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ナンセンス

作者: 雨宮吾子

 時計というものは、どうして右回りでなければならないのだろうか。

 天井のシーリングファンが回るのを見ながら、男はそんなことを考えた。湿度の高い物憂い暑さに身体が慣れ始めてくる季節のことだ。考えるといっても筋道の通ったものではなくて、ふつふつと湧いてくる断片を、まるで灰汁を取り除くような具合で相手にしているのだが、思考が煮詰まる気配は一向になかった。彼もまた右回りに進んでいく世界の中に身を投じているものだから、そこから抜け出せずにいるのだ。いかに唯物論を唱えようともそれを生じせしめたものは観念であるから、結局それは観念論の延長に過ぎない、という具合に。

 ただ、彼にしてみれば観念だとか唯物だとか、そうした面倒なものは相手にしていない。時計が右回りであることに対する無言の了解に純粋な疑問を持っただけだ。その証拠に彼はその疑問に付き合うことをいつしか放棄し、ベッドが六割を占めている小さな部屋の中のもう一人の住人、ミリーについて考えるようになっていた。ミリーは金魚である。ミリーのためだけとするなら少し大きめの金魚鉢の中を、彼女は悠然と泳いでいる。もし彼が女であったなら、この金魚に女性名は付けていなかっただろう。そもそも、金魚を買うという選択肢さえ浮かばなかったかもしれない。彼が男であるからこそ、ミリーはミリーとしての生命、時間を生きている。

 ふと、彼がミリーを愛している理由が彼の中で明白になった。ミリーは金魚鉢の中を時計回りに泳ぐことをせず、反時計回りに泳ぐのだ。どうしてか、というのは分からない。とにかくそうなっているのだ。そのことはミリーを愛している理由の全てではなかったが、彼にしてみればそれ一つでも充分だった。自分が他者に愛を注ぐということ、注げるのだということを、彼はそれまで知らなかったから。

 彼は上体を起こしてベッドの側に置いてあったグラスを手に取った。琥珀色をしているが、それは烏龍茶だ。彼は酒を飲まず、煙草を吸わず、ギャンブルを嗜まない。人は彼をして健全と言うけれども、それは健全という殻で包んだつまらなさを意味していた。だが、彼は本当につまらない人間だろうか?



 彼は昔、人を殺したことがある。殺したのは自分自身だった。




 人は今をしか生きられない。彼は常々そういうふうに考えている。だから三十歳を迎えようとしている今まで貯金などはしたことがない。仕事も場当たり的なものだったから、疎まれ、蔑まれ、やがて崖っぷちに立たされた。そこで彼が選んだのは非正規雇用の道であり、そうすることで何とか糊口をしのいでいる。色々な職を転々とし、色々な経験をした。年下の上司にぞんざいに扱われることも珍しくはなかったし、まともな恋愛など経験することもなかった。けれども彼は悲観することなく生きてきた。それが自分に合った生き方なのだと感じられたからだ。

 悲観や反省などはおよそ彼に似合わなかった。彼はやがて訪れる終着点に向かって進まなければならないのだから。その終着点とは、言うまでもなく死である。彼の場合は事情が特殊ではあったが、万人がいずれ迎えなければならないものである。だから彼は、その点についても不平不満を感じなかった。そもそも、自分自身が招いた災厄であったから。




 子供の頃に殺したのは大人になった自分自身だった。




 そのときが訪れるのを待つ間に彼は色々なことを考えた。あの遠き日の感触は、実は夢の中で感じたものだったのではないだろうか、などと。それがあり得ないことは彼の魂に染みこんだ血の色が証明している。あんなことを体験したというのに、どうしてその鮮烈さを疑うことができるだろう。所与の通念からの逸脱を、その悦びを感じたはずではなかったか。それが長じるに連れて倫理的な通念を身にまとうようになり、自分というものを見失ってしまったのだろうか。それが子供から大人になるということだろうか。いずれにしても彼は、死なねばならない身であった。

 彼は再びベッドに身を投じる。シーリングファンが右回りに回っている。時計もまた右回りだ。愛しのミリーは、ミリーは……。

 がたん、と音がする。玄関のドアを蹴破る音だった。待ちくたびれたそのときが来たのだ。透明な思いが去来するのを感じながら、彼は楽園へ至る道を見つめていた。

 果たして、彼が何処へ運ばれるか。それは、神のみぞ知る、である。

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― 新着の感想 ―
[一言] 第一に、音楽的に優れた作品だと思いました。「時計というものは……」から文章が立ち上がり、段落で区切られてはいますが、ほぼ繋がりの保たれた連続的な文章がそのあとに続いています(むしろ段落がなく…
[一言] シーリングファンの光景は、幼い頃にすごしたスリランカの家を思い出します。 なんでもないことに疑問をもち、必然的に観念に囚われた結果、うだるような暑さの中溶けていく理性を思いつつ、過去の自分が…
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