第九話、アプリカ
でかい。
魔術師の肩に現れたものに対する、将軍の第一印象である。
小鳥くらいの大きさはある。
猫としてはむしろ小柄で、にも拘らず将軍が大きいと感じたのは、つまりそいつが猫ではなかったからである。
哺乳類ですらない。
(これは…)
将軍は、魔術師自慢の使い魔を、改めてまじまじと観察した。
つぶらな目をしている。
体重を支える後脚は思いのほか逞しく、グリーンのボディが鮮やかだ。
触角の角度が気になるようで、しきりに前脚で調整している。
残る前脚と中脚で器用に抱えているバイオリンが特徴的だった。
(…これは、虫というやつなのでは…)
図鑑で見たことがある。一部の地方に生息し、夏から秋にかけてぎっちょんぎっちょん鳴くという…キリギリスだ。
可愛いかと問われると、いささか答えに窮するが…
ぴかぴかのバイオリンを大事そうに抱えている姿には、どこか愛嬌がある。
使い魔の正体が昆虫だと知っても、将軍は落胆しなかった。
そもそも彼女は動物全般に対して特別な思い入れを持たないからである。
黒騎士たちの方がよほど可愛いと感じる。
こうして使い魔が見えているからには、どうやら魔術は成功したらしい。
なるほど、見える筈のないものが見えているというのは奇妙な感覚だ。
将軍の視線の直線上には、壁に固定された燭台がある。
位置関係から、本来なら手前側のバッタ(スズメ大)に隠れている筈の燭台が、彼女にははっきりと見えていた。
それは使い魔が半透明だからという訳ではなく、どちらも見えているという結果だけが残っているのだ。
あまり深く考えると混乱しそうなので、将軍はありのままを受け入れることにした。
将軍の反応をつぶさに観察していたマウは、考えることを放棄してぼうっとしている彼女に一つ頷き、
「うん、成功したみたいだね」
と微笑む。
安堵の気持ちは特に湧かなかった。
アプリカ…彼の使い魔の名前だ…が発現した状態での魔力は、まず失敗した試しがない。
仮に無茶な条件で挑んだとしても、事前にアプリカが魔力の破綻を報せてくれるから安心だ。
我に返った将軍が、感想を述べる。
「心なし世界が瑞々しく見えるような…」
「うん、それは気の所為だね」
口からでまかせを言う将軍に、マウは笑顔できっぱりと告げた。
彼は肩にとまっている使い魔に、簡単に事情を説明した。
「アプリカ、この子は将軍。僕の同僚だよ」
すると使い魔は、尾部をぴんと立てて、身体をやや前傾した。
お辞儀しているように…見えなくもない。
むう…と将軍はうなった。
最初はたかが虫と侮ったが、この知性溢れる佇まいはどうだ。
得意げにこちらを見ている魔術師などより、よほど紳士的で賢そうではないか。
将軍は自らの思い違いを悟り、頭を下げた。
「貴君を侮っていたことを詫びさせて欲しい」
帝国には握手の習慣がない。
敵意がないことを示すために、彼女は腰元の剣を鞘ごと引き下げた。
「帝国軍元帥黒騎士団団長だ。他に名を持たぬ故、将軍とだけ」
将軍は魔術師を同僚とは認めていなかったが、この場では彼を立てた。
「使い魔は喋らないよ」
それなのに要らない茶々を入れてくるから、将軍はアプリカに一言「失礼」と断って、彼の主人に関節技を仕掛けねばならなかった。
「お前は礼儀というものを知らんのか」
「痛い、痛い」
引き倒されて腕ひしぎ十字固めを極められたマウが、切なく喘いだ。
透き通った翅を広げて舞い上がったアプリカを、帝国の王女らは…言葉もなく見詰めていた…
「っ…姉様!」
その場でがくりと膝を付いた姉姫に、妹姫が寄り添う。
床に突っ伏した姉姫は、胸に去来する虚しさと戦っているようだった。
「もふもふ違う。それ、もふもふと違う…」
彼女は、ただ悔しかったのだ。
巨大な昆虫を可愛いと言い張るマウの美的感覚が残念でならなかったし、何よりそんな彼の言葉に胸をときめかせた自分が無様で…彼女は嗚咽を漏らした。
「虫じゃん…」
虫じゃん。
その独白に秘められた思いの深さを知って、今更ながら妹姫は愕然とした。
妹姫は、今年で七歳になる。
姉姫は将軍より一つ年下の十四歳だ。
実に倍近い歳月を、姉は歩んできた計算になる。
自分の身に置き換えてみれば、これまで過ごしてきた月日とほぼ同じだけの期間を猫に焦がれて生きていくのだと想像し、妹姫はぞっとした。
とても耐えきれない。
夢も希望も打ち砕かれた姉姫の落胆や如何なるものか。
妹姫は、姉を刺激しないよう慎重に励ましの言葉を口にする。
「…ですが姉様、あれはあれで愛嬌があると妹は思います」
「おちび…」
妹の愛称を呟き、姉姫が顔を上げた。
妹姫が微笑み、手を差し伸べる。
「さ、姉様。お立ちになって」
手と手を取り合う姉妹。
王位継承権を巡って骨肉の争いを繰り広げる二人が、今このときは諍いを忘れた…
面白くないのはマウだ。
「何だか納得いかねえ…」
呼び出されておいて怒られるし、喚べと言うから喚んだのに、この扱いである。
同郷の魔術師たちにも甚だ不評だったから、今更どうこう言われても気にならないが、それにしたってあんまりだ。
「こんなに可愛いのに」
再びマウの肩に降り立った使い魔が、手にした弓で絃を弾く。
優秀なアプリカ。
趣味は音楽鑑賞で、自分自身もバイオリンを弾く。
穏和で礼儀正しいこの使い魔は、マウのちょっとした自慢だ。