を下げた。「それで、ですけど……お仕事はいつごろ終わるのでしょう?」

「バイトが終わる時刻ってこと?」

 めぐるが聞き返すと咲はこくりとうなずいた。

「うーん、あと一時間と少しかな。なにかわたしに用でもあった?」

「いえ、そういうわけではなかったのですけれども。折角再会できたのですから、お夕飯でもご一緒しませんか?」

 六時に終わることを考えれば、夕食にはちょうど良い時間だろう。仕事を終わらせて、帰宅準備をし、父親に夕食を外で済ませてもらうことを伝えて、二人でレストランへ出向く。そうすれば食事が始まるのはおおよそ七時になる。たしかに悪くない選択だとめぐるも思った。

 しかし問題がある。それもおそろしく重要かつ深刻な。相手が咲でなければ、と思うほど。

 咲との夕飯。それはめぐるにとって、あの日の晩餐を思い出させた。

 めぐるは脇に抱えたダンボールをいったん足元に置いてから考えた。問題はお金だ。高校生の頃はよかった。ある程度、節度を持った生活を送るように学校から指導されていたからだ。生真面目な咲はそれを忠実に守っていた。

 しかし大学生となった咲に、節度などというものを果たして期待できるのだろうか。

「ちょっと待って。いま考えるから」とめぐるは言った。

「はい」と律儀に咲は返事をした。

 めぐるは両腕を組み、天井を見上げて財布の中身を思い出した。現金が五千三百八十九円となにかのギフトカードが二千円分あったはず。一応クレジットカードもあるが、貯金から引き出したくはない。大学受験のために積み立てているお金が減ってしまう。

 しかし、ほぼ唯一といっていい友人の誘いだ。このまま断ってしまえば、それはそれで、しばらくの間気に病んでしまうだろう。他人に嫌われることには慣れているが、だからといって気に病まないほどではないし、友人の彼女からならなおさらだ。

 めぐるは目を瞑って唸った。そして決心した。咲の眼の前に、手を広げてみせた。

「五千円までなら付き合えるわ」

 咲は一瞬、なにを言われたのかわからなかったようで、きょとんとした。そして不意に嬉しそうに微笑んだ。

「はい。ありがとうございます」

 そして彼女は深々と頭を下げた。


 鏑木に終業の挨拶を告げて、本屋の向かいにあるカフェへ向かった。

 めぐるがカフェに入ると、咲は夕陽が射し込む窓際の席に座っているのが見えた。彼女はあれから一時間近く待っていたのだ。手には一冊の本が、テーブルの上には夏だというのに紅茶のポットとカップがある。

 めぐるは店員に断って咲の席に近づいていくが、咲は本から目を離そうとしなかった。彼女の目はずっと紙面の文字を追っている。たまにカップに手を伸ばそうとするが、本に目を落としたままのせいで空振りをする。めぐるは苦笑しながら咲の向かいの席に腰を下ろした。それでも彼女はめぐるに気がつかなかった。

 いったいどんな本を読んでいるんだろう。めぐるは咲の手中にある本の表紙をのぞいてみた。国文学専攻ということだから、源氏物語とか枕草子とか、そういう古典文学だろうか。貴族的な、浮世離れした感じが彼女からは連想された。しかし彼女の読んでいた本は、そういう類のものではまったくなかった。

「微積分?」

 国立大学の文系の教養に、微積分の講義なんかあるのだろうかとめぐるは不思議に思った。

 めぐるのその言葉に、咲はようやくめぐるの到着を知った。

「お気づきできませんでした。申し訳ありません」

 咲は本を閉じるや否や、頭を勢いよく下げた。そして頭をあげて、本をテーブルの上に置くと、そのままその本を見つめたまま首を傾げて言った。

「テイラー展開にはどういう意味があるのでしょう?」

「テイラー展開って多項式の無限級数みたいな、あれよね?」

「そうです」

「高校の学習内容じゃないわよね? 学ぶのは普通、大学に入ってからでしょう?」

 どうしてそれを浪人生である自分に聞くのだろうか。めぐるは頭をひねる。

「そのようですね。大学内の書店に置いてありました」咲もうなずく。「でもめぐるさんなら知っていると思って」

「まあ、式自体は知らないわけじゃないし、証明もできるけど……」

 めぐるは言葉を濁しながら、真面目な書物なら何でも読む咲の読書癖を思い出した。

 それにしても咲の中で自分はどういう風に見られているのか。めぐるは頭を抱えたくなった。

「数式の意味、というか意義なんてさすがにわからないわよ」めぐるは答えた。「それこそお金を払ってるんだし、数学科の教授でもつかまえて教えてもらったら?」

「講義を受けている訳ではありませんから……」咲は恥ずかしそう俯きながら言った。

 相変わらず律儀な娘だなとめぐるは思った。大学の教授がいちいち教養課程の学生の顔を覚えているとは思えない。講義後に待ち構えていれば、容易く質問できるだろうに。

「まあ、あれよ。ある点の周囲で多項式近似できるし、すごいんじゃないの? 1.00004の十五乗なんて普通なら計算できないけど、一次近似なら1+15×0.00004で済むんですもの。計算機のない時代なら画期的だったんじゃない?」

「それを考えると平均値の定理の方がすごそうですけど」

 確かにテイラー展開どころか、微積分は平均値の定理が基礎となっているように思える。

「それを言い出したら切がないわよ。負の数を生み出した人とか、零の概念を考え出した人とか。文明の発展に優劣はないわよ。早いか遅いかの違いはあるけど、新しく生み出した、発見したという点では、どちらの価値も等しいんじゃない?」

 めぐるがそう言うと、咲はすこし寂しそうに笑ってそしてつぶやいた。

「文学とは違うのですね。現代文学が平安文学の発展だとは思えませんから」

 咲が好んで学ぶ古典文学は、生物でいえば絶滅危惧種だ。学校教育で保護しなければ、専門家以外は一生触れることすらなくなるだろう。彼女はそれが残念なのだろうか。

 普通の書店なら学習参考書のコーナーくらいにしか古典は置かれていない。めぐるの働く書店では稀少な古典文学も扱っているが、それでも絶対的に数が少ない。著作権がすでにないことをいいことに、鏑木が自社出版させている本すらあるというのに。

 めぐるは胸の前で腕を組んで、少し考えた。テイラー展開よりよほど難しい疑問だ。

「そうね。あれは発展じゃなくて、進化よ。本質は変わらないけど、外見が変わったの」

「文学が進化、ですか?」咲は驚いたように言った。といっても、とても微妙に。

「進化って、多くの場合、環境の適用に密接に関わるものでしょう? 生存競争の一種だから、生き残ったものこそ優秀なわけね。恐竜が滅んだみたいに、種族の強弱は別の問題で」

 咲は同意するように大きくうなずいた。めぐるはそれを認め、話を続けた。

「いま、千年以上前の古典を読む一般人ってどれだけいると思う? 専門の文法も知識も常識も必要なのに。実際には言葉が変化したせいなんだろうけど、読むことなんて普通できないわよ」

「つまり古典文学は環境の変化に耐え切れずに淘汰された、ということですか?」

「そう。でも人間の本質とかは変わらないから、現代語訳はある程度読めるでしょう?」

「文学という大枠は残ったけれども、古典という個別の種は駆逐されたわけですね」

「お偉いさんが言ってたわけじゃなくて自分で考えただけなんだから。真に受けないでよ」

 めぐるは恥ずかしくなって、咲の手元にあったグラスを手に取り、水をもらった。氷も融け切った生ぬるいものだったが、めぐるの火照りを覚まし、喉を潤すには十分だった。

「だったら、古典文学と現代文学はどちらが優れているんでしょうか? 古典は生存競争に敗れたわけですよね」

 いまのめぐるの考えでは確かにそうなる。古典文学は淘汰され、現代文学が勃興した。つまり現代文学の方が優秀だと。でもそれと同時に、種の強弱には関係がないとも言った。

 現代の文学だって百年後には残っていないだろう。その時代時代に合った文学が興って、個別の作品のいくつかが徐々に近代文学として、さらに古典文学となって残っていくだけだ。

 大事なのは百年前も百年後も生きていることだ。源氏物語はたとえ読む人は減っても、人類が滅びるまでどこかで読まれ続けるだろう。ほとんど進化しないで現代も生きているカモノハシやシーラカンスのように。

 めぐるが勤める本屋の専門書コーナーにも、そんな書物の吹き溜まりがある。そこにはたしかに高い価値が集まっているのだ。そうでなくてはいけない。俗に染まるのをよしとしない。

「文学としての古典は滅んだけど、個別の作品の素晴らしさは今も変わらないでしょ?」

「その通りです」咲は力強くうなずいた。それを信じて彼女は大学で学んでいるのだろう。

「そうした文学が後世へ残した影響力も計り知れないし、無価値なんかじゃないわ。時代の波を乗り越えられなかった本も無数にあるだろうけど、その読者たちには多かれ少なかれ影響を与えていたと思うし、文学としてはむしろ進化の礎となったと考えるべきじゃない?」

 そうですねと深くうなずく咲を促し、めぐるたちはカフェを出た。そして夕飯を食べに、咲が予約したという店へと向かった。

 当然というべきか高級そうなレストランで、めぐるはきっちりと五千円払うことになった。それでも咲の顔がきいていたのだろう、値段よりもいいものが出てきた。それぐらいはめぐるにもわかった。飲みなれないワインも、二人で渋い顔をしながら口に含んだ。

 ほろ酔い加減の咲を迎えの車に乗せると、めぐるは誘ってくれたお礼を咲に言って別れた。

 血中のアルコール濃度は摂取後二時間でピークを迎え始めるというのに、めぐるにはまったく酔った感覚がなかった。本屋の裏手に戻って、とめてあった通勤用の自転車にそのまま跨った。だがすぐに飲酒運転になると気づいて、結局歩いて帰ることにした。



 秋も深まり、紅葉の季節を迎えた頃から、めぐるは本屋の仕事を週末だけに限定した。大学受験に向けて本腰を入れる必要があった。どうしても医学部に入らなければならない。その思いが強かった。

 そして最期の模試の結果が出た。めぐるは首位に返り咲くことは当然できなかったし、彼女もそれでよしとした。あのやぶ医者を気にする必要なんてもうないし、首位にこだわる意味もない。医学部に合格して、研究の道に進めればいいのだ。努力の方向を間違えてはいけない。

 めぐるももう二十歳だ。十代とはまるで立場が違う。まったくの大人になったのだ。

 十九歳の少女も、一年を経れば必ず二十歳になる。十九歳の次が十八で、その次が十九でまた十八に戻る。そういう風にぐるぐると、永遠に子供と大人との狭間から抜け出せないなんてことは現実にはないのだ。

 大人になりたくない。そんな願望を他人は心の底で懐くかもしれない。しかしそんなことはめぐるにとって興味のないことだった。そして彼女の矜持にもそぐわなかった。早く大人になって、あの父から離れて、自分の道を行かなくてはいけない。

 大人には、子供にない義務や責任が多く課せられるが、それ以上の自由と権利を得ることができる。子供の自由と権利はそのおこぼれに過ぎない。だいたい子供では医者になれない。

 精神的に医者が大人とは限らない。ただ国の法律によって、この国では大人にだけ医者になる権利が与えられている。だからめぐるは早く大人になりたかった。精神的な渇望というよりは、物理的な制約を解消するためにもそう望んでいた。

 二十歳になり、めぐるも成人になった。だからといって急に何かが変わるわけではないが、大人としての、断絶した意識を強く持たなければならないと考えていた。そのためにも必ず大学に合格しなければならなかった。浪人生と主婦とアルバイトの三足のわらじを履いているが、自分は父の妻では決してなく、部屋住みの娘に過ぎないのだ。

 とはいえ、試験を受けることできなければどうにもならないことをめぐるは痛感していた。

 幸い、めぐるは本屋で働いたお金をかなり貯め込んでいた。だから私立大学や大学校に大量の願書を出した。文系、理系も問わなかった。ただあらゆる分野から学部を厳選し、その試験を練習代わりにしようとしたのだ。余人ならお金の無駄だと思うかもしれないが、めぐるにとっては切実な問題だった。医学部も、学費の安いところは受けることにした。

 そして本命である国の最高学府――黒崎の在籍校でもあるし、意外にも鏑木の母校でもあった――東亰大学への願書は、前期受験は当然医学部として、後期受験では工学部を選択した。農学部も受けられないような身体だ。滑り止めは医療系から極端に離れたところにした。

 冬の長期休暇は一日中勉強し、しばらく専門書を読むこともやめた。週末の本屋の仕事も断らせてもらった。

 大学へ合格したら再び雇ってくれるという約束だ。鏑木にことのほか気に入ってもらえたこともあり、就職してくれても構わないと笑って言われた。楽しい仕事だとは思うし、好奇心も刺激されたが、やはり生涯の目的を違えるわけにはいかない。過去をどれだけ見つめても、自分の身体の謎は読み解けないのだから。

 たとえ工学部に進んでも、医療系の研究に携われないことはないはずだ。探せばきっと、そういう道だってある。めぐるは自身にそう言い聞かせていた。

 年が明けて、本命の国立大学の試験日が近づいてきた。

 それまでに受けた試験は医療系と生物系は全滅だった。相変わらずベッドから動けなかった。

 薬学系と化学系はかろうじて試験会場にたどり着けたが、試験の途中で前触れもなく意識を失った。気がついた時には大学の保健管理室で寝ていた。試験官はきっと慌てたことだろう。もちろん教室にいた他の受験生たちも。

 そのときはめぐるも少しだけ、周りの受験生の集中力を乱したことに責任を感じた。だがその程度で揺らぐ精神力と実力の持ち主なら当落線上にしか存在できないし、大勢に影響はないからいいかと思い直した。

 翻って自分を鑑みれば、本命の試験すら受けられない。実力が無いのは自分も同じじゃないかとめぐるは自嘲するしかなかった。


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