第六十五話、心の声
「ねえ、メディア。ねえねえ、ねえったら」
きらきらとした瞳で詰め寄ってくる将軍に、メディアは心底からうざったそうな視線で応じるのであった。
未発達な権能だから、感情に引きずられて、室内がガンガン冷却されていく。
「……」
己の寝室に降り積もっていく雪を眺めて悲しさと虚しさを感じているマウと違って、将軍はホットなニュースに興奮を隠し切れない様子だった。
自分は先ほどから「寒さ」を訴える生理的な機能と「寒い」と感じる気持ちを自己暗示で切り離そうとしているというのに、彼女は宝鎧に護られてぬくぬくとしている。
理不尽だと思った。
将軍がマントの下に着込んでいる黒皮の鎧は、「最強」と称される魔霊から授かった、この世に二つとない霊鎧だ。
柔軟性に富み、軽く、剛い。
防具としても一級品であるのに加え、装着者の体温を調節し、体力の消耗を軽減してくれるという夢のようなアイテムだった。
将軍は、しつこくメディアに食い下がる。
「ねえ、本当なの? スライムのこと好きなんだ。わたし、応援するから!」
興奮のあまり、口調が変わっていた。
《……》
メディアは、無言でマウに視線を投げた。
極寒の眼差しだった。
これを何とかしろということだ。
マウにとっても誤算だったのは、メディアがスライムに対して抱いている気持ち(本人は否定しているが)を、将軍が知らなかったということだ。
魔霊の《声》を聞き取れるのは魔術師だけだ。
しかし、スライム以外には懐かない、それでいて嫌がらせのようなことを繰り返して気を惹こうとしている(ようにしか見えない)メディアの想いは一目瞭然ではないのか。
そうでもないのだろうか。
帝国に来て日が浅いマウには、領内での常識に疎い面がある。
断言は出来なかった。
姉姫あたりなら、とうに承知していそうなものだが…
と、そこまで考えて、マウは思い付いた。
「そうだ、姉姫に相談しよう」
持つべきものは友達である。
すかさずメディアが反論した。
《あのうつけに相談してどうなる》
それが、城内での姉姫に対する一般的な評価である。
友達のことを悪く言われて、マウがむっとした。
けれど、この場には魔霊の声が聞こえない将軍もいて、おまけに何やら期待の面持ちでマウの通訳を待ちわびているから、下手なことは言えない。
言葉を選ぶべきだった。
「…彼女は物知りだからな」
些細な食い違いを、メディアは気にも留めない。
《よしんばそれを認めたとしても、何を尋ねるというのだ。貴様、わたしの話を聞いていたか?》
彼女は、スライムのことを単なる楽しい玩具だと主張しているから、姉姫に助言を貰うメリットはないと言う。
そして思い付いたように、こう付け加えた。
《…小僧、貴様には貸しがあったな。わたしの名誉を回復しろ、今すぐにだ》
一方的な要求だったが、マウは頷いた。
しかし、「名誉」とは? 彼は言った。
「あのとき、僕は君に協力すると言ったな。君はその条件を呑んだ。
本当にそれでいいのか?」
歓迎会での一幕だ。
マウには、自分が「魔法」を使ったという自覚がない。
そもそも、「魔法」という概念を知らない。
魔術師たちの社会では魔力が全てだから、自分たちの利益になる魔術師は育てても、脅威になる存在を育てようとはしない。
それでも、一度は「魔法」に触れたマウだから、はっきりと言えることがあった。
「心を操れる魔力は存在する」
メディアが息を飲んだ。
マウは、無表情だった。
「君が本当に望むなら、君の気持ちを否定してあげる」
はったりだ。
感覚的に分かる。再現できるかどうかすら怪しいが、仮に再現できたとしても、以前と同様の効果が働くことになるだろう。
あれ以上はない。
他者の心を操ることは唾棄すべき所業か? そんなことはない。
マウの本音だ。
世界は、どうしようもなく病んでいる。
ままならないことばかりだ。
理性は否定する。そんな遣り方で得たものに、どれだけの価値があるのかと。
もしも他の魔術師が似たようなことをしたなら、真っ向から批判するだろう。
お前は間違っていると声高に叫ぶだろう。
それなのに、自分が使うぶんには構わないらしい。
自分という人間の深淵に横たわるものと直面した気分だった。
数多くの魔術師を倒してきた。
どれだけ蔑まれようとも、誇り高く生きてきたつもりだった。
道路の果てが、ここだ。
…将軍の鎧姿は、失うにはあまりに惜しい。
並行して思考を展開していた、将軍の普段着に関しての考察が、結論を導き出していた。
「違うだろ!」
唐突に叫んだマウに、メディアがびくっとした。
もう何を話していたかすら覚えていなかったから、勢いで誤魔化すしかなかった。
「正しいとか間違ってるとか、そうじゃないだろ。願うだけじゃ駄目なんだよ。期待して、失敗したら恨むのか? 違うだろ。生きてるんだよ。生きてるなら、今だろ…」
当たり障りのないことを口にするマウだが、そんな彼自身の「今」が一番不安定だった。
けれど、中身のない言葉でも、ときとして人を動かすことはあるのだ。
《わ、わたしは…》
メディアが揺れていた。
マウは焦った。ハリボテの信念に心を動かされても困る。
(…!)
とっさに心の中で使い魔に救援要請を送る。
止まり木の上で我関せずとばかりにバイオリンの調律をしていたアプリカは、マウと目が合うと、白々しくも首を傾げて、すう…と朝靄に溶け込むが如くフェードアウトしていった。
…これは試練だと、マウは思った。
(僕は試されてる)
自分の気持ちを身詰め直して沈黙するメディアと、方向性も定かでない決意を固めるマウ。
混沌とし始めた場で、将軍の甲高い嬌声が響いた。
「あ、姫様! うん、おはよ。あのね、今…!」
「……」
将軍や姫姉妹がアクセサリーのようにして持ち歩いている懐中時計には、サイレンという歌音の魔霊が封じ込められている。
見た目は等身の低い小人であり、周囲の…おもに所持者の「声」を吸収して自らの形とすることができた。
また、分身と情報を共有できるという特性を利用し、ちょうど今、将軍がやらかしてくれたように、遠く離れた所持者同士で連絡を取ることも可能だ。
フラスコの中で小さな将軍がくるりと回って、白いドレスを着た銀髪緑眼の少女に変じる。
〈ああ、そう。マウ、やっちゃったね…。聞いてるかな? こら、マウ。やいマウ。お口が軽いんだよ、まったくもう〉
デフォルメ版の姉姫が、短い手足を精いっぱい動かして、マウを叱責していた。
マウは、何だかひどく満たされた気持ちになった。